Couturière tu dors?2012/11/12 05:21:07

気がつけばもう11月。昨日のたっぷりしたひと雨で、またぐっと寒くなった。いい感じ。寒いのは好きじゃないけど暑いよりはまし。娘は逆にいくら暑くても平気だが寒くなると三文の値打ちもなくなる。昨年より痩せたから、今冬はよけいに冷気が骨身に沁みるであろう。

家事や身だしなみにかける時間を削って(=朝食と弁当以外の食事の準備はしない、風呂以外の掃除をしない、部屋に散らかったままの服を繰り返し着る、化粧をしない)、べつにサボっても命とられやしないってわかってんのに、山積する会社の仕事をしている。つくづく自分はアホやと思う。残業手当というものは存在しないのに。
そんな状況だから私も生活を切り詰めないといかんのだが、どういうわけかそんなに生活蝕まれているのに、食う時間と寝る時間を削って、なぜか夏から受講した翻訳講座の課題を訳している(笑)。痛い出費だったが、課題の消化は、いかに私が全然フランス語をわかっていないかをあぶりだしてくれている。こんな程度でダリ君の本を訳してしまった。ごめんよ、サルヴァトール。
でも、課題文があまり面白くないので正直言うとイマイチ本気で取り組めない(言い訳ですけども)。だから、食う時間と寝る時間を削って、と書いたが、じっさい、「削る」ほどには時間を割いてない。というか、割けない。私の道楽半分の翻訳学習よりもはるかに重要な案件が私の目の前には堆く山となっているからだ。
それは、これ。


トゥシューズのトゥ部分を補強加工すること。
革を貼って、その周りをかがっている。かがる糸はタコ糸みたいなやつをコーティングした強い材質の太い糸。外国製だがダンス用品店で手に入る。革も、シューズのつま先型にカットしてあるのが売っている。
上の写真は昨日つま先を仕上げたところで、あとはリボンとゴムの縫いつけをしなくちゃなんないが、つま先補強&修理はとてもしんどく厄介な作業なのでこれが済んだら90%済んだも同然だ。

革を貼り、周りをかがるようになって5足目かな。娘は文字どおり「履き潰す」まで使ってくれる。が、馴らし損なうと、補強加工云々とは関係なく足にフィットしなくなるので早々とお払い箱。それでも、ほかの生徒さんたちに比べたらけっこう長期間、1足のシューズを使うほうじゃなかろうか? ま、でも数足並行で使って、2~3か月かな。

履き潰したシューズ。
先がボロボロでしょ。
革はかろうじて残っているけど、周りの糸はどんどんすり減って無くなって、あとから何度も縫い直す。直すけど、ワンレッスンごとにやはり糸は減って消えて、布がめくれていく。固まっていたつま先は柔らかくなるとあとは崩れていくいっぽう。

補強加工して新たにおろしたシューズも、
数日ですり減ってくる。
娘の場合、内側(親指側)がよくすり減って破損が早い。上の写真のようになったら早めに手を打たないとあっという間にボロボロになる。それで、最初に縫いつけた時よりも糸が盛り上がるようにしてかがる。
内側をかがったところ。摩耗してつるつるになったつま先の革にも再び疵をつけておく。こういうことを何度か経験して、最初から内側を幾重にもかがればいいのではないかと考えて、今回加工したのだが。
冒頭の写真を再掲。
使い始めに、つま先に違和感を感じないだろうかと少し気がかりだが娘は「そんなんすぐにたいらになるわ」という。ならいいけど。少しでも長持ちしてくれれば毎夜毎夜、針と糸と硬いシューズと格闘しなくても、3晩に1晩、くらいで済む(笑)。

ちなみに、革を貼らないと、つま先のサテン布の損傷が激しく、つま先そのものを立ち潰す前に不細工な状態になる。
以前は、こんなふうになりかけたら接着剤で貼っていた。もちろん、それは急場しのぎだ。だから本番までの日数を数えながら、致命的な状態にならないことを祈りつつ、ペロリンとめくれた布にせっせと布専用瞬間強力接着剤を塗る。
もちろん、革を貼るようになったからといってこの作業が免除されるわけではない。寿命が近づくと、すり減った革は布よりも薄くなってぺろんぺろん、しなやかさがなくなってぱりぱり。それでも、「このシューズで舞台に立つ」と決めたシューズの場合は、無残なつま先を手当てして何とか延命を図るのである。

そもそも、縫うだけでは、ない。
新しいシューズを買うと、中にニスを流し込んでまず内側からつま先を硬く補強する。以前はこれだけをしていたが、革を貼るようになったので、最初に革貼りをする。というのも、革を貼る接着剤が完全に乾くのに三日を要するからだ。ニスは乾くのに丸一日かかる。したがって:
1)シューズ、革、リボン、ゴムを揃える。
2)シューズのつま先と、革の全面に専用接着剤を塗り、10分置く。
3)生渇きになったところで貼り合わせて、(あれば)木槌などで(私はないのでジャムの瓶の底で)押さえつけるように叩く。かなり強く叩く。やめてえっっというシューズと革の悲鳴が聞こえるくらい叩いてしっかり貼りつける。
4)一日放置。
5)内側にニスを流し込む。ポワントハードナーという名前で売られている、シューズ専用のニス。ティースプーン1杯くらいを、シューズの外側に付着しないよう気をつけて中に垂らし、まんべんなく行き渡らせる。
6)ニスが乾くのに丸一日かかるので、また放置。
7)翌日、ニスがからからに乾いていたら、また流し込む。
8)ニスの流し込みを三回(つまり三日)繰り返す。この頃にはつま先の革の接着剤も乾いて強固に貼りついている。
9)革の周囲をかがる。両足の内側を決め、内側のみ往復かがる。そのあと革の周囲を一周する。
10)リボンを長さに切り、ほつれ止めのために端をライターで溶かす。
11)位置を決めてかかと側にリボンとゴムを縫いつける。

1)から8)までで最短でも4日かかるのだが、じつは9)から11)の工程で1週間以上かかる。だって、毎晩疲労困憊してるから、ひと針も縫えないこともあるんだよねー
それにさー、雑巾縫うのとはわけが違うし。
だから新品を買ってから娘に渡すのに20日くらいかかったこともあった(笑)。

さてさて、昨日は友達とシャガールを観にいった。
たしかニースかどこか、南仏の都市にシャガールの美術館がある。建物じゅう、シャガール香がぷんぷんしていた。シャガール香って変な形容だな。つまりシャガールってほかの画家や芸術家からは感じない、フロリミティックな「匂い」を感じるのだ。もともと、シャガールは嫌いではなかったがべつに好きでもなかった。でもその南仏の美術館を訪れて、シャガールっていいなあ、としみじみ思った記憶がある。ま、「作家の名を冠した美術館」だから、その作家の良さが最大限発揮されるようにつくらないと意味がない。アンティーブのピカソ美術館も、マントンのコクトー美術館も、アルビのロートレック美術館も、パリのポンピドゥーセンター横のブランクーシのアトリエも、訪問すれば必ずその作家の虜になるように、構成されている。
シャガールをいいなあと思ったのは、だけどとても古い記憶だ。今春、パリオペラ座の天井画を観てきたが、そしてそれはもちろん素晴らしかったが、それがたとえばピカソの作品でも、ゴッホやマティスやセザンヌや、スーラやピサロやマネやモネ、ミレーやゴーギャンやドガやルノワールでも、コクトーであってもロートレックであっても、それなりの出来映えの天井画がはめられ、時とともに愛されてきただろうなと思わせたのだった。ああ、すごいわ、さすがシャガールね、という感慨ではなく。
さてさて、文博の今展には「ダフニスとクロエ」のための連作がすべて展示されていた。ひとつひとつは大きな絵ではなかったが、むせかえるようなシャガール香の感じる絵であった。ダフニスとクロエってハッピーエンドストーリーだったのね。
収穫だったのはエッチング作品のシリーズと、黒インクのシリーズ。シャガールの絵は青くて緑で、中央に象徴的な赤い色もしくは花束、のようなイメージだったので、モノトーンの作品がこんなにあるなんてと驚いた。繊細な線による描きこみ(または掻きこみ)がシャガールならではといったらそれまでだけど、それらの作品からはシャガール香ではなく、画材の匂いを感じた。美大の版画室のあの匂い。漫画を一生懸命描いていた頃の自分の部屋に満ちていた、ペンと面相筆と墨汁と黒インクの匂い。

ベラルーシ生まれの画家は、一度パリで名声を得て帰国、そのとき戦火が広がりすぐにはフランスへ戻れなくなる。数年のちに再び西進するが、ナチスの台頭で追われる身となりニューヨークへ亡命。戦後ヨーロッパへ帰還するが、故郷の村は焼き払われていた。
最初の妻ベラはニューヨークで早逝した。ニューヨークに滞在中、シャガールを支えたのはヴァージニアという人だった。アメリカを後にしたシャガールはフランスに居を構えて同じユダヤ人のヴァランティーヌと再婚。最後は南仏で、97歳で亡くなったそうだ。まあ、そんなに長生きだったなんて知りませんでした。

シャガールの作品を観ていると、自身がどこに在ろうと、ユダヤ文化と故郷の風景を愛し抜いて描き続けていたことがわかる。19世紀から20世紀の作家は舞台人をよく描いているが、シャガールの作品も、劇場の壁画の仕事等に恵まれたこともあったろうが、役者や踊り子を生き生きと描いたものが多い。

娘も描かれる踊り子になってほしいな。


世紀の巨匠の作品を展観しても、思いは我が子にしかゆかない普通の母でありましたの巻。

Il fait beau en ce moment, mais selon la météo il va pleuvoir cet apres-midi.2012/11/13 11:16:29

サイドバーにリンクは張っていないけど、時々読みに行くブログから引用3件。

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小沢氏、2審も無罪 検察と記者クラブによる冤罪に終止符を
2012年11月12日 15:28

(写真)
小雨の降るなか無罪判決を待つ小沢氏の支持者。=12日午前10時、東京高裁前。写真:田中撮影=


 政治資金規正法違反で強制起訴された「国民の生活が第一」の小沢一郎代表に控訴審判決が言い渡される東京高裁102号法廷に入るや我が目を疑った。
 傍聴席の半分に、「報道記者席」と書かれた白いビニールシートが麗々しくかけられているのである。正確に言うと全98席のうち41席が記者クラブ様御席だ。普通の国民は早朝から並んでも、傍聴券を手にするのは宝クジに当たるようなものだ。法の下の平等が裁判所から崩れているではないか。
 怒りが脳髄にこみ上げた筆者は声をあげた。「裁判長、傍聴席の半分が記者クラブ席というのでは、公判廷とは言えないではないですか?」。一般傍聴席からも「民主的にやってくれよ」との声が飛んだ。裁判長はすかさず「静粛にして下さい」と注意を与えた。
 それにしても司法から記者クラブへの便宜供与には驚く。判決文の朗読が始まってもクラブ詰めの記者たちはペンを走らせない。判決文は後ほど検察あるいは裁判所からもらえるのだろう。30年前は裁判所が判決文のコピーをクラブ詰めの記者に渡していた。
 期日簿をノートに写すことができるのも記者クラブの特権だった。期日簿とは民事、刑事問わず、今後の裁判予定がすべて書き込まれている帳面のことだ。
 記者クラブは裁判所から多大な便宜供与を受ける代わりに判決について批判めいたことは書かない。判決を批判したような記事を見かけたことはほとんどない。
 裁判所は検察の主張をほぼ認める。記者クラブは検察リークを受けて書き飛ばす。抑止機能なんてあったものじゃない。この国の司法はほとんどすべて検察の言いなり、と言ってよい。

(写真)
東京高裁。向こうの赤レンガは法務省。=写真:田中撮影=


 陸山会事件で東京地検は小沢氏に有利な証言は隠し、不利となる証言を捏造した。捏造に関与した現職(事件当時)の検事や次席検事が公文書偽造などの罪で逮捕、起訴されている。
 検察が捏造調書を検察審査会に送り、検察審査会はそれをもとに小沢氏を強制起訴したのである。デッチあげ裁判そのものだ。検察による捏造が明らかになってからもマスコミは小沢氏を限りなく黒に近い灰色のように扱ってきた。
 小沢氏が検察と記者クラブの両方から目の敵にされていたので、検察審査会を利用したイカサマが罷り通ったのである。陸山会事件は検察と記者クラブが一体となって作り出した冤罪だった。
 小沢氏の控訴審判決公判はきょう午前10時30分に開廷した。小川正持裁判長が「被告人は前へ出て下さい」と小沢氏を促した。裁判長が「控訴を棄却する」と告げると小沢氏は軽く一礼した。
 検察官役の指定弁護人らは一様にがっくりきた様子だった。ある者は天を仰ぎ、ある者はうなだれた。いずれも苦渋の表情を浮かべた。
 紺のスーツに青と赤のレジメンタルタイ姿の小沢氏は、背筋を伸ばしたまま表情ひとつ変えず判決に耳を傾けた。
 検察側(指定弁護人)からは一審を覆すような新しい証拠は何ひとつ出ず、法廷はたった一度開かれたきりだった。無罪は素人目にも明らかだった。
 西松建設事件(2009年3月)に端を発した陸山会事件は、3年近い膨大な時間を無駄に費やした。政権交代をはさんだこの間の政治的混乱を考えれば、無駄などという言葉で括れないほど日本の政治を傷つけた。
 検察官役の指定弁護人には、徒に上告しないことを願うのみである。

 《文・田中龍作》

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2012年11月13日 (火)
小沢一郎氏は不死鳥の如く蘇り政権奪還を実現す

「国民の生活が第一」代表の小沢一郎氏に対して東京高裁が無罪判決を示した。
4月26日の第一審無罪判決に続き、控訴審でも小沢氏は無罪を勝ち取った。
全国紙各社は号外を発行してこの重要事実を伝えるべきであるが、号外を発行した社はない。
2009年から2011年にかけて、日本のマスメディアは小沢一郎氏を極悪非道の犯罪人として報道し続けてきた。
2009年9月14日に検察審査会が二度目の起訴議決をしたことが10月4日に公表された。
このとき、日本のマスメディアはどのような報道をしたか。
忘れたとは言わせない。
1789年に定められた「フランス人権宣言」。
その第9条は次のものである。

第9条(無罪の推定)
何人も、有罪と宣告されるまでは無罪と推定される。ゆえに、逮捕が不可欠と判断された場合でも、その身柄の確保にとって不必要に厳しい強制は、すべて、法律によって厳重に抑止されなければならない。

「無罪推定の原則」は基本的人権を守るための対応である。
無罪の人間を間違っても犯人視報道することのないように、有罪の宣告、あるいは有罪の確定までは、無罪を推定する。
人を呼ぶときにどのような呼称で呼ぶかは、報道において極めて重要な問題だ。
「被告」の呼称は、もしこの人物が無実の人間であれば重大な人権侵害となる呼称である。
スマップの草薙剛氏、作曲家の小室哲哉氏などに対して、マスメディアはどのような呼称を用いてきたのかを検証するべきである。
無実潔白の小沢一郎氏を、日本のマスメディアは極悪非道の犯罪人として報道し続けてきた事実を忘れたのか。
本日の控訴審で小沢氏に対して再び無罪判決が示された。
上告の理由は、重大な判例違反か憲法違反であり、今回の事案で上告する理由は存在しない。
指定弁護士が上告を行わない可能性が高い。
その場合、小沢氏の無罪が確定する。
その可能性が極めて高いにもかかわらず、マスメディアの多くが、本日の判決報道においてさえ、「被告」の呼称を使い続けた。
日本のマスメディアが腐り果てていることを知る国民が激増しているが、ここまで来ると、もはや病的である。
いま日本の主権者国民に必要なことは、日本のメディアがすでに死亡しているということを正しく認識することだ。
メディアは3年半の間、小沢一郎氏を極悪非道の犯罪人として報道し続けてきた。
その事実の肯定、事実の検証、事実の評価、自己批判が不可欠だが、この期に及んで、自己の誤りさえ認めようとしない姿勢である。
自己の誤りを認めないどころか、「小沢代表、政界での「復権」険しく」などの見出しを付けて報道する大馬鹿三太郎新聞まで存在する。
ちなみに、この大馬鹿三太郎新聞とは日本経済新聞のことだ。
殺人犯人として収監されていた菅家利和さんがいた。
実は冤罪だった。
冤罪が明らかにされ、菅家さんが釈放されたとする。
そのときに、
「釈放された菅谷元受刑者、社会での「復権」険しく」
などと報道する大馬鹿新聞がどこにあるというのか。
司法当局といっしょになって菅家さんを犯人視報道し続けた自らの報道姿勢を検証し、謝罪をするのが最低限の行動ではないのか。
つまり、この国はいま、完全に腐っているということだ。
腐っているのは権力だけでない。権力に群がるマスメディアにも腐敗臭が立ち込めている。
一連の巨大謀略の裏側に恐らく米国がいる。
その米国に魂を売り渡している日本人が多数存在する。
米国の指令に基づき、本当の愛国者を破壊する腐敗した官僚機構がある。
カネのためなら何でも協力する守銭奴大資本が存在する。
これと結託する利権政治屋と腐敗しきったマスゴミ。
米・官・業・政・電の既得権益が日本を暗黒社会にしてしまっている。
この現実を変えることのできるのは、主権者国民しかいない。
主権者国民が次の選挙で世直しに動かなければ、この国は本当に滅びてしまう。
本日の高裁判決は適正なものであった。
まともな裁判官が担当者に充当された。
裁判を操作できるのは、担当裁判官を選別できるからだ。
無理を重ねれば、有罪判決を示す裁判官を担当者に起用することもできたはずだ。
それをしなかった。
考えられる理由は、

1.有罪判決を出すハードルが高すぎたこと。
2.これ以上無理を重ねると、日本の裁判制度そのものの崩壊を招くと判断されたこと

の二つだ。
まともな裁判官が担当者に起用されたもうひとつの背景は、小沢氏に対する「人物破壊工作」の目的がすでに達成されたことでもあると思われる。
しかし、「小沢の息の根を止めた」と考えているのかも知れない。
そうだとしたら甘すぎる。
小沢一郎氏は不死鳥の如くによみがえる。
そして、三たび政権樹立に成功するだろう。
この政権樹立が「フェニックス革命」である。

続きは本日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」第403号「陸山会事件の事件性を全面否定した東京高裁判決」でご購読下さい。

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2012年11月13日
衆院解散報道は小沢無罪報道つぶしだと明言したサンデー毎日編集長 

 小沢二審無罪判決を報じる記事は検察批判や司法改革についてばかりを書くが問題の本質はそこではない。
 小沢裁判とは政治家、官僚、メディアがグルになって意図的に一人の政治家の
政治生命を奪おうとしたという最も深刻な権力犯罪ではなかったか。
 この事が解明されない限り小沢裁判は終わらない。
 それは関与した者たちは知っているはずだ。 そして国民の多くも感じている。
 口に出さないだけだ。口に出しても婉曲的に表現するのが精一杯だ。
 小沢二審無罪判決が出た翌日のきょう11月13日のTBS「みのもんたの朝ズバ!」で象徴的な場面があった。
  午前6時半ごろだったかと思う。
 杉尾 秀哉TBS解説委員や三屋裕子元バレーボール選手らが野田首相の解散・総選挙宣言に関する報道についておざなりのコメントを繰り返していた時だ。
 サンデー毎日編集長というゲスト解説委員が二人の後で、私は少し違った印象を持っているといってこう言ったのだ。
 衆院解散・総選挙の記事は小沢無罪判決にあわせてぶつけてきたと。
 正直な三屋裕子はこのサンデー毎日編集長のコメントにのけぞり、テレビはすぐ
にコマーシャルを流した・・・

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Il a fait une averse, ensuite une autre, le temps se refroidit de plus en plus...Brrr!!!2012/11/14 18:32:21

ひと雨ごとに寒くなる。夏は冷房器具なしでやり過ごせた我が家も、冬は暖房器具を使わずして過ごせない。さわやかで心地よかった秋の空気とその匂いはあっという間に冬将軍の足音にとって代わられる。昨夜、入浴後に再び椅子に腰かけ、針と糸を手にして縫い物を始めると、テーブル下のホットカーペットに寝そべっていた猫が湯気の香りを嗅ぎつけて私の膝に乗ってくる。そのまま熟睡モード。カーペットよりも私の膝のほうが温いだろうし、私も猫が膝にいてくれたほうが、重いけど暖かい。

『現場に生きる 子ども支援・家族支援――ケースアプローチの実際と活用』
小木曽 宏著
生活書院(2007年)


児童虐待の現実や対策を取材したり、また児童、若者を受け入れる養護施設や援助ホームを訪ねたりといった仕事が、ある。多くはないが、一度経験するとそのインパクトは大きい。これこれこういう施設を訪ねます、虐待問題に詳しいホニャララ先生に話を聞きに行きます、援助ホームで社会復帰に向けて頑張る若者を取材します……というような要請が来るたび、問題の所在まで遠回りせずにたどり着くため類似文献や事例報告を下調べする。取材対象者の著作にあたる。虐待ってなんなのか、その境界線ってあるのか、あるいは境界線を引くことに意味はあるのか。疑問がいくらでも湧いてくるのだが、自分の疑問の解決に割く時間はあまりない。とにかく文献をあさって「理論武装」して、「わかったふり」をするために、にわか仕込みで「日本の児童虐待問題を追いかけてン年の凄腕ルポライター」を装う(笑)。いつまで続くかな、こんなこと。
子どもを育ててみれば、虐待してしまう親の気持ちはわからなくもない、という気がするときもある。子どもという生き物は、まぎれもなく進行形で発展途上中、急成長中である。生き物としてもうとっくに退化段階に入った大人たちみんながみんな、その成長ぶりに目を細め笑みを湛え心からの喜びに歓喜の声を上げるかと問えば、んなもん、そんな大人ばっかりじゃねえべ、って答えが返ってくるだろう。小さくても自分の意志で泣く。わめく。むずがる。悪態をつく。ったくこげな可愛げのねえもん誰がよこしたんだべえ、ここへっ。あ、あたしが産んだんや。みたいな。
しかし、「ここまでやるには相当な覚悟がいるよな、ここまで苛め抜くにはとんでもなく膨らんだ憎悪があるんだろうな」と思わずにいられないさまざまな事例のオンパレードを読むうちに、やはりとうてい理解に至れない複雑な感情が親の心に絡み、もつれていることが想像され、単純に生きてきた私は「虐待する親の気持ちがわからない」ほうへ結論がいってしまう。
だが、子ども支援、家族支援の現場は非常に理論的かつ科学的に、観察および記録、事例研究およびワークショップが重ねられ、たいへん合理的に、多くの子ども、その親、配偶者、祖父母、ひいては家族全員を、救うに至るケースがとても多いのである。ワーカーたちは誰もが「虐待する親の気持ちがわかる」わけではない。むしろ「わからない」から始まる人たちのはずなのだが、学習と実務を経てプロフェッショナルになっていく。小さな子どもの虐待死などがあると、報道はこぞって児童相談所や養護施設、福祉事務所や学校や幼稚園の側を責め立てる論調で記事を書き、読むほうは「またか」との思いを抱くのだがそれは誤りである。事なきを得て、綱渡りながらなんとか親子、家族関係の再生を果たす途上にある子どもと親のほうが圧倒的に多いのである。だが、「家族仲良く」「絆大切に」の大合唱かまびすしいこの国の社会では、うまくいって当たり前。破たんした家族の再生がどんな困難な道のりであろうと、成功事例はニュースにはならない。
本書に収められているのは成功事例ばかりではないし、出版時には成功したかに見えても後年破たんした家族もある。だが、凄まじく荒れていた生活と精神が奇跡のように落ち着きを取り戻す瞬間が見えるとき、読者は安堵を覚える。どん底へ落ちても這い上がる力があれば、引き上げる力を持つ者に出会えば救われ、道は拓かれる。

章題をいくつか並べてみる。結構エキサイティングである。
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家族援助の方法と実際
事例「誘拐されたリカちゃんのママ」――階段のない2世帯住宅のナゾ
ステップファミリー研究――「離婚」「再婚」ケースの支援と施設職員の役割
「被虐待」と「非行」問題の世代間連鎖
「放火」事例から考える
母子の「怒り」と「表出」
問題行動の「言語化過程」
児童相談所と母親支援
「不登校・引きこもり事例」と世代間連鎖
不登校の事例──摂食障害の母親と長期不登校のR子
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事例は、上記のほかにも、夫による妻へのDVとそれが引き起こす子ども虐待、また虐待の事実はないのに子どもが非行に走るケースなど、多岐にわたる。気が萎えるが、家庭ひとつひとつに対し、また家族構成員ひとりひとりに対し、きめ細かく向かい合っている様子も窺い知れる。



『施設でくらす子どもたち』
平湯 真人著
子どもの人権双書編集委員会編
明石書店(2000年)

こちらは、養護施設を舞台に子どもの側の視点で著されたもの。生まれてきたからには必ずあるはずの「家族」という器、あるいは柱、あるいは手すりなしに、独りで生きることを強いられる子どもたち。その生活の場である養護施設がどう機能しているかをレポートする。
この国ではけっこうたやすく誰もが「人権」を口にする。人権教育などと銘うって、思いやりの心大切に、なーんて、授業で教師が話す。人権って、私、思いやりとか優しさとは関係ないもんだと思うんだけど、どう?


『施設で育った子どもたちの語り』
施設で育った子どもたちの語り編集委員会編
明石書店(2012年)

壮絶なバトルの末、養護施設や里親に引き取られて成長した子どもたちの語り。彼らの多くが福祉や援助の現場で働いている。社会復帰のプロセスはさまざまだが、共通してあるのは「自分のようにあんな辛い思いを他の誰にもさせたくない」という気持ちだ。よく、大きくなってくれたね。おばちゃんは、お礼を言うよ。

下記は目次の一部、順不同。
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居場所をなくす不安と闘いながら(小林大)
夢はあきらめるものではなく、つかみ取るもの(瀬川舞佳)
俺の「ろくでもない人生」からの逆転(松本明祐)
面白くかっこええ大人を目指して(あらいちえ)
生きるために必要なことは施設で学んだ(松井啓介)
「いい経験ができた26年間」と言えるようになって(成田雄也)
世界は、愛で満ちていてほしい(鎌田成美)
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愛で満ちていてほしい。
本当にそうだね。
シャガールも言ってたさ。
すべては愛なのです。真の芸術は愛にある。愛を描かずに何を描くというのでしょう。
これも愛。たぶん愛。それも愛。きっと愛。
生きとし生けるものの在るところ、多寡はあれど愛に満ち満ちているはず。
愛を糧に、生きていくわよ。
愛のかけらもないところ、それは、言わずもがなだけど原子炉。
こんちきしょーめ。負けないわっ

Oui, je t'aime!2012/11/15 19:49:11

『沈む日本を愛せますか』
内田 樹、高橋源一郎著 (対談)
(進行:渋谷陽一)
ロッキングオン (2010/12)



眼がね……疲れるのよね、とても。この頃すっごく。PC見ている時間も、本読む時間も以前に比べて別に増えてはいないのに。これも老化現象かなあ。老眼が進んだから、コンタクトやめてメガネに替えたけど、だんだん度が合わなくなってきてるし。年中、皮膚の乾燥がひどいんだけど(これって昔はなかった症状なのよね、ほんの数年よ乾燥肌デビューして)、とうとう眼にも来たかあ? ドライアイって、どの程度でドライっていえるのかな? 来春が思いやられるよ~~(超ど級花粉症)

本書の続編『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか』が出版されてるのに第一弾について今頃言及するのはたいへん遅きに失した感があるのだが、昨日、ノダヌキが「解散してもいい!」なんてゆっちゃったよニュースを読んで、なんだか感慨深いものを感じたのである。

写真に写っている本書は図書館で借りたもの。発売後すぐは例によって予約が殺到していた。しばらくして予約数ゼロになって借りて読んだが、大震災の後だった。だから、けっして読後感は悪くなかったが、ちょっと虚しかった。大震災の後って、なんであれ、俎上に乗っているあれやこれやすべてどうでもいい、東北を何とかしようよって、日本中が思ったよね。

民主党ってなんだったっけ? みたいな、政治スライム状態の今、政権交代直後からを扱っている本書を読み直すとけっこう面白いかも、と思った。で、もう一度借りて読んでみたのだ。



私は「ロック」という分野にとんと疎いので、一部のロック野郎さんたちにとって『ロッキング・オン』や「渋谷陽一」という名詞が 「=神」に等しいということも、最近知ったのである。最近といってもまあこの2年ほど、なんだけど。というのも『SIGHT』という、『ロッキング・オン』別冊という位置づけの雑誌にたびたび愛するウチダが寄稿したり、対談したりしているのを何かで見て『SIGHT』を借りて読んだり、ある号は購入したりするようになった。東日本大震災以降は、やはり反核反原発志向を明快にしているので、手にしても違和感がなかった。ただ、『ロッキング・オン』や「渋谷陽一」って何?誰?の域を長いこと出なかった。というか、どうでもよかった。いまでも、どうでもいい。
本書で渋谷陽一は司会進行役であり、随所で長い発言もしているのだが、ちょっぴりずれていて悲しかったり、ウチダや高橋源一郎に「いや、違うよ」と完全に否定されるならまだいいほうで「そうかもね」「それは置いといてさ」とスルーされたり、あるいは相槌すら打たれた気配なく次の発言に移ってしまったりするのが滑稽であり、ときどき「渋谷くんの言うことはこういうことなんだよね」「それは確かに理解できるよ」なんて二人から助け舟出されたりしているに至っては、ある人々はたぶん「渋谷の発言はすべて削って編集すべきだった」という感想をもつに違いないと思わせるに十分だ。でも、私は滑稽さもご愛嬌だと楽しめた。本書は政治の専門家が真面目に議論をしているわけではない。武道家+小説家+音楽評論家なんて、レツゴー三匹の漫才のほうがましだよ。
その程度だと思って読めば、十分に面白い。

私は対談本は好きではない。編集されてきれいに整えられているに決まっているし、しかもそれは喋ったメンバーの都合よりは出版社(主催者)の都合だったりするからだ。愛するウチダがいくら「この対談本には危ない話も暴論も脱線も全部入ってます」と言っても、そこは必ず「ここから先はアウト」の線引き、校閲なしには進まないのだから、すべてありのままというわけにはいかない。
本書でも、たぶん渋谷はもっともっと頓珍漢な発言を多々していたに違いないけど、それは対談の体裁を向上させるために削除されているはずだ。
対談の臨場感を残すことと、読みやすく整えることは相反する。
ウチダが、ブログに書き連ねたことを再編集して出した本でなく、まさに「本を書く」ために書いた本には、彼の渾身の愛がこもっていて、重く、厚く、深い。何度読んでも、涙が出る。ゆっておくが、文章のうまさに感動するとか、真実を突いてるから得心するとか、そんなことで出る涙ではない。彼の思考の軌跡をたどることで私の思考が奇跡に達するから、とでもいえばいいだろうか。彼の1行1行が、「今」の「私」の思いの筋にぴったり呼応する。このことは、同じ本でも、読む時期、読む時間、読む気持ちによって異なるのだ。

そういうウチダの本を読んだ者(と一般的な書き方をしたが、先のような感想をもつのは私くらいだろう)にとっては、ウチダの対談本は、彼が遊んでいるようにしか見えない。時にそれは不愉快である。だが、長年自称ウチダの弟子をやっていると、彼の遊びの範囲もわかる。彼は極端な表現をし、それを暴言と批判されたりもするが、そんなの全部「シャレ」である。それは、ウチダばかり読んでると、肌でわかるようになる。活字の並び方でわかる。


本書は、高橋源一郎ファンにとってはどう位置づけされるのだろう。私はこの小説家の小説を一度も読んだことがない。以前購読していた新聞にコラムを交代で連載していたことがあったが、その文体も話題の取り上げかたも好きではなかった。新聞をきっかけにその作家の小説を読みたくなる、ということが私にはよくあるのだが、高橋にはそういう欲望を覚えずじまいだった。

対談を素直に読み進んでいくと、舌も滑らかに高橋が話題を提供する横で、時に鋭い指摘とともに持論を展開するウチダ、外れた合いの手を入れて無視される渋谷、という図があまりに明快なものだから、あまり余計なことを考えないで、まさにトークを聞く感じですっすっと読んでしまう。300ページをはるかに超えるが、あっという間に読める。そして、えっと、何の本だっけ? と、内容については思い出せない。たしかあれについて書いてたけど、どこだっけ? ま、いっか。みたいな読後感。
そんな本なので、一気に読んだけど全然眼は疲れない。

対談は2009年から2010年8月に行われたもので、政権与党が民主党になってから、首相が鳩山から菅に代わったあたりまでである。そしてページの多数を小沢一郎について割いている。小沢シンパの私にとって、楽しい内容であった。小沢大嫌いの渋谷が本の最後のほうで「小沢さんってすごいですね」というのを目にすると、ちょっと渋谷が気の毒に感じた。だってこの人、「みんなの党」支持者なんだよね。

S'il n'a pas dit "Non"...2012/11/16 18:18:22




『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸』
ベン・シャーン絵、アーサー・ビナード著
集英社(2006年)


アーサー・ビナードのトークを聴く機会があった。声を聴くのも、ご本人の姿を拝するのも、この時が初めてだった。流暢な日本語に、間合いの取りかたも絶妙で、ひとつひとつのトピックにちゃんとオチをつけるところなど、下手な芸人なんかよりずっと冴えている。その数日前に、「舌鋒鋭い人生幸朗」ばりの(といったら失礼かな。といったらどっちに失礼かな。笑)書家・石川九楊の講演を聴いたところだったが、いやいやどうして、扱いネタは違うし話術ももちろん違うけど、笑いの取りかたも本質の突きかたも説得力もいい勝負。

何年も前、当時購読していた新聞の夕刊コラムにエッセイを連載していたのを、たいへん楽しく読んだ記憶がある。その中に、「旧」の旧字が「舊」だと知って小躍りした経緯を綴った回があって、とりわけ面白く読んだように覚えている。ヘンなガイジン。我が町には有名無名問わずヘンなガイジンがわんさかと棲みついているので、ヘンなガイジンに会っても驚かないけど、日本人よりも上手に日本語を操るガイジンは、じつはそう多くない。

むかし、零細仏系出版社で雑用をしていた頃、出版物に広告をくれるクライアントと電話で話す機会が多かった。広告主はたいてい仏企業の日本支社、当時は日本人スタッフを雇い入れているオフィスは少なくて、といって赴任しているフランス人スタッフが日本語できるかといえば全然そんなことはなかった。こっちが仏語誌だと知っていて、さも当然のようにフランス語で電話をかけてくる。いくら決まり文句での応対でも日本人だとすぐばれる。すると、「マドモアゼル、実はね……」と優しくゆっくり話してくれるケースもあれば、もうええわといわんばかりに「ムッシュ●●に電話くれって伝えて。ガシャン」で終わるケースもある。そのなかで、果敢に日本語でかけてくるハンサムヴォイスのフランス人がいた。「いつもお世話になっております」「弊社の広告出稿の件ですが」「スケジュールの変更はできますか」と、それはもう毎回、見事な日本語だった。ある時、出版物が刷り上がり、広告主への送付準備をしているとハンサムヴォイスから電話がかかってきた。「お送りいただく掲載誌の部数の変更をお願いしたいのですが」……。これ、ここまできれいに日本人だって言えないよ。ほれぼれするわあ。すっかり目と耳をハートにしながら「もちろん承りますよ。何部お送りいたしましょうか」というと、「ありがとうございます。では、イツツブ、お願いします」

……いつつぶ?

いつ、粒? いえいえ冗談よ、五つ部といいたいのだ彼は。
これほど完璧に日本語を操るビジネスマンが、「五部」を「ゴブ」といわずに「イツツブ」というなんて。

可愛いいいいいいいーーーーーーー!!!(笑)

ますます目と耳のハートが大きくなった私だがなんとかそれを引っ込めてつとめてクールに「ハイ、あのー、いま五つとおっしゃったのは、5部、ということですね」「えっ……。はい、そうですね。ああそうでした。この場合はゴブといわないといけませんでした」「では、たしかに5部、お送りいたします」「はい、よろしくお願いいたします」


と、いうようなエピソードは、アーサー・ビナードと何の関係もないのだが、日本語のチョー上手なガイジンが話すのを聴くとき、例のハンサムヴォイス君みたいな可愛い間違いをしてくれないかとそればっかり期待して耳をハートに、じゃなくてダンボにしている自分に気づいて呆れている。


ビナードはすでに数多くの著作を日本で出しており、明快なその反核アティチュードはよく知られていると思うので、今さらその主張については述べない。先日のトークで彼が言っていたのは、絵を鑑賞するとき、その絵の向こう側、深淵を見つめなくてはいけないし、向こう側から何も語ってくるものがなければ、鑑賞者にとってその絵はただそれだけのものでしかなく、何かを語ってくるならその絵にはそうした力があるということであり、また語ってくるものを受けとめる器を観る側が持っているとき、その鑑賞者にとってその絵は生涯唯一無二の存在になりうるほど大きな意味をもつ、ということである。


ベン・シャーンはビナードの父親がたいへん愛した画家だったそうだ。家にあったベン・シャーンの画集は、アーサー少年の心を捉えて離さず、力強い筆致の奥から湧き上がってくるかのようなパワーめいたものの虜になった。この第五福竜丸の連作を日本で絵本にしなくてはならない、という思いを、実現させたのが本書である。
私が所有するたった1冊のビナードの本。

反核反原発にかんする彼のアプローチは、やはりアメリカ人ならではの視点が効いているといってよく、そんなのちょっと冷静に考えればあったりまえじゃないの、というようなことすら気づいてこなかった日本人のお気楽ぶり、ノー天気ぶりを思い知らされる。

「福島の事故は、京都のせいだともいえるんですよ」

風が吹けば桶屋が儲かる、ふうに言うならそういうことだ。そんな喩えかたは不謹慎かもしれないが、第二次大戦で当初の実験計画に変更がなければ、米軍は間違いなく原爆を京都に落としていた。もし予定どおり京都に落とされていたら、戦後の日本の国土の在りようはもっと違ったものになっていただろう。

「(山に囲まれた)京都だと、爆発後の残留放射能の影響が大きすぎる、後年、ほぼ永久に土地は放射能に汚染されたままになる。そうすると日本人の反原爆、反核意識がとてつもなく高まるので、のちのち扱いにくいではないか」
「日本には毎年9月頃台風が上陸するからそれによって残留物質が海へ流されてしまうような土地が実験には適している」
「放射能が残らなければ、爆撃されたという記憶もすぐに風化する」
「……と考えたと思うんですよ。京都が美しい街だから、とかそんな子どもみたいなこと当時の米軍部が言うわけないでしょ」

ビナードはあくまで「僕の推測」としたけれど、おびただしい文献や証言にあたって導いた結論だから、的を外してはいないと思う。なるほどそのほうが自然だと、私も思う。京都は台風の被害がほとんどないから、まさに残留放射能は山と川と大地に留まり地下水に深くしみこんでいき、二度と人の住めない死の町となっただろう。その影響は、隣の滋賀、奈良、大阪、兵庫へも拡大しただろう。かつてロイヤルファミリーの本拠であった古都を爆撃し壊滅させそのうえ後世にわたって放射能で苦しめ続けることは、米国人の想像以上に日本人の中に対米怨恨を残すのではないか。せっかく戦争の後占領してもそれじゃあやりにくいじゃないか。
理に適っている。

だから海に面した土地をウランとプルトニウムの実験場にした。
そうして計画どおり、終戦後すぐの9月に上陸した台風が、残留放射能をあらかた洗い流した。まじめに放射線量などを計測したのは台風後である。そしてその数値なら「大したことないじゃん、ね?」と日米で確認し合い、海沿いにさえ建てとけば、何かあっても毒は海へ流れ出るからオッケーよ、というわけで日本の場合、海岸線に原発がボコボコ建てられて、計画どおり?に甚大な地震と津波によって壊れた福島第一原発から噴き出た放射能は、今太平洋中を航海している。内陸側の汚染に関しては皆さんご存じのとおりである。

あの時、ピカドンが来たのが予定どおり京都だったら、福島にも、大飯にも、伊方にも、原発は建っていなかった。……かもしれない。
で、私もこんなブログなんざ、書いてない。
本書については5年前に松岡正剛が詳しく述べている。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1207.html

Quand elle peint les poissons, elle devient un poisson et nage avec les autres dans l'eau...2012/11/17 23:48:27




『うさぎのまごころ ジャータカ物語より』
武鹿悦子 文  丸木俊 絵
世界文化社(1980年)


うさぎは客をもてなすために自分の肉を供することに決めた。
あかあかと燃える火に身を投じようとしたその瞬間……

月にうさぎの姿が見えるのは、そうしたうさぎの真心を、地上の生き物たちが忘れないよう、肝に銘じさせるためなんだって。

……というお話にいたく感動したからではなく、この絵本の美しすぎる挿画を描いたのが、あの丸木俊だから、私はこの本を持っているのである。

ビナードは原爆の話をするためにトークショーを開いたのではなくて、画家丸木俊の生誕100年を記念した丸木位里、俊、スマ三人展の機会に彼らの絵の解説をするために京都へ来たのだった。

丸木位里・俊夫妻といえば『原爆の図』。その印象が強すぎて、夫妻の画業の実際はあまり知られていないと思う。私だって、全然知らないといっていい。ただ、今回三人展を開催したギャラリーは、ほぼ毎年のように丸木展を開催しており、縁の人の講演やライヴも併せて企画し、丸木家の画業の紹介に努めている。

左の水墨画が丸木位里、真ん中のひまわりが丸木スマ。

アーサー・ビナードも丸木夫妻と接点を持った人だ。そのゆかりを大切にし、ずっと二人の仕事を追ってきた彼は、丸木位里の母親・スマの作品に魅了される。

私自身、丸木位里のお母ちゃんまでが絵を描く人だとは知らなかったので、その豊かな表現力と色彩のセンスに、今回は唸りましたねえ。
上の写真はギャラリーの室内、ガラケーで撮ったので美しくないが、青い葉っぱのヒマワリは必見の一作。

「スマさんは、描く対象に自分がなりきってしまうんです。魚を描く時は魚になる。猫を描く時は猫に、カニを描く時はカニに。なりきって、自分も同じその生物になって、観察する」

そんなわけで、今回はスマさんの作品をけっこう見ることができて、収穫だった。埼玉県の丸木美術館(左サイドバーにリンク張ってます)ヘ行けってことかな?

丸木位里の水墨画と、丸木俊のカラフルな水彩や版画は相容れないようで、そのコンビネーションは実は見事である。合作の代表作『原爆の図』の「夜」、私は今回初めて見たが表装されてて、チョイおろろいた。掛軸になってんのね※、さすが!(いや、そこは賞賛するところではないと思うのだが)。

※三十二年にわたって制作された『原爆の図』は全部で第15部まであるけれども、この「夜」は未完作品である(らしい……。作品を観るとこれのどこがどう未完なのだと思うけど)ゆえに、他のシリーズのように四曲一双の屏風仕立てにはなっていないのだろうか。軸装だと、収納時はまるめているのだろうか。などなど余計なことを考えてしまった。


でも私は、モスクワの香りもかぐわしい「可愛い」絵の数々が好きである。
2点とも丸木俊。



Tu le connais?2012/11/19 10:47:48

無罪確定やって。ったく、なんという時間と労力の無駄遣い。

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小沢代表の無罪確定=指定弁護士が上告放棄―陸山会事件
時事通信 11月19日(月)11時28分配信

 資金管理団体「陸山会」をめぐる政治資金規正法違反事件で、小沢一郎「国民の生活が第一」代表(70)の一審無罪を支持した二審東京高裁判決に対し、検察官役の指定弁護士は19日、最高裁への上告を断念し、上訴権を放棄した。無罪が確定した。小沢代表は衆院選を前に、約1年10カ月ぶりに刑事被告人の立場から解放されることになった。
 元秘書の最初の逮捕から約3年8カ月を経て、陸山会をめぐる事件は、小沢代表本人については終結した。検察審査会の起訴議決に基づく強制起訴事件の判決確定は初めて。 

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ほんまにねえ、こっちから一生懸命探しに行かないと、小沢一郎が今何やってるかがわからないんよねえ。

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平成24年10月22日

「民意の実現を図る国民連合」共同公約(案)

国民の生活が第一 社会民主党 新党きづな
新党大地・真民主 減税日本 新党日本 改革無所属

総選挙後に樹立する新政権がどのような基本政策を実現するか。それを国民と約束するのが「マニフェスト」のはずである。しかし今や、マニフェストは「守らない約束」「守らなくてよい約束」の代名詞になってしまった観がある。国民の政治不信は、結局は主権者である国民を不幸にする。われわれ「民意の実現を図る国民連合」に参加する政党は、ここに改めて、基本政策について「国民との契約は守る。言ったことは実行する。言わなかったことはやらない」という信頼される政治の原点を確認し、以下を共同公約とする。

1. まだ間に合う、消費税増税法の廃止
次期総選挙に勝利し、2014年4月1日から8%、更に15年10月1日から10%へ税率を引き上げる消費税増税法を廃止するための『消費税増税法廃止法案』を提出し、成立させる。年金制度改革、子育て支援をはじめとする社会保障制度の改革については、消費税増税を前提としない形で再構築する。

2. 10年後の3月11日までに原発をゼロにする
衆議院の野党5会派で9月7日に提出した『脱原発基本法案』の早期成立によって、2022年3月11日までに現実的、具体的方法で「脱原発」、すなわち原子力発電を利用せずに電力を安定供給する体制を確立する。

3. TPP交渉参加に反対する
環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)は単なる自由貿易協定でなく、一次産業を破壊し、日本の経済・社会の仕組みや生活・文化にまで及ぶ大きな変化をもたらすことから、TPP交渉参加に反対する。同時に、経済連携(FTA、EPA)については、積極的に推進し日本経済の成長を図る。

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オリジナルのPDFはここにあります。
http://www.yamaokakenji.gr.jp/blog/archives/image/%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%85%AC%E7%B4%84.pdf

国民の生活が第一 の代表代行さんの、上記案に言及した日のブログ
http://www.yamaokakenji.gr.jp/blog/archives/2012/10/post_158.html

上記について、報道した唯一の新聞
http://www.agrinews.co.jp/modules/pico/index.php?content_id=17353

何で報道しないんだよ! と怒っている人たち
http://blog.livedoor.jp/mark22003/archives/51786131.html
http://bator.blog14.fc2.com/blog-entry-1387.html
http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-1216.html
http://sun.ap.teacup.com/souun/8988.html
http://blogs.yahoo.co.jp/permer4_4/30556742.html
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/453084b869c237a5234ff63062035063

極右妖怪(前都知事)とただのチンピラ(現大阪市長)が合流したって新聞に書いてあったね。気持ち悪う~~~
ほんで、「減税日本」と組むのはやめときます、だって。そら、そやんな、だって「減税日本」って、この共同公約案に名前連ねてるやん(笑)。

それにしても……前から思ってたんやけど「維新の会」だなんて、「維新」という名詞をチンピラ集団の団体名称に使うなんて、明治維新という日本の歴史上非常に重要な大きな史実に対する冒涜やん。ラジオから、アナウンサーがこの名称を口にするのが聞こえるたびムカムカしてたんやけど、極右妖怪にいたっては「太陽の党」やって。ふざけるな妖怪! これも「太陽の塔」に対する冒涜以外のなにものでもない。
と思ってたら、合流やて。
笑わしてくれはりますな。

東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2012111902000110.html
毎日新聞
http://mainichi.jp/area/news/20121118ddn001010005000c.html

A lire!2012/11/21 17:09:24

『原発を止める55の方法』
別冊宝島編集部編
宝島社(2012年)


中学生の時に使っていた英語の教科書とたいして変わらない厚さだし、書き手ひとりあたり2~4ページなのでひとり分の意見を読むのに数分で済むし、毎日ひとり分ずつ読むペースでも55日、ちょい読む時間を長めに確保して2~3人ずつ読めば3週間以内で読めてしまう、その程度のヴォリュームなので、しかも630円だし、しゃっと買ってしゃしゃっと読んでしまおう。

私は、左サイドバーにリンクを張らしてもらってるブログ「がんばれ福島原発」さんで本書を知り、そこのブログ主さんも書き手のひとりだと知って速攻で買いに走った。で、すぐ読んじゃった。もちろん、そのブログ主さんのページをまず最初に。

宝島社の気持ちもわかるんだけど、巻頭に菅直人をもってきたのは失敗だったんじゃないかなとなんとなく思うんだがどうだ? 私は菅ちゃん嫌いじゃないけど、やっぱ首相として上手に采配ふるったとはいえないし、結果として彼の在任期間中の仕事、そして退任後の発言といったものはなにひとつ社会にも政治にも行政にも影響を与えていないという事実は悲しすぎるだろ?

菅ちゃん嫌いじゃないけど全然好きでもない。私は現状の太陽光発電には賛成したくない。風車による風力発電にも反対だ。だからこれらを積極的に推進するという立場はとらないし、そういう主張の人とは距離を置く。置くが、まずは原発をやめなきゃならないという点で意見の一致をみるなら、今は手を携えなくてはいかんだろうと思っている。

1. 現在稼働中の原子力発電所を停止させる。
2. 停止している原子力発電所を速やかに廃炉にする。
3. 新規建設中の原子力発電所の工事を中止する。
4. 建設許可が出ている原子力発電所は着工しない。
5. 核廃棄物の行き場所を決める。

こんだけ成し遂げるのに、いったい何年、何世代の時間を費やさねばならないだろうか。気が遠くなる。遠くなるけど、成し遂げなければ日本の未来も人類の未来も地球の未来もない。仮に無事成し遂げたとして、それから新エネルギー政策を議論していたのではもちろん遅いから、今から準備しとくに越したことはない。ないが、なにがなんでも太陽光、なにをさておいても風力、では行き詰るのは目に見えてるやん。でもきっときっと、この国の賢い賢い科学者たちが新しいエネルギーについて名案をひねり出してくれるに違いないと期待している。

ところで、「がんばれ福島原発」のブログ主さんは、福島原発で仕事をされていた元現場主任さんである。原発の配管の専門家である。そのかたも本書には、専門的見地から寄稿されている。
表紙上部に名前が連ねられているのはすっかりおなじみの著名人たちだ。だが、本書に収められているのは著名人による夢と希望論ばかりではない。地に足着いた真摯な意見も多いので、ぜひ買って読んでほしい。さまざまな角度から論じなければならないということを、理屈だけでなくしっかりと知るということだけでも、この本を手に取る値打ちはある。


ところでところで、今日はこんな記事を見つけた。

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http://news-log.jp/archives/5247

オーストリアはなぜ原発の閉鎖ができたのか?(大貫 康雄)
2012年11月21日 大貫 康雄


運転直前閉鎖した原発で太陽光発電

オーストリアが70年代に建設した「ツヴェンテンドルフ原発」は、巨額の経費をかけた末に、完成直前に国民投票で閉鎖された。
以来、この「元原発」はオーストリアの非原発・脱原発政策の象徴となり、各国から見学者が多く訪れる施設となっている。その閉鎖の33年後、電力会社と地元の人たちとの共同事業で元原発が、新たに太陽光発電基地としても動き出した。
オーストリアでも70年代は多くの人が原発の安全性に疑問を持たず、与党、最大野党の双方とも原発推進だった。
ツヴェンテンドルフ原発の閉鎖は30年以上も前に決断されたので、今は経緯を知る人も少ないが、当時としては画期的な「事件」だった。
オーストリアは今、世界でもきっての反原発、再生可能エネルギー推進国家になっている。この大転換の歴史を改めて振り返ってみよう。

地元市民が太陽光発電の出資者となる

1)
「ツヴェンテンドルフ元原発が太陽光発電基地へ」というニュースは、NHKなども報じたので知る人も多いだろう。元原発を所有する電力会社は地元の人たちに出資を募り、地元の人は太陽光パネル1枚当たり日本円にして3万円相当を支払って13年間の所有権を得る。
電力会社は出資者に毎年パネルの使用料を支払い、13年後には出資者はさらに1枚当たり9000円相当を支払う。パネル設置など工事費は電力会社が負担する、というもの。
市民参加型の再生可能エネルギー発電はヨーロッパで増えており、ツヴェンテンドルフも、この方式を採用したとみられる。低金利時代には有利な投資でもある。
ツヴェンテンドルフは人口4000人未満と聞くが、参加した人たちは多かったようだ。
ツヴェンテンドルフ元原発はウィーンから西北に30数km。現在、世界からの見学者が多く、研修施設などに利用されている。これからは元原発の太陽光発電基地としても訪れる人が増えるだろう。


原発推進が当たり前だった50~60年代

2)
ツヴェンテンドルフ「元原発」は、建設費に1000億円相当の経費をかけている。
原発運営の国営企業も作られている。それが回収されることなく、つまり一度も放射能に汚染されることなく、閉鎖された経緯はひとつの奇跡と言っても良いほどだ。
1950年~60年代は、アイゼンハワー米大統領の原子力の平和利用宣言(53年12月8日)など、大国によって原子力発電の安全神話が作られた時期。オーストリアも例外なく大半の国民が原発の安全性に疑問を持たない時代だった(54年3月1日には、ビキニでの水爆実験で第五福竜丸などが被曝し、無線長の福山愛吉さんが亡くなる悲劇が起きた。この悲劇から日本では原水禁運動が始まるきっかけとなるが、国際的には矮小化されている)。
原発計画は60年代末から検討され、議会の全会一致の決議で6基建設に踏み出す。ツヴェンテンドルフ原発はオーストリア最初の原発として72年から建設が始まる。
しかしその後、ドイツにある同じ沸騰水型の原発2基で故障がおきて、運転停止したのを契機に原発技術への疑問が起きる。
またドナウ川が氾濫した際、格納容器まで水につかる危険性が指摘される。さらに原発敷地の地下に断層があることも判り、ツヴェンテンドルフ原発計画に対し、知識人や地元の人たちの懸念が高まっていく。
アルプス山中の地下深くに、原発の使用済み核燃料、核(放射性)廃棄物を貯蔵する施設を作る計画が知られると、予定地とされた近隣の村々から強い反対論が起き、この計画も行き詰る。
一時は核廃棄物をイランが買い取るとの話も出たが、イラン革命で当時のパーレビー国王が追放されて立ち消えになる。
原発の安全性や核廃棄物の安全貯蔵に対する反対論が無視できなくなり、74年第2基の原発建設が延期になる。


反原発に傾いていった70年代

3)
こうした原発反対の声の高まりに危機感を抱いた政府は76年、「原発は安全」との情報キャンペーンを始める。
ところが、新聞各紙が政府の一方的なキャンペーンに逆に初めて原発批判の記事を載せ始めた(この視点、姿勢が日本のメディアでは考えられない)
これで一般の人たちが原発の実態をよく知るきっかけになり、ツヴェンテンドルフ原発の建設が進むにつれ「原発運転開始」への懸念が強まっていく。
そして、人々は初めて以下のような原発の負の側面を知ることになる。

*放射能の人体への深刻な影響
*原発の技術は未完成のもの
*核廃棄物の安全管理・貯蔵の困難さ
*「核の平和利用」と軍需産業の関係
*事故の際、的確な住民避難が不可能なこと


77年4月、ザルツブルクで「核のない未来を目指す国際会議」が開かれ、日本の原水禁運動の関係者が広島・長崎・ビキニの被曝の実相を語り、オーストリアの人たちに放射能被害の深刻さを知らせたことも、反核の世論の盛り上げに貢献した、と言われている。
77年秋には、初めて規模の大きいツヴェンテンドルフ反対デモが行われる(オーストリアの反原発デモは終始、非暴力に徹していた)。
この最中、政府は原発推進色の濃い「原発報告」を議会に提出。しかし国民は逆に反発。

*多くの問題点を無視し、国民を騙すもの。裏付けとなる研究・調査も不十分などの反論が続出
原発推進の野党保守党までもが、ツヴェンテンドルフに限っては安全が十分とは言えないと言い出す。
こうした事態に78年6月、クライスキー首相は「11月5日に国民投票を実施」すると発表する一方で、原発推進キャンペーンに多額の費用をかけていく。原子力関連業界もキャンペーンを強化する。


国民投票により原発の閉鎖が決まる

4)
さて、この政府と原子力業界の攻勢に対し、反原発の活動家たちは金もなく、まだ少数派だったが、唯一行動力があり、智恵があり、熱意があった。そのため効果的な活動ができたようだった。

「原発に反対の母の会」、「反原発教師の会」、物理学者の会、生物学者の会、芸術家の会、宗教者の会など多様な集団が声を上げ、各地にこれらの団体の活動の調整センターが作られる。
与党・社会民主党支持者は困った挙句、「首相は支持するがツヴェンテンドルフは反対」のスローガンをひねり上げ、各地でツヴェンテンドルフ原発反対の活動を展開する。
国民投票の直前、ツヴェンテンドルフ原発は98%完成していた。アメリカから極秘裏に核燃料が運び込まれたとの緊迫した情報がもたらされる。

11月5日当日、有権者の3分の2が国民投票に足を運ぶ。

結果は大方の予想を覆し、ツヴェンテンドルフ反対が31.6%、賛成が31.09%、棄権35.9%、無効1.5%と出た。棄権を除く有効投票の内、50.5%が反対、49.5%が賛成)。僅か
3万票足らずでツヴェンテンドルフ原発の閉鎖が決まった。
際立ったのは、若者たち、特に若い女性たちが反原発だったこと。またツヴェンテンドルフの建設現場や、原発運営に作られた国営企業で働く人が多い地元や周辺の町村の人たちの間でも原発反対が多かったことだった。

国民投票の前、クライスキー首相が「原発が否定されたら辞任」を口にしたのを受けて、本来原発推進の最大野党の保守党支持者の一部が首相を更迭する機会と見て「原発反対」票を投じたことも逆転劇を助けた面がある(しかしクライスキー首相は辞任しなかった)。
いずれにせよ国民の審判は下った。この国民投票の結果を受けて、政府は「原発で発電された電力の使用を禁止する法案」(以後、反原発法と略)をオーストリア議会に提出。国民投票から1か月余り、議会は12月15日、全会一致で法律を可決する。
原発運営に作られた国営会社は即刻解体。ソ連のウラン企業や、アメリカ・エネルギー省との契約は解除。フランス・コジェマ社との核燃料再処理契約も解除。コジェマ社の株式は外国企業に売却。
(こういう果断な決断こそ「決められる政治」というべきだろう。この迅速な決断と処理は、今の日本では到底考えられない。日本ならば恐らく、「原発が98%完成したのに……」などと「原子力村」がまことしやかな理由を挙げ、経費回収まで原発運転、などと言いかねないだろう。ましてアメリカ・エネルギー省との契約解除など対米従属の政府では考えられないだろう)


EU全域の脱原発を訴えるオーストリア首相

5)
ただ、この法律には議会の3分の2の賛成で法律を廃棄できる、との条項が付けられる。
オーストリアが最初の原発を完成直前に閉鎖を決定して3か月後、79年3月28日にスリーマイル島原発事故が起きる。メルトダウンまで起きた深刻な事故だった。
しかしツヴェンテンドルフ原子力業界や原発推進派は、この3分の2条項を利用して「反原発法」を廃止すべく様々な活動を展開し、反原発活動家には気の抜けない年月が続く。
オーストリアの反原発運動を担った人の中からは、環境活動家フレダ・マイスナー=ブラウ氏(女性)や教師マチルダ・ハラ氏(女性)のように反原発・反核活動が評価されて「核の無い未来」賞(Nuclear Free Future Award)の受賞者を出している。
マイスナー・ブラウ氏はオーストリア緑の党の創設者でもあり、95年ウィーンでの第1回国際人権法廷を主宰するなどして、オーストリアでの同性愛者差別を禁止する法の制定にも貢献している。
今やオーストリアの反原発は国民的課題となった感がある。単に再生可能エネルギー利用推進の政策だけではない。非原発・脱原発は国民全体の安全にも関わる現実の問題があるからだ。
隣国チェコやスロヴァキアなどで原発建設が計画され、万が一事故となると自国に深刻な影響が及ぶのは必至だからだ。
東京電力福島第一原発事故から1年目の今年3月11日、ヴェルナー・ファイマン首相は「今年中に少なくともEU加盟国の6か国以上で、EU全域を脱原発にするべく署名活動を始める」と発表している。EUのリスボン条約では少なくとも百万以上の署名が集まれば、EU委員会は何らかの立法手続きをして各国に諮ることになる。

第三者が見るところ、現状でEU全域の脱原発可は凡そ不可能だろう。何といっても各国それぞれの国内事情、エネルギー政策があるし、他国からみれば「原発問題では常軌を逸したオーストリア」と映る。
しかし、今やEU第一の国ドイツが脱原発を明確にし、イタリアも国民投票で二度と原発を作らなくなった。周辺各国も積極的な原発推進者は減少傾向にある。ヨーロッパ議会にも反原発の議員が増えている。予想外の展開もあり得る。
何と言っても33年前、不可能を可能にした国民であり、放射能汚染無き環境を少しでも広げたい、その可能性を追求する姿勢は多くの示唆を与える。

Mon cher Monsieur...!2012/11/22 20:51:59




『悪戯の愉しみ』
アルフォンス・アレー著 山田稔訳
福武文庫(1987年)


アンドレ・ブルトンはアルフォンス・アレーの作風を「エスプリのテロリズム」と形容したそうだ。世が世なら、いや、というより日本だったら不謹慎だとかなんとかいってマスゴミ/バカメディアが言葉狩りに余念のないところだろうが、フランスではこれ、最大級の賛辞である。
帯には「笑いのあとに戦慄が走る恐怖のブラック・コント集」とある。さぞかしオソロシオモシロイ短編満載なんだろうと読み進んだが、うー……ごめんなさい。怖くないし、笑えないよ、山田先生(笑)。アレーは間違いなく、19世紀末には文学界における風刺小説の寵児だったのだろう。思うに、洋の東西を問わず、19世紀の終わりって、人々は文化的に寛容だった。どの国にも人権なんて言葉はなかっただろうけど、お上の締めつけはきつかったかもしれないけど、庶民はずっとおおらかに生きて、富める者も病める者も身の丈を知っていて、それぞれがそれなりの居場所を保持していたのだ。ゆがんだ名ばかりの「平等」など、存在しなかった。



階級や身分は人々に分別をもたせ、ふさわしい立居振舞を覚えさせた。
私は階級社会なんてまっぴらごめんだし、身分制度なんかあってはならないと思っているが、「自由」や「民主主義」や「男女平等」や「人権擁護」なんつう重厚な熟語がいまだかつてないほど空虚でスカスカな今の日本なんかより、歓びも悲しみも罵りも好きなように表現できたんじゃないかと想像する。
この『悪戯の愉しみ』が今読んでもちっとも面白くないのは、山田稔の翻訳がアレーとその時代に忠実すぎることも理由のひとつではないかと思う。20世紀初頭なら、人々は大いに笑ったのではないか。不道徳だと物議をかもしただろうか。いずれにしろ社会にまんべんなく話題になったと思う。山田先生がこれを訳してまず発表したのは1960年代のことだったそうだ。その頃日本の文学界はフランス文学の影響を多大に受け始めていただろうから、いわゆる「仏文系」の人々には、アレーはおおいに受けたであろう。ブルトンのことばを借りるまでもなく、フランス語でいう「エスプリ」ってのは、こういうもんを指すからで、こういうもんがわからない奴は「いかにもフランス的『エスプリ』」なんて一生わからんと決めつけられたに決まってるから、仏文系の人々はこういうもんこそ面白いという顔をしていたに決まっている。ややこしい書きかたをしたが、つまり一般受けはしなかったでしょ、といいたいのである。

いまアレーを世に出すなら、現代的な言い回しを取り入れ若干脚色する必要があるだろう。それは「エスプリのテロリズム」への冒涜になるだろうか。いや、ちっとも「悪戯」じゃないし「愉し」くもない退屈な短編集、で時とともに葬り去られるよりは、世紀末色は薄れても時代が喜ぶ表現方法で著したほうが、アレーとフランス文学の価値を再提示できると思うのだが。
ま、別に再提示しなくてもいいんだろうけど。
いつか書いたが、山田稔の本はどれも涙するほどに文章が美しい。美文、名文、どう形容しても山田稔の文章の実際にはかなわない。本書も、日本語が退廃し、その懐、歩幅や遊びしろを急速に縮めている今のような時代でなければ、私たちはきっと鷹揚に愉しめたであろう。ブラックユーモアなのに誠実さにあふれているなんて、昨今ちょっとお目にかかれない。文章の書きかたを学ぶにはちょうどよい手本かもしれない。


山田先生に会いたいな。
街路樹が色づく季節になると、無性に想いが募るのである。

Vous aimez TCHAIKOVSKY?2012/11/26 19:51:25

昨日、わけあって一日中眼鏡をかけていた。ずっと凝視していなくてはいけなかったからである。これはほんとうに、目にキツイ。しばらく治まっていた瞼の痙攣が、昨日の夕方あたりから再発して、以来、四六時中ヒクヒクしている。やだあ、もう。

北野天満宮の大銀杏。

立派だねえ。美しいねえ。


もちろん、紅葉もあるのよ。



昨日は25日、「天神さん」の日だった。北野天満宮はもんのすごい人だった。
でも、天神さんの日だから出かけたわけではない。
また、私が眼鏡で凝視していたのは美しく色づいたもみじではない。


天満宮の近くにはとある文化ホールがあって、そこで地元団体主催のバレエコンクールが行われていたのだ。
夏に入賞したさなぎは意気揚々と、去年やおとどしと違って入賞狙いで挑んだ。これまでは予選通過で御の字だったけど、いったん入賞したからにはやはりさらに上を目指さねば、ということだったんだが――例年どおり危なげなく決戦に進んだけれど、またも玉砕……。


終了後は近場のフレンチで二人で打ち上げしたのだが、さなぎを慰めながら私のほうがヤケ酒あおる始末(笑。普段飲まない強いビールをがばがば飲んじゃった)。朝からずっと会場内で、ほかの子の踊りを見つめ続けていたせいで、目はしょぼしょぼヒクヒク、ビールに酔いが回ってこめかみがズキズキ。そう、眼鏡をかけて凝視していたのは舞台である。ほかの子の踊りなんて退屈極まりなく、途中で睡魔に襲われる。しかし、とびきり上手な子の踊りには覚醒させられる。目が釘づけになるというのはこのことだな。おおおすんばらしい! しかし、こんな踊りをされたのではとても一般人には勝ち目がない。いったい何を食べてどんな生活をしていたらあの動きができるのか。親は活路が見いだせず悶々とするしかなく、娘が喜んだり落ち込んだりするのを傍観するしかないのである。


勝負は時の運。いや、そもそも舞台芸術は勝負ではないのだから、上位陣と自分との、技術や表現力、芸術性の差をよく自覚して、何が評価されて、どこがよくなかったかをよく反省すべしというところだろう。
このコンクールでは、審査員のアドヴァイスコメントシートがもらえる。痛いところを突いてくるジャッジもいて、目から鱗だったりする。普段、同じ顔ぶれから指導されている身にとって、それは非常にありがたいことだ。


さっそくその指摘を踊りに反映し、2月に控えている海外遠征での舞台に生かしたいと、素早い立ち直りでけなげに笑って見せるさなぎだったが。


今日、仲介事務局から連絡があって「演目の変更」を要請してきた。
海外のイベント主催者がそういう方針を打ち出したというのである。
「えええええええーーーーーやばーーーーーー」(byさなぎ)
12月と1月のレッスンだけで新しい演目を仕上げなくてはいけない。
「わあああああーーーーんんんっっ冬休み登校日も宿題もテストもあんのにーーーー」(byさなぎ)


天はなぜ我が娘にこのように苦難を強いられるのか(笑)。
あたし、なんかアンタに悪いことしたかい?と、雨の止まない空をヒクつく目で見つめて、毒づいた午後であった。