こんなに太陽を好きなのはアルベールのせいかもしれないわ2008/12/25 21:22:12

前にどこかに書いたかもしれないけれど、私は太陽がとても好きである。
夏は嫌いだが、それはどんより空のもとであっても蒸し風呂のように暑い自分の町の夏が嫌いなだけで、ここでなかったら夏は好きなのである。太陽がさんさんとふりそそぐ、地球人に生まれた喜びを堪能できる夏。
バリ島やラングドック=ルシヨン、コートダジュールの夏の素晴らしいこと。

しかし、いつからそんなふうに考えるようになったのか、実はよくわからない。
中学、高校1年生くらいまでは、やたらとインドア派だった。
青空のもとでの活動というのを毛嫌いしていた。
高2で、所属していたバスケ部を退部して、私は、デッサンと洋楽鑑賞と読書に耽る放課後を過ごすようになった。動から静へと移行したように見えるが、陽光を厭わなくなったのはこの頃からだと思われるのだ。
私は、体育館を使えない日は炎天下を走らされるバスケ部員でなくなってから、デッサン教室に通ったりスケッチしに遠出をしたりと、徒歩や自転車で出歩くことが多くなった。色彩の勉強を本格的に始めて、自然の色を注視するようになり、季節の移ろいにより敏感になった。
それまで私にとって季節とは大暑・極寒の二種類だった。なぜか昔は今より冷え性だったので、冬も辛かった。二つしかない季節のどちらも辛いので、即ち一年中、面白くないのであった。

自然の存在に覚醒し、太陽の恵みをじかに感じるようになったとき、たぶん私はカミュの『異邦人』に出会った。
主人公はひなたぼっこが好きだ。汗が垂れ落ちるのを不快とも思っていない。流れる汗をぬぐう手間を惜しみ、陽光に目を逸らさなかったから、銃の引き金を引くはめになった。
しょうがないじゃん。なのに斬首刑なんてヒドイ話。
初めて読んだときの、高校生の私の感想はそんなものだったと思う。
私だって、同じ状況なら同じ行動をとり、裁判で同じ発言をするだろう。
「太陽のせいだ」と。

『異邦人』とは勝れて購入欲をそそる邦題ではある。
でも、誰が誰にとっての異邦人なのか、初めて読んだときの私にはわからなかった。
アルジェという街、アルジェリアという国について何も知らなかった。それがフランスの代表的な植民地で、そこではフランス人がまるで当たり前のように、大昔からの父祖の地に住むかのように暮らしていたとか、今はもう植民地じゃないとか、戦争があったとか、そんなことをよく知らずにいて、なんとなく、ムルソーはここではガイジンだから『異邦人』なのかなあ、くらいにしか思っていなかった。

etranger という語に「よそもの」「のけもの」という意味があるのを知るのはもちろん、ずっと後のことで、フランス語の勉強を始めてからだった。etrange という形容詞は「変わってる」様子を意味するほかには「疎外された」状態を表すのにも用いる。

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『よそもの』
アルベール・カミュ

 今日、母さんが死んだ。あるいは昨日かもしれない。老人ホームから電報を受け取ったけれど、「ハハウエノ シヲイタム マイソウアス」これでは何もわからない。たぶん昨日なのだろう。
 老人ホームはアルジェから八十キロ離れたマランゴというところにある。二時の長距離バスに乗れば夕方までには着くだろう。そうしたら、通夜もできるし、次の日の晩には帰ってこれる。ぼくは社長に二日間の休暇を申し出た。こんな場合は許可しないなんてことはできないものだ。けれど社長は不満そうだった。だから、「ぼくのせいではありませんし」といってみたが、社長は答えなかった。それでぼくは、こんな余計なことをいうべきではなかったな、と思った。どっちにしても、休暇の言い訳なんか必要なかったのだ。むしろ、社長の方が弔意を示してくれてもいいくらいだ。とはいえ、たぶん彼は、あさって、出社したぼくが喪に服しているのを見てから、それをいうつもりなんだろう。今のところは、まるで母さんはまだ死んでいないみたいだ。埋葬が終わったら、今とは逆に、ひとつの出来事と評価され、もっとおおやけの性格を帯びるようになるのだろう。

(どーんと中略)

ずいぶんと久し振りに、ぼくは母さんのことを思った。母さんが、どうして人生の終わりに「いいなずけ」を持ったのか、どうしてまた生き直す振りをしたのか、わかったような気持ちがしたのだった。あの、あの場所、幾つもの人生の灯が消えていく老人ホームの周りでも、夕暮れは憂いに満ちた休息に似ていた。死が近づいて、母さんはそのとき自由を感じ、もう一度生き直そうと思ったに違いなかった。誰ひとり、けっして誰ひとりとして、母さんのことを泣く権利はない。そしてこのぼくも、ぼくも今、まったく生き直そうとしているのを感じるのだ。幾つもの星座と星ぼしに満ちた夜の帳を前にして、さっき噴き出た大きな怒りがぼくの中から、罪を洗い流し、希望を捨て去り空っぽにするかのように、ぼくは初めて世間の無頓着に心をひらいた。世間を自分とそっくりに、いわば兄弟のように感じ、ぼくは幸福だと思ったし、それまでも幸福だったのだと気づいたのだ。一切が成し遂げられるため、そしてぼくが孤独でないと知るためぼくに残された望みは、処刑の日、たくさんの見物客が押し寄せ憎悪の叫びを上げて、ぼくを迎えてくれることだけだ。


Albert Camus
L'etranger
folio No.2 Gallimard 2002

コメント

_ 儚い預言者 ― 2008/12/25 23:37:52

 自意識というエゴはその出自を知らない。それは神を遠くにしたように。もしという話はいつも虚妄を伴う。しかし本来はいつも同じなのだ。どうしてもと突き詰めれば突き詰めるほど窮屈になる。それが実感という逆説的な幸せ対比法だ。疎外という感覚はとても尋常な、全く普遍とも言うべき人の唯一持ちうる権利とも言えよう。戦争の殆どがこの自分のあるべき姿を拡大投影された縁の結びつきへの妄執が一因であるかもしれない。それは自分の内にある葛藤の外なる表現である。閉塞とは裏腹の浮浪が、というよりエゴという砦にどうしても自分を押し込めて、発散するのは毒だけの時代を、虚実という代物で出来るだけ実感体験しながら、真実の匂いを嗅ぎつける野望を持ち続けるのだろうか。

 太陽といういのちの本質は、人間のうらぶれた本質をいつも見破りながらも、なお燦燦と降り注ぐ。それが愛でなくてなんだろうか。

 「太陽がいっぱい」だっけ、アラン・ドロンとテーマ曲を思い出す。

_ midi ― 2008/12/26 08:45:14

おはようございます。
預言者さま、毎度ごひいきにありがとうございます。
大勢の中にいる自分を、そのおおぜいに同化していると感じるか、おおぜいから疎外されていると感じるか。選ぶことができるのは人間だけですね。
長い生の中で、あるとき人はあえて疎外されようとし、あるときは同化を試みる。勝手なものですが、勝手が許されるのも人間の社会だけですね。

_ ヴァッキーノ ― 2008/12/26 18:42:14

カミュって、なんかカッコイイですよね。
「太陽のせい」なんて、なかなか言えません。
ボクも「異邦人」が好きです。
不条理小説って言われたりしますけど、カフカなんかに比べたら
ずっと理にかなってるんじゃないかと、思うんです。
現実の道をちゃんと歩いてるからかなあ。

やっぱ、「異邦人」ってタイトルにはなんか無理がありますよね。
で、ちょーこさんは「異邦人」じゃくて、「よそもの」って訳すんですね!
すごいなあ。
ボクなら、誤訳ですけど「さすらい」かなあ。
訳すって、ホント勉強になりますね。

_ midi ― 2009/01/05 13:31:22

全世界でヒットした小説ですが、『異邦人』というタイトルでなかったら、日本でもそうヒットしなかったと思うんです。
「よそもの」としてみましたが、あえて原題の語「l'etranger」にそったまでで、私が出版社の編集者なら「昨日、ママンが死んだ」とか、「私は太陽のせいだと言った」とか、「そしてぼくは怒号の海へ」とか、やたら思わせぶりな長い題名をつけたがったかもしれません。
ヴァッキーノさん提案の「さすらい」は、なんとなく小説の内容と合致していないように感じます。

_ 儚い預言者 ― 2009/01/26 11:11:22

 待ち望むことの光は、普遍の夢を突き破り、ベクトルの矢があなたの夢を際立たせる。
 夜もなく昼もなく、こころの自由を奪われ、あなたの記事を待つ。

 躊躇う事もなく、そしてディジャブに怖れを抱く事もなく、唯一の真実を追う、あなたの夢に。

_ midi ― 2009/01/28 16:29:41

ごめんねえええお待たせえええええ m(_ _)m

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