BONNE ANNEE 2013!!! ― 2013/01/04 11:05:55

佳いお正月を過ごされましたか。
私も、なんとか無事に年を越せました。
歳明けて、
ひと息もふた息もついてから、
のろのろと賀状を認(したた)め始め、
暮れる前に片づかなかったものどもを、
歳明けて、あらためて眺めて嘆息し、
引き続き片づけておりまする。
12月のドタバタや、
新年早々のショッキングイベント(笑)については
またゆっくりゆるゆるとご報告いたします。
本年のみなさまのご多幸をお祈りいたします。
C'est quelque chose pour la vie... ― 2013/01/10 18:38:51

『辰巳芳子 スープの手ほどき 和の部』
辰巳芳子著
文藝春秋(2011年1月)
料理の本である。でも、基本タテ組み、料理の手順を示す写真の横に時折ヨコ組みで説明が入る。書体は基本、明朝体。細明朝、太明朝、見出し明朝とヴァリエーションをフル活用しているが、ゴシック系のサンセリフ書体は皆無。アルファベットのあしらいも一切ない。アラビア数字は随所に使用されているけれど……材料の分量を表記する際くらいである。なんとも潔い、日本語の本。

料理本の多くはヨコ組み、左開きの体裁だ。人数分や、材料の分量、また1、2、3……と作りかたを箇条書きにする場合、ヨコ組みのほうが誌面が落ち着く。昨今の、レシピサイトや料理ブログ大流行りとあいまって、まるでウエブサイトをそのままもってきたような、ページを繰ると著者のブログをスクロールしているような、そんなつくりの料理本もはびこる。
そして多くの場合、料理本は写真にモノをいわせる。器、クロスなどとともに美しくあるいはセンスよくスタイリングされた料理写真満載の本は、レシピの記載が多少不親切だったり、料理じたいに新味なくありきたりであったりしても、よく売れる。
でも辰巳さんの本は、記憶する限り、すべてタテ組みだ。
タテ組みであっても、レシピが読みづらいとか、手順がわかりにくいといったことはまったくない。それは、辰巳さんの文章が必要十分であるからだ。余計なことを言わないけれど、辰巳さんの想像を超えて現代人は料理を、食を知らないので、そうした初心者の心をわしづかみにする「ツボ」を押さえるひと言がさりげなく添えられている。

「レシピ」なんて外来語は使わない。レシピってどこからきていつの間に料理の作りかたを指すようになったのか。語源の英単語はrecipe。調理法のほか、医療用語の処方箋の意味もある。日本では「処方箋」を指す外来語はドイツ語のRezeptを「レセプト」と読んで採用しているけれど。ちなみに仏語では調理法はrecette。recipeはラテン語由来のようだけど仏語にはない。いちばん綴りの近い語「recipient」は「容器」のことだ。
話が逸れたが、つまり今さら和訳不可能な用語をカタカナ表記する以外には(たとえば「スープ」ね)、氾濫し蔓延るけったいなカタカナ語は用いないのである。したがって、調理上注意を促す必要のあるプロセスについても、「ここがポイント!」なんて表現はしないのである。
なんと「かんどころ」である。ブラヴォ!
いつか辰巳さんのエッセイ本について書いたことがあるけど、とにかく現代人の食生活に危機感を覚え、日本人の食文化の衰退を憤っておられる。時の流れは残酷なほど人間に変化を強いる。人間は変化に抗ったり応じたり、一緒に変わってみたり頑固に変わらなかったりして、生き延びている。そのことを辰巳さんは否定しない。ただ、間違ってはいけないというのだ。
《文化のなかには手放してよいものと、
頼らなければならないものがある。
伝えなくてもよいものと、
伝えなければならないものがある。》(32ページ)

「わきまえ事」である。
人が人であるために、なによりもわきまえておかねばならないことがある。
ずっと昔、当時の男(仏産)に「人間は自然に生かされている」と言おうとしたことがある。それを、このままの日本語ニュアンスでどうしても言えなくて、文法的には「自然のおかげで生きることができている」というような言いかたになったと思う。するとその仏産の男は言下に否定した。「それは違うな。人間は自然を制御しなきゃな」。もう記憶が曖昧だが、その時彼はcontrolerという動詞を「支配する」「制圧する」という意味でなく、「管理監督する」「操る」「うまく利用する」という意味で用いたんだなと、その時の私はとっさに解釈したんだが、のちに、そいつとの月日に幕を引くと同時に、さまざまな発言や文献を見聞きして、やはりあの時彼は「人間が自然を支配する」と言ったのかもしれないと思った。私たちは、土にも石にも水にも樹木にも稲穂にも神が宿ると思っているが、奴らの神はイエス・キリストただ一人。地面とか海とか山とかは、人間が住みつき切り拓き、知恵を絞って有効に使い、支配下に置くものだと考えているのである。
フレンチもイタリアンもおいしいけど、その料理の根本にある姿勢に、「いのちをいただく」といった精神は全然ないように思う。「食べてやる」という気持ちのほうが強いと感じる。
そのことが悪いというつもりはない。人の心身は風土でつくられる。日本人には日本の風土において形成された心身が、西洋人には西洋のそれがある。それでよいと思う。

辰巳さんのスープづくりにおける信念は、「いのちをはぐくむ」ことだ。動植物の命をいただき、人の生命に活力を吹き込むための、かけがえのないひと口のためのスープ。愛する人の命を育み、はばたかせ、永らえて、やがて迎える終焉にも穏やかに寄り添うことのできる、スープ。
和食における料理のイロハ(だしの引きかたなど)をきちんと押さえてあるので、レシピ本としてとても応用の利く一冊。加えて、自身の、家族の、地域の、社会の食生活・食文化を見つめ直すにもよい本である。
本書は東日本大震災の起こる前に出版された。
もはや、日本の「食」は取り返しのつかないところまで退廃しているといっても過言ではないが、私たちが「健康に」「生き延びて」「時代へ伝える」ために、知っておかなくてはならないことの、いくつかが書かれている。
子どもたちのために、そして私たちの親世代のために、読みたい本である。
Parce que je suis ANTI-NUKE! ― 2013/01/16 20:06:10
ここ一年ほどだけでいえば、いまいちばん頻繁に(月イチか2か月に1回ペースかな)会って、食事や酒をともにしている。プライベートが同じようなレベルでうまくいっていない(笑)という点が共通点かな。第三者に対してもつ印象や、人との距離の取りかたに関しては、意見が合致することが多い。私が抱えているいろいろな諸問題について、けっこう鋭い指摘をしてくれるのが、正直、得難いよいことだと感じている。他愛ない世間話をしていても、気が合う。ただ、ディズニーランドが好きだとか(笑)些細だが理解に苦しむことも、実際は多々ある。ま、でも、それも面白い。
その彼が勤める会社の関係者にある政治家がいて、その人の噂になり、しぜんと話は昨年暮れの衆院選に移った。私は、仕事でなければ、相手がどういう立場だろうと先にはっきり好き勝手に発言する癖があるので(仕事の時は用心深いコウモリですのよ、ほほほ)、彼の支持政党や主張を聴く前に、嫌いなアイツやコイツの名を挙げてクソミソに言い、いまやほとんど憎しみの対象となっている安倍を筆頭にしたジミントーをクソミソに言い、「だけど小選挙区は投票できる候補者が立たへんかったわあ」と、ぶつぶつ小言をこぼした。それでひとしきり笑ったんだが、ふと彼が「ねえ、もしかして脱原発派?」と尋ねるではないか。「派」だなんて、私は人間なら「反核・反原発」が当たり前だと思っている。「派」も「主義」もない。だから彼の眼をまっすぐに見て「そんなの常識やん」と言った。賢い彼は、ここでもう「こいつとはこの話題で議論できない」と感づいたのであろう(笑)。「あ、そう」と言っただけで一瞬黙った。そのまま流せばよかったんだけど、賢い私(笑)も彼の瞳の中に「そうじゃないって言いたいんだけど」との意を汲んでしまったので、よせばいいのに彼になんとか口を開かせようと煽るようなことをいくつか口走った。
彼の勤務先は小さな町工場だ。私の勤める零細事務所に比べればはるかにましなはずだが、自転車操業には違いない。「電気」の問題は、直接彼の勤務先と彼自身の生活に降りかかる。
「経済性を考えたら、必ずしも脱原発が正解でもないやろ」
「正解なんて、ないわ。人間として、日本人として、どう行動すればいいのかそれぞれの立場で真剣に考えなあかんってことよ」
「それはそうやな」
「私は私の、君は君の立場で」
「代替エネルギーのめども立ってへんねんで」
「火力でいいやん。それで電気代が倍になっても私は呑む。手を尽くした挙句にそうならね。槍でも鉄砲でも値上げでももってこいバカヤロー関電って感じ? 火力でもたせてその間にほかの手も考えればいいやん。ホーシャノーよりシーオーツーのほうが100万倍も1億倍も、ましやろ」
「けどなあ、そんなん言うてる間に倒れるとこは倒れてしまうしな」
「そやね」
「そやろ」
「お互いキツイ会社に勤めてるもんね」
「うん」
「でも、そんなことは、はっきりいうけど、どうでもいい」
「そういうと思った」
「原発なんてやめようよっていうのは、戦争やめようよ侵略やめようよ搾取やめようよ、というのと同様に、私がずっとずっと抱いてきた切なる願いのひとつやねん。ただこれまで喫緊の問題じゃなかったのが、こんな事態になって、声を挙げているだけ。私の目の黒いうちに原発ゼロは無理かもしれんし、娘の生きてる間にも無理かもしれん。でも、ポンコツ原発しつこく動かした挙句、小さな事故やら放射能漏れをごまかし続けた挙句、あんな大事故になって、日本の北半分を汚して、日本中に汚染された食材やらなんやら拡散して、太平洋に汚染水流し続けて、空中に放射性物質撒き散らして。日本以外の地球人全員から糾弾されてもおかしくないのよ。有害物質を撒いたのよ。究極の有害物質を。それは事実なんよ。《はい、もう原発動かしませんゴメンナサイ》っていうのが当たり前の態度ちゃう? 日本人として。人間として」
「うん。まあな」
「核兵器つくりたいから核発電やめたくない、核兵器つくって戦争にスタンバイしていたい。そのために自衛隊を国防軍にしたい。そのために改憲する。そんなこと言う人が国のトップにいるなんて、この日本で、異常事態やねん。そう思わへん?」
「たしかになあ」
「ん、君は技術者やからね。言いたいことは、ちょっとわかる」
「うん」
「原子力の研究や技術を生かして、54基ぜんぶ、きれいに片づけてほしいと思うのよ、私は」
「んー、でも片づける技術は心もとないんちゃうかなー」
「はは、とりあえず廃棄物をしまう場所、ないもんね」
「うん」
「でしょ? だからよ。なのに原発続けてどうすんのよって、そう思うでしょ?」
「うーん」
でも彼は、やはり勤務先の行く末や自分も含む従業員の生活につい思いを馳せる。心優しい人ほど、その優しさが目の前の人や時間に向かう限りは、安易に原発反対は唱えられないことだろう。ためらう人に無理強いをしてはならないと思う。ただ、無理強いはしないけど、考えることをやめないでほしいと思う。友達のひとりであるこの私が、なぜこう考えるのかについて、彼には考え続けてほしい。と、心底思った。
《(前略)
重要なのは品格のある衰退だと私は思います。ヒントは英国にあります。英国にはいろいろと問題もありますが、第2次大戦後、欧州諸国で最初に植民地を手放し、インドの独立を認めました。衰え、弱くなることを受けとめる品格を持つことで、その後もインドと良好な関係を結んでいます。フランスやポルトガルなど植民地をなかなか手放さなかった国は独立戦争で多くの死者を出し、禍根を残しました。
品格のある衰退の先にどのような社会を描くか。私は経済成長社会から福祉成長社会への転換を本気で考えるべき時期だと思います。かつて大国だったスウェーデンがロシアとの戦争に敗れ、衰退した後、世界の福祉モデル国家になった例もあります。
もうひとつは人間成熟社会です。命に対する畏敬の念を持ち、侵すことのできない命の尊厳を互いに認め合う。多様でありながら、対等な関係を持って、ともに生きる社会です。
原発事故は、原発に象徴される成長主義を推し進めることで、どれだけ人間の命と尊厳が否定されるかを私たちに教えました。まず人間が自己を変革するところから始め、原発に頼らずに福祉成長社会と人間成熟社会の新しいモデル国家をつくる。それが日本だけでなく、国境を越えた市民のつながりになる。時間はかかるかもしれませんが、新たな時代の変わり目を、そういう希望を描いて生きるときだと思います。》
(京都新聞2013年1月15日付「震災後の日本の未来とは」坂本義和)
WHITE BIRTHDAY ― 2013/01/18 18:35:44


通勤途上、御苑を通りますが、ほれ、うっすらと。

冷え込む日もしばれる日も、針のように冷たく刺さる雨が降った日も、埃が舞う程度に雪のちらつく日も、あったけれど、こうして目に見えて風景が白くなったのは今冬初めて。
奇しくも今日は……

平日の我が家は朝食しか全員揃わないので、娘は朝から私のバースデイプチパーティーを企てたのだ。やるやんけ、さなぎー♪

それにしても、君はほんとうに高校生か?(笑)
ひらがなしかないやん、手書きのバースデイカード(笑)
ぐっすり寝たおかげか、昨夜のワインが極上のフランス産だったせいか(笑)、非常にすっきりと目覚めて、娘の用意したスクランブルエッグとトースト、そしてタルトショコラをいただいた! やーん、おいしいやんーおいしすぎるー Y(^0^)Y
やーん、嬉しいやんー嬉しすぎるーーー~~~\(^0^)/ワーイ
Fâchez-vous, mais avec une façon élégante...! ― 2013/01/24 21:42:54

岡本太郎著
角川書店(角川oneテーマ21)(2011年)
太郎が好きである。
古くはウルトラマンタロウ。続いてドカベンの山田太郎。我が家の風呂にはなぜか「太郎と花子」というあだ名がついている。
そして岡本太郎。幼少期に大阪万博を経験した私の記憶にこのうえなく「かっこええもん」として焼きついたのがご存じ太陽の塔である。その頃、何のコマーシャルだったかは覚えてないが、岡本太郎がくっと空(くう)をにらんで「芸術は爆発だ!」と叫んだアレ、アレも好きだった。私の記憶の中で、岡本太郎はいつも背広を来ていたが、いわばそういうまともな恰好をしているくせに、彼は芸術家で、しかもかなり変わった人で、おもしろいモノをつぎつぎに生み出す人なのであった。しかし、岡本太郎の作品は、例の太陽の塔のほかには、ほんの数点、美術の教科書の類いに載っていたか、雑誌に掲載されていたか、印刷物を介して絵画作品を観たことがあるだけだ。タイトルも覚えてないし。しかし、岡本太郎の作品に対し、非常に高い好感を覚えたという、これまた記憶だけだが、残っている。絵を描きたいという思いに駆られ、願わくば絵を描いて生きていきたいという意志を強くもつようになった頃、平凡な自分とヘンテコな岡本太郎との乖離にけっこう絶望した。偉大な芸術家には、変人でなければなれない。そんな誤解を抱きながら、だから普通の私には無理やんかぁとうなだれながら、それでも美術を学んでいたが、歳をとり、絵を諦め、デザインも手放して、それからさらにずいぶん時をおいてから、芸術家たちだってかなり普通の人間なのだなと思うようになったのである。
それは、こんな普通の私にも、私なりの紆余曲折や波瀾万丈や海千山千があるように、特異に見える芸術家の人生、奔放すぎたり苛酷すぎたりだらしなさすぎたりエロすぎたり、といった人生も、凡人のそれと紙一重に過ぎない。
人間として特殊でもなく、人生も特別ではない。ただ、表現者としてコンテンポラリーに評価される術をたまたま身につけていた、あるいは努力して獲得した、どちらでもいいが、つまりは表現者として別格だったのである。
岡本太郎は、表現者としては、芸術作品を生み出すことにおいて超一流だった。
で、今回の本である。
おばはんになったせいか、いちいちアタマにくることが増えて(笑)、気がつくとひとりでぼやいていたりイライラしていたりする。「あああああーーーーったくもおおおおおおおっ」と、主にクライアントからのメールに向かって叫ぶ私。ああ、こんな生活が何年続いていることだろう。いまさらだけど、眉間の皺は、満面の笑顔でいる時でさえ消えないし、芝居がかった作り笑顔でうなずいても、口角はなかなか上がってくれない。しかめっつらでいる時間が増えちゃって、美容にも健康にもよろしくない。わかってるさ。だけど怒るネタに事欠かないので困るのである。楽しく笑えるネタをくれっ。っても、誰がしたのかこんなひどい世の中にって状態だもんなあ、にこやかでいたいのは山々だけどさ、この際あたりかまわずわめき散らすほうが心身の健康にいいかもなあ、なんてぶつくさアタマの中でつぶやきながらうろついていた本屋で見つけたのが『美しく怒れ』。しかも岡本太郎。買わないわけがないざましょ!
「怒らないのは堕落である」
帯のセリフがいいねえ。
しかし。
しかしである。
私は思った。「岡本太郎は文章を書く人ではない」。本書は、太郎が書き下ろしたものではなくて、岡本敏子編纂によって成立した新書である。だから、一冊の書籍として散漫な感じがあるのはしかたがないし、いま言及したいのはそこではない。
岡本太郎の感性が冴えわたり、鋭利に研がれた精神そして頭脳がフル回転していた頃のニッポンには、その時なりの問題が山積していたことだろう。彼は、世の中に巣食う怠惰や狡猾、蔓延する先送りや後回し、無駄な迂回や時間潰し、あからさまな無視や見て見ぬ振りに対して憤る。実に正直に、憤っている。だが、そのように言葉で憤りを書き留めるよりも、一枚の絵や一点の彫刻にしたほうが、彼のいらだちや憤りは、美しい怒りとして人の心に届いたのではないか、と思うのである。
なぜかというと、どう読んでも、「美しく」「怒って」いるようには感じられないからである。なんだかうるさいオッサンがぼやいている、ようにしか読めないのである。ううむ……。
彼はどんな時も全身に力を込め、エネルギーをみなぎらせて表現していたと想像する。
本書に書かれた言葉のひとつひとつも、文の一行一行も、たしかに真っ向勝負で力強い。しかも、けっして汚くはない。清廉で丁寧である。
けれども、美しく怒るというのとはかなり異なるように思われる。
それはたぶん、現在のニッポン社会に否応なく横たわっている厭世観、目に見えないものへの恐怖や不安、そして自分たちだけでは何ひとつ解決に結びつかないあまりに数多くの事どもへの怒りが、あまりに大きすぎて、いま本書を読むことが何の慰めにも励ましにもならないからだろう。
太郎の時代の理不尽はいまも理不尽なまま残っているし、不条理はますます顕著になっているし、腐敗にはますます重い蓋がなされて無臭なまま、だから人々は気づかず、気づいた人にも重すぎる蓋をどける力はない。あまりに大きすぎる怒りという凸は、大きな絶望という凹と共存しているため、プラマイゼロになり露にならない。だから、私たちだって、美しく怒れるものならそう在りたいが、どう表出すればそう在れるのかは皆目わからない。そして、本書は、その指南書にはならない。ま、それは、年代のずれゆえ、トピックがずれていることもあるだろう。太郎のせいじゃない。
しかし、岡本太郎は、やはり、おっさんのぼやきにしろ、芸術でそれを表現しなくてはならなかった。彼は文章だってエッセイだって芸術だといったかもしれないが、いや違うよ太郎さん。通底するものは在るかもしれないし、絵も文も優れた人だっているだろうけど、あることに突き抜けるほどの表現者で在れる人は、ほかのことではたいしたことないってのは、世の習い。
石川九楊という書家を、これまた私はたいへん愛しているのだが、彼の書の素晴しさといったら、もう、言葉にならないんだけど、舌鋒鋭いことでたいへん人気の彼の講演も、私には平成の人生幸朗にしか聴こえなくて、いや、喋るんじゃなくてそのボヤキ、書こうよ九楊先生、と聴講中、私は心の中で叫び続けたものだ。
美しく怒るって、どんなことだろう。
なんとなく、この人のこの態度がそうじゃないのかな、という例を見つけたので、全文を引用する。
********************
2013年01月23日12:30
こちら特報部東京(中日)新聞
原爆、原発へ対抗するために「人間信じたい」
被爆作家・林京子さんの思い
長崎で被爆した作家の林京子さん(82)。その体験をつづった作品「祭りの場」で1975年に芥川賞を受賞し、その後も被爆体験を抱えて生きることの意味を問い続けてきた。
「原爆と原発はイコール。人間と核とは共存できない」。そうした思いを作品を通じて発信してきた林さんの目にいま、福島原発事故とその後の日本社会はどう映っているのだろうか。(出田阿生)
神奈川県逗子市の自宅に近いJR逗子駅前に現れた林さんの背は、すっと伸びていた。ジーンズにブーツ姿。赤で統一された首飾りやマニキュアの差し色が美しい。
「福島の事故が起きてから、一度はもう核のことは一切考えまいと思った。被爆者全体が裏切られたのだ、と知ったからです。もう国に何を言ってもダメだと…。これほどの落胆はなかった。(長崎に原爆が投下された)8月9日以上のショックだった」
被爆者たちは長年、残留放射線による内部被曝や低線量被曝の存在を無視する国に、原爆症認定の申請を却下され続けてきた。
ところが、福島原発事故の記者会見を見て、政府の担当者が「内部被曝」という言葉を使っていることに気づいた。つまり、国は内部被曝の被害を知っていて、原爆症認定を却下し続けてきたのだ─と気づかされた。
林さんが被爆したのは、長崎県立高等女学校の3年生のとき。勤労奉仕先だった長崎市内の三菱兵器工場で爆風に吹き飛ばされた。3日歩いて帰宅すると、手足の毛穴全てから黄色い膿が噴き出した。被曝の急性症状だった。
【少女たちもモップ状になって立っていた。肉の脂がしたたって、はちゅう類のように光った。小刻みに震えながら、いたかねえ、いたかねえとおたがいに訴えあっている】(「祭りの場」より)
◆詳細な被爆描写 カルテのつもり
自身の被爆体験を詳細に記した「祭りの場」は、カルテのつもりで書いたという。「わたくしは自分がモルモットになってもいいと思っている。死んだときは骨を砕いて調べてほしい」
奇跡的に生き延びた同級生たちは、30〜40代になると次々と亡くなった。がんや甲状腺の病気が多かった。通院や入院が相次ぎ、一時は「病院で同窓会が開ける」と言い合うほどだった。
林さんが14歳まで暮らした中国・上海の同級生たちには、そんな年齢で若死にする人はいなかった。被爆の影響と考えるのは当然だった。
「原爆症が認定されれば、少なくとも死の間際に、自分の人生を嫌々にせよ、肯定できると思う。友人たちは却下、却下で影響を曖昧にされたまま、小さな子らを残して死んでいった」
林さん自身も、白血球の減少などの症状に苦しんだ。「体の中に時限爆弾がある」という恐怖は結婚して子供ができるとさらに切迫した。
原爆症の遺伝を恐れ、妊娠8カ月で医者に「勇気がありません。処理していただけますか」と頼んだ。しかし、紹介された大学病院の待合室に行くと、泣き叫ぶ幼児や懸命にあやす母親たちが大勢いた。
「ああ、この命を産むんだと思って、そのまま帰ってきた。帰ってきてよかった。息子には言ってないんですけれど…。やはり産まない選択をした人もたくさんいる」
出産直後、赤ん坊の体の薄赤い斑点を見て、思わず「先生、これは紫斑(被曝による皮下出血)ですか」と聞いた。息子が鼻血を出すたびに原爆症を疑い、病院に連れて行った。夫に恐怖をぶつけ続けた。「離婚するとき、夫に『君との結婚生活は被爆者との生活だった』と言われた。被害を周囲にばらまいているようなものですよね」
放射性物質がどれだけ人々の健康と命を脅かすか。作品を通じて、静かに訴え続けてきた。「私たち被爆者は、核時代のとば口に立たされた、新しい人種なのだと思う。わたくしは作品で、原爆と原発とは同じだと訴えてきたつもりでした」
人間は核をコントロールできない。科学の進歩に倫理が追いつかない─。福島原発事故での東京電力のテレビ会議映像を見て、がくぜんとした。水素爆発を防ぐため、自衛隊に建屋を破壊させる提案を「危険だ」と指摘された本店幹部が「どのみち吹っ飛ぶぜ」と捨て鉢な発言をしていた。
日本よりも世界の危機感の方が強いのでは、とも感じた。福島の事故から半年もしないうちに、ドイツでは林さんの短編「トリニティからトリニティへ」 と 「長い時間をかけた人間の経験」が緊急出版された。
「トリニティ…」は99年秋、米国・ニューメキシコ州の核実験場を訪れた体験を書いた作品。広島と長崎への投下直前、人類が初めて原爆実験をした場所だ。
◆初の原爆実験で まず自然犠牲に
そこは生き物が消えた世界だった。バッタ1匹飛ばず、空には鳥の影もない。最初に核の被害を受けたのは自分たち被爆者だと思っていたが、人間より先に焼き尽くされた自然や生き物を思い、涙があふれたという。
福島原発事故後、気力を失っていた林さんが前を向こうと思い直したきっかけは、昨年7月、東京・代々木公園で催された「さようなら原発10万人集会」に参加したことだった。
杖をついた同世代の老紳士は、入院先を抜け出してきたと話した。「最後に子どもたちに何かいいことを一つだけでも残したくて」と言った。
「核の問題を命の問題と捉えてやって来た人が大勢いた。ああ、核と人間の問題はここに落ちてきたと実感しました」
日本は今後、変われるのだろうか─。そう質問すると林さんは、米国の大学生に自らの被爆体験について講演したときのことを話し始めた。
話に聞き入る若者たちの青い目は、見る間に充血して赤くなった。最後に一人の男子学生が「林さん、世界はこれからどうなると思いますか」と質問した。
林さんは「政治家でもないし、分からない。でも、人間を信じます。あなた方を信じます」と答えたという。
全員が立ち上がって拍手をした。「彼らは何かを信じたかったんだと思います。そして、『自分自身を信じよう』と思ったのだと思います」
そして、こう付け加えた。「日本がこれからどうなるのか、分かりません。でも、全てを金銭に置き換えようとする今の『悪い平和』は変えたいですよね」
[デスクメモ]
林さんはぶれない。芸術選奨の新人賞に選ばれた際に「被爆者であるから国家の賞を受けられない」と拒んだ。人は死から逃れられない。だから、国家や神に自らを委ねがちだ。だが、彼女は「命一つあれば十分」と言い放つ。再び国家やカネの論理が頭をもたげてきたいま、彼女の存在は重い。(牧)
[はやし・きょうこ]
1930年、長崎市生まれ。三井物産に勤める父の転勤で、1歳になる前に中国・上海へ移住。14歳で帰国し、被爆した。53年、長男を出産。主な作品に「祭りの場」「上海」(女流文学賞)「三界の家」(川端康成文学賞)「やすらかに今はねむり給え」(谷崎潤一郎賞)「長い時間をかけた人間の経験」(野間文学賞)など。
2013年1月21日 東京新聞[こちら特報部]
阿修羅掲示板より
投稿者 みょん 日時 2013年1月21日 07:59:27: 7lOHRJeYvJalE
http://www.asyura2.com/12/genpatu29/msg/770.html
*******************************
A la recherche du nippon perdu ― 2013/01/31 19:29:37

『美しき日本の残像』
アレックス・カー著
朝日文庫(2000年)
毎朝、御苑の西側を走る。
全国都道府県対抗女子駅伝の、中学生区間になる道だ。
何年か前、とびきり速い中学生二人がこの区間を走り、ほかの区間を走った高校・大学生選手、実業団選手がピリッとしなかったにもかかわらず、京都が楽勝したことがあった。3区で走った子が先行ランナーを軽く抜き去り、6区で走った子は後続をぶっちぎった。当時はまだ使えていた我が家のアナログテレビで私はこの駅伝の実況を見ていた。高橋尚子か、増田明美か、誰か忘れたが解説をしていた元ランナー女史が、「あ、いまギアが入りましたね」と言った。その言葉どおり、まるでトップギアに入れたかのように中学生は速度をぐんぐん上げて前のランナーを捉えたかと思うと抜き去り大きく差を広げた。まったく、胸のすくような走りだった。痩せていて小柄で、素人目にもフォームはでたらめだ。しかしパワーに満ちていた。現在は大学生になったこれらとびきり速い元中学生たちの、あまり華やかな活躍は聞こえてこないが、つぶれることなくいつか本格的に開花してほしいと思う。ランナーとしてトップに君臨できる期間はとても短い。いきなり日本一、世界一になんてならなくていいから、無理なく成長し続けて、どこかで栄冠を手にできれば素晴らしいけどな。同世代の女子中学生陸上選手たちが、どれほど彼女たちに憧れ、その走りに励まされたことだろう。ウチの娘もその陸部仲間もみんな、彼女たちを見て「ウチらも頑張る」と、進む道は変わっても、心の糧にしたのだった。親として、彼女たちに感謝しないわけにはいかないのである。応援しないわけにはいかないのである。

日曜日には、上賀茂手づくり市へ行った。とてもニッポンな風景。

こちらもニッポンな園部(そのべ)の風景。取材しに行ったはいいけど、えらい雪に遭った。12月の初めだったかな。

アレックスに、京都は、日本は以前と比べてどうですかと尋ねてもきっと、やっぱり「事態はますます悪化していますね」と言うだろう。この「悪化」には緊急性もなければ人の生死とのかかわりもない。ないけど、ある豊かな文化がちりちりと、剃刀で削り取るように、彫刻刀で切り抜くように失われてゆくというのは、確実に、安心して大きく深呼吸したり、大の字になって寝転んだり、日がな一日読書に耽ったりという、暮らしの「無駄」な「遊び」の部分を奪ってゆく。のほほんと、警戒心なく、環境に身を委ねることをいつのまにか不可能にしてしまう。いずれ、ここは、人の住める場所ではなくなってしまう。そのことは、生存率も識字率も低く当たり前の生活も保障されない途上国と比べても、かなり深刻である。いっとくが、今、放射性物質による汚染は考慮していない。

電線を地中に埋めるのはたいへんな工事だ。ないと空はすっきりするだろうけど、代わりに醜悪な看板や外壁が目についたのでは元も子もない。見上げた時に電線しか見えないなら、まだましだ。めっきり減ったが、スズメもとまるし。それよりも、守るものが星の数ほどある。もちろん、改めるもの、除くものも、山のようにある、電線より先に。