「フランク自身はもっと驚嘆に値します」2010/06/30 00:18:17

『ミレナ 記事と手紙 カフカから遠く離れて』
ミレナ・イェセンスカー著 松下たえ子編訳
みすず書房(2009年)

若さにまかせてヨーロッパのあちこちを旅したが、二回以上訪れたのは、留学や仕事でいったフランスと旧来の友達のいるドイツを除けば、ヴェネツィアとプラハだけである。ともにたいへんな人気観光都市なので、もはやいつ行ってもガイジンだらけだが、初めてプラハを訪れた80年代半ばはまだ「ベルリンの壁」も健在で、東欧諸国はソ連の監視下にあったときだったので、こう言ってはなんだが東欧のどの街も「手付かずの」「庶民の暮らしに煤けただけの」飾らない美しさに満ちていて、物を知らない若造だった私ですら、その美の純度の高さに感動した。プラハのカレル橋の途中で立ち止まり、モルダウ河をただ眺めた。生涯、あの風景を超えて美しい眺めに出会うことはもうないと思う。私は人通りもまばらな橋の、大きな彫刻の足許で、涙があふれてくるのを抑えられなかった。泣く理由は何もなかった。当時チェコや東欧の文化も歴史もなにも知らなかった。ただ日本人旅行客があまりいないだろうという理由で東欧へ行ったのだった(私は日本人が嫌いだった)。幾たびもの戦禍に遭い、平時ですらなお抑圧されている国の人々の悲哀などに思いは至らなかった。私はただセンチメンタルに、どんな絵よりも美しい風景を前にして、胸がいっぱいになって泣いたのだった。今でもあのときのモルダウの風景を思い出すことができる(ただし、二度め三度めに行ったときにも同じように橋に立ちモルダウを眺めたが、同じ風景には出会えなかった)。

フランツ・カフカが住んでいたという界隈も訪ねた。静かでひと気のない、質素な町並みだった。でも「ベルリンの壁」崩壊後はたぶん土産物屋ストリートになってしまったんじゃないかな。最初の静謐な雰囲気が印象的で、二度め三度めのプラハ訪問でも必ず足を運んでいるはずなのに、行ったかどうか覚えていない。ありきたりな、西側諸国の観光地と同じような風景になってしまったせいなのか。

さて本書である。みすず書房から来た本書の出版案内を見て、ミレナという女性がものを書く人であり、さらにプラハ市民であったとわかり、正直すごく親近感が湧いたのだった。本書の前半部分を占めるのは、彼女が新聞や雑誌に寄稿した署名記事である。それはあるときには家庭をもつ主婦の視点であり、あるときは快活に街を闊歩する職業婦人のそれであり、あるときはドイツ系市民の横柄さに憤るチェコ系市民の厳しい視線が書かせたエッセイだ。躍動感に満ち、また生活感にあふれた文章にはファンも多かったという。ミレナ自身は、こうした毒にも薬にもならない文章を、生活のためとはいえ書かねばならないことを少し恥じていた。それで文通相手のカフカにも、読まないでと告げていたのだった。だがカフカは、ミレナの書いたものをすべて読みたがった。病んでいたカフカには、ミレナの手紙だけでなく、彼女が書くものすべてがエネルギーの源だったかもしれない。


《(…)あの人ときたことには、いわばすこぶる健康、すこぶる平静、といった類のことしか言ってくれません。わたしがお願いしたいのは、本当にお願いしたい、心からお願いしたいのは——あの人が苦しんでいる、わたしのために身体を苛んでいるのをご覧になったり、感じられたりしたら、どうぞすぐ手紙を書いていただきたいということです。フランクにはあなたからお聞きしたとは申しません。そのことを約束していただけるならわたしは少し心が落ち着きます。そうなった時どうやって助けるのかは分かりません。でもわたしが助けるのだということは、とてもはっきり分かっています。(…)》(226ページ、4 書簡より マックス・ブロート宛、ウイーン1920年7月21日付)

マックス・ブロートは前エントリで挙げた『ミレナへの手紙』も含む、カフカ全集の全体の編集・監修者である。フランツ・カフカとは友人であった。

《(…)ここにいた時はほとんど健康と言ってもよく、咳をするのも聞いたことがなかったし、さわやかで陽気でよく眠りました。(…)フランクはそれでもわたしのなかから何かを得た、わたしから何かを与えられた、それは何かよいものだったとあなたが書いてくださったのは、本当にマックス、またとない最大の幸福です。(…)どうしようもなかったら、わたしがこの秋プラハへ行きます。そうすればわたしたちはフランクを外へ出すことになりますよね。わたしもフランクがそこで心静かによい精神状態でいられることを望んでいます——(…)》(227ページ、同上、1920年7月29日付)

ミレナはカフカのことをフランクと呼んでいたようである。

《(…)この全世界はフランクには謎であり、その謎が解けることはないのです。(…)しかしフランクは生きることができません。フランクには生きる能力がないのです。フランクは決して健康にはなれません。フランクはまもなく死ぬでしょう。
 わたしたちがなんとか見かけ上は生きる能力を備えているのは、嘘、盲目、感動、楽天主義、確信、悲観主義、あるいはそんな何かにいつかは逃げ込むからにちがいありません。でもフランクはどんな避難所であれ、身を守ってくれる避難所に逃れたことは一度もありませんでした。(…)そしてフランクの禁欲は徹底して非英雄的です——だからより偉大で気高いものであるに違いないのですが。「英雄主義」というものはみんな嘘で臆病です。フランクは目的のために手段として禁欲を構築した人ではなく、恐ろしい慧眼、高潔。妥協のなさにより禁欲より他なかった人なのです。(…)
 フランクの本は驚嘆に値するものです。フランク自身はもっと驚嘆に値します。(…)》(231〜233ページ、同上、1920年8月初旬)


カフカがより自分自身であろうとすれば、それは禁欲を貫くよりしかたがなかった。ミレナはそういうのである。
カフカがミレナにもう手紙を書かないでと告げ、二人の文通が途絶えてしまってからそれほど時を措かずに、カフカは逝ってしまう。1924年6月3日。フランツ・カフカは療養所で亡くなった。


《一昨日ウィーン近郊クロースターノイブルクのキーアリング療養所で、プラハに在住するドイツ語作家、ドクター・フランツ・カフカが世を去った。(…)長年胸を病み、医者にかかってはいたが、病気を故意に育て、思索的に助長した。「魂と心が重荷に耐えられなくなると、肺がその半分を引き受けて、その負担が少なくとも均等になるようにするのです」とかつてある手紙(『ミレナへの手紙』一九二〇年春メランよりの四通目の手紙)に書いているが、自らの病気もそのような性質のものだった。(…)内気で、心配性で、柔和で、善良だったが、書いた作品は、残酷で悲痛だった。この世を、無防備な人間を破壊し引き裂く目に見えぬ悪霊に満ちたものと見ていた。生きるためにはあまりにも物が見えすぎ、賢すぎたが、高貴で美しい人々の常として、闘うためには弱すぎた。(…)カフカは人間を知っていたが、それは偉大な研ぎ澄まされた神経を持つ人だけが知り得る人間の姿だった。孤独な人で、ほんのちょっとした表情から、まるで予言者みたいに人を透視する力があった。世界を非凡で深遠なやり方で知っていたが、カフカ自身が非凡で深遠な世界だった。(…)
 その作品は、何かが象徴的に表現されているような箇所でさえ、自然主義的な感じを与えるほど、真実で、赤裸々で、痛い。この世を明確に見てしまったため、それに耐えられず、死ななくてはならなかった人間の、乾いた嘲笑と繊細な視点にあふれている。(…)他の人が何も聞こえないから安心だと思っているようなところからの物音をも聞きつける、繊細な良心を持った人間であり芸術家だった。》(98〜100ページ、2 『ナーロドニー・リスティ(国民草紙)』より——1921−1928年「フランツ・カフカ」1924年6月6日)

《(…)わたしは夫を見捨てることができませんでした。そして生涯、最も厳格な禁欲者であることを意味すると分かっているその生活にしたがうには、わたしは女でありすぎたのかもしれません。(…)こういうことについてはいつも何かを言えるでしょうが、何を言っても嘘にしかなりません。(…)わたしはもはや取り返しのつかない何かが起こったことがとてもよく分かりました。それだけがフランクを助けることのできるものだと分かっているたったひとつのことをしたり聞き入れたりするには、わたしは弱すぎたのです。(…)》

カフカを人間として、もちろん一人の男性として深く愛していながら、だからこそその厳格な禁欲を尊重せねばならない。カフカがいくら崇高であろうと高潔であろうと、女としてそこは、「そりゃないよ」って気分になるよね。
しかし、ふとフランツの身になってみる。彼はほんとうに禁欲者であろうとしたのだろうか? そんなポーズをとりながら、実は女が積極的に強引に自分を押し倒してくれるのを待っていたんじゃないのか? 生命の権化のようなミレナを前に、この女性なら自分の屁理屈を下手なハードル選手のようにバタバタと蹴り倒して突進してきてくれるんじゃないか、そう思わなかったとは限らない。


《「あなたの生活をそこまで深く本当に生きているあなた」——とカフカはあるとき手紙のなかでミレナに語りかけた。これほど適切な言葉はあるまい。》(『ミレナへの手紙』212ページ、編者あとがきより)※編者はヴィリー・ハース

その透徹な眼差しのせいで、何もかもが見え過ぎて、盲目的に命をぶつけるようには生きられなかったカフカの目に、ミレナはどれほど眩しく映ったことだろうか。
しかし、ミレナはその最期を信じ難いほど苛酷で寂しい状況下で迎えざるを得なかった。命の灯火の消える最期の瞬間、彼女は瞼の裏に何を見ただろうか。もう、カフカからは遠く遠く、離れていたのだ。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2010/06/30 13:42:49

 何かすれば、何かを捨て置かなければならない。
 全てをしようとすれば、一番いいのは何もしないことだ。

 上れば下らなければいけない。でも下ればなお一層下り行く。そこに疾走感があれば、果てしなく飛翔する虚なる実が迫ってくる。そしてそうなれば止まりたくなるのだ。絶対に捕まえられない何かを捕まえたくて。

 あなたは永遠である。私がいつもあなたを追うように。

_ midi ― 2010/06/30 19:24:25

明日から7月ですねえ。祇園さんですやん。早っ。
預言者はん毎度おおきに。
上ル下ルのまちに住んでますさかい、いつも堂々巡りどす。
あては「永遠」とちゃいますさかいに、追いかけんといとくりゃす。

_ 儚い預言者 ― 2010/07/01 11:55:02

プロローグ1
愛しい人よ、愛は宇宙に遍満し、個々の物事を接着させている。人はその片端で錯覚と幻想に侵されて、愛は奪取すべきと取り込もうとしている。自分自身が愛そのものだとは気づかずに。そしてもう一つ、愛は接着剤であることは、人・物事を拘束することではなく、全くはんたいに、自由な自律性を齎すことなのだ。そういう意味で人を愛するということは、お互いの中で愛が流れるのを許すことであるというのが、一番近い表現であろうか。

エピローグ1
けちくそい、追って追って追いまくり、お前が生粋の京都人であることを、それから都の正当な文化の継承者であることを思い知らせてやるーー。どうだ参ったであろう。なにー、バッシー、お、お、お姫様、ご無体でござります。お許しをーー。

_ midi ― 2010/07/01 18:06:55

「生粋の」って言葉、どのレベルを要求するんでしょうかね。本人の生まれと育ちがその土地ならいいんでしょうか。親のルーツは問われないのかな? というのも、私の祖母が余所から来た人なものですから。

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