「そこまでよ」といわれたら「あともう少し」と思うもの2010/09/26 03:19:15


『ハチ公の最後の恋人』
吉本ばなな著
中公文庫(1998年)


この本は、数か月前に娘が誰かからもらってきた本である。

「行きの新幹線の中で読んでしもて、まだ時間が余ったよ」
「なんでそんなん読んでんの」
「アンタがせっかくもらってきてくれたしさ」
「へ、いつ? 知らんでぇそんな本」
「え、忘れたん? いうてたやん(と私はこの本が我が家へきたいきさつを語る)」
「あーそんなことあったような……気もする」
「ほんまにアンタの記憶は頼りないなあ。吉本ばななやから欲しいっていうてもろてきたんとちごたん」
「そんなことあり得へん」
「そうなん? なんか話違うなあ」
「……なんでウチが吉本ばなな読みたいって思うん?」
「そうかてそういうてたもん、さなぎが」
「ぜったいあり得へん。全然興味ない」
「そうなん?」
「あのときのことは、なんか適当にがさがさっと取ってきたことしか覚えてへん」

どさりと投げ出すように置かれた文庫本の山からひとつまたひとつと抜かれていくのを眺めながら「あ、それ欲しかったあ」とか「あの本はないのかな」とか「うーん重松なら他の本がいいな」などとはこれっぽっちも露ほども思うことなく、ホントに何も考えず、近場にあったのを、適当にわしづかみにし、そのまま取ろうとしても誰も遮らないから、そのまま3冊もって帰ってきた、というのである。

「むうーそんな話やったかなあ。ま、どっちでもいいけど」
「それ、面白い?」
「ハチ公? うーん。なんともいえん」
「お母さん、こんなんを2時間以内で読んでしまうねんな。すごいな」
「すごないて。字、大きい。1行の字数少なすぎ。行間あき過ぎ。したがって1ページの文章量少なすぎ」
「《ハチ公》ってあのハチ公、犬の?」
「ううん、若い男の子」
「ほな《最後の恋人》は女の子?」
「うん。中学3年生の」
「いー。ウチぜったいついてけへん」
「ついてけへんやろなあ」


《「ハチ、抱いて。とにかく、時間が。」
 ない、のではなくておしい、のでもなくて、たちすぎてしまったのを埋めたくて、でもないその中間の言葉にならない地点の描写なんて、できなかった。》(41ページ)

なんだか空港みたいな品川駅。


本書の感想をとにかくとっとと言え、といわれたら。
つまらない、のではなくて面白い、でもなくて、自分とかけ離れすぎているからそのギャップを埋めたくて、でもないその中間ですらない言葉にならない地点の説明なんて、できない。
とでも、いっておこうか。

よしもとばななの作品は、あるいは文体は、綺麗、とか美しいとかいわれることが多いが、ほかに『白河夜船』しか知らない私は、べつに全然綺麗だとも美しいとも思わないのである。だから綺麗さや美しさを云々する気はない。もっと、文章・小説の構成といったところによしもとばななの技術力が生きていると思うのである。

物語は、「私」がハチと出会ってから別れるまでの生活。「私」は胡散臭い宗教団体の家に生まれ、超能力を持つ祖母から「お前はインドから来たハチという男の最後の恋人になる」と予言され、祖母が死んだ後嬉々としてその団体を切り盛りする母に嫌気がさして夜中にミスドでボーとしていたときに「ハチ」と出会う。「ハチ」はまだそのとき恋人と一緒だったが、「ハチ」がその恋人から「ハチ」と呼ばれていて、インド育ちであると聞いて、促されるままに彼らについていき、彼らの家に住み着く。互いの身の上を語り合い、「ハチ」がやがてまた育った国インドへ帰るつもりであることを知る。まもなく「ハチ」の恋人が事故死する。「私」はその人をとても慕っていたので喪失感甚だしく、とても彼らの家に住み続けることができない。一度実家に帰る。「ハチ」が恋しいが、再び会いに行く勇気のないまま高校生になる。宗教団体に出入りする男の一人となんとなくデキてしまいセックスフレンド化する。17歳になった頃、ふと「ハチ」が現れた。聞けば今「ハチ」に恋人はいない。私がハチの最後の恋人になる。ハチはインドに帰ったら修行の日々に埋没し、世俗の恋愛などと無縁となる。そしてハチの出発はもうすぐ。いまハチについていくのはこの私。とか何とか思いが頭を駆け巡り、「私」と「ハチ」の生活が始まった。二人だけの濃密な時間、ほかには何も要らない、友達なんて必要ないと思えるほど、《ハチは私の内臓の延長みたいなものだった》なんて思えるほど心身がひとつになったと互いに感じる相手。それは、結局、今生の別れとなる「ハチ」のインドへの出発があるからこそ、「私」は無条件に「ハチ」を愛し、いま持てるものすべてを「ハチ」に注ぎ込むエネルギーを発することができるのだ。「ハチ」の「私」に対する感情も然り。

「はい、そこまで」と号令をかけられたら、「えーっ、お願いもう少し」なんて台詞がつい口に出る。永遠に存在を約束された対象には高ぶった愛情も、ありがたみも、いずれなくなりそこにそれがあることが当たり前になり不幸なときは邪魔にすら思うようになる。しかしいずれ手放さなくてはならないものには深い愛着がわき、いよいよ手放すというときには愛は最高潮となる。失ったものの大きさを失ってからしみじみと思い知り、失ったものをいかに愛していたかという思いに浸り、注いだ愛の大きさと美しさに酔いしれる。そして、そうは言っても、いずれ、その失ったもののことも忘れていく。人間の常だ。


吉本ばなな(この小説の発表当時は、まだ苗字が漢字だったみたいだ)は、人間という愚かしくも崇高な生き物がどういうときにどのような対象に満身で同類を愛するかを描いた。作家本人に似た経験があったのか、もしくは近しい人をモデルにしたのか、入念な取材によるものなのか、それはわからない。が、とにもかくにも、主人公の登場時年齢を中学3年生に設定し、その家庭を奇妙で胡散臭い宗教団体にし、祖母を霊能者に設定した。恋人にハチなどというふざけた名前を与え、インドの山奥で修行をするため日本を発つという設定にした。単にオウム真理教をヒントにしただけなのかもしれない。だが、まともで平凡な人物たちの物語にせず、読み手を小馬鹿にしたような(作家は大真面目かもしれないけど)都合のいい展開が、むしろ人間の本質を再認識するために有効に働くという効果を生んでいる。


「私」は絵を描いて生きていくらしい。なんとなく描き始めた絵がそこそこいけるもんであるらしい。素描を何百枚と描き、色彩学や絵画学の本とにらめっこして練習作品の山を築いて美大受験に挑んだ人間からするとこんな主人公にはシンプルにむかつく。それでも、「私」が「ハチ」に生命100%の愛を注ぎ、愛しぬき、失って、「ハチを忘れるだろう」と予感していることに、激しく共感する。
そして、よしもとばななという作家の力は、こういったところにあるのだろうな、と漠然と思ったのだった。


主人公の「私」は中学三年生で父親を知らず祖母の影響が大きい。今のさなぎそっくりだ。だがウチは幸か不幸か怪しい宗教団体ではないし、おそらくさなぎは夜中のミスドでクダを巻いたり、近づいたカップルについていったりはしないだろう。だからといって全身全霊で人を愛し無償の愛情を注ぐ経験ができないということではけっしてない。ないけれど、もしかしたらある種「けったいなひとびと」のほうが、やはり、かけがえのないものと出会い希少な恋愛体験をするのかも、とも思う。
そんなふうに大の大人をうろたえさせるのも、この作品の力の一部である。

早い話が、大して面白くなかったんだけど、なんか悔しい。そんな読後感であった。そんなもんを抱えて、出張先の顧客のもとへ参上した、罪なワタクシ。

本書とは関係なく、気分悪い一日であったのである。

コメント

_ コマンタ ― 2010/09/27 22:22:30

>それでも、「私」が「ハチ」に生命100%の愛を注ぎ、愛しぬき、失って、「ハチを忘れるだろう」と予感していることに、激しく共感する。

年をとると、
どんな不意打ちのカナシミにもそなえる習いが身につくのでしょうか。
考えさせられました。

それにしても、
土曜の深夜というより日曜日の夜明けに近い時間のアップ!
おどろかされましたが、
もっとおどろいたのは品川駅の写真。

こんど品川駅でオフしましょうヨ。

_ midi ― 2010/09/28 08:59:48

眠くなって、最後の1、2段落を未入力のまま途中で止めてたのを昨夜いきなり思い出してアップしたのでした。
東京に行ったのは金曜日で、いろいろ企んではみたんだけどどうしても時間が取れなくて東京の知人友人に会うのは諦めました。そればかりか思わぬほうへ段取りが転がって、帰着してからも夜遅くまで顧客一行と同行でした。
もうへとへとだったんだけど、翌日土曜日は進学説明会があったりして貴重な一日潰したし、日曜日は陸上部が嵐山へ走り込みにいくのでお弁当がいるとかで前夜に支度をしてました。目が冴えちゃったのでブログに向かったらもう少しというところで眠くなっちゃった。

また機会があればいいんですけどねえ、東京出張。2年ぶりでした、今回。また当分なさそうです。

_ 儚い預言者 ― 2010/09/28 09:06:48

 よしもとばななはスピリチュアルな世界で有名な人との対談の本があったと思います。たぶんその感触がこの本に、愛という不思議な夢を現実に引き写して描いているのかもしれない。
 元々愛そのものであったいのちが分霊され、個別へと流れる中で忘却していく実在の夢。引き合い、一体への回帰は、故郷へと帰るのでしょう。それが現実には、忘却となる。
 人は夢の主人公であるとともに、夢の奴隷である。愛は自由を与え、それ故に枷を加えるのだ。その愛を人は忘れて。


 気分悪いときはそのままに、感じましょう。静かに聴いていればその中にメッセージがあります。それが精神的なものか、肉体的なものか、それとも人の気分を貰っているのかもしれない。よく自分のエネルギーの輝きに気を配っていれば、その兆候が分かりますから、なる前に防ぐことも出来ます。
 人は愛そのものです。

_ midi ― 2010/09/28 19:06:16

「夢の奴隷である」というのは真ですねえ。今の教育現場見てると夢をもたない奴は人間じゃないみたいな感じ。

えっとー。いまさらですが訂正です。

>おそらくさなぎは夜中のミスドでクダを巻いたり、

ウチのさなぎだろうと誰だろうとミスドでクダは巻けませんねえ、メニューにお酒ないし(笑)寝ぼけ眼でいい加減なこと書いてごめんなさい。「私」はミスドでただほげーっとして時間をつぶしていたんです。

_ 儚い預言者 ― 2010/09/28 19:06:53

「忘却」

  美しい光があった。とても柔和に輝き、誰もが一度は魅了され、手にしたいと憧れた。記憶には残らないが、心に刻印された元型として働きだした。

  出会いは、奇跡に葬られ、別れは、軌跡に咲く。だが一体となる者は離され、未分の痕跡となる。それは永遠の舞いの愛からの附票であるが、なお時間の夢を留めさせるのだ。
  意味は自由だが、理由は絶対である。かけ離れた事物は在り得ない。実在とは、往還、息なのだ。全ては永遠なるものの中で寛ぎ、忘却を前提として、創造するのである。だが意外なことに、神は関知しない。自由の翼をあたえられているのだ。そして大変奇妙なことに、記憶を宇宙は欲する。勿論それは歴史という織物を紡ぐ為に。

    いきふかく
    あさきはかなき
    はなひらき
    ゆれるいのちの
    ゆめあざやかな

  いのちの断続から、炎は熾火になって、なおその恋は永遠を焦がす。とても微かな息をして、通り縋る時から逃れようとしているようだ。愛には形は無いが、湧き出る愛には全てを透過しながら、振動を速めて一雫の舞いを反射させ、世界に喜びを分かち合おうとするのだ。

いのちは泣く。忘れたことを忘れて。現前にある真実から逃亡していることに気づくことを忘れて。意味が与えた世界を夢見ているのだ。元型が崩れ去ろうとしている。世界は、夫々の一人一人で違いながら、目指す栄光を崩すように。

  目眩の一瞬に、永遠の姿が映し出された。

  消えゆくのは、形であって、永遠の舞いに愛を照らすのは、その夢、想いである。
  忘却の果てに。

_ midi ― 2010/09/29 20:40:40

こんばんは。
私も全部忘却することにします。

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