Qu'est-ce que c'est le terrorisme?2011/09/16 21:28:45

『13歳からのテロ問題――リアルな「正義論」の話』
加藤 朗著
かもがわ出版(2011年9月11日)



表紙の装幀はいかにもツインビルを髣髴させるオブジェの写真なのだが、編集段階ではいくつか案があって迷っていたようだ。どこかのブログに書いてあった。

そのブログに載せてあった別の案は、「テロ問題」というテーマを踏まえた場合、いずれも説得力のないように思えた。このテーマと関わりないデザインだとしても、13歳あるいは中学生の関心を惹く表紙になってはいなかった。さらに、頭が固くなって想像力の働かない大人には、どの案でもテロを思い浮かべるのは無理だろう。最終的に決まった表紙の写真は、あたかも破壊された二つのビルを象徴しているように私には思えたが、全然連想できない人もいるだろう。タイトルと、目次などに目を通して初めて、あ、あのテロねと気づく。そういう人が多数派かもしれない。

本書の中で中学生たちが素直に吐露しているが、「テロといわれてもピンと来ない」、それがふつうの日本人の感覚だ。テロというとき、現在の日本人が真っ先に思うのはグラウンド・ゼロ、すなわち同盟国である我らが友人アメリカ合衆国様が多大なる被害を受けた「あの」同時多発テロであろう。その次には、いわゆるパレスチナ問題に思いのいく人が多いのではないか。自爆テロといえばそれはパレスチナ人がイスラエル人を道連れにして殺す手段の代名詞である。

本書ではこのほかにアフガニスタンのタリバンによるテロなどが例示される。古くはたった一人を狙った暗殺もテロだった。テロは体制に反感をもつ者が自己主張をするための暴力的手段である。時代を経てそれは大掛かりになり、本当に殺したい個人を狙うのではなく、国家や政府が対象となるために「暗殺」では追いつかないから、何のかかわりもない無辜の市民をいわば人質にして、多数巻き添えにして命を奪うというパターンになって幾久しい。

本書の中では、テロという行為にある二面性について真剣に議論されている。ビンラディンの主張の正当性は、米国から見れば極端な原理主義による狂気に過ぎず、米国が振りかざす正義や民主主義は、ビンラディンあるいはアルカイダあるいは一般のイスラム教徒たちにとって権力者の寝言にしか聞こえない。双方が自身を正義もしくは神の意思の遂行者と信じている。それによる行動をテロと呼ぶとき、テロは誰による、誰にとってのテロ(恐怖)なのか。オバマ政権があっさり有無を言わせずビンラディンを銃殺してしまったが、この行為も向こう側(パキスタン、イスラム教徒)から見ればテロである。

表と裏にはそれぞれ言い分がある。

神の名のもとに、悪者を成敗したのだ。

どっちも、そう言う。

愛する者を殺され、許せないから復讐した。

どっちも、本音だろう。

神の名のもと、正義の名のもとであれば武力に訴え人を殺してよいのか。
中学生たちに答えは出せない。
もちろん加藤氏にも、出せない。

本書の企画のために、実際に、加藤氏が中学3年生を相手にテロをテーマに授業をしたそうだ。丁寧に編集されているのを感じるが、また、中学生も先生も非常によく考え抜いたようすが窺えるのだが、どうもその臨場感がいまひとつ伝わってこない。思いのほかいいことを言う中学生たちであるし、また素直に考え抜いて発言している。わからないことはわからないと言う。わからないままにせず必死で考えてもいるようだ。それは透けて見えなくもないが、たぶん現場を共有した加藤さんほどには、読者は議論の内容に共鳴できない。それは、この問題が考えれば考えるほど堂々巡りになり永遠に答えなど出せそうもないということが早くに露呈してしまっていることにも原因はあろう。だが、もう少し誌面のつくりや編集方法に工夫がされていたら、とくに中学生くらいの読者は出席者に共感を覚えつつ読み進むことができるのではないだろうか。
各章のあとに「大人のための補習授業」と題して、大人向けのちょっぴり難易度の高いヴォキャブラリーを用いた解説ページを設けてある。大人の読者にはそれがありがたいかというと、そうでもない。その内容はすでに中学生と先生が議論したじゃないのさ、それを少し書き直しただけのことじゃないのさ、という感じだ。同じようなことを二度読まされるのは、まったく同じではないにしても、ちと、しんどい。

と、ここまで読まれて皆さんはどう思われるだろうか。本書は、たしかに、テロ問題の権威が中学生と行った議論を採録する形で書き下ろした、テロについて考える本である。
「だけどなんだかつまらなそう」
そういうふうにお感じではないか。
テロに関する本が愉快なわけはない。
でも、そうじゃなくて、つまんなーい、のだ。教室で先生と一緒に考えて発言をひねり出している中学生、それを受け止める先生、双方ともにエキサイティングな時間だっただろう。しかしそれをいわば見物している形の読者には、さんまや紳助がイマイチなタレントや芸人をずらっと並べて喋らせて揚げ足とっていたぶり、それを見た収録スタジオ見学者の笑う様子をテレビ越しに見て「ちっ……くだらねえ」と舌打ちする気分に似ている。あんたたちは楽しそうだけどこっちは全然よ。

そして、もう一つ原因がわかった。これは私だけの印象である。時間と紙幅の関係から昨今起きたすべてのテロについて解説し考察するわけにはいかない。だからしゃあないけど、チェチェンのことにぜーんぜん触れていないのが悔しい(笑)。
ロシア側はチェチェン独立派によるテロという表現をするが、チェチェンから見れば先にテロ行為を国家規模で先に働いたのはロシアなのである。
チェチェンをネタにすれば事はまたしても複雑になる。中学生にとってかの国そして旧ソ連組は理解を超えて超えて超えすぎる。
わかっちゃいるが、チェチェンのチェの字もなかったことはやっぱ悔しい(笑)。ふん。

《それは、今までに経験したことのないような至福の時間であった。(中略)私が授業をして生徒の発言を引き出しているのではない。生徒たちの発言が私に授業をさせているのだ。教えるなどと不遜な気持ちは抱きようもなかった。教育ではない。まさに「共育」。生徒も教師も授業を通じて共に育っていくことが教育の本質だと実感した。》(159ページ、あとがきより)

というわけで、加藤先生も中学生たちも至福の時を過ごされたようなのでめでたしめでたし、なのである。

今日、ニュースが、大阪の府教委の委員が橋下知事率いる「維新の会」が制定しようとしている「条例」にいっせいに反発していると伝えていた。国旗掲揚国歌斉唱の強制も然りだが、国の名のもとに「教えさせてやっているのだ」といわんばかりに役人が教師を顎で使い、教育の名のもとに「教えてやっているのだ」と教師が子どもを上から抑えつけ、権利の名のもとに「来てやっているのだ」と学ぶことを放棄した餓鬼が集まる場所、それが学校である。それが日本の現状である。それぞれがそれぞれのやりかたで、他方ばかりか自身の首をも真綿で締めつけるように、崩壊の一途を辿っている。それが日本の教育現場である。陰湿さが売り物の、これこそ日本流のテロリズムに他ならないと思ったりもするのだが、どうであろうか。