Angelina...2012/06/08 18:22:42



アンジェリーナのショコラ・ショー(=ホットチョコレート=ココア)
ワインを買うつもりで入ったスーパーの、甘いもん売場で偶然見つけて買った。どこだったかな、あれ。オペラ座の近くだったか? けっこう中心部だったと記憶しているが……。でも、「リヴォリ通りのサロン・ドゥ・テ」なんかには行かなかったよ。
それにしても本格的で濃厚な甘さ。濃厚すぎるので淹れかたの説明にあるよりも濃さをゆるめて飲んでいる(でももうすぐなくなるので娘が悲しんでいる。笑)。


『優雅なハリネズミ』
ミュリエル・バルベリ著 河村真紀子訳
早川書房(2008年)


《(前略)わたしはママにアジア風のお店で睡眠薬用に黒い漆塗りの小さなケースを買いました。三十ユーロでした。それで十分だと思ったのですが、エレーヌは、それだけじゃさびしいから何かほかにもあげたら、と言いました。エレーヌのご主人は消化器系の専門医です。お医者さんのなかでも消化器系の医師はかなりお金持ちなのでしょう。でもわたしはエレーヌとクロードが好きです。だって……、何て言うか……完全だからです。人生に満足していて、あるがままの自分でいるかんじがするのです。それにソフィがいます。いとこのソフィはダウン症です。(中略)ソフィを見ているとむしろつらくなります。よだれをたらすし、叫ぶし、拗ねるし、わがままだし、何も理解できないからです。エレーヌとクロードを否定しているのではありません。彼ら自身、ソフィは気難しいし、ダウン症の娘を持つことはまるで牢獄だと言っていますが、それでもソフィを愛しているし、よく面倒を見ています。ソフィのことがあるから、より一層人間として強くなり、だからこそ私はふたりが好きなのです。(中略)リヴォリ通りにあるティーサロン、アンジェリーナに行って、ケーキを食べココアを飲みました。車を燃やす郊外の若者とは最も縁遠い場所だと思われるでしょうか。いいえ、ちがいます! アンジェリーナで、またひとつ判ったことがあるのです。わたしたちの隣のテーブルに、アジア系の男の赤ちゃんを連れた白人カップルがすわっていました。男の子はテオという名前でした。エレーヌが彼らと仲良くなって、しばらく話していました。ふつうとちがう子どもを持つ親どうし、きっと何か通じるものがあったのでしょう。お互いにそうとわかって話しはじめたのです。テオは養子で、タイから連れて来たときは一歳三カ月だったということでした。津波で両親を亡くし、兄弟姉妹も失ったそうです。わたしはまわりを見わたし、これから彼はどうやって生きていくのだろうと思いました。わたしたちがいたのはアンジェリーナです。みんなきちんとした服装で、高いケーキを気取って食べ、そこにいたのはつまり……、つまりそこは、ある一定の社会層の人たちのもので、それなりの信仰や規範、思惑、歴史があるのです。象徴的なのです、アンジェリーナでお茶をするということは、フランスにいて、裕福で、階層化された、合理的で、デカルト的で、開化した社会にいるということです。幼いテオはどうなるのでしょう。生後数カ月はタイの漁村で暮らしたのです。そこは独特の価値観と感情に支配された東洋的な世界で、その象徴はたとえば雨の神様を敬う村祭りで、それを通して子どもたちは神秘的な慣習に浸るのです。それがこんなふうに、フランスの、パリの、アンジェリーナの、文化がまるっきり違った世界に、つまりアジアからヨーロッパへ、途上国から先進国へいきなり移されたのです。
 だからふと、テオはいつか車を燃やしたくなるだろうと思ったのです。だってそれは怒りと不満からくる行為で、おそらくいちばん大きな怒りや不満は失業や貧困ではなく、未来がないことでもなく、異なる文化や相容れない象徴に引き裂かれ、自らの文化を持たないという感情にあるからです。象徴に引き裂かれ、自らの文化を持たないという感情にあるからです。どこにいるかがわからなくて、どうやって生きていられますか? タイの漁民文化とパリの有産階級文化を同時に受け入れなければならないの?(後略)》(288~289ページ)


すでに一度言及した小説だが、じつは最も共感し、印象深かったのが上記に引用した部分だった。本書のもうひとりの主人公、12歳の天才少女・パロマのある日の日記のくだりだ。あまりに私の気持ちとぴったりなので、ここだけ、別れ難くて、図書返却前にテキスト入力して保存しておいたのだった。

上でパロマが言っている「車を燃やす郊外の若者」というのは数年前にパリで頻発した事件のことを指している。パリの郊外には低所得者向けの集合住宅(HLM)が林立しており、そこには、なかには生粋のフランス人もいるだろうけど、大方の住民が移民系で、子どもの就学率も低いし、学校ヘ行っていても学歴は最小限だし、そんなこんなで若者の就業率も低い。失業率は慢性的に高いフランスだが、若年層の失業率が顕著に高くなっており(どこもいっしょやね)、数年前には、その多くは郊外に住む低所得家庭の子どもたちだった。ただし今は、仕事に就けない若者は移民の子孫に限らないし、大学まで出ていてもすんなりと職は見つからない(どこもいっしょやね)。話を戻すが、先頃退陣なさった元大統領閣下のニコラ・サルコジは移民排斥の傾向の強い人で、ぺーぺーの議員時代から問題発言を繰り返していた。彼が、郊外の若者たちを「社会のクズ」呼ばわりしたことが、騒動を拡大・長期化させた。最初は、職質した警官にたてついた少年が、警官の発砲によって死亡したために、少年の仲間が「報復」として駐車中の車に火をつけた。これが始まりで、同じような動きが広がり、やがて先のニコラ発言になり、それがまた火に油を注いだ。


私が思ったことは、あのハイチ大地震の際に、おびただしい数の孤児をフランスの多くの家庭が養子縁組にした「美談」である。フランスのメディアはこぞって、基本的にフランス人がその志の根底にノブレス・オブリージュを持っているといって称えた。またハイチから孤児の団体がエールフランスで到着すると、「子どもたちは一様に安堵の表情を見せた」などと、これまた誰の差し金かはわからないけど、一連のフランス人の行動を称える内容であふれかえっている。でも、そのことに誰も異議は唱えないんだろうか。私はそう思っていた。あまり隅々まで報道を読むフランス語力はないので大新聞の見出ししか追いかけていなかったのだけれど、養子縁組ラッシュに批判的な文言は見られなかった。

本書のこのくだりを読んだとき、少なくともこの作家(とたぶんその夫)は、貧しい国から孤児を養子にすることが100%善行のように語られる風潮に対して、眉間に皺を寄せているのだということがわかったのでちょっぴりほっとした。
養子縁組を否定するつもりはまったくない。私だって裕福であればそのような色気は出したであろう。ウチはムスメがひとりだから、男の子の子育てやってみたいもん(笑)。
でも、人の命って単体じゃない。つながってつながってつながって、ほんの偶然でいま生を受けてこの時代に躍動しているというだけだ。ルワンダにはルワンダの、タイにはタイの、ハイチにはハイチの、東北には東北の、大地から生まれた命の連鎖があり、互いに見ているのはその鎖のひとつにすぎない。


前にも書いたが、本書刊行後、作家夫妻は京都に移住したようだがその後東日本の震災もあり、何もかもが変わらないままというこはあり得なくなった。人々のメンタリティーは大きく変わった。脱原発を叫んでいた人が熟慮深慮の末やっぱ再稼働に賛成といっても、私は怒らない。何を根拠にして考え、何を信じて主張すればいいのか、まだわからないという人も大勢いる。私だってその類いだ。昨日ソーダと思ったことに今日バカヤローと毒づいたって、誰がそのことを責められる? 野田ソーリは、やーな役目だよなオレ〜と思って会見したかもしれないし、使命感に燃えて言明したのかもしれないけど、問題は彼がどう思っているのか本当のところはどうなんだ、ということなどでは全然ない。日本ってあくまで社会経済優先なのね、人の命が危険に晒されるかもしれないとかそういうことは二の次なのね、というふうに国民が思うことも織り込み済みだ。電気が不足すると困るとか企業の流出はよくないとかそんなこともどうでもよいはず。単に、既得権益を離したくないムラの人々の力が大きい。これはいかんともしがたい。世界中がそうなのである。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2012/06/12 20:46:10

そろそろと、どん詰まり。世界は小さくなり、無限の縮小に青色吐息?。
いのちは続くか。権利も義務もどちらも小なるは無に等しい。
だが余りに弱く、権力のない愛が、無敵の力を発揮し、小が翔になる。
真に慈しむ愛こそ、世界を変える。

_ midi ― 2012/06/12 22:26:32

預言者さま

誰もが愛されてないことに不平不満を申しますからね。
愛する側に回ればいいのにね。

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