Space Oddity ― 2016/01/16 23:57:14

夕方、商店街のスーパーへ走った。目的の商品は決まっていた。自転車を停めて足早にドアをくぐる。店内は買い物客でごった返し、レジには長蛇の列ができていた。
《1階レジの応援をお願いします》
店内アナウンスが店員に呼びかける。間もなくどこからか2人ほどスタッフが駆けつけて閉めていたレジを開けた。
「次にお待ちのお客様、こちらのレジへどうぞ」
レジかごを持つ人びとの列が一瞬ほどけて、新たに増えて、増えた列もすぐに長くなっていく。慌てても、レジで待つだけだ。私の足は緩んだ。目的の品を手に持ったまま、見慣れた商品棚の間を歩く。95円、110円、75円、198円。がっしりした書体で大きく書かれた価格の上に「スペシャルプライス!」とか「最安値!」と、縁どりのある目立つ書体で赤く記した小さなポップが着いている。大げさな表示も、実際に相当安いという事実も、もはや日常過ぎて感動がない。
《♪This is ground control to major Tom, you’ve really made the grade...》
え。
いきなり私は気づいた。
店内のBGMはボウイのSpace Oddity。
私はその場に立ち尽くしてしまい、プライスカードをにらんだまま、全身を耳にしていた。スナック菓子の、色とりどりのパッケージの前で銅像のように固まって、しかし、不覚にも涙が込み上げてきて、にらんだ先のがっしり太文字の「95円」がぼやけて見える。Space Oddityのボウイの声が、私の脳裏に閉じていたはずのボウイの写真アルバムをめくりはじめる。用心していたのだ、ずっと。ボウイの訃報が伝わったとたん、TwitterやFacebookは彼の話題にあふれた。写真はもとより、ステージやインタビュー映像がめぐりめぐっていた。全部、見ておかなくてはという気にさせられるいっぽう、見れば見るほど悲しくなるだけだからもういっさい見ないでおこうと決めていた。私は忙しい。毎日時間のなさと闘っている。愛するアイドルが死んだといってその死を悼み悲しみの涙を存分に流し思い出に耽るなど許される立場ではないのだ。だからボウイの話題は遮断した。「その話」から頭と心は離れていた。平穏を保っていたのだ、だから。
それなのに、不意打ちにもほどがある。
商店街のスーパーは私が幼少の頃、映画館の跡に進出してきた。もう40年以上になるだろう。映画館だった建物もおぼろげながら覚えている。実際、父に連れられて怪獣映画を観によく来たはずだ。それがなくなって、スーパーマーケットになった。八百屋、魚屋、肉屋、漬物屋、豆腐屋、鰻屋、寿司屋、仕出し屋と専門店が並ぶ中、スーパーの商品は価格も品質も「ロー」である。安いのは魅力のひとつとはいえ、「ハイ」でないものにはどことなくダサさがつきまとう。だが背に腹はかえられないからここへ買いにきている。そんな場所だ。
そんな場所で。
不意打ちにもほどがある。
まさかボウイの声を聴く日が来ようとは。
しかも本人がこの世を去ったあとで。
いったいどれほどの人が「今かかっている曲はボウイのスペース・オディティだね」と認識しているだろう? たぶん私ひとりだ。ボウイを好きだった人も、彼の死を悲しんでいる人も、スペース・オディティを知る人も買い物客の中にはいたに違いないが、いま、ここで、突然鳴り出したSpace Oddityに、雷に打たれたように呆然と立ち尽くしているなんてのは、私ひとりだ。さぞかし滑稽だったろう、商品棚の前で商品だか価格表示だかを凝視したまま目を潤ませて動かない中年女。
《いつもご利用ありがとうございます》
《ショッピングをお楽しみください》
いつのまにか客向けの店内アナウンスがひっきりなしに鳴っていた。
Space Oddityについて、どなたかが情報を集めてくださっているので参照されたし。
http://matome.naver.jp/odai/2140861295841627501?&page=1
Trop triste... ― 2016/01/11 23:23:11

最愛のアイドルを失い、深い悲しみに落ちている。
嘘だ、嘘だと言ってくれ。
好んで聴いた歌手や贔屓にしていた役者が亡くなるのは辛い。若くして亡くなるとまだまだ活躍できたのにと思うし、長寿を全うして亡くなったとしてもやはり巨星が墜ちたようでしばし心にぽっかり穴があく。
ボウイは、そのどちらでもない。
もちろん、家族のように近しいわけでもないし、恋人のように分身のように熱愛していたわけでもない。ボウイは40年来、私の最愛のアイドルであり続けた。好きなミュージシャンも俳優も挙げればいくらでもいる。だけどその誰もボウイを超えたことはない。私は『戦場のメリークリスマス』に出ていたボウイよりも『菊次郎の夏』のビートたけしのほうが好きだし、『Let's Dance』のヴィデオの中のボウイより『Uptown Girl』のビリー・ジョエルのほうが愛おしい。ある分野に突出していた人はその分野でボウイと競えば勝(まさ)ったかもしれないが、ほかのすべての要素で劣る。だからトータルで誰もボウイの上をいくことはできない。
ではボウイは「さまざまなジャンルの才能を平均点以上に持ち合わせていた」といえばいいのかといえばそうではない。そんな表現では足りないし、かといってではどういえば彼の才能を、存在を言い表すことができるというのだろう? 言えやしない、ひと言やふた言では。言えやしない、いくら言葉を連ねても。
ダメだ。何を言っても陳腐になってしまう。
人生の道しるべになってくれた先達や、その著書に多大な影響を受けた研究者や批評家、愛読した作家、そのプレーにしびれた俳優や音楽家。幾人もの偉大な私の中の「せんせい」たちが亡くなった。でも、ボウイは彼らとは決定的に違う。ボウイは私の先生などではない。私はデヴィッド・ボウイのファンだ。端的に言うならそう表現するしかない。私は音楽をやらなかったし、ボウイのファッションを真似たりなんかしなかった。ボウイは小学6年生だった私の心の中にどかどかと入ってきて、以来ずっと住んでいる。本気も嘘気も合わせれば何十人と愛した男たちが入っては出て行ったけれど、居残っている男もいるけれど、誰が来ようとボウイを私は一度も心から追い出すことなく住まわせてきた。
心が周囲に壁のある部屋のような形をしているとしたら、ボウイは心の壁画のようなものだ。心を取り囲む壁に彼のピンナップがぺたぺたと貼ってあるのか、誰かが肖像画を描いたのか、はがせない、消せない、私の心を取り囲み包むボウイのあんな顔、こんなポーズ。
ボウイの写真やライヴ映像、ヴィデオクリップ、出演映画、ほとんどすべてを今は観ることができる。だからといって、そんなもの、なんにもなりゃしない。それらがたくさんあるからといって彼は生き返りはしない。観るさ、そりゃ、何度でも、堰を切ったように、ステージで歌う彼の映像を観るさ、歌声を聴くさ、ひっきりなしに、繰り返し再生して。
だけどもう生きて目の前でニッと笑ったりはしないのだ。
生きてエナメルの靴でステップを踏んだりもしないのだ。
生きて小指を離してマイクを持って「Heroes」歌ったりもしないのだ。
生きてアコースティックギターを抱えて「Space Oddity」を歌うことなんかもう絶対にありはしないのだ。
去年一年間、パリで回顧展をやったり、集大成のボックス発売したり、なんだか、何なの人生片づけに入ってるわけ?と思ったりもしたが8日の誕生日にニューアルバムを発売して、おおブラヴォーじゃないかそりゃと思ったばかりだった。
思ったばかりだった、ほんとに。
いちいちいわなくてもよかったことだけど時にしみじみと心の中の住人を思いたくなって、ほんの二年ほど前にはこんなことを書いていたのだった。
http://midi.asablo.jp/blog/2013/12/25/7155023
なんで? なんで? なんで?
死んだら終わりなんだよ。
あなたは私の中に40年前から住んでいる、だけど生きてたから住んでいたんだ。あなたが死んだって? そしたら私の中に住んでるあなたはこれからどうなっていくの? 心の中の壁画はどうなっていくの? 色褪せて消えてしまうの、ぱらぱらと劣化して剥がれ落ちていくの? 死んだあなたは今どこにいるの? ほんとうは死んだふりをしているんでしょう。棺の中からガタリとありがちな音をたてて蓋を持ち上げ、隙間から青い瞳をのぞかせてニッと笑うに決まっている。
そうに決まっている。
お願いだからそうだと言ってくれ。
On a toujours une conscience tourmentée, cela ne dépends pas du tout de l'âge. ― 2014/04/25 00:16:56

村上龍著
幻冬舎文庫(2014年4月)
行きつけの書店(けっしていちばん好きな書店ではないが)で前にもらった金券100円分があったので、文庫本でも買おうと立ち寄った。その書店のレイアウトは、会社勤めの若い男女を意識しているということのよく伝わる、わかりやすい配架になっている。こっち向いたら政治経済社会、そっち向いたら京都本著名人本スピリチュアル系心に残る言葉系。私はいつも、出入り口付近のその「参道」はすっと抜けて、実用書(旅行、料理、手芸)の壁または思想・哲学・文学系書架を眺める。買うことはほとんどない。誰が、どんなことを、どんな装幀の本の中で述べているのか、その概略をつまめたらそれでいい。いや、ほんとうは買いたいのだ、目についた本を全部。でも、我が家は私の蔵書のせいで敷居も鴨居もしなって傾き建具を引くことができないありさまゆえ、これ以上本を増やすわけにはいかない。と、けなげにもいつも諦めているのである。涙をのんでいるのである。……というのは、ほとんど嘘である。たしかに欲しい本全部は買っていない。全部は買っていないが、さんざん吟味した挙句、これだけ買うわごめんね我が家、とつぶやきながら究極の一冊を手に、それでも書架の前にしばし立ちすくみさんざん逡巡する。いったいどのくらい時間を費やすつもりなんだ早く決心してレジへ行け、と己に言い聞かせてやっとキャッシャーに足が向く。……というのはごく稀なケースである。私はたいてい時間に追われているので、そんなに贅沢に時間を費やして本を買うかどうかを迷い悩み続ける余裕はないのだ。したがって、どうしよっかなエエイ買うてまえ〜と2、3冊つかんでちゃっちゃとレジに並んでいる、というのがほとんどのケースなのである。これ以上本を増やすわけにいかないと自分に言い聞かせるようになってからもう幾年も経っている。その間、言い聞かせているのはいったい誰なのよと自問するのも時間の無駄とばかりにおおおっこれはっよし買うでえっと衝動買いに近いというか衝動買いばかりで本を買うので、本は増える。衝動買いするのは装幀の美しい本が多い。そして中身はチョー軽薄orチョー冗長orチョー説教臭いというわけで結論チョー期待外れ、だったりするので、男とおんなじだ、なんてあたしは本を見る目がないのだろう、と打ちひしがれたりする間もなく増えた本に唖然として溜め息をついている。ここ何年もの間にたしかに少なくない本を古本屋に売ったけれども、やっぱ本は増えている。私はけっして蔵書家などではない。でも我が家のキャパは超えている。しかしそうした厳しい現実から逃避するのは大得意である。で、今回のように、よく空が晴れて陽光麗しく、財布の中には金券、なんて日は、我が家の実情を忘れてルンルンと本屋へ向かうのだ。
最近の文庫は漫画単行本(コミックス)みたいな表紙が増えて、子ども向けアニメのノベライズなのかライトノベルなのかエロ漫画なのか、いや文学賞受賞作家のシリアスな小説だった、みたいなケースが多々ある。紛らわしい……。いくら文庫でももうちょっと装幀、真面目に考えようよ。そんなわけで、私は文庫に限っていえば衝動買いはしない。美しい装幀なんかないからだ。文庫の場合は、図書館で読んだ単行本にいたく感動して忘れられず、どうしても欲しいけどあの分厚い単行本は高いよな……と思っていたら文庫になっていた!よしゴーバイ!!みたいな時に限るのである。……というのは今回の場合まったく当てはまらなかった。文庫の書架の前へ来て、ケバい表紙たちに辟易しながら、なんやこれ、なんやこれ、もうちょっとさ、しゅっとして気の利いた表紙はないのんかい、持ち歩けへんやんこんなん、と心の中で悪態をつきながら、やっぱやめとこと通過しかけて、ある本に目が釘付けになった。それが本書だ。
55歳のハローワークやて、ぷぷぷっ、今のあたしにぴったりやん(私は目下プー子〈失業女〉であるから)、さすがはリュウね♪、あら、これ小林薫ちゃう? そうちゃう? そうやん、小林薫でドラマ化って帯ついてるやん、そうなんふーんテレビは見いひんけど小林薫やて、ええわあ、と、私はそのまま考えを反芻することなく、平積みになっていた本書をガッとつかんで、文庫を生まれて初めてと言っていいだろう、衝動買いした。
表紙はイラストで、熟年男女が手をつないでいる後ろ姿だが、斜め後ろから見える男の目元が小林薫だった。私は小林薫を激しく好きである。状況劇場に所属していた頃からのファンである。おっさんになってもほんまにええ男である。
平日の昼間のせいかレジカウンターにはキャッシャーがあまりいなくて、しばし列の後ろで待った。そのあいだに、表紙、そして帯をよく眺めると、55歳のハローワークじゃなくて『55歳からのハローライフ』なのだった。ワークじゃなくてライフ(笑)。ワイフでもなくてライフ。なんやねん、それ。あ、そうか。再就職の話ではなくて、人生の再出発の話なのだ。
子どもが成人して一段落した時にふと配偶者を眺め、「嫌」だという思いが募って離婚に踏み切る。定年前に会社をリストラされるが再就職の望みは薄い。早期退職して夫婦で旅行したかったのに妻は乗り気でなく。ある日ふと出会った女、熟年を迎えて生まれて初めて女にときめいたのに。とか、どれもこれも、身につまされる(笑)。
中編小説が5編収録されていて、どれも、読ませる。さすがはリュウね。本書には、いつもうじゃうじゃ出てくる変態オヤジは出てこないが(ひとりだけ出てくるが主要人物でない)、そのぶん、まともでまっとうな一小市民の人生にこれほどまでに苦悩と困難があるのか、でも、そうだよな、みんなそうだよなと、うんうんわかるわかると読み進むのである。読み進むが、結末まで来て、なんだか説教臭い終わりかたに、釈然としない。村上龍は述べている。この小説の主題は、中高年にエールを送ることだ。しょぼくれてないで、顔をあげて前を向いて、まだまだ続く未来への道を歩こう。そう元気づけるために書いたという。主人公たちはみな作家と同世代で、作家は非常なシンパシイを感じつつ書き進み、読者がよしオレもアタシも頑張ろっと前向きになってくれたらいいと願った、みたいなことを述べている。
ま、それはいいけど。
最後の5行くらいで、妙に主人公が希望に満ちたり、再出発を誓ったり。つまりは、いい方向へ向かって終わるのだが、中編小説集でどれもそういうふうに終わられると、ちょっとつまらない。この中編小説集の趣旨が最初から55歳へのエールだからしょうがないと言えばしょうがないのだけど、救いようのない話がひとつぐらいあってもいいのに(笑)と思うのは私だけだろうか。
思えば村上龍の作品は、変態オヤジがよく出てくるとはいえ、どちらかというと未来に希望のもてる終わりかたをするものが、もともと多いかもしれない。ここで引き合いに出すのはあまりに唐突だが、村上春樹はラストで読者を突き放して置いてきぼりにするのが常套手段だ。けったいな話が、それで妙にリアリティに満ちる。
本書の物語はいずれもたいへんよくある話で、自分の身に起こってもおかしくはなく、だからそれだけに、さまざまなエピソードののちに、主人公がわかったふうなことをつぶやいて終わるかたちをとっていることで、リアリティが減じている。残念。物語の起伏や挿話の運ばれかたも隙がなく、とても面白い。小説ってこう書くのね、の見本みたいである。でも、ひとつぐらいは主人公とその相方が奈落の底に落ちる話でもよかったのに(しつこい?)。
《うんと遠くにいる相手のところまで行って大切な何かを伝えるって、それだけですごい価値がある気がする。》(63ページ「結婚相談所」)
Poisson d'avril ― 2014/04/01 22:23:05
けさ、友達に会いに行くために阪急電車に乗ったんだよ。そんなに混んでなくて、座席はぽつ、ぽつ、と空いていて、どっちに座ろうかなとほんの百分の一秒迷ったね。私の前にいた若い女の子がためらわずすたすたすたと進んで車両の真ん中あたり、同じような若い女性とおぼしき茶髪の頭部が見える座席の隣にすっと座った。それにつられて私も前に進みそうになり、茶髪ガールのすぐ斜め後ろに空席を見つけたのだけれど、ふとその空席の隣にはすでに背広の男性が座っていた。う、と思って自分のすぐ脇を見下ろすとそこにも空席があり、その隣を占めていたのも背広の男性だった。私はそれ以上前に進むのをやめて即座にすぐ脇の座席に身を沈めた。茶髪ガールの斜め後ろの背広と、今や私の隣にいる背広との違いは、前者はオヤジで後者は若者であるという違いに他ならない。前者がオヤジであるとなぜわかるのか、座席の背もたれ越しに頭が見えるだけなのに、とおっしゃるのかね。頭で十分だよ、いうまでもないだろ、ハゲなの、ハゲ。きれいなスキンヘッドならさ、これまたちょっと話は違うんだけどね、その背広氏のハゲの直径は7センチくらいで、中途半端にとてもハゲだったさ。私はね、車窓から沿線の桜を眺めたかったのよ。阪急沿線には桜が多くて、通勤していた時代にも、この季節は車中花見が楽しみだった。通路側に座ったら、隣の誰かの横顔越しに窓の外を見ることになるから隣の誰かが誰であるかは重要なのである。そこしか空席がなかったら、私ももう年増やけん、ハゲでもスケベでも座ったが、ここに若い男の子がいるのになんで座らない理由があろうか。したがってハゲは却下。
若い男の子といっても特別にイケメンだったわけではない。座って車窓を見るふりしてその横顔を舐めるように(笑)眺めたが、好みにはほど遠い(ごめんね。あ、前の背広氏もごめんね。ハゲに罪はないのよ)。そして、驚くべきことと言うべきかどうかわからないが、彼(に限らないと思うけど)はほとんど微動だにせず、動かすのはスマホの画面を滑る指だけだった。ほんとにぴくりともせず、右手の指だけが、四角い薄っぺらい機械の上をすっすっと動くだけなのだ。彼は梅田のひとつ手前の十三で降りたが、「次は十三〜」のアナウンスが流れて初めて指の動きを止めて膝に置いていた鞄を持ち上げ、一度座り直し、上着を直し、立ち上がり私の膝の前をすり抜けるように去った。……のだがそれだけが私の見た彼の「人間らしい動作」で、「次は十三〜」があるまで、すっすっ……すっすっ……だけだったのである。これ、なかなかすごいことである。そんなに集中できるのね、スマホ操作に。
帰りの阪急電車の中では、向かい合った4人座席のひとつに座ったが、私以外の3人が全員、行きの電車の彼と同じことを始めた。全員を間断なく観察していたわけではないけれども、すっすっ……すっすっ……3人ともすっすっ……すっすっ……すっすっすっ……おおお、まったくすごい集中力。目がよってるよお嬢さん。ぴくりとも動かずに何かに熱中するそのエネルギー、ほかの何かにつかったほうがいいんじゃないの。
相変わらずラジオはマティニョン宮に到着した新首相のことばかり喋っている。ああ、ダニエル・オトゥイユの映画、観たくなったよ。すごく観たくなったよ。
Santé! ― 2014/02/09 02:56:57

1 est defini comme le successeur de 0, mais... ― 2014/01/09 18:32:58
『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)
「一(いち)」とは何だろう。
「一つ(ひとつ)」に含まれるのはどこからどこまでか。
自問してみるも、明快な答えにはたどり着けない。たどり着けないけれど、それでも、ひとりひとりがそれなりに「一」を認識し、意味するところをわかったつもりで言葉として用いている。「一(いち、ひと)」のつく言葉は多い。夥しい。昨今、「一段落」を「ひと段落」と発音する誤用が蔓延し、こともあろうに公共の電波でアナウンサーまでが誤用している。しかし、誤用は時を経て「それも間違いとは言えない」となり、やがて「それが正しい」となってしまうのだろう。「あらたし」が「あたらしい」と誤用されるうち通用したように。だから、ま、今回、そこは措く。
人はいったいいつから「一」を認めるのか。「一」とは数字であるがゆえに、数学者はこの「一」というものについて整然たる理路でもって解説できるのではないかと思われがちだが、本書の中で岡は、数学では「一は何であるかという問題は取り扱わない」と断言している(103ページ)。だが、だからといって「一」のことを「あるかないかわからないような、架空のものとして」扱っているわけでもない(104ページ)。「内容をもって取り扱っているのです」(同)。
では、「一」の内容とは何だろう。
数学的には考えも及ばないから、自分の体感で述べたいが、「いち」とか「ひとつ」とかいうとき、それはあるときは「個」であり、あるときは「全」であるといえる。
個別対応をする、とは、十把一絡げでなくひとりひとりに相(あい)対するということだ。あるいは、その人の、またはその家庭の状況を斟酌して採るべき処置を検討するということだ。
個性豊か、だとか、個性を尊重、だとかいうけれど、これもいわばある種の個別対応だ。人をその集団でなく、ひとりずつ別の要素としてみる。評価する。
長い行列をつくって歩く蟻たちを黒い紐状の線を描く集団ではなく、一匹一匹、虫としての個体を見つめ、その生に思いを馳せるとき(笑)、その思考は蟻の個性を尊重し、蟻に対して個別対応をしているといえるだろう。
全力を尽くす、とは、「私」の持てる力を全部何かに注ぎ込むことだ。その時の「全力」は、「私」という「ひとり」の人間に宿るものである。
全身にみなぎる力、とは、「私」という「ひとり」の人間の体に満ちる力である。
全校生徒、とは、ある「ひとつ」の学校に属する生徒のことである。
全国大会、とは、日本という「ひとつ」の国の代表にふさわしい「一番」を決する大会である。
唯一とは、たったひとつのことだけど、統一とは、実に多くのものを内包したうえで成し遂げられるものである。唯一は、「私」の気持ち次第で何でも「唯一」と認めることができ、他者に異議を唱える権利はないけれど、統一は、「私」の気持ちのほかに他者の同意が必要だ。
彼は唯一無二の親友だ。(ふうん)
これが唯一、わたしの家にあってもいいと思えるデザインなの。(あっそう)
父について唯一許せないのは足が臭いことよ。(だろうな)
今日はブルー系で統一してみたわ。(何言ってんの、靴が赤いよ。ダメ)
体育祭用のクラスTシャツをボーダー柄で統一したいんだが。(そりゃ反対意見が噴出するよ)
秀吉がやったようにこの国を統一したい。(アンタじゃ無理よ。ホントに戦(いくさ)するつもり? 馬鹿だね)
人間の体を構成する細胞や遺伝子に至るまで、小さな「一」については無限にその「個体」を追究することができる。いっぽうで、世界はひとつ、地球はひとつ、宇宙はひとつ……と、大きな「一」も無限に膨張する。
私たちはもはやその両極端のきわみまで、とりあえず、理屈で、理解することができる。
冷静に考えて、素晴しいことだと思う。「一」という概念はミニからマックスまですべてに適用可能なのだ。それを無意識に私たちは使いこなしている。
このこと以外に「一」は順序を決めたり数を数えたりするためのカウントの道具の最初のかけ声である。いち、に、さん。ひとつ、ふたつ、みっつ。カウントする際の「一」に個性も全身もない。また、3-2=1(3ひく2は1)と解を求めたときの「一」にも、唯一だの統一だの、意味はない。そのことも、私たちは使い分けている。
《小林 岡さん、書いていらしたが、数学者における一という観念……。
岡 一を仮定して、一というものは定義しない。一は何であるかという問題は取り扱わない。
小林 つまり一のなかに含まれているわけですな、そのなかでいろいろなことを考えていくわけでしょう。一という広大な世界があるわけですな。
岡 あるのかないのか、わからない。
小林 子供が一というのを知るのはいつとかと書いておられましたね。
岡 自然数の一を知るのは大体生後十八ヵ月と言ってよいと思います。それまで無意味に笑っていたのが、それを境にしてにこにこ笑うようになる。つまり肉体の振動ではなくなるのですね。そういう時期がある。そこで一という数学的な観念と思われているものを体得する。生後十八ヵ月前後に全身的な運動をいろいろとやりまして、一時は一つのことしかやらんという規則を厳重に守る。その時期に一というのがわかると見ています。一という意味は所詮わからないのですが。
小林 それは理性ということですな。
岡 自分の肉体を意識するのは遅れるのですが、それを意識する前に、自分の肉体とは思わないながら、個の肉体というものができます。それがやはり十八ヵ月の頃だといえると思います。
小林 それが一ですか。
岡 数学は一というものを取り扱いません。しかし数学者が数学をやっているときに、そのころできた一というものを生理的に使っているんじゃあるまいかと想像します。しかし数学者は、あるかないかわからないような、架空のものとして数体系を取り扱っているのではありません。自分にはわかりませんが、内容をもって取り扱っているのです。そのときの一というものの内容は、生後十八ヵ月の体得が占めているのじゃないか。一がよくわかるようにするには、だから全身運動ということをはぶけないと思います。
小林 なるほど。おもしろいことだな。
岡 私がいま立ちあがりますね。そうすると全身四百幾らの筋肉がとっさに統一的に働くのです。そういうのが一というものです。一つのまとまった全体というような意味になりますね。だから一のなかでやっているのかといわれる意味はよくわかります。一の中に全体があると見ています、あとは言えないのです。個人の個というものも、そういう意味のものでしょう。個人、個性というその個には一つのまとまった全体の一という意味が確かにありますね。
小林 それは一ですね。
岡 順序数がわかるのは生まれて八ヵ月ぐらいです。その頃の子に鈴を振ってみせます。初め振ったときは「おや」というような目の色を見せる。二度目に振って見せると、何か遠いものを思い出しているような目の色をする。三度目を振りますと、もはや意識して、あとは何度でも振って聞かせよとせがまれる。そういう区別が截然(せつぜん)と出る。そういうことで順序数を教えたらわかるだろうという意味で言っているのです。一度目、二度目、三度目と、まるっきり目の色が違う。おもしろいのは、二度目を聞かしたとき、遠い昔を思い出すような目の色をする。それがのちの懐しさというような情操に続くのではないか。だから生後八ヵ月というのは、注目すべき時期だと思います。》(「「一」という観念」102~105ページ)
本書の中で、この「一」に関するわずかな記述が最も共感を覚えた部分であったことを白状しよう。この最強の雑談の内容をブログで紹介しようと思ったのも、この「一」についての岡の記述を書きとめたい一心だったのである。しかし、それは本の後半だし、なんだか数学者が乳児の成長論みたいなことをゆってるとこだけを切り取って披露するのもちょっと違うと思ったのだった。つらつらと、いかに本書がエキサイティングか、深読みできるか、現代に通じるか、この数学者がどれほどエエ男か、なんてことを書き連ねてやっとたどり着いた(笑)わけだが、自明のことを、誰もがそんなのわかりきってるやんと思っていることこそをを解きほぐしてきれいに説明してみせる技は、暮れに書いた谷川俊太郎も実はそうだし、愛するウチダはもちろん、わっしいこと鷲田清一、虫ジジイの解剖学者養老大先生もそうだし、未だに喪失のショックから立ち直れない亡き西川先生もその技に長けておられたのだった。ということは、研究ジャンルや職業に関係なく、語りに説得力のある人というのはいつの世もあちこちに存在してくださる。そしてある共通項をもっている。人としての情緒を豊かに涵養できる世でありたい。普通に生きるのが当たり前の世でありたい。争いは何も生まないし、戦争は愚かな振る舞いである。過剰な科学技術は武器や爆弾の例もあるように破壊に通じるだけである。――といったことがその思索の根底にあり、揺るがないのである。
Trop beau pour moi...!!! ― 2013/12/25 23:09:36






"La vie est ailleurs." ― 2013/11/21 17:10:35









Tu peux enlever de la peau de pomme sans cassée? ― 2013/10/31 20:02:26
『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)
ある知人が、齢93になるさる御方から茶を習っている。93という御歳で人にものを教えることができるという、その事実だけでもうひれ伏したいくらい尊敬に値する。わたしは茶道はまったく門外漢だが、そのことは今さらどうしようもないので恥じることはないと思っている。しかし茶道を心得た人(にもいろいろあるので一概には言えないけれども)はおしなべて態度が謙虚で(態度だけだったりもするけど)、気働きにすぐれている。気が利くのである。みなまで言わずとも判じるのである。冴えているわけである。さらに、茶を嗜む人は食事の時など手の動作が美しい。もちろん立居振舞もたおやかできれいだ。それは、舞踊をする人のピシッと背中の伸びた美しさとはちょっと違う。もう少し、体の重心が下に位置しているような、そして危なげなく、しかしけっしてどっしりしているのではなくて、和服の裾さばきも軽やかに、しなやかに動作されるのである。凛々しさとなよやかさが共存し均衡した美しさを保つのは日本人のなせる業だと思うのだがどうであろうか。
知人が知る茶人には90を超えた人がぞろぞろいるといい、どの御方もしゃきっとなさってて頭脳明晰言語明瞭、茶の湯の心を後世に伝えねばという使命感の強さには圧倒されるという。知人の師匠も、そうと知らずにそのかたを街角で見かけたらたぶんただの縮こまったお婆さんにしか見えないのだ。見えないのに、ひとたび茶室に入ったら彼女は縮こまった婆さんなどでは全然なく、360度の視界をもち些細な瑕疵も見逃さず間髪入れずに叱咤するスパルタ師匠なのである。怖い(笑)。
美を愛でる、美を追求するということは特別なことではない。足元に落ちてきた枯葉の色に季節を感じたり、絵具では出せない微妙な色を見出したり、その葉にもかつて命が宿っていたことに思いを馳せたり。だか、といったようなことは、いちいち言葉にするとめんどくさいが、人であれば瞬時に心をよぎるのである。きらりん、とからだのどこかに響くなにものかだ。理屈でなく、情緒なのである。いい男とすれ違うその瞬間に胸キュンとなるその感じ、それはただキュンとするだけである。ただううっとかおおっとか胸に迫るものがあったり、ぎゅっと心をつかまれたりぐりぐりされたりする感じ。おお、前からよさげなスーツを着て歩いてくる30代後半とおぼしき青年は目鼻立ちがすっきりくっきりしていてなかなかイケメンな感じだわおいしそうだわつまみぐいしたいわ、なんて、言葉にしてしまうとたしかにこれくらい、あるいはこれ以上の感動(?)を、0.001秒くらいの間に胸に響かせているにしても、言葉でなく情緒で人は喜怒哀楽を素直に感じては吐露するものなのである。毎秒のように。
情緒豊かな人は、生命の尊さにあふれているのである。それは純粋である。
《岡 情緒というものは、人本然のもので、それに従っていれば、自分で人類を滅ぼしてしまうような間違いは起きないのです。現在の状態では、それをやりかねないと思うのです。》(「人間と人生への無知」45ページ)
《岡 (前略)欧米人には小我をもって自己と考える欠点があり、それが指導層を貫いているようです。いまの人類文化というものは、一口に言えば、内容は生存競争だと思います。生存競争が内容である間は、人類時代とはいえない、獣類時代である。》(「人間と人生への無知」48ページ)
《岡 (前略)何しろいまの理論物理学のようなものが実在するということを信じさせる最大のものは、原子爆弾とか水素爆弾をつくれたということでしょうが、あれは破壊なんです。ところが、破壊というものは、いろいろな仮説それ自体がまったく正しくなくても、それに頼ってやった方が幾分利益があればできるものです。(中略)人は自然を科学するやり方を覚えたのだから、その方法によって初めに人の心というものをもっと科学しなければいけなかった。それはおもしろいことだろうと思います。(中略)大自然は、もう一まわりスケールが大きいものかもしれませんね。私のそういう空想を打ち消す力はいまの世界では見当たりません。ともかく人類時代というものが始まれば、そのときは腰をすえて、人間とはなにか、自分とはなにか、人の心の一番根底はこれである、だからというところから考え直していくことです。そしてそれはおもしろいことだろうなと思います。》(破壊だけの自然科学)55~58ページ)
《岡 (前略)つまり一時間なら一時間、その状態の中で話をすると、その情緒がおのずから形に現れる。情緒を形に現すという働きが大自然にはあるらしい。文化はその現れである。数学もその一つにつながっているのです。その同じやり方で文章を書いておるのです。そうすると情緒が自然に形に現れる。つまり形に現れるもとのものを情緒と呼んでいるわけです。
そういうことを経験で知ったのですが、いったん形に書きますと、もうそのことへの情緒はなくなっている。形だけが残ります。そういう情緒が全くなかったら、こういうところでお話しようという熱意も起らないでしょう。それを情熱と呼んでおります。どうも前頭葉はそういう構造をしているらしい。言い表しにくいことを言って、聞いてもらいたいというときには、人は熱心になる、それは情熱なのです。そして、ある情熱が起るについて、それはこういうものだという。それを直観といっておるのです。そして直観と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ見向きもしない。そういう人を私は詩人といい、それ以外の人を俗世界の人ともいっておるのです。(後略)
(中略)
岡 きょう初めてお会いしている小林さんは、たしかに詩人と言い切れます。あなたのほうから非常に発信していますね。》(「美的感動について」71~74ページ)
情緒豊かな人は、詩人でもあるだろう。やなせたかしは詩人だった。わたしは、たった1冊持っているやなせたかしの詩集の中の、りんごの皮を切れないようにむく、という短い詩が好きだった。切れずに長く手許から下がっていくりんごの紅い皮、それはまるで赤い川のようでもあった。彼のその詩を読んで以来、わたしはりんごの皮を剥くときはただひたすら切れないように剥くことだけを念頭において剥くようになった。あとから実を切り分けること、芯を取り除くこと、食べること、料理に使うことなど何も考えず、巻きぐせのついたリボンのようにくねくねと垂れ下がるりんごの皮の姿を想像しながら(だってそれをリアルに見ながら剥くことはできないから)。何年も何年もあとになって、小学校の家庭科の宿題にりんごの皮むきをマスターせよといわれた娘が、不器用な手で、無心に、りんごの皮を切れないように丁寧に剥く、その剥かれて垂れ下がるりんごの皮を見てわたしは、昔好んだやなせたかしの詩の数々を思い出した。今は我が家では、りんごは皮を剥かずにいただくのを常としているので、もうりんごの皮を切れないように剥くことはしなくなった。それでもわたしはりんごを使って料理をするとき、やなせたかしの詩のフレーズと、切れることなく剥けたりんご1個分の「赤い川」、得意げにそれを両親と弟に見せる自分、娘に見せる自分、わたしに見せる娘、そしてそれぞれの感嘆の声などが、ひゅんひゅんと脳裏を交錯するのを感じる。だからどうだということはない。これまでもなかったし、いまもない。やなせたかしさんは矍鑠としていつもお元気そうだった。おそらく亡くなる間際まで、しゃきっとして、りんごの皮を切れないように剥いておられたであろう。きっとそうに違いない。詩人だったから。
Parce que c'est l'imagination, le math! ― 2013/09/17 19:13:31
『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)
「史上最強の雑談」についてのコメントを再開。購入以来何度も繰り返し読み、ブログに感想を綴り始めてからも幾度となく読了しているし、読めていないわけではないのだけど、あまりにも内容が「この国の今」への忠言めいていて、ふんふんふーんと読み流し&書きなぐるわけにはいかないという意識が強く働いてしまって、ブログに書くならきちんと書かないとな、と思って先送りばかりしているのである。やっとアップできる程度にまとまった(かな?)。
まったくもって本当に痛快、半世紀前の対談とは思えないほど、現在に通じる。
数学者の藤原正彦さんが著書『祖国とは国語』のなかでさかんに「情緒」という言葉を使っているが、数学をやる人って、数字と記号と図形とx軸・y軸しか頭の中になさそうなのに(失礼。笑)、意外とロマンチストであり芸術家肌であり、花鳥風月を愛でる人だったり、センチメンタルで涙もろくて夢追い人だったりする。
高校時代に習った数学教師は二人いて、どっちの発言だったか覚えていないが、
「平行線は永遠の彼方で交わるんだよ」
私は耳を疑ったものだ。ほんとうに交わるのかどうかはどうでもいいが、そいつ(つまりガチガチの数学教師)の口から「永遠の彼方」なんつう言葉が出てくるなんていう事実に仰天した。
私はますます数学と数学者を敬遠するようになり、美大時代は、一年次で単位取得すべき一般教養科目群に数学も並んでいたし、デザイン学部はほぼ全員が選択していたが、恐ろしくて避けたのだった。何を恐れたのだろう? 数学教師に惚れてしまうのを恐れたのである。
人は見かけによらない、とよく言う。私は「見かけによらない内面」をもつ人にてんで弱い。顔はイケてないけどハートはイケメン、ガリガリ痩せっぽちだけど力持ちで寛容。そんな人、素敵やん。私の中でステレオタイプのように在る「Aの人はア」「Bの人はイ」という図式にあてはまらない、「Aなのにイ」みたいな人に出会うとわりかし簡単にノックアウトされるのである。ま、それで失敗も多々あるけれど。
(だって往々にして「Aなのにイとみせかけてやっぱしコチコチのア」だった、ってことはよくある。笑)
数学系の人を避けて生きていたはずだけど、まさかの留学中に引っ掛かってしまった。夏季集中講座受講のために滞在したグルノーブル大学の9月期のクラスで、ドイツのカールスルーエから来たステファンに出会った。隣り合わせに座り、会話のレッスンなどで組むうち意気投合してクラスの前後にお茶したり食事したりするようになった。ソフトな外観に舌足らずなドイツ訛りのフランス語がキュートだった。一緒に街を歩くときはよく画廊を覗いた。展示作品を観て「なんだか主張が感じられないわ」「観る人に媚びてるような受け狙いの作品ね」などと私が知ったふうな口を利くと、「僕は門外漢だからわからないなあ」「きれいなものはきれいだし、やあきれいだな、ハイ終わり、でも別にいいじゃん」なんて言う。ある抽象的な立体作品についてどう思うか聞いたとき。彼は「これ、作者の恋心だな、きっと。もやもやしてて不定形だけどカラフル。恋愛ってそういう感じじゃん?」と、ドイツ人にしては気の利いたセリフを吐いた。なかなかやるなおぬし、みたいな気持ちが私の中にむくむくと起き上がりつつあった。
でも、私はモンペリエに引っ越すことが決まっていたので、あまり親しくし過ぎないようにしようと思っていた。すでにグルノーブルにたくさん友達ができていて、彼ら彼女らと別れるかと思うとけっこう辛かった。ステファンは私に何度もホントにモンペリエ行っちゃうの?と訊いた。ステファンはグルノーブルに残って正規学部生として学業を続けることになっていたのだ。
「ここで何の勉強するの? 何の専攻?」
「数学だよ」
ステファンは数学専攻の学生だったのである。なんと、まあ。どうしよ。私は、自分の気持ちが歯止めの効かないほうに移動しつつあるのをはっきりと感じていた。ヤバい。
「数学を学ぶ者にとってフランスってのは特別な国なんだ」
「どうして?」
「有名な学者はみんなフランス人で、数学者か哲学者あるいは両方だろ」
「そうなん? 私知らない。あ、パスカルとか?」
「また大人物を例に出したもんだね(笑)。もっと近いところでもたくさんいるんだよ、○○とか△△とか……」
「ふーん」
「それに、フランスで数学を学ぶことにもすごく意味があるんだよ」
「なんで?」
「だって数学はイマジネーションだからさ」
*
「だって数学はイマジネーションだからさ」
ゆってくれるじゃないの、ステファン。このときの私に、高校時代の教師の言葉「永遠の彼方」の記憶が蘇ったわけではなかったけれど、「印象を裏切る数学者の公式」が体感としてどこかに残っていたのだろう、私は自分で「今まさに数学者にノックアウトされかかっている自分」を感じていた。
本書『人間の建設』は、私の時空を超えたアイドル小林秀雄の著書だから買い求めたのだが、上で述べたような気持ちの揺れ動きを、雑談相手の数学者・岡潔に感じている。
というより、小林が数学者と対談していることは表紙にも帯にも明記してあるのだから、私は最初からそれと知ってこの本を読み始めたのである。つまり、青春時代、数学者に覚えたときめきを追体験したかったのだろうか。あの日あの時の数学系男子を捕まえときゃ、今の体たらくはなかったかもしれないなあ。
なんて悔恨を反芻するだけはつまらないから、ここはひとつ、めいっぱい岡潔にときめいちゃうことにする。おほほほほ。
《岡 (前略)欧米人がはじめたいまの文化は、積木でいえば、一人が積木を置くと、次の人が置く、またもう一人も置くというように、どんどん積んでいきますね。そしてもう一つ載せたら危いというところにきても、倒れないようにどうにか載せます。そこで相手の人も、やむを得ずまた載せて、ついにばらばらと全体がくずれてしまう。これ以上積んだら駄目だといったって、やめないでしょうし、自分の思うとおりどんどんやっていって、最後にどうしようもなくなって、朝鮮へ出兵して、案の定やりそこなった秀吉と似ているのじゃないですか。いまの人類の文化は、そこまできているのではないかと思います。(中略)欧米の文明というものは、そういうものだと思います。
(中略)
小林 数学の世界も、やはり積木細工みたいになっているのですか。
岡 なっているのですね。いま私が書いているような論文の、その言葉を理解しようと思えば、始めからずっと体系をやっていかなければならぬ。
(中略)
小林 それが数学は抽象的になったということですね。そういう抽象的な数学というものは、やはり積木細工のようなものですか。
岡 いろいろな概念を組合わせて次の概念をつくる。そこから更に新しい概念をつくるというやり方が、幾重にも複雑になされている。(後略)》(「数学も個性を失う」29~31ページ)
原発なんか張子細工やんけと思っていたが、積木細工のほうがぴたりとくるかもな。ジェンガみたいなもんかもな。
《岡 (前略)世界の知力が低下すると暗黒時代になる。暗黒時代になると、物のほんとうのよさがわからなくなる。真善美を問題にしようとしてもできないから、すぐ実社会と結びつけて考える。それしかできないから、それをするようになる。それが功利主義だと思います。西洋の歴史だって、ローマ時代は明らかに暗黒時代であって、あのときの思想は功利主義だったと思います。人は政治を重んじ、軍事を重んじ、土木工事を求める。そういうものしか認めない。現在もそういう時代になってきています。ローマの暗黒時代そっくりそのままになってきていると思います。これは知力が下がったためで、ローマの暗黒時代は二千年続くのですが、こんどもほうっておくと、すでに水爆なんかできていますから、この調子で二千年続くとはとうてい考えられない。徳川時代はずいぶん長いと思うけれども三百年です。このままだとすると、人類が滅亡せずに続くことができるのは長くて二百年くらいじゃないかと思っているのです。世界の知力はどんどん低下している。それは音楽とか絵画とか小説とか、そんなところにいちばん敏感にあらわれているのじゃなかろうかと思うのです。音楽だって絵画だって美がわからなくなっている。(後略)》(「数学も個性を失う」33~34ページ)
現代日本はローマ時代より明らかに知力が低いから暗黒時代なんてもんじゃないよね。ずっと先の未来で、人類が今の私たちの時代を振り返ったときなんと形容するだろう? 暗黒より暗くて黒い、闇夜より泥沼より奈落の底より暗い社会。首脳の「脳」の程度が低くて、人種差別や弱い者いじめは得意な国。金儲けが下手だから余計に躍起になってカネカネカネと目を血走らせる国。そんな国に洗脳され、人と自然が共存していた本来のこの郷土の美しさを忘却の彼方へ放り投げてしまった人々。
《小林 (前略)たとえばベルグソンがアインシュタインと衝突したことがあるのですが……。
(中略)
ベルグソンに「持続と同時性」というアインシュタイン論があるのです。アインシュタインの学説というものは、そのころフランスでも、もちろん専門的な学者だけが関心をもっていたもので、ああいう物理学的な世界のイメージがどういう意味をもつかということは、だれも考えてはいなかった。はじめてベルグソンがそれに、はっきりと目をつけたわけです。
岡 おもしろいですね。
小林 それで批評したのですが、誤解したのですね。物理学者としてのアインシュタインの表現を誤解した。それでこんどは逆に科学者から反対がおこりまして、ベルグソンさん、ここは違うじゃないかといわれた。ベルグソンはその本を死ぬときに絶版にしたのです。
岡 惜しいですね。それは本質的に関係がないことではないかと思いますね。
小林 ないのです。というのは、私の素人考えを申しますと、ベルグソンという人は、時間というものを一生懸命考えた思想家なのですよ。けっきょくベルグソンの考えていた時間は、ぼくたちが生きる時間なんです。自分が生きてわかる時間なんです。そういうものがほんとうの時間だとあの人は考えていたわけです。
岡 当然そうですね。そうあるべきです。
小林 アインシュタインは四次元の世界で考えていますから、時間の観念が違うでしょう。根本はその食い違いです。
岡 ニュートン以後、物理学でいっている時間というものは、人がそれあるがゆえに生きている時間というものと違います。それは明らかに別ですね。
小林 そこが衝突の原因なんです。
岡 そうですか。そんなところで衝突したって。絶版にする必要がないのに。
小林 だから、おれとおまえとは全然ちがうのだ、といってしまえばよかったのです。》(「科学的知性の限界」35~37ページ)
雲仙岳噴火から22年、奥尻島の津波から20年、阪神大震災から18年が過ぎた。新潟中越地震から9年、台風23号からも9年、東日本大震災から2年半、台風12号から2年が過ぎた。
でも、数字は物理的時間でしかない。被災した人、災害で大切な人を亡くした人、生活を根こそぎ奪われた人たちにとっては、時間のカウントなど意味をなさない。私たちはコンマ01秒単位の世界で記録に挑むアスリートの活躍に一喜一憂するが、そこでカウントするタイムと日々生きながら流れる時間とは種類が違う。
《岡 (前略)数学の体系に矛盾がないというためには、まず知的に矛盾がないということを証明し、しかしそれだけでは足りない、銘々の数学者がみなその結果に満足できるという感情的な同意を表示しなければ数学だとはいえないということがはじめてわかったのです。じっさい考えてみれば、矛盾がないというのは感情の満足ですね。人には知情意と感覚がありますけれども、感覚はしばらく省いておいて、心が納得するためには、情が承知しなければなりませんね。だから、その意味で、知とか意とかがどう主張したって、その主張に折れたって、情が同調しなかったら、人はほんとうにそうだとは思えませんね。そういう意味で私は情が中心だといったのです。そのことは、数学のような知性の最も端的なものについてだっていえることで、矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。感情なのです。そしてその感情に満足をあたえるためには、知性がどんなにこの二つの仮定には矛盾がないと説いて聞かしたって無力なんです。(中略)矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。(中略)人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです》(「科学的知性の限界」39~40ページ)
数学の世界だけではないだろう。iPS細胞とやらについても、はたしてみんな「感情」が納得しているのか? 山中教授はとてもナイスガイなので彼の業績にケチをつける気は全然ないけれど、私は、それでいったいヒトをどうしようというの? とでもいえばいいだろうか、ある種の、釈然としない何か、腑に落ちない何かがつっかえて、素直にすごいすごいといえなかったりする。
画期的研究についてさえ、そういうケースはあるのだから、あほぼんどものやってるママゴト政治なんざ矛盾だらけであり、それを解消する知性なんざ彼らにはかけらもない。ましてや誰の「感情」も、極右あほぼんどものお遊びを受容したりするわけはないのである。ああ、もういい加減にしてくれよな。
それにしてもときめくでしょ、岡潔!