喪失による絶望と慟哭を文字にするとこうなるという見本2010/05/25 21:23:40


JOURNAL DE DEUIL ;
26 octobre 1977-15 septembre 1979
Roland Barthes

『ロラン・バルト 喪の日記』
ロラン・バルト著 石川美子訳
みすず書房(2009年)

前のエントリで相撲界のディカプリオ・把瑠都関に触れたから次はロラン・バルトなんかいっというわけではけっしてない。逆にいずれロラン・バルトに触れるつもりで前振りで把瑠都ちゃんを登場させたんとちゃうのん、というわけでもけっしてない。私は現在の関取にあまり詳しくないが、美しいお相撲さんのイメージは確固ともっていて、私にとって史上最も美しいお相撲さんは横綱・北の湖関をおいてほかになく、彼の相撲美は他を圧倒して余りあると確信している。つまりは北の湖引退後の相撲界にまったく興味を失くしていた。とはいえ我が家(だけでなく一族ほぼ全員)は代々お相撲大好き一家なので、親戚が寄れば相撲の話になり、生まれた孫は関取の名前から言葉や文字を覚えるといって自慢しあうのが常であり、ウチのさなぎも例外ではない。さなぎは幕内力士について知らないことはほとんどない。ハワイアンでもモンゴリアンでも花田家でも分け隔てなくよく知っている。彼女の贔屓は千代大海だったが、彼なきあとの贔屓力士にはまだめぐり会えていないようである。ともかく、まったく興味を失くしたといってもそんな環境なので何も知らないでいられるわけがなかった。なもので把瑠都ちゃんのことは彼が19歳のときからその名前は知っていたし、ひそかに幕内上位に上がってくる日を待っていたのだ。今場所は残念だったなあ。というわけで把瑠都ちゃんの頑張り次第で再び相撲界に関心を持てるかもしれないと思う今日この頃。

……なんだが、今日は把瑠都でなくバルトの話である。

私はフランス史もフランス文学も学んでいない。が、フランス語をやっていればどうしても覚えてしまうある種の「巨人」の名前というものがある。ジャンルはバラバラだけど、たとえばドゴールとかコクトーとかサルトルとか、ヴォルテールとかボードレールとか、プルーストとかデュラスとか、ラカンとかレヴィ=ストロースとか……ロマン・ロランとかロラン・バルトとか。

(白状すると、フランス語を学ぶ前のごく若い頃には最後の二人、ロマン・ロランとロラン・バルトとの区別がついていなかった私である。)

ロラン・バルトの名前だけは早くから耳に入っていたけれども、当然のことながら、自分には用事のない著作家なので一度だって著作を開いたことはなかった。フランス語を勉強し始めて二十年以上経つけれど、私の興味を惹いたのはマグレブやアンティールなど「辺境」の人々ばかりで、映画以外のフランス文化にほとんどノータッチであった。

愛するウチダの『寝ながら学べる構造主義』を読んで、こうしたフランスの思想史を代表するアンテレクチュエルたちを読み解く面白さの一端のはしっこに触れた気になった覚えはあるのだが、それでも、論じられている当のラカンやバルトを読んでみようとはしなかった。早い話が、ウチダを読めば十分だからだ。

みすず書房から送られてくる出版ダイジェストの紙上に本書『喪の日記』の刊行予定を発見したとき、私は一も二もなく図書館に予約リクエストを入れた。なぜだったのだろう。


《最愛の母アンリエットは1977年10月25日に亡くなる。その死は、たんなる悲しみをこえた絶望的な思いをもたらし、残酷な喪のなかで、バルトはカードに日記を書きはじめた。二年近くのあいだに書かれたカードは320枚、バルト自身によって五つに分けられ『喪の日記』と名づけられた。》
出版ダイジェストにあった本書の紹介文である。

バルトは、本を書こうとしたのでもなく講義ノートをつくろうとしたのでもなく、ただ、無情に刻々と過ぎる時間の流れのなか、突き上げる思いをただカードに書きとめていったのである。

母親の死からほぼ3年後に、バルト自身、交通事故が原因で亡くなる。カードは遺族によって厳重に保管されてきたが、没後30年を前に、『喪の日記』はテキストとして整理されフランスで出版された。本書はその全訳。詳しい訳注と解説もついており、バルトって誰?という人にも、そこそこその人物像もつかめる内容となっている。

だが、私にはバルトが何者かという情報は必要なかった。
最愛の人を喪失した。その受け容れ難い事実は容赦なく自分を襲う。そうなったとき人は何を思うのか。何を見るのか。その一例がここにあるのだ。自分にとってどういうかたちで最愛であったかに関係なく、喪失は無限に慟哭を呼ぶ。したがって、そうした経験のある人であれば、あるいは「あなたを失くしたら、あたし、死んでしまうわ」というほど最愛のひとの在る人にとって、バルトの一筆一筆は真に迫る。

まず、母の死(1977年10月25日)の翌日。

《新婚初夜という。
 では、はじめての喪の夜は?》

その次の日。
《――「もうけっしてない、もうけっして」
 ――そうは言うけれど、矛盾していますよ。この「もうけっしてない」は、いつまでも続くものではありません。あなた自身もいつか死ぬのですから。
「もうけっしてない」とは、死なない人のいう言葉なのだ。》

《「あなたは女性のからだを知らないのですね?」
 「わたしは、病気の母の、そして死にゆく母のからだを知っています。」》

ぜんぜん知らなかったのだけれど、バルトは同性愛者だったそうだ。バルトにとって母親は、「唯一愛した女性」だったのである。その最愛の女が亡くなるまでの生涯の大部分を、彼女とともに暮らしたのだった。

(10月31日)
《今までにない奇妙な鋭さをもって、人々の醜さや美しさを(街路で)眺めてしまう。》
(11月11日)
《ひどい一日。ますます不幸だと感じる。泣く。》
(12月29日)
《わたしの喪を言い表せないのは、わたしがそれをヒステリックに語らないことからきている。とても特殊な、持続する不調だからである。》
(1978年5月28日)
《喪の真実は、単純そのものである。マムが死んでしまった今、わたしは死のふちに立たされているということだ(わたしを死から分かつのは、もはや時間だけである)。》


喪の悲しみ(悲しみという言葉はこうなるとあまりに平坦だけれども)がいつまでも「悲しみ」であるのは、「喪」がショッキングな出来事に起因し、日を追ってその衝撃が薄れてゆくという類いのものではなく、そこに空気のようにけっして無くならないでずっと在り続け、「喪」と決別するには自分自身も死ななければならないと思い知らされるからである。
だからこそ、我が命を全うするまで「喪」が傍にあるからこそ、人は喪の明ける日を敢えてこしらえたのだ。「喪」に区切りのあるはずがない。しかしそうでもしなければ、人類みな誰もが死ぬまで「喪」とともに在ることになってしまう。四十九日とか一周忌とか、服喪中であるなしを何かにかこつけてつくらなければ、世の中慟哭だらけになっていたであろう。人間は、賢い。

※画像はみすず書房さんのサイトから拝借いたしました。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2010/05/26 22:13:42

 最近ね、ガストン・バシュラールの「空間の詩学」を読んでいるのですが、訳が優れているのか、それかどうか、私が一番重要視する、なんと言ったらいいか「雰囲気」が伝わらないから、左脳ばかりで読んでしまい、疲れてしまう。まあ科学哲学と詩的想像の二分野において、著作を残している人だから、一筋縄でいかないのは仕方ないにしても。
 前に、蝶子姫がルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインのことを書いていたが、アンリ=ルイ・ベルクソンもフランス生まれの人は少しやっかいだ。知性と感性が入り混じっている。そしてそれが勿論高度に入り組んで、人間の一番美味しいところを味わえるような感じ。たぶん日本人でしかこの感覚は逆説的に味わえないような。
 ロラン・バルトは知識がなかったので、またひとつ私のよく破れる袋には入りました。

_ midi ― 2010/05/27 05:53:26

おはようございます。バシュラールですかあ。読んだことありませんが、なんていうのかな、預言者さまにぴったりの本ですね。「空間の詩学」。

>たぶん日本人でしかこの感覚は逆説的に味わえないような。

卓見ですね。そうかもしれません。私たちは確かに、フランス人にはけっしてできない読みかたをしているでしょうから。

バルトは、私も本書『喪の日記』しか読んでいないのです。『零度のエクリチュール』などが有名ですし、たしか日本を論じた著作もありましたが、なかなか手が出ません(笑)。ともかく、この本を読んだあとは母親を題材にした『明るい部屋』へと進むのが正しい道のようですよ。

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