「書くということ」の崩壊(3)2010/06/14 20:38:57

しつこいんだけどあとひと言。

地元の映画館では不発でとっとと上映が終わってしまった『書道ガールズ』や、ちょっと前にやっていた高校の書道部を描いたTVドラマ『とめはね』なんかで、箒みたいな大きな筆を持って音楽に乗って走り回りながら字を書く書道パフォーマンスに打ち込む若者が描かれていた。
最近人気の武田なんとかさんというダイナミックな筆さばきの書家さんもいるし、なにかと「動」の要素の大きい書道がもてはやされている。
そのことじたい、悪いことではないし、活動として、文化として、芸術として成立するとしたらこんなに素晴らしいことはないと思う。
ただ、なぜそんなにもてはやされているのか、は考えとかないといけないだろうと思う。けっきょく、筆で字を書くことからあまりにも日常が乖離してしまって、あまりにも習字も書道もどうでもいいものに成り下がってしまったから、派手めのああいうもんに注目が集まるのだ。
書道パフォーマンス甲子園っていうものがほんとうにあるんだけど、それは実際高校生の青春の1ページであろうから打ち込む子どもたちの気持ちや活動そのものにケチをつける気はまったくない。
ただ固い頭で思うことは、奇抜な衣装やアクションで書をしたため、その「パフォーマンスタイム」の出来ばえも云々されるようだが、それでも、もし優劣をつけるのなら実際に書かれた「書」の美しさを基準の根幹においてほしいもんだということである。
日本人が書を美しいと思うとき、それはやはり、九楊先生が触れておられた点画の規範に則っていながら書き手の精神が存分に表れる書きっぷりだと感じられるときであろう。
やっぱし、下手でも元気に書けてればいい、じゃなくて、上手でなおかつ創意工夫がある書が美しいであろう。
そしてなにより、「書」とは「書く」ことである以上、「書く」ものは文字だけでなく語句であり文章であるわけだ。だから《文字の書きぶり(=スタイル)である書体は、文の書きぶりである文体》と切り離せない。だから《文学に属するのである。》

絵手紙ブームというのがあった。私自身はあまり好きではない。絵は絵だけで、書は書だけで勝負しようよ、といいたかった。でもべつに、個人的メッセージの域を超えないものだから、あれはあれでいいのだ、ということにしておく。

しておくが、絵手紙は絵が大きな要素を占めるため、書の(つまり、文字と文章の)巧拙があまり云々されないことは確認しておきたい。だから絵手紙(やそれに類するもの)は文学には属さない。

ということをいい始めるとあれはどーなんだ、こっちのこういう表現はどーなのよ、みたいないろいろな芸術表現がこの世には氾濫しているので私の頭の中も世の中も収拾がつかなくなるからこれ以上はこの話題に触れないでおく。

で、実際に「文学に属して」生きていこうとしている方々へ。
作家さんがどんなふうに一編の小説を創りあげるのか、私は皆目見当がつかないけれど、たぶん、筆記具と手帳を片時も手離さず、思いついたことを次々とメモしていってるんじゃないか、あるいはこまめに取材をし、見聞したことを細かく記録しているのではないかと想像する。それをあとから見直して、物語の題材にするのだろうけど、手書きのメモは、書き留めたときの気分や体調が筆跡に表れているから、そのことがネタにする際に与える影響は少なくないと思うけど、どうなんだろう。同じメモを取るのでも、ケータイのメモ機能を使うより1万倍くらい有用な気がする。
みなさんは、どうしてますか。
メモだけでなく、実際に書き始めるときも、最初の数行、つまり小説は書き出しが重要だとよく言われるようだけど、その数行だけは手で書いて、試行錯誤するほうが、「いい書き出し」にめぐり合えるような気がするんだけど。門外漢の外野席からの野次ですが。

私は文学に属さないけど、ICレコーダもONだけど、つねにメモを取る(Bの鉛筆で。2Bじゃないのよ、さすがに。笑)。ひどい殴り書きが並んで、解読不可能だったりするが、どういう気持ちで相手の話を聞いていたかなども思い起こせるので、書き留めてある分量が多いほど、書き留めてある内容が使える使えないに関わらず、原稿はすんなりまとまる。書いた記憶が手に残り、脳裏からも消えていないとき、実際にはキーを叩いて作成するのであっても、その文章は生きて立ち上がってくれる。
短いキャッチを考えるときも、私は紙やノートにいろいろな大きさの字で言葉を書きまくる。紙屑の山ができて、山を眺めていてふとナイスな一句が思いついたりもする。

筆記具と紙との接触は、今のところ私にとって貴重な創作の一要素だ。そんなわけで、九楊先生の《筆記具の尖端が紙と接触・摩擦・離脱する筆触――その「手ざわり」「手ごたえ」「手順」――》が重要だとの言に激しく同意するものである。

でもさ、ブログの記事は手書きで下書きとかぜんぜんしてないよ(笑)いきなりだだだっ、以上って感じ。

コメント

_ コマンタ ― 2010/06/14 21:30:30

《筆記具の尖端が紙と接触・摩擦・離脱する筆触――その「手ざわり」「手ごたえ」「手順」――》というのが九楊思想のエッセンスなのでしょうね。私塾を開いたらけっこう人は集まるのではないでしょうか。

_ midi ― 2010/06/14 22:47:12

こんばんは。
九楊先生は今、私の母校で教授職にあられます。いつから就いてらっしゃるのか知らないんですが。地元紙には長らく書関係の連載プチコラムも持ってらしたので、ここら辺では有名人です。学者さんでもありますが、どっちかつーとあくまで書家のスタンスなので、話はわかりやすいですよ。(あ、でも、たぶん難しくてチンプンカンプンな本も書いてらっしゃると思う)

_ ヴァッキーノ ― 2010/06/16 22:56:25

ボクも書っていえるかどうかわからないけど
筆に墨汁をつけて文字をかくんですけど
文字にあれこれと何書体とか言ってネーミングをつけて評価するのってどうなのかなって思うことがあるんです。
楷書だの行書だのと、そういう規制は、機械に任せてみるのもいいかもしれませんね。
にんげんだものって感じで(笑)

_ midi ― 2010/06/17 09:00:41

おはようございます。
ヴァッキーノちゃん、「書」もやるんですね!
前は油絵もやるって言ってましたけど。
絵も書も、また見せてほしいなー

楷書や行書という書の世界の一種の分類のしかたは、規制というのとは違うと思いますよ。コンピュータが人の書いた文字を「あ、これは楷書ね」「こっちは行書っしょ」てな感じで「仕分け」してくれるなんていう想像は楽しいけどたいして役に立たないような(笑)

_ おさか今さら来ますた ― 2010/07/01 16:26:40

あああ、コメントが消えてしもうた(泣)。

ご無沙汰しております。多忙モード続行中ですが、この記事に呼ばれて参りましたー。
短編久々に書いたので、よかったら覗いてみてください。
(名前のリンクから飛んでくださいませ)

_ midi ― 2010/07/01 18:14:15

おさかさん久しぶり♪
行ってきましたよー
面白いよん(^^)v
また覗きに行きますね。こちらへも、いつでもどうぞ。

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