Le Havre ― 2012/06/01 22:29:11


フランス語へ導いてくれた偉大なお兄さま ― 2009/11/13 08:25:06
すぐにサリフ・ケイタとわかったわけではもちろんなくて、なんかおっちゃん二人がしゃべりながら、ときどきサリフ・ケイタ、という単語を会話に織り込みつつ、会話が途切れるごとにサリフ・ケイタの歌を挟みつつ、というような番組だったので、サリフ・ケイタを紹介していることは瞬時にわかったのですが、ご本人もそこでしゃべっているということに気がつくのに若干時間を要しました(笑)
サリフ・ケイタのオフィシャルサイトはここみたいです。
http://salifkeita.artistes.universalmusic.fr/
でもサリフ・ケイタって?
まずは聴いてください。(便利な世の中だね)
http://www.youtube.com/watch?v=bqDnoSNq6Qc
http://www.youtube.com/watch?v=3ksr18dZTgc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=z1pqUKWfFl4&feature=related
三番目のはあこがれのマリの風景がでてくるので好きなクリップです……。
大学時代からアフリカに傾倒していた私は、けっこう節操なく手当たり次第聴いてたんですけど、雑誌かなにかでサリフ・ケイタの名前を見て、たぶんレンタルか何かで彼の音楽を聴いてノックアウトされました。でもそのときの曲がなんだったかもうわからない。一枚も、LPにしろCDにしろもっていないので、何年のことだったかわからない。
手探りでアフリカアフリカといいながら、大学を卒業して、社会人になって、アフリカとは別のきっかけで仏語教室に通い始めました。
大阪の繁華街の、キタかミナミかもう覚えていないんですが、とにかくもうおそらく今は無き、倉庫を改装したライヴハウスで、サリフ・ケイタのライヴを観ました。
その日から彼は私の神になりました。
彼がMCで話していたのは、フランス語でした。何を言っていたのかわからなかったけれど、最初のボンジュールくらいは聞こえたし(笑)
彼はとても、白かったんです。
周囲に、真っ黒な肌に極彩色のアフリカンな紋様の布をまとったダンサーや、伝統的な装束の要素を取り入れたすっごいかっこいい衣装に身を包んだやはり真っ黒な肌をしたコーラスを置いて、彼自身は真っ白な肌に真っ白な衣装を着けて、両手を胸の位置で時折合わせながら、澄んだ伸びやかな声で歌いました。神々しいほどの、いえ神ですからまさに神そのものなんですが、存在がそこにあって、ノリノリの観客たちをよそに、私はなんだかぽつんとそこに、たったひとり暗闇に立ち尽くし、何となく、サリフ・ケイタに厄払いのご祈祷してもらっているような気分でした。ちょっとうまく言えないけど。
サリフ・ケイタについて上手にまとめておられる文章を見つけました。
http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/salif-kaita.htm
フランス語をマスターして、サリフ・ケイタに会いにいく。
それがわたしの、仏語学習における目標となりました。
ということを、昨日のラジオで思い出したのでした。
ラジオでは、パーソナリティがサリフ・ケイタを呼ぶときに必ず「mon grand frere Salif Keita!」というふうに「我が兄よ」と言っていたのが印象的で、そうだな、と思いました。仏語と日本語とでは「兄」のもつ意味や語義の範囲とか語源が異なるので短絡的に考えてはいけないのですが、確かにこの人って兄さまよね、お父様じゃないわよね、と妙に納得したのでありました。
サリフ・ケイタ、みなさんもぜひ親しんでくださいね。
「誰ひとり、けっして誰ひとりとして、母さんのことを泣く権利はない。」本当は誰もがこう思うのではないか……の巻 ― 2009/07/31 18:01:58
アルベール・カミュ著 窪田啓作訳
新潮文庫(初版1954年)
今、手許にないので私の家にある新潮文庫『異邦人』の版は何年のものかわからないけど70年代のものだと思う。初めて読んだときどれほど衝撃を受けたかとか、面白く感じたかとか、何も記憶に残っていない。シェイクスピアやドストエフスキー、ブロンテ姉妹やディケンズ、カフカやパール・バック、ユーゴやスタンダールらとともに、よくわからないけど越えねばならない山の一つとして、カミュの『異邦人』は私の前にあっただけである。読んでみると、どうってことはなかったのである。これが、どうってことはないことはない、と気づくのはもう少し(というよりかなり)後である。さらに仏語学習教材としてテキストをいじくりまわした頃には、どうってことはないことはないどころか、私はアルベール・カミュと一体化していた(誰とでも一体化するヤツである)。
不条理という語句が本書を語るときによく使われる。それはそれとして、私は、肉親を亡くしたときに自身に起こるレスポンスを正直に表現して見せた男の話だと今はわかるのである。彼がたまたま海岸で、太陽光で一瞬視界を遮られたため、やばいっと思って放った弾が当たってしまったが、この件についても男は正直に話したわけである。正直であることは時に罪である。嘘をつき、芝居をすることが周囲との潤滑油になる。共同体の中ではじかれずに生きていこうと思えばつまらぬことに知恵を使う必要もあるのだ。それ自体を不条理と呼んでもいいし、それを拒否してロンリーウルフでいることを不条理と呼んでもいいのだろう。主人公は母を重んじ、愛していた。処刑を前に母への深い愛情に覚醒するシーンが最後にある。
「誰ひとり、けっして誰ひとりとして、母さんのことを泣く権利はない。」
(もしよかったら拙稿部分試訳をお目通しください)
http://midi.asablo.jp/blog/2008/12/25/4026928
おととい、友人からすごく久し振りにメールが来た。彼の母親の訃報だった。
なぜ亡くなったのか、詳細はわからない。
詳細は書かず、亡くなった日と葬儀の日取りが母親の写真とともに記されていて、彼女のために祈ってください、と1行、末尾に書かれていた。
友人は30代のフランス人画家で、二年ほど前までの三年間、日本に住んでいた。それ以前にも何度か短期滞在を繰り返していた日本大好き青年であった。滞在中はしょっちゅう私の町へ遊びに来た。フランスから友達が来ると必ずこの町へ来てこの町を案内した(私も巻き込まれた)。いちど、彼の弟夫婦と母親が日本旅行を企て、もちろん彼自身も同行して、こぞって私の家に来た。弟の奥さんがインド洋の島の生まれで、エキゾチックな夕食を手づくりしてくれた。私の母と娘と、友人とその母と弟夫婦と、途中から割り込んだ友達約1名が加わって、許容量を超えた空間は凄まじいありさまを見せていたが、それほどに賑やかで楽しい夜を、しばらく味わったことがなかったので、とてもよい思い出として私たちは大事にしていた。友人の母は猫が好きで、家には猫を勝手に住み着かせていた。代々の猫のその営みを幸せそうに語ってくれた。我が家の猫を腕に抱き、器量よしさんだこと、といっていとおしそうに撫でてくれた。
私の母よりも歳は若かったが、さすがに海外旅行は疲れるとみえて(このときの旅行は十日間で三都市回る強行軍だった)、ウチに泊まった翌朝もなかなか腰が上がらなかった。見どころがいっぱいあるまちだから、この次はもっとゆっくり来てくださいね、というと、本当ね、○○も見てないわ、△△も訪ねてないわ、必ずまた来るわよ、と嬉しそうにいっていた。
友人は、泣いたに違いない。大きな体を震わせて母親にすがりついて。彼の弟も。奥さんも。けれど、泣かなかったかもしれない。あまりの出来事に呆然として。友人は喪主だ。取り仕切らなければならないことが山ほどあったろう。私たちへ訃報を送るのもそのひとつだ。冷静に、母が天に召されるのを見送らねばならない。
その葬儀の日が今日である。時刻も、ちょうど今頃だ。
彼女のために祈る。
さよなら、ドゥニーズ。安らかに。
一周忌です ― 2009/04/17 12:00:58
高齢でらしたので、いつ亡くなられてもおかしくないといえば失礼ですが、でも私はなんだかセゼールはずーっと生きながらえていくような、そんな錯覚をもっていました。
訃報を知ったときにはあまりのショックに体中が空洞になったような気がしたものです。おおげさでなく、しばらくはまともに思考することができずに、ものすごく投げやりに日々を過ごしていたような気がします。誰ともこの悲しみを共有することができません。しようと思えばセゼールなる人物は誰なのか、私はなぜ彼を敬い尊び愛情すら覚えるのかということを説明しなければなりません。面倒というよりも、そのために悲しみが倍加しそうなので、心の奥底に驚きも悲しみも悔いも全部しまいこんで何事もなかったように過ごしていたのでしたが。
フランス語の勉強を始めて、それを続けることができているのはひとえにエメ・セゼールの存在があったからでした。
フランス語を媒体にしたさまざまな世界を、垣間見ることができているのは、まず、エメ・セゼールの『帰郷ノート』を読んだからでした。この詩が私の思考の原点、始まりなのです。
そうはいっても、私はエメ・セゼールはもちろん、彼を市長に選び続けたマルティニークの人たちや、クレオールの名のもとに繋がるグアドループの人たちの、精神の在りかたや魂の置き場所について、砂粒のかけらほども理解しているわけではありません。
彼らの場所、彼らの記憶、彼らの存在しない根っこ、そして彼らがうたう詩は、追い求めても探し続けても触れられない、憧憬でしかありません。ただ、現代に生きる彼らの思考に少しでも近づきたいために、あれこれと読むことで自分を慰めていました。
エメ・セゼールは、私がいま、上で「彼ら」と呼んだ人たちの頂上かつ中心かつ周囲にいた、「彼らの父」でした。私は彼らの中にけっして入れてはもらえない。けれども、エメ・セゼールは、私の憧憬の象徴であると同時に、私が歩いてきた道の分岐や曲がり角にいつもいた人でした。エメ・セゼールという人の存在は、私という人間が歩き始めるきっかけだったのです。
エメ・セゼールはAime Cesaireと綴ります。
検索すれば彼へのオマージュがいくつもヒットします。
映像もあるので、興味のある方はぜひ。仏語ですけど。
お茶の色って、あんな、そんな、こんな、色なのに茶色って何よ ― 2008/11/17 17:57:36
昔、民族学をかじっていたとき、アフリカのサバンナを駆ける民族がどのように色を認知しているかをフィールドワークした研究成果を聴いたことがある。彼ら彼女らは、美術の授業もなければ絵の具も色鉛筆も持たないが、どんな色についても何の色であるかをいうことができたという内容だった。
研究者は何百という色彩カードを彼らに見せ、これはなにいろ? と訊ねた。すると必ず、○○の色という答えが返ってきた。彼らは、すべての色に彼らなりの名前をつける、あるいはその色がどのような色かを説明することができた。たとえばこんなふうである。
○○という草の葉の裏の色
昨日しとめた獣のはらわたの色
△△という動物の皮の色
歯茎の色
足指の爪の色
指の腹の色
……
というぐあいである。
人は自分で見聞したことをもとにして、考えて、組み立てて、ある事柄を説明することができる。それは人間のもつ特権能力とでもいおうか。与えられた情報がなければ、持ち駒だけで何とかすることができる。
太陽の生み出す色。それは見る人によって、その色が映る瞳によって、感じられ方が異なるに違いない。けれど悲しいかな、それをどのようにうけとめ表現するか、という感性が研ぎ澄まされる前に、たった12色程度に集約された名前のついた色という貧しい情報を幼い脳は刷り込まれてしまう。そして、人間は知的生物であるがゆえに、文字情報を得たら最後それに支配されることをよしとするのだ。文字を読めるようになると他のいろいろなことが見えなくなるのだ、じつは。
ウチは上等なお茶は飲まないが、茶葉によって淹れたお茶の色に違いのあることを子どもにわかってもらおうと思って、昔から、番茶、麦茶、緑茶、紅茶、いろいろつくって見せてきた。それは、私自身の「ちゃいろ」という言葉への違和感からきている。お茶の色、というと渋めの緑色を思い浮かべるのに、絵の具には茶色と書いてある。でも、ウチの番茶はどっちかいうと「こげちゃいろ」のほうだぞ……。
brun という語を辞書で引くと「褐色」とある。この語は髪や眼の色、あるいは日焼けした肌の色の表現によく使われる。日本語としては「茶色」のほうがなじむし、想像し易いので、本書の邦訳タイトルが『茶色の朝』であることに異論はない。
ただ、私はもっと黒々した、鍋の底にこびりついてとれないお焦げのようなディープなブラウンを思いながら、「Matin brun」を読んだ。物の名前や言葉尻にやたらと「brun」をつけなくてはならなくなったというくだりでは、「バカいうなよ、くそっ」の代わりに「バカいうなよ、焦げっ」って感じかなあ、なんて笑いつつ。
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『焦げた朝』
フランク・パヴロフ
陽だまりにどてっと両脚を伸ばして、ぼくとシャルリーは、たがいのいうことに耳を傾けるでもなく、ただ思いついたことを口にしながら、会話にならない会話をしていた。コーヒーをちびちびすすりながら、過ぎゆく時間を見送るだけの、気持ちのいいひとときだ。シャルリーが愛犬を安楽死させたといったので、ぼくはいささか驚いたが、それもそうだろうと思った。犬ころが歳とってよぼよぼになるのは悲しいもんだし、それでも十五年も生きたんだから、いずれ死ぬってことは受け容れざるをえないもんだ。
「つまりさ、おれはやつを焦げ茶になんかしたくなかったんだよ」
「まあな、ラブラドールの色じゃないよな。それにしてもやつの病気は何だったんだい?」
「だからそうじゃねえって。焦げ茶の犬じゃないからってだけだよ」
「マジかよ、猫とおんなじってわけか?」
「ああ、おんなじだよ」
猫についてはよく知っている。先月、ぼくは自分の猫を処分した。白と黒のブチに生まれた雑種だった。
(どーんと中略)
誰かがドアを叩く。嘘だろ、こんな朝っぱらから、ありえねえよ。怖え。夜明け前だぞ、外はまだ……「焦げて」いる。ったく、そんなに強く叩かねえでくれよ、今開けるよ。
Matin brun
Franck Pavloff
Editions Cheyne (decembre, 1998)
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ヴァッキーノさんブログでも記憶に新しいこの本は、タイトルページから奥付までがわずか12ページ、1998年に1ユーロで販売され、ミリオンセラーとなった。朗読CDになったり、ドラマ化されたりなどして話題を呼んだ。パヴロフはその後も次々と作品を発表している。