Et le Math perd son caractere, c'est ca?2013/04/16 21:51:11

史上最強の雑談(4)

『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)


私たちは著名人に弱い。ジャンルを問わず、弱い。私など、取材で名の知れた人に会うことが決まった時は周囲に言いふらすし(おいおい、守秘義務は? 笑)、印刷物が上がったら上がったでニーズのない人にまで配りまくって不思議な顔をされる(「これ、何? この人興味ないんですけど?」)。「その道」の権威から売れない芸人まで、世界を股にかける芸術家からローカルな地元の名士さんまで、これまでさまざまな人に会ってじかに話を聞く機会に恵まれた。それで感じることは、いったん名が売れてしまったら、その名が独り歩きし勝手に当人の人格をつくりあげて流布する危険性とつねに背中合わせで、その事実がその人を強くもするし、潰しもするということだ。私のこれまで会った人たちは幸いその世界で生き延びておられるようである。会って初めてとても素敵な人であるとわかったケースもあれば、あんなに憧れていたのに今日の取材をあんなに楽しみにしていたのに幻滅したあ~、なんてケースもある。最初から「好かんなー」と思っていて、やはりその気持ちを変えることができなくて「やっぱし好かん」人もある。

ダンサーを目指す娘には、範としたいダンサーが何人かいて、DVD鑑賞したりYouTubeで動画を観たりしてつねづね意識している。それ以外にも、評判をとるダンサーには必ず素晴らしい長所があり、部分的にも見習う点がいくつもあるのでこれまたよく見て勉強している。だが、いくら世界が「現代のトップ」「彼女の右に出るもの未だ皆無」と称賛しても、娘にとっては「あんまり好きちゃうねん、この人の踊り」的な、あるダンサーがいる。超ビッグネームのプリマである。バレエを好きな人はみんなこのプリマを好きと言う。でもでも、娘は「好きちゃうねん」。そりゃ、しゃあない。誰にでも何にでも好き嫌いはあるっつーこった。
たとえば、日本女性全員がイエスといっても私だけは絶対ノーというであろう問いに「キムタクはイケメンか?」というのがある(誰も問わないけど)。仮に、ウチの三軒隣に呉服屋とか乾物屋があったとしてそこの若旦那がああいう顔をしていたら私は彼がイケメンであることを大肯定したであろう。しかし、そうではない。キムタクは芸能人で、ジャニーズで、トップアイドルなのだ。こういう世界に生きる人が「イケメン」であるというとき、一般人を「イケメン」というとき、その「イケメン」の基準は同じであってはいけないと思う。ま、それはどうでもいいが、全員が是としても自分だけが非ということはよくある。

このケースと同じで(同じか?)娘はその「世界が認めるプリマ」の舞台映像を見ても「なんか違う」と感じ、好きになれないでいたのだ。
だが、その当のプリマに先月の海外遠征で指導を受ける機会があった。スタジオで指導をする彼女の一挙手一投足、その声の透明さと張り、明朗で説得力のある言葉、どれもが娘を魅了した。白鳥や妖精や王妃を踊る舞姫ではなく「一指導者」としてそのダンサーを仰ぎ見たとき、「なにがなんでもこの人の持ってるもん全部吸収せな、と思った」そうである。

私だって、そんなキムタクのインタビューがもし実現したら小躍りするだろうし、全然関心なかったくせに一瞬にして「キムタクは超イケメンよ」と目をハートにして周囲に言いふらす、そんな自分を想像するのはあまりにたやすい。とりあえず誰であれ著名な人物には弱い(笑)。

写真や映像による情報はけっしてすべてを言い尽くさない。その人がその人である実際、その存在理由の核心といったものは、実物に接して初めて、たぶん、体感する。その人を理解するまではなかなか遠い道のりかもしれないけど、何か強烈に迫りくるものをじーんと感じることはある。

《小林 岡さんがどういう数学を研究していらっしゃるか、私はわかりませんが、岡さんの数学の世界というものがありましょう。それは岡さん独特の世界で、真似することはできないのですか。
 岡 私の数学の世界ですね。結局それしかないのです。数学の世界で書かれた他人の論文に共感することはできます。しかし、各人各様の個性のもとに書いてある。一人一人みな別だと思います。ですから、ほんとうの意味の個人とは何かというのが、不思議になるのです。ほんとうの詩の世界は、個性の発揮以外にございませんでしょう。各人一人一人、個性はみな違います。それでいて、いいものには普遍的に共感する。個性はみなちがっているが、他の個性に共感するという普遍的な働きをもっている。それが個人の本質だと思いますが、そういう不思議な事実は厳然としてある。それがほんとうの意味の個人の尊厳と思うのですけれども、個人のものを正しく出そうと思ったら、そっくりそのままでないと、出しようがないと思います。一人一人みな違うから、不思議だと思います。漱石は何を読んでも漱石の個になる。芥川の書く人間は、やはり芥川の個をはなれていない。それがいわゆる個性というもので、全く似たところがない。そういういろいろな個性に共感がもてるというのは不思議ですが、そうなっていると思います。個性的なものを出してくればくるほど、共感がもちやすいのです。》(「数学も個性を失う」26~27ページ)


わかりにくかったと思うけど、キムタクやプリマの例は、彼らにすでに強烈な「個」が備わっていて、唯一無二であることは否定しようもなく、しかも多くの共感を得ており、彼らに付随するもの、関わり産みだされるもの、そうしたすべてが彼らの「個」を離れていない、ということに、上記引用箇所で岡潔の言及していることが符合すると思ったのである。強い個性を放つ漱石や芥川の小説を嫌いな読者もいるだろうが、そのようなことをものともせず、漱石や芥川の小説は存在する。私がキムタクをどう思おうと、そんなこととは別の次元で彼が日本のトップアイドルであるという事実は存在する。キムタクが今後どうなるかはわからないけど、時代が唯一無二と認めたものは歴史に残る。逆に言えばそれほど個性が強く発揮されなければ、「千篇一律」「どんぐりの背比べ」で埋没してしまう。そうしたことは数学という学問、あるいは数学者個人の論文にもいえるのだと、岡潔は言うのである。

で、我が身を振り返ったりするわけである(笑)。
べつに時代が認めてくれんでもいいけど、今生きる世界で、唯一無二といえる仕事をしているだろうか、私は?

Les boissons alcooliques qui symbolisent le pays2013/03/19 19:31:00

史上最強の雑談(3)



『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)


私の父は大酒飲みだったが、そう強くはなかった。飲むほどに酔い、最後は必ずへべれけになった。だんだん自分だけの世界に入っちゃって一人問答が始まるが、ろれつが回らなくなるので、何を言っているのか周囲にはわからない。そのうちむにゃむにゃ言いながら居眠り。毎日の晩酌がこの調子で、「お父さん、もう寝てんか」と母が促すまで、首をこくりこくりさせながらでも飲んでいた。
いつでもどこでも、そんな状態になるまで飲まなければ飲む値打ちがないとでも思っていたのか、たとえば外へ飲みに出かけても、「これ以上飲んだら明日に差し支えるし」「これ以上飲んだら家に帰り着けへんかもしれんし」「これ以上飲んだら寝てしまいそうやし」今日はここで飲むのを止める、ということのいっさいできない人であった。だからひとさまに言えない失敗談には事欠かない。私が知っているだけでもけっこう凄まじい(笑)。おまけに父は、前夜の酒の記憶が翌日に全然残らない人だったので、失敗による学習もいっさいなかったわけである。

いっぽう、父の兄と弟はシャレにならない大酒飲みである。シャレにならないと書いたのは、この二人は全然酔わないからである。本物の酒豪である。そりゃ、いい気分にはなってるようだし、舌の回りはよくなるし、愚痴や昔話ばかり出てくる日もあるけど、その程度。どれだけ飲んでも平気な顔をして、たいてい陽気ないい酒で、さらには翌日も前夜のことをよく覚えているのが常だった。伯父と叔父、この二人の飲みかたは、「酒に飲まれるのんべのダメ親父」を父にもつ私から見れば奇跡に近かった。

家業を継ぎ祖母と暮らしていたのは父だったので、正月には伯父一家と叔父一家が我が家へ集まりいつもたいへん賑やかだった。祖母も、もともと大酒飲みだがあまり強くないほうだったから(つまり父は自分の母親に正しく似たようだ)、正月の酒盛りサバイバルで生き残るのは伯父と叔父。泊まっていくこともあったがたいていは朝から来て夜までずっと飲み続け、「ほなごっつぁんでしたー」と、しゃんとした姿勢で家族を引き連れて帰っていった。あとには、酔いつぶれてトドのように横たわる祖母と父、そして箱膳や盆の上に徳利や猪口が転がっていた。そしてほぼ空になった一斗樽。

一斗樽をひとつ、一升瓶を2〜3本。いつもの晩酌用の酒の納品とは別に、出入りの酒屋が暮れに届けるのが慣わしだった。祖母と母は御節の準備に余念なく、私たち姉弟は手の届くところの拭き掃除をしたり、塗の椀や膳を拭いたり、玄関に屏風を置きお鏡さんを飾ったり、注連飾りの買い出しを言いつけられたりなど、今思うとたくさんたくさん手伝わされた。どの家もそうだった。暮れは家族がみんなで正月準備をした。で、私は、どの家にも日本酒が一斗樽で届くものだと思っていた。必ずしもそうではない、というか、一斗樽のほとんどを元日で空けてしまう家というのはかなり少数派だということを(笑)知ったのは、かなりのちのことである。

祖母が病に臥し、父たち三兄弟も年をとり、正月三が日を過ぎても一斗樽が空かなくなったので、ある時母が「樽で買うのはもう止めまひょか」と言ったが父は樽にこだわったらしい。父は銘柄などはどうでもいいほうで、酒屋のご主人の奨めを快く受け入れて持ってこさせていたと思う。正月に我が家に鎮座していた一斗樽の銘が何だったか、私には全然覚えがない。そんなふうだから、正月の酒は樽で買わなあかん、という父の言い分にしても、単にたくさん飲みたかっただけだろうと思っていたが、樽酒の旨さをそれなりに楽しんでいたのかもしれないな、と、本書の下記のくだりを読んで思った。


 
《小林 ぼくは酒のみでして、若いころはずいぶん飲んだのですよ。もう、そう飲めませんが、晩酌は必ずやります。関西へ来ると、酒がうまいなと思います。
 岡 酒は悪くなりましたか。
 小林 全体から言えば、ひどく悪くなりました。ぼくは学生時代から飲んでいますが、いまの若い人たちは、日本酒というものを知らないのですね。
 岡 そうですか。
 小林 いまの酒を日本酒といっておりますけれども。
 岡 あんなのは日本酒ではありませんか。
 小林 日本そばと言うようなものなんです。昔の酒は、みな個性がありました。菊正なら菊正、白鷹なら白鷹、いろいろな銘柄がたくさんございましょう。
 岡 個性がございましたか。なるほどな。
 小林 店へいきますと、樽がずっと並んでいるのです。みな違うのですから、きょうはどれにしようか、そういう楽しみがあった。
 岡 小林さんは酒の個性がわかりますか。
 小林 それはわかります。
 岡 結構ですな。それは楽しみでしょうな。
 小林 文明国は、どこの国も自分の自慢の酒を持っているのですが、その自慢の酒をこれほど粗末にしている文明国は、日本以外にありませんよ。中共だって、もういい紹興酒が飲めるようになっていると思いますよ。
 岡 日本は個性を重んずることを忘れてしまった。
 小林 いい酒がつくれなくなった。
 岡 個性を重んずるということはどういうことか、知らないのですね。
 (略)
 アメリカという国は、個性を尊重するようでいて、じつは個性を大事にすることを知らない国なんです。それを真似ているんですから。食べ物にも個性がなくなっていきますね。(略)
 小林 (略)ぼくらが若いころにガブガブ飲んでいた酒とは、まるっきり違うのですよ。樽がなくなったでしょう。みんな瓶になりましたね。樽の香というものがありました。あれを復活しても、このごろの人は樽の香を知らない。なんだ、この酒は変な匂いがするといって売れないのです。それくらいの変動です。日本酒は世界の名酒の一つだが、世界中の名酒が今もって健全なのに、日本酒だけが大変動を受けたのです。
 (略)その代り、ウイスキーとか葡萄酒がよくなってきた。日本酒の進歩が止まって、洋酒のイミテーションが進んでいる。
 岡 日本酒を味わうのと小説を批評するのと、似ているわけですね。
 小林 似ていますね。
 岡 近ごろの小説は個性がありますか。
 小林 やはり絵と同じです。個性をきそって見せるのですね。絵と同じように、物がなくなっていますね。物がなくなっているのは、全体の傾向ですね。
 岡 世界の知力が低下しているという気がします。日本だけではなく、世界がそうじゃないかという……。小説でもそうお思いになりますか。
 小林 そうでしょうね。
 岡 物を生かすということを忘れて、自分がつくり出そうというほうだけをやりだしたのですね。
 よい批評家であるためには、詩人でなければならないというふうなことは言えますか。
 小林 そうだと思います。
 岡 本質は直観と情熱でしょう。
 小林 そうだと思いますね。
 岡 批評家というのは、詩人と関係がないように思われていますが、つきるところ作品の批評も、直感し情熱をもつということが本質になりますね。
 小林 勘が内容ですからね。
 岡 勘というから、どうでもよいと思うのです。勘は知力ですからね。それが働かないと、一切がはじまらぬ。それを表現なさるために苦労されるのでしょう。勘でさぐりあてたものを主観の中で書いていくうちに、内容が流れる。それだけが文章であるはずなんです。(略)》(「国を象徴する酒」19〜24ページ)



なぜ、「よい批評家であるためには、詩人でなければならない」のだろう? 手許の『コクトー詩集』(堀口大學訳/新潮文庫)の、堀口によるあとがきにこう書いてある。《コクトーには、彼が「評論による詩」Poésie Critique と呼ぶ一連の作品がある。『閑話休題』Le Rappel à l'Ordre『ジャック・マリタンへの手紙』Lettre à Jaques Maritain(略)などがそれだ。昔から優れた詩人は同時にまた優れた批評家でしばしばあったが、コクトーもまた極めて優れた批評家だ。(略)「一作をなすごとに、僕はわざとその作に背を向けて反対の方向に新たに歩き出した」とは、彼が自らの創作態度を語る言葉だが、まさにその通りを彼は実行した。》(「あとがき」235〜236ページ)

私には優れた詩人と優れていない詩人の見分けかたはわからない。詩を鑑賞するのは好きであるが、読んでもつまらない詩は好きでないし、世間で評価されていなくても好きな詩はある。だが、私の好み云々は横へ措くとして、人に強い印象を与えうる詩とそうでない詩はたぶん歴然としてある。人の心に強く迫る詩を、迫られた読み手が好むとは限らないが、迫る詩を書いた詩人はおそらく優れた詩人の範疇に入る。読み手が、読んだ詩の感想を「ふーん」「あ、そうですか」程度で片づける場合その詩は読み手の心を捉えてはいないが、心を捉えなければ詩の存在価値はない。つーっと読み流されては「詩」として受け容れられなかったに等しい。詩が詩であるためにはその一行一行ごとに読み手を立ち止まらせなければならない。先を読みたいけどこの一行に、この一語に心がひっかかって進めないのよどうしよう離してよああもう、てな感じで身悶えしながら、奥歯ですりつぶして嚥下するまでたっぷり時間のかかるのが、詩である。そんな詩を書けるのが、優れた詩人である。

つまり、批評も同じであろう。なにしろ批評である。賞賛にしろ罵倒にしろ、もってまわった言いかたや、まわりくどい表現や、遠回しな(まわってばかりだけど。笑)言葉遣いをしていては批評にならない。批評の対象、批評の対象を愛好する者、そして批評の読み手、誰もを立ち止まらせ、うーんと唸らせ、ああ心がひっかかる、と容赦なく身悶えさせなければ優れた批評文とは言えないだろう。
ということは、批評家と詩人の仕事は、言葉や文章の表現方法、あるいは単に操作技術といってもいいが、その点において同じであるのだ。こと表現するという行為において、何か、あるいは誰かに対する「気遣い」「気兼ね」「憚り」「手加減」「配慮」「遠慮」「忌憚」「斟酌」なんぞが垣間見えたとき、それは詩に非ず、また批評に非ず、である。

コピーライターというやくざな商売は詩や批評の対極にあるといっていい。私はいつも、スポンサーを称賛する文章を自分ではない別の誰かの口を借りて書いている。「別の誰か」は、スポンサー商品の愛用者またはその予備軍、あるいは広告代理店そのものを想定する。つまり顧客だ。お客様は神様である。お客様に対して「気遣い」「気兼ね」「憚り」「手加減」「配慮」「遠慮」「忌憚」「斟酌」なしに口を利くことなど、できるわけがないのである。というわけで、私は詩人にも批評家にもなれないのである。


MUMYO, c'est l'ignorance profonde ou exprès2013/03/14 00:00:44

史上最強の雑談を読む(2)


『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)


天気予報がよく当たる。今朝のラジオで「今はすっきり晴れていますが午後曇り始め夕方には雨になります。夜にかけては強い風をともなう大雨となります。春の陽気から一気に気温も下がります、ご帰宅の遅い方は防寒具を」といっていたが本当にそのとおりになった。いま外は土砂降りである。昼間はへんに温かったけど、肌寒くなった。でも、寒くても、雨がいい。春は粒子がいっぱい飛ぶ。花の美しい季節だが、三日に一度の割合で降ってくれるほうがいい。降って街を洗い流してほしい。マジ。

放射性物質のついたスギ花粉に中国製大気汚染煤のついた黄砂。んでもってダチョウやエミュの卵の殻でつくった高性能マスク。曇らない特殊加工を施した密閉度の高いゴーグル。目のかゆみを緩和する点眼薬。くしゃみ、鼻水、鼻づまりを押さえる点鼻薬。早期から飲めばアレルギー症状を軽減する内服薬。国民の多くが苦しんでいるというのに何の対策も取らないで、あの手この手で金儲けする奴ばかりが登場する。この国、そういうシャレにならない国なんだ。汚染されるずっとずっと前から花粉も黄砂も飛んでいた。黄砂はよその国から飛んでくるし、へっぴり腰だから文句も言えないんだろうけど、さんざん植林した挙句使わずじまいで花咲き放題の杉くらい、自己責任なんやから切りなさいよさっさと、と言いたい。ヒノキも。イネ科のカモガヤも。しゃしゃしゃああああっと刈り取ってくれっ。

知る権利は民にあるが、中途半端に知ることが苦悩や対立を生むことも確かだ。偏向な知識を互いにひけらかすことが、脱原発と原発推進の間の無意味な溝を深めている(そう、深まるのは溝なのよ、絆じゃないの)。知ることは大切だが、何が正しいかの物差しのない状況では、むやみに知ったために却って辛い生を生きねばならないこともある。

知らぬが仏とはよくいったが、仏教の言葉に「無明(むみょう)」という語がある。意味は、どうしようもないほど、醜悪といっていいほどの無知、だそうだ。『大辞泉』には「最も根本的な煩悩」とある。「無明」、つまり明るくない、というか明かりが無い、つまり真っ暗。落ち込むだろうな、「お前って、無明」なんて言われたら。立ち直れねえ(笑)


《小林 岡さんは、絵がお好きのようですね。ピカソという人は、仏教のほうでいう無明を描く達人であるということをお書きになっていましたね。私も、だいぶ前ですが、同じようなことを考えたことがある。どこかの展覧会にいきまして、小さなピカソの絵をみました。それは男と女がテーブルをはさんで話をしている。ピカソの絵ですから、男か女かわからない。変なごつごつしたもので、とてもそうは見えないけれども、男と女が話しているなと直感的に思った。そうすると、いかにもいやな会話を二人がしているんですな。これは現代の男女がじつに不愉快な会話をしているところをかいたのだなと、ぼくは勝手に思っちゃった。
 岡 それは正しい直観だと思います。
 (略)
 男女関係の醜い面だけしかかいていません。あれが無明というものです。人には無明という、醜悪にして恐るべき一面がある。(略)釈迦は、無明があるからだということをよく説いて聞かしているのです。人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。(略)
 小林さんの学問に関するお話は、いかにももっともと思います。それを無明ということから説明すると、人は無明を押えさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができるのです。たとえば良寛なんか、冬の夜の雨を聞くのが好きですが、雨の音を聞いても、はじめはさほど感じない。それを何度もじっと聞いておりますと、雨を聞くことのよさがわかってくる。そういう働きが人にあるのですね。雨のよさというものは、無明を押えなければわからないものだと思います。数学の興味も、それと同一種類なんです。》(「無明ということ」12~15ページ)


小林秀雄の「無常といふ事」が大好きで何度も繰り返し読んでいるわたくしであるが、岡潔いうところの「無明ということ」もなかなか手ごわそうである。このくだりを読んで、岡潔の著作に一気に関心が高まったことを白状する。
無明とは、全然イケてないくらい、まさに終わってるほど無知だけど、そのうえジコチューな行動をとらせる本能だけど、それさえクリアしたら、にわかに人生ワクドキに展開する。イマふうに言えばこういうことなのか?(笑)
無明とは、学びが足りないゆえの知識の欠乏などではなく、どちらかといえば、知ること学ぶことができるのにあえてそれをせず、というよりそれから逃げて、むしろ無知無学を標榜してあたかもそれが強みであるかのようにふるまうことではないか。そりゃ、醜悪だな。愛するウチダいうところの、学びから逃走する子どもたちだな。

本書によれば、無明の輩はすでに1965年(本書のもとの出版年)に跋扈していたわけだから、そりゃ、今、日本が文字どおり「世も末」をリアルにゆくのは道理だな。

L'esprit de la recherche2013/03/09 04:30:39

史上最強の雑談を読む(1)


『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)


もとは1965年に出版された『対談 人間の建設』である。私の手許にある文庫本は、もう21世紀の文庫本だから字が大きい。1ページに並ぶ行数も少ない。それでも薄い本だ。こんなに薄いのに、なかなか読破できなかった。薄い本だろうと厚い本だろうと物理的な時間がないので読み進めないのもしかたないんだが、途中まで読めば結末が見えてしまうくだらない小説とは違って、なんつっても「史上最強の雑談」だからして、話がどう転びどう展開しどう曲がっていくのかが全然見えないし、ほいでもってさすがは「史上最強の雑談」だけあって、面白いけど難しい。難しいから同じところで足踏みして何度も反芻しながら読み、ますます面白いので同じところを何度も読む、をやっていくと全然読み終わらないのである。

1965年っていえば弟が生まれた年なのよね(笑)。そのときすでに、人間がとるべき道はこの史上最強の二人がちゃんと雑談の中で示唆してくれていたんだよね。示唆していたというよりは、これでもかっつーくらいに明言している。どうして日本人は、この雑談を銘として歩まなかったのか? 雑談かもしれないけど、史上最強だぞ。史上最強の売文屋であり批評家の小林秀雄に、史上最強の奇人であり天才数学者の岡潔だぞ。ああ、この人たちの言に学んでいれば、日本はこんな阿呆な国にはならなかった。日本人はもっとまともだった。極右ジミントーのわしら原発軍隊大好きだからどんどんつくっちゃうもんね違憲だけど政権、なんかをのさばらせておくような、痴呆国民に成り下がりはしなかったのに。

時間は取り戻せない。失った美しい豊穣の大地も取り戻せない。ああ。

愚痴っても何がどうなるわけでもないので、本の話を続ける。

まず、ほんとにとても面白いから万人におすすめする。でも一回ザーーーッと読んだだけでは何も面白くないわけである。読み手の理解力とか知識とかは関係ない。むしろ、読むそのときのコンディションにかかわる。気持ちにかかわる。どんな時にも読んでみてほしい。体調のいい時、アタマがスッキリしてる時、暇な時、忙しさに目を回しちゃいるがそれでもメシは食うんだよ、的な食事のあとのコーヒーブレイクに、荒んでいる時、苦しい時、悲しい時、八方ふさがりな時。
読むときの気持ちで、本からもらえるエネルギーやメッセージは異なってくる。それはもちろん、本書だけではない、他の本でもそうだ。でも、本書は、こんなに薄っぺらい文庫本なのに、オッサン二人の雑談なのに、それほど読み甲斐があるという点で、恐るべし、なのである。


《小林 (略)いまは学問が好きになるような教育をしていませんね。だから、学問が好きという意味が全然わかってないのじゃないかな。
 岡 学問を好むという意味が、いまの小中高等学校の先生方にわからないのですね。好きになるように教えなくてはいけないといっても、どういうことかわからないのですね。なぜわかりきったことがわからないか。なぜ大きな心配ほど心配しないのか。現状はわかりきったことほどわからない。どこに欠陥があるからそうなっているということを究めて、そこから直さぬといかんでしょう。
 小林 学問が好きになるということは、たいへんなことだと思うけれども。
 岡 人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。
小林 好きになることがむずかしいというのは、それはむずかしいことが好きにならなきゃいかんということでしょう。(略)つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいということが面白いということが、だれにあでもあります。(略)むずかしければむずかしいほどおもしろいということは、だれにでもわかることですよ。そういう教育をしなければいけないとぼくは思う。(略)》
(「学問をたのしむ心」10〜11ページ)


もう1965年の時点で、学校は、勉強することを好きになるように教えてくれる場所ではなくなっていたのだった。そりゃ、ダメなわけだよ、いまの教育現場が。

さて、こんな感じで数回に分けて本書の感想を書いていこっかな。と思っている。


Mon cher Monsieur...!2012/11/22 20:51:59




『悪戯の愉しみ』
アルフォンス・アレー著 山田稔訳
福武文庫(1987年)


アンドレ・ブルトンはアルフォンス・アレーの作風を「エスプリのテロリズム」と形容したそうだ。世が世なら、いや、というより日本だったら不謹慎だとかなんとかいってマスゴミ/バカメディアが言葉狩りに余念のないところだろうが、フランスではこれ、最大級の賛辞である。
帯には「笑いのあとに戦慄が走る恐怖のブラック・コント集」とある。さぞかしオソロシオモシロイ短編満載なんだろうと読み進んだが、うー……ごめんなさい。怖くないし、笑えないよ、山田先生(笑)。アレーは間違いなく、19世紀末には文学界における風刺小説の寵児だったのだろう。思うに、洋の東西を問わず、19世紀の終わりって、人々は文化的に寛容だった。どの国にも人権なんて言葉はなかっただろうけど、お上の締めつけはきつかったかもしれないけど、庶民はずっとおおらかに生きて、富める者も病める者も身の丈を知っていて、それぞれがそれなりの居場所を保持していたのだ。ゆがんだ名ばかりの「平等」など、存在しなかった。



階級や身分は人々に分別をもたせ、ふさわしい立居振舞を覚えさせた。
私は階級社会なんてまっぴらごめんだし、身分制度なんかあってはならないと思っているが、「自由」や「民主主義」や「男女平等」や「人権擁護」なんつう重厚な熟語がいまだかつてないほど空虚でスカスカな今の日本なんかより、歓びも悲しみも罵りも好きなように表現できたんじゃないかと想像する。
この『悪戯の愉しみ』が今読んでもちっとも面白くないのは、山田稔の翻訳がアレーとその時代に忠実すぎることも理由のひとつではないかと思う。20世紀初頭なら、人々は大いに笑ったのではないか。不道徳だと物議をかもしただろうか。いずれにしろ社会にまんべんなく話題になったと思う。山田先生がこれを訳してまず発表したのは1960年代のことだったそうだ。その頃日本の文学界はフランス文学の影響を多大に受け始めていただろうから、いわゆる「仏文系」の人々には、アレーはおおいに受けたであろう。ブルトンのことばを借りるまでもなく、フランス語でいう「エスプリ」ってのは、こういうもんを指すからで、こういうもんがわからない奴は「いかにもフランス的『エスプリ』」なんて一生わからんと決めつけられたに決まってるから、仏文系の人々はこういうもんこそ面白いという顔をしていたに決まっている。ややこしい書きかたをしたが、つまり一般受けはしなかったでしょ、といいたいのである。

いまアレーを世に出すなら、現代的な言い回しを取り入れ若干脚色する必要があるだろう。それは「エスプリのテロリズム」への冒涜になるだろうか。いや、ちっとも「悪戯」じゃないし「愉し」くもない退屈な短編集、で時とともに葬り去られるよりは、世紀末色は薄れても時代が喜ぶ表現方法で著したほうが、アレーとフランス文学の価値を再提示できると思うのだが。
ま、別に再提示しなくてもいいんだろうけど。
いつか書いたが、山田稔の本はどれも涙するほどに文章が美しい。美文、名文、どう形容しても山田稔の文章の実際にはかなわない。本書も、日本語が退廃し、その懐、歩幅や遊びしろを急速に縮めている今のような時代でなければ、私たちはきっと鷹揚に愉しめたであろう。ブラックユーモアなのに誠実さにあふれているなんて、昨今ちょっとお目にかかれない。文章の書きかたを学ぶにはちょうどよい手本かもしれない。


山田先生に会いたいな。
街路樹が色づく季節になると、無性に想いが募るのである。

S'il n'a pas dit "Non"...2012/11/16 18:18:22




『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸』
ベン・シャーン絵、アーサー・ビナード著
集英社(2006年)


アーサー・ビナードのトークを聴く機会があった。声を聴くのも、ご本人の姿を拝するのも、この時が初めてだった。流暢な日本語に、間合いの取りかたも絶妙で、ひとつひとつのトピックにちゃんとオチをつけるところなど、下手な芸人なんかよりずっと冴えている。その数日前に、「舌鋒鋭い人生幸朗」ばりの(といったら失礼かな。といったらどっちに失礼かな。笑)書家・石川九楊の講演を聴いたところだったが、いやいやどうして、扱いネタは違うし話術ももちろん違うけど、笑いの取りかたも本質の突きかたも説得力もいい勝負。

何年も前、当時購読していた新聞の夕刊コラムにエッセイを連載していたのを、たいへん楽しく読んだ記憶がある。その中に、「旧」の旧字が「舊」だと知って小躍りした経緯を綴った回があって、とりわけ面白く読んだように覚えている。ヘンなガイジン。我が町には有名無名問わずヘンなガイジンがわんさかと棲みついているので、ヘンなガイジンに会っても驚かないけど、日本人よりも上手に日本語を操るガイジンは、じつはそう多くない。

むかし、零細仏系出版社で雑用をしていた頃、出版物に広告をくれるクライアントと電話で話す機会が多かった。広告主はたいてい仏企業の日本支社、当時は日本人スタッフを雇い入れているオフィスは少なくて、といって赴任しているフランス人スタッフが日本語できるかといえば全然そんなことはなかった。こっちが仏語誌だと知っていて、さも当然のようにフランス語で電話をかけてくる。いくら決まり文句での応対でも日本人だとすぐばれる。すると、「マドモアゼル、実はね……」と優しくゆっくり話してくれるケースもあれば、もうええわといわんばかりに「ムッシュ●●に電話くれって伝えて。ガシャン」で終わるケースもある。そのなかで、果敢に日本語でかけてくるハンサムヴォイスのフランス人がいた。「いつもお世話になっております」「弊社の広告出稿の件ですが」「スケジュールの変更はできますか」と、それはもう毎回、見事な日本語だった。ある時、出版物が刷り上がり、広告主への送付準備をしているとハンサムヴォイスから電話がかかってきた。「お送りいただく掲載誌の部数の変更をお願いしたいのですが」……。これ、ここまできれいに日本人だって言えないよ。ほれぼれするわあ。すっかり目と耳をハートにしながら「もちろん承りますよ。何部お送りいたしましょうか」というと、「ありがとうございます。では、イツツブ、お願いします」

……いつつぶ?

いつ、粒? いえいえ冗談よ、五つ部といいたいのだ彼は。
これほど完璧に日本語を操るビジネスマンが、「五部」を「ゴブ」といわずに「イツツブ」というなんて。

可愛いいいいいいいーーーーーーー!!!(笑)

ますます目と耳のハートが大きくなった私だがなんとかそれを引っ込めてつとめてクールに「ハイ、あのー、いま五つとおっしゃったのは、5部、ということですね」「えっ……。はい、そうですね。ああそうでした。この場合はゴブといわないといけませんでした」「では、たしかに5部、お送りいたします」「はい、よろしくお願いいたします」


と、いうようなエピソードは、アーサー・ビナードと何の関係もないのだが、日本語のチョー上手なガイジンが話すのを聴くとき、例のハンサムヴォイス君みたいな可愛い間違いをしてくれないかとそればっかり期待して耳をハートに、じゃなくてダンボにしている自分に気づいて呆れている。


ビナードはすでに数多くの著作を日本で出しており、明快なその反核アティチュードはよく知られていると思うので、今さらその主張については述べない。先日のトークで彼が言っていたのは、絵を鑑賞するとき、その絵の向こう側、深淵を見つめなくてはいけないし、向こう側から何も語ってくるものがなければ、鑑賞者にとってその絵はただそれだけのものでしかなく、何かを語ってくるならその絵にはそうした力があるということであり、また語ってくるものを受けとめる器を観る側が持っているとき、その鑑賞者にとってその絵は生涯唯一無二の存在になりうるほど大きな意味をもつ、ということである。


ベン・シャーンはビナードの父親がたいへん愛した画家だったそうだ。家にあったベン・シャーンの画集は、アーサー少年の心を捉えて離さず、力強い筆致の奥から湧き上がってくるかのようなパワーめいたものの虜になった。この第五福竜丸の連作を日本で絵本にしなくてはならない、という思いを、実現させたのが本書である。
私が所有するたった1冊のビナードの本。

反核反原発にかんする彼のアプローチは、やはりアメリカ人ならではの視点が効いているといってよく、そんなのちょっと冷静に考えればあったりまえじゃないの、というようなことすら気づいてこなかった日本人のお気楽ぶり、ノー天気ぶりを思い知らされる。

「福島の事故は、京都のせいだともいえるんですよ」

風が吹けば桶屋が儲かる、ふうに言うならそういうことだ。そんな喩えかたは不謹慎かもしれないが、第二次大戦で当初の実験計画に変更がなければ、米軍は間違いなく原爆を京都に落としていた。もし予定どおり京都に落とされていたら、戦後の日本の国土の在りようはもっと違ったものになっていただろう。

「(山に囲まれた)京都だと、爆発後の残留放射能の影響が大きすぎる、後年、ほぼ永久に土地は放射能に汚染されたままになる。そうすると日本人の反原爆、反核意識がとてつもなく高まるので、のちのち扱いにくいではないか」
「日本には毎年9月頃台風が上陸するからそれによって残留物質が海へ流されてしまうような土地が実験には適している」
「放射能が残らなければ、爆撃されたという記憶もすぐに風化する」
「……と考えたと思うんですよ。京都が美しい街だから、とかそんな子どもみたいなこと当時の米軍部が言うわけないでしょ」

ビナードはあくまで「僕の推測」としたけれど、おびただしい文献や証言にあたって導いた結論だから、的を外してはいないと思う。なるほどそのほうが自然だと、私も思う。京都は台風の被害がほとんどないから、まさに残留放射能は山と川と大地に留まり地下水に深くしみこんでいき、二度と人の住めない死の町となっただろう。その影響は、隣の滋賀、奈良、大阪、兵庫へも拡大しただろう。かつてロイヤルファミリーの本拠であった古都を爆撃し壊滅させそのうえ後世にわたって放射能で苦しめ続けることは、米国人の想像以上に日本人の中に対米怨恨を残すのではないか。せっかく戦争の後占領してもそれじゃあやりにくいじゃないか。
理に適っている。

だから海に面した土地をウランとプルトニウムの実験場にした。
そうして計画どおり、終戦後すぐの9月に上陸した台風が、残留放射能をあらかた洗い流した。まじめに放射線量などを計測したのは台風後である。そしてその数値なら「大したことないじゃん、ね?」と日米で確認し合い、海沿いにさえ建てとけば、何かあっても毒は海へ流れ出るからオッケーよ、というわけで日本の場合、海岸線に原発がボコボコ建てられて、計画どおり?に甚大な地震と津波によって壊れた福島第一原発から噴き出た放射能は、今太平洋中を航海している。内陸側の汚染に関しては皆さんご存じのとおりである。

あの時、ピカドンが来たのが予定どおり京都だったら、福島にも、大飯にも、伊方にも、原発は建っていなかった。……かもしれない。
で、私もこんなブログなんざ、書いてない。
本書については5年前に松岡正剛が詳しく述べている。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1207.html

Bon anniversaire mon chéri!2012/02/10 01:49:14

『特別な一日』
山田稔著
平凡社ライブラリー(1999年)


誰もが特別な日というものをもっている。それが誕生日だという人もいれば結婚記念日である人もいるだろう。私はといえば、あの日もこの日も、自分にとって大切で特別な何かが起こったり何かに出会ったり何かをもらったり、ということがてんこもりで、毎日「特別な一日」のオンパレードだ。そんなふうになっちゃうと特別でもなんでもなくなってしまう。わかってるさ。

今年の始め、大学院時代の恩師に会った。私は修了してから見事にお目にかかっていなかったので、なんと12年ぶりでご尊顔を拝したのである。御髪は真っ白だが、電話で言葉を交わした時に若干お耳が遠くなっておられるように思っただけで、会って会話してみると、ゼミ演習の頃の先生とぜんぜん変わっておられなくて、嬉しいやら恐ろしいやら(笑)。私の母と同い年だということを初めて知ったが、脳をフル回転させて生きているのとそうでないのとではこんなにも年のとりかたが違うのかと嘆息する。私の母は足を悪くしてから行動範囲が狭くなり活力も萎む一方なので、ともすれば80代半ばに見られるのだが、まだ後期高齢者デビューが済んだばかりである。かたや恩師は白髪と皺のせいで70代だろうと察しはつくが、せいぜい70歳になったとこくらいだろう、そんなふうに誰もが思うのではないか。とにもかくにも若々しい。

恩師の年賀状に中国に凝っています、などと書いてあったので弟の著作(最近の新書)を贈ったら、嬉しそうな声で電話がかかってきて「本をありがとう。僕、この著者の本いくつも読んでるよ、ファンなんだ。君の弟さんだったんだね」。
世の中、何がどうつながるかわからないもんである。
いつか初の訳書ですといってダリ本を贈ったときも電話で話して盛り上がり、飲もう飲もうとはしゃいでいたのだが、引退してもいろいろと活動が活発でお忙しくて、結局時機を逸してしまったのだった。今回は「じゃあまた連絡するね、なんて言ってたら結局また飲めないから今決めちゃおうよ」と強引に先生は私とサシの飲み会をセッティングし(といっても店を探したのは私なんだけど)、晴れて12年ぶりの再会が実現したのだ。

知的な人と知的な会話に溺れるのはとても幸せである。言っておかねばならないが、この恩師はまったくの大学人ではない。とある大新聞所属のジャーナリストで、特派員として各国を渡り歩いた人である。早期退職を選んで、ぶらぶらしていてひょんなことから大学教員として「勤めることになったんだが、ったく柄じゃないねえ、こんなところは」とよく笑っていた。彼に言わせると「学者は伝えるための日本語を知らないからな」。恩師のゼミにはやはりジャーナリストや海外勤務を希望する学生が寄ってきたようである。頭でっかちになって考え込むより行動すべし。でなければどんな美文も生きてはこない。そういう意味のことを、とりわけ若い学生たちにはよくいっていた。私は院生当時すでに30代半ばだったので、先生は私に対しては教えるというよりも、共通の話題を持ち寄って会話の花を咲かせようよ、といったふうだった。先生に比べれば私の経験など塵ほどもなかったが、私が一定期間フランスに滞在しそれに続いてフランス人たちと長期間ともに仕事をしていることの意義を認めて、自分のパリとヴェトナム駐在の経験を重ね合わせて、「今話してくれたようなことを、自分の言葉で書き続けなさい」というような言いかたで指導してもらった。

山田稔は恩師よりも七つ年長だそうだ。恩師がパリ特派員だった時期に、パリで知り合ったそうである。山田稔といえばフランス語系人にとっては神様みたいな存在だ。そんなことを言うと当の山田先生は言下に否定されるだろうが、少なくともダラダラとものを書くことを日々のなりわいとしている者には、その文章、その言葉は天啓なのである。というようなことを言うと、私の恩師は我が意を得たりという顔をして「ホントに山田さんは素敵な人なんだよ。お元気なうちに会っとかないとなあ。それにしても君とは好みが合うよね」「ついでに申し上げると先生、私、鶴見俊輔さんも大好きです。神様のまだその上の御大、という感じかな」「そのとおりだよ。僕は鶴見さんの書いたものを読んできたから生きてこれたようなもんでね。いやあ、ホントに君とは嗜好が同じだよね。僕はね、思ったもんだよ、君は僕にとって最初のゼミ生のひとりだけど、この学生とはもっと早くに会いたかったよなあって。思ったもんだよ」

いま手許にあるこの『特別な一日』は、この夜先生が私にくださったものである。「読みさしだけど、よかったら持ってて」。山田稔は神だが、私の蔵書には一冊もその著作はない。図書館に行けば彼の著書・訳書はいつだって揃っているから、買い損ねてしまっていた。
先生にもらったこの本を改めて読むと、人と命とその書き残されたものたちへの優しい眼差しに涙が出るほど心を揺さぶられるし、真摯で厳しいその書くことへの向かいかたに襟をたださずにはおれないのである。もっと早くに会いたかったよなあ。確かにそうである。フランス語とも、恩師とも、鶴見俊輔とも、山田稔とも、もっともっと早くに会っていれば人生変わっていたのかもしれない。しれないが、早くに会わずに生きてきて、「いまさら」な時期にようやく出会ったからこそ、こんなに心が震えるということも、あると思っている。



2月10日は私にとって特別な日である。その日を前に、特別な日の張本人が下記のリンクを送ってきた。ったく何考えてんだあのバカ。他に言うことあるやろっつーの。
あ、失礼。みんな、ヒマだったら聞いてあげて(撮影場所は鴨川河川敷みたい)。私のブログに来てくださるみなさんにとっては言わずもがなの内容だけれど。

http://youtu.be/_5NZDlJ2CBU

若いっていいな。ただ単純にそう思う自分が、なんか、やだ(笑)。

Je t'aime toujours, je te souhaite des jours prochains merveilleux...2011/12/27 22:24:19



『呪いの時代』
内田樹著
新潮社(2011年)


恋も仕事もうまくいかない。恋と仕事はまったくの別物だが、いくつものハードルを越えなきゃならないとか、ある部分、ある局面では妥協しなければ前へ進まないとか、けっこう共通点がある。自分の場合、対象をすべてどんな場合でもどんなシーンでも上から見下ろしているという点で、さらに共通している。このクセをなんとかしないといけないのだろうが、残念ながら世界で自分がいちばんエライと思ってしまっているこの人格はもはや変えようがない。私はあなたよりよくできた人間なのよ、誰ひとり私を跪かせることはできないし、私はその知性において他を凌駕しているの、だから愚かなあなたに腹も立たない代わりにあなたは私に従うしか道はないのよ。そんなこと、クライアントにも上司にも、男にも女にも、けっして、口が裂けても言わないが、持って生まれた私の本能はつねに内なる私の声で、対象たるすべての人々に向かってそう言っている。困ったものだが、私はその内なる声に抗ったりしないで、「そうよね。にっこり」てな調子で自己肯定しているものだから、幸い分裂症にもならないし自己嫌悪にも陥らない。
私が自己嫌悪に陥るのはひどく疲れた顔で男と逢っていたことが後から判明したりするときだ。あんなに作り笑顔してたつもりなのに疲れてたってばれてたなんてという敗北感と弱みを見せてしまったことで次回以降に向けて相手にアドヴァンテージを与えたことがわけもなく悔しいのである。こういうケースがままあるところが、恋と仕事との大きな違いと言えなくもないな。
弱みを見せてもいいと思える相手をやっとの思いでつかまえて、大事に大事に私への気持ちを育ててやって、ようやく自分たちの未来を考え始めたとたん、しゅっと消えてしまう。そんな恋の失いかたを、何度経れば学ぶのだろうこの私は、この「上から目線」で墓穴を掘っているに違いないということを。いや、私はとっくに学習している、「よしよしあんた可愛いわね一緒に居てあげてもいいわよ」という態度を貫く限り恋は成就しないことを。でも、やめられないんだもん、しょうがないじゃん。あなたのためなら何でもするわなんて、約束できないこと言えやしないじゃん。
私は遊びで幾人もの殿方を同時に相手にしたりはできない性質(たち)である。そんなに器用ではないのである。真面目におひとりを愛し抜くのである。だから愛情は一直線にそのかたに向かうのである。向かうけれど、向かう愛情はそのかたの身の回りの世話をするとか手料理や愛情弁当とか洗濯物を畳むとか物理的な形をともなってはけっして現れないし(だってあたし忙しいもん)、愛してるだのあなたがいちばんだのあなたのことで胸がいっぱいだの歯の浮く台詞に変身したりもしない(だってあたしはライターだけどスピーカーじゃないもん)。だけどあたしの愛情は殿方よりも一段高いところから殿方を俯瞰して愛情のシャワーを注ぐごとくのものであるから、殿方は私の愛情を全身に浴びておられるはずなのだ。はずなのだが、どうもそれではイカンようである。霧雨程度にしか感じてもらえんのだろうか。うーむ。
そんなこんなで利害をともなわない恋はひょんなことから破れたり崩れたりしてちゃんちゃん、と終わる。ここも仕事とは大きく異なるところで、利害がともなうと人間、簡単にチャラにはせず投資した分取り返そうと躍起になって働き続けるのであるが、恋はちゃっちゃと跡形もなくなる。
私はたぶん、惚れた相手を過剰に愛するので、ある時期からその容量を測れなくなってしまう。過剰な愛に対して等価といえる愛が返ってきていなくても気づかなかったりするのだ。恋が終わっても、私は相手を恨んだり罵ったりしたことがない。それに近い思いを抱いたこともない。いっそ憎めればよいのだろうが、惚れた男たちはみないつまでたっても美しく私の中で輝いている。負け惜しみや冗談でなく、私は彼らが幸せであってほしい、私が今幸せであるようにあなたも幸福に包まれていますようにと思うのである。べつにそんなことを初詣に祈願したりはしない(自分と娘のことしか祈願はしない)けれど、ご本人とそのお身内の無病息災、なにより自身が納得して生きて、その生を全うしてほしいと思うのである。
自分の意に沿わぬ行動をとる人を、それでも好ましく思い続けることは、ある人々やある年代には難しいことなのかもしれない。好意なんてもてないから無視する、無関心を装う。人目につくところではそれで済ませても、時に感情が高ぶってそれで済まなくなり、罵詈雑言を叩きつける。その格好の場がネットなのだろう。
どうでもいいことを長々と書いたが、50年近く生きてやっと隣人と地域とともに在らねばならないとの思いに到達した私は、好き勝手なことをうだうだ書き散らしてはいても、その言葉のもつ針や棘やヘドロ臭の醜さを超越して「人間」を愛している、そのことに気づいたのである。若い頃、人間ほど嫌いな動物はないと断言できた私だが、今は昔だ。
私がいつまでも内田樹を愛し続けることができるのは彼の発するさまざまな思考が、表現や言い回し、論調が変わっても、ぴたりと私のそれと波長を一致して響いてくることに、快感を得るからに他ならない。彼はいつまでも私の二、三歩先をゆく「ちょっと物知りのオバサン」である。押しつけがましくない分、つい、追随したくなる魅力をその腰つきからふりまく熟年のオバサン。そう、ウチダは私にとってどんなオバサンであるべきかを身をもって示してくれる先輩オバサンである。その思いを強くしたのは彼の講演をちょろっと聴いた経験からである。彼の著作だけを愛していたときは、いくら彼がオバハン臭い書きかたをしていてもオトコ臭かったが、彼の講演やラジオトークを聴いてからは、そのお喋りがとても女性的で井戸端臭いことがわかって、ツボにはまってしまった、というか、私のウチダ偏愛史の新たなページを開いたというか。
それをあらためて裏づけるのが本書だ。
祝福したい。あなたのこともあなたのこともあなたのことも。
地球史上最低最悪じゃないのこの男、てな男に対しても、人類史上最低最悪の社会人じゃないのこの女、てな取引先の担当者に対しても、彼らの生に幸あれと願わずにいられない。
みみずだっておけらだってあめんぼだってみんなみんな生きているんだ友達なんだ。
ウチダ自身がブログかなんかで紹介していた、茂木氏の書評をコピペする。茂木健一郎は嫌いだが、この文章はいい。こういう出来事に遇うと、えらいぞモギ、と祝福を送りたくなる。一生愛し愛され抜ける人に会うことはなかなかないのかもしれないが、人を愛することそのものはさほど難しくないと思うのである。
********************
波 2011年12月号より
呪いと祝福
茂木健一郎
 内田樹さんを評するのに、御自身がよく使われる言葉以上に的確な表現が見つからない。「その人が、何を教えてくれるのか判然とはしないけれども、なぜか慕われる人」。私たちにとっての「先生」とは、そんな存在だと内田さんは繰り返し書かれる。私にとって、内田樹さんとは、まさにそんな「先生」である。
 内田さんの魅力は、総合的な人格に由来する。これまで生きてこられた履歴、考えてこられたこと、感じてこられたこと、すべてが相まって、「内田樹」という書き手から、私たちに向かって流れ出してくるものがある。
 新著『呪いの時代』を興味深く読んだ。『日本辺境論』でもそうだったが、日本人の心性を腑分けする時の内田樹さんの手腕は、水際立っている。それは、技術的な例えを使えば「工数」の多い、緻密な論理構成に基づくもの。言葉の精密機械が、熱情という潤滑油によってなめらかに動いている。
 インターネット上にあふれている「呪いの言葉」。議論を先に進めようとするのではなく、むしろ相手の営為を無効化し、力を奪い、自分の優位を確認するためだけに吐かれる言葉。それは、確かに困った現象であると同時に、私たち日本人の今の「等身大」を映し出す、一つの「自画像」である。突出しようとする人がいると、平均値に引き戻そうとする同化圧力。共同体全体として発展するというよりは、むしろ「滞留」する中での「ポジション取り」に終始する。そのような空気が日本の社会にあることを、私も、自らの経験に照らして、ありありと思い出すことができる。
 「呪いの言葉」を吐く人たちは、自分たちで身体を張る必要がない。リスクを負って、発言することもない。後出しジャンケンで、「お前はこんなことを知らない」という指摘をすることは簡単である。そのような知的な負荷の低いふるまいが「賢い」のだと、日本の一部の人たちは思っている。
 どんな国、文化圏にも、固有の病理がある。日本だけが例外だとは、私は思わない。たとえば、イギリスでは、階級社会が未だにあって、人々を縛っている。アメリカ人の一部が銃器規制にあれほど慎重なのも、「自由」についての「信仰」の病理である。お隣の国中国が、「民主主義」とは異なる方向に発展しているのは、周知の通り。
 日本だけがとりわけ病的だとは思わない。それでも、日本の精神病理には、関心を払わざるを得ない。なにしろ、自分たちの国である。そして、その中で暮らすことが一体どのような体験であるかということを、私たちは熟知している。
 「呪い」が人から力を奪い、行為に投企することを妨げるとしたら、「祝福」はむしろ行為へと背中を押し出す。誰だって、失敗しようと思って何かをするわけではない。かといって、成功を保証しようとしたら、一歩さえ踏み出せない。
 幼き子が、初めて小学校に向かう日。就職が決まり、田舎を出て上京する前の晩。結婚式で、若い二人の幸せを祈るひととき。そのような時に人々が「祝福」の言葉を贈るのは、未来がまさに不確実であり、どうなるかわからず、ましてや成功など保証されていないからである。
 自らの身体をもって、何か具体的なことをやること。私たちは、今ネット上にあふれている「呪い」の言葉ではなくて、「祝福」の言葉をこそ必要としているのではないか。
 ネット上の「呪い」の言葉が、内田さんの言うように低い負荷で自分の「優位」を確保する試みだとしたら、これほど生命から遠いことはない。私たちは、そろそろ「呪い」から離れて、「祝福」の方に歩み出したらどうか。誰だって、一度きりの人生を、たっぷりと生きてみたいのだ。(もぎ・けんいちろう 脳科学者)
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年々イベントがしょぼくなる(笑)我が家のクリスマスだが、娘とチャレンジするクリスマスケーキづくりは欠かさない。今年はガトーショコラ。かなりの工程を娘が担ってくれるようになった。ただし、デコレーションは出来合いのもんだけどね。めっさうまかったでえ~~♪

で、お次は、長らく報告できていない「ある日のお弁当」。ところで我が家では12月29日までお弁当づくりが続く。なんなのよ、どういうことよ、そんな学校だったとわかってたら入学させなかったのにっ。わが母校ながらその変容ぶりに呆れる。ヤンキーの巣窟だったのにさ、ほんとにおベンキョ小僧学校になっちゃって、まあ。しゃあないから頑張れ、娘。
10月20日とりそぼろときんぴらゴボウ



毎年、12月早々にブログは年末年始休暇宣言をしていたが、この更新の停滞ぶり、何が休暇宣言じゃと我ながら思うので、ギリまで仕事の収拾がつかないのをいいことに、2011年最後の更新をいたしました。幸せのうちに今年が終わり、平和で穏やかなる来る歳を迎えられますように、心からお祈りいたします。寒いから体には気をつけてね。そしてまた笑顔でお目にかかりましょう。みんな、愛してるよ。

Rappelles-toi, Barbara...!2011/09/18 10:25:56

Paroles
Jacques Prévert
Folio (1991)


私がたった一冊持っているジャック・プレヴェールの詩集だ。彼の名を知るきっかけになった作品「Déjeuner du matin」と、彼の詩をさらに愛するきっかけとなった作品「Barbara」が所収されている。「Déjeuner du matin」はたいへん簡単なフレーズで成り立っていて、仏語学習初級者にも解る。そう、何を隠そう、この詩を読んだのは通っていた大阪の仏語学校で使用していた教材の中でだった。フランス人講師は、この詩は複合過去形だけでできてるから簡単さ、同様にカミュの『異邦人』は現在形と複合過去形でできてるからこれも簡単、初めて読む仏語小説にはぴったりだよ。と言っていた。私は、美大生の頃にロートレックの小さな画集を買った、フランスものを多く扱う古書店へ行き、カミュとプレヴェールを探したが、そこではプレヴェールが見つからず、しかしカミュの『Etranger』は見つけて買うことができた。フォリオの文庫だったけど、とてもダサイイラストの表紙だった。フォリオの文庫の表紙はその後何回もデザイン替えされている。いまの表紙はけっこうイケてるはず。話をプレヴェールに戻すが、その後私は、フランス語学校で中級に進んだので、使用する教材が変わり、ぱらぱらとめくると、今度は「Barbara」なる詩が掲載されていた。その教材は、家庭学習用のカセットテープが販売されていたので迷わず買い、とぅるるるるるるーと早送りして「Barbara」のページを再生した。プレヴェールの詩「Barbara」を、たいへんええ声の男性が朗読していた。Rappelles-toi, Barbara... この詩に惚れたというよりも「ええ声」に惚れたのではないかという指摘は、たぶん外れていない。私は、そのカセットテープはとっくに失くしてしまったが、Rappelles-toi, Barbara...と聴く者に呼びかけるあの声をまざまざと思い出すことができるのだ。やがて渡仏し、さっそくまちの本屋で本を探すことを覚えた私は、ジャンフィリップ・トゥサンの『浴室』ほか一連の原書と、プレヴェールの詩集Parolesを買った。プレヴェールの詩集はいくつかあったが、鍵を握る(何のだ、笑)2作品が両方とも収録されている詩集ということでこれにした。たくさんの作品があるんだけど、当然読んで理解することができるほどには、まだ仏語が上達していなかった。とりあえず、日本にいた時にさんざん読んだ2作品を繰り返し読むことに留まっていた。
私はフランス歌謡なんぞには興味がなかったので、仏語教室の私より年長の学友たちが「これ、いいわよ」といって餞別にくださったカセットテープの内のひとつの背に、コラ・ヴォケールの名前があったけど、だからって何の感動も覚えなかった。ジョルジュ・ムスタキやイヴ・モンタンなどもいただいたが、ふうん、と思っただけだった。そのうちに、彼らが歌うシャンソンの詩がプレヴェールによるものであることが多々あるということを知る。「Barbara」はピアフが歌っていたし、もらったイヴ・モンタンのカセットには「枯葉」が収録されていた。「枯葉」ってマイルスのトランペットのレパートリーだと思っていたから歌詞があるなんて知らなかったさ。
昨日、9月17日、コラ・ヴォケールが亡くなったというニュースを読んだ。93歳だったって。失礼ながらまだご存命とは思っていなかったので二重の意味でびっくりした。彼女はモンタンより先に「枯葉」を歌った人である。ニュースサイトから動画を探したが、「枯葉」はなかった。



Démons et merveilles 投稿者 mouche45


Les Feuilles Mortes 投稿者 ingi-agzennay


最後に初級レベルの例の詩を試訳する。
簡単だけど、悲しいのよ。


Déjeuner du matin

Il a mis le café
Dans la tasse
Il a mis le lait
Dans la tasse de café
Il a mis le sucre
Dans le café au lait
Avec la petite cuiller
Il a tourné
Il a bu le café au lait
Et il a reposé la tasse
Sans me parler
Il a allumé
Une cigarette
Il a fait des ronds
Avec la fumée
Il a mis les cendres
Dans le cendrier
Sans me parler
Sans me regarder
Il s'est levé
Il a mis
Son chapeau sur sa tête
Il a mis son manteau de pluie
Parce qu'il pleuvait
Et il est parti
Sous la pluie
Sans une parole
Sans me regarder
Et moi j'ai pris
Ma tête dans ma main
Et j'ai pleuré



朝の食事

彼はコーヒーを注いだ
カップに
彼はミルクを注いだ
コーヒーカップに
彼は砂糖を加えた
カフェオレの中に
小さなスプーンで
彼はかきまぜた
彼はカフェオレを飲むと
カップを置いた
私には何も言わずに
彼は火を点けた
煙草に
彼は輪っかをつくった
煙で
彼は灰を落とした
灰皿に
私には何も言わずに
私を見もせずに
彼は立ち上がり
載せた
自分の帽子を自分の頭に
彼は着た
レインコートを
雨が降っていたから
そして彼は出て行った
雨の降る中を
ひと言も口にせずに
私を見もせずに
そして私、私は抱えた
両の手で自分の頭を
そして私は泣いた。

Parce que demain se decide aujourd'hui. ...ou demain?2011/04/08 21:04:05


今日、入学式だった。


津波に校舎ごと流されてしまった小学生たちの、また中学生や高校生の、在ったはずの未来を思った。いくら思っても全部を想像できないし、できたところでさらわれた命は還らない。子どもたちの未来はあまりに大きすぎて、明るすぎて、可能性に満ちすぎていて、あまりに多くの未来をいっぺんに喪失した事実が重すぎて、あるはずだった輝きの上限を思い定めることができない。

連日の、報道されることとされないこと。個人的に気になることや、人に指摘されて調べてみたりすること。まだ私の余裕のない頭の中では、いろいろなことが整合しないで散らばっている。遠くにいてさえこうなのだから、渦中にいる人たちはどんなにか不安で落ち着かないことだろう。

小さな遺体の入った棺を抱え、火葬場へ向かう車の中で初めて声を挙げて泣いた人(安置所では遺体を探す人に気遣って泣けないから)。
ずっと、親にも兄弟にも会えないまま、ただ「お母さんへ」で始まる手紙を毎日書き続ける子ども。
子どもの姿は携帯電話にあった粗い画像の1枚だけ、後は全部流されたという若い母親。

地元紙には被災した人びとのさまざまな姿と悲鳴が毎日レポートされる。涙なしで読めないことしばしばだけれど、必ず読む。
無力な自分がほとほと嫌になる時間である。
けれど、報じられないことのほうが、実はずっと多い。
自分自身は壊滅的な打撃は受けなかったにしても、職場が復旧しない人。
自分の被害は少ないほうかもしれないが、それでも従来どおりの日常を取り戻せない人。
大きく、長い揺れのために怪我をし、命に別条はなかったが心身の後遺症に苦しむ人。
こういう人たちの困難や不安にもっと寄り添ってあげたいと思う。被害が軽微であった、とりあえず周囲は復旧した、だとしても、目に馴染んだ風景が一変したことによるショックや、あまりの甚大、壮絶な被害に、「なのに自分は助かってしまった」という思いに苛まれ、命拾いを喜べず、「もっと辛い人がいるんだ」という気持ちから自己の悲しみ・苦しみを飲み込み、押し殺してしまい、心を病んでしまう……。そんなことにならないように、どこのどんな人の言葉にも、耳を傾けたいと思う。


よっぱさんは、かつて文章塾というところで一緒に学んだ仲間である。
よっぱさんは、とても優しい。
よっぱさんが書くのは、ストレートな恋愛物語。お洒落なハードボイルド。登場する男女はカッコよかったり、気障な台詞を吐いたり、でも素直でお茶目で、おっちょこちょいだったり。読む側がすんなり感情移入できるキャラクターを難なくこしらえて、愛を語らせた。

よっぱさんは、あるときこっそり「パッチ」を穿いていることをブログでカミングアウトされた。しかも写真つきで。よっぱさんのズボン下から見えるキュートな(?)ブルーグレーの「パッチ」はとても暖かそうだった。何を隠そう、私も数年前からお世話になっている。仕事着はいつもパンツスタイルだ。パンツの内側に何を穿こうが、顧客にも上司にも関係ないやん。だから、若い頃穿いていた派手なプリント柄のスパッツを、「ズボン下に穿くパッチ」に格下げした。20代の頃はそのスパッツにロングTシャツ、足もとはエスパドリーユというのが定番であった。いまそんな格好をしたら娘が一緒に歩いてくれない(笑)。愛着のあるスパッツだからこそ格下げは正解。綿100%でタイツやパンスト穿くよりずっと肌に心地よくて大活躍である。……というようなことを、よっぱさんのパッチフォトを見て思ったものだった。

そんな愛すべきよっぱさんのブログの更新が、いっとき途絶えたことがあった。大事無いことを祈りつつ、ご機嫌伺いの書き込みなどしたのだけれど、大丈夫、よっぱさんはつねづね多忙な人だから、余裕がなかっただけだった。ただ、余計な心配をした私へのコメントレスに、「さなぎちゃんは偉いなあ。おじさんはいつも応援してるよって伝えてください」といったような1行があって、もう、私は穴があったら入りたかった。励ますつもりが、娘を褒めてもらっちゃうなんて。いろいろなことで疲れておられるのに、応援してくれるなんて。根っから優しい人。それがよっぱさんである。


よっぱさんの住む町が、3月11日の地震で大きな被害を受けた。
よっぱさんの正確な住所は知らない。だけど、ひとつも被害がないなんてことはたぶんありえない。もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら。
私は怖くて、しょっちゅう覗くよっぱさんのブログを、覗けないでいた。更新が止まって動かないのを見るのが、怖かった。
その私に、文章塾仲間のおさかさんが、よっぱさんの無事を知らせてくれた。


よっぱさんの部屋はめちゃくちゃになったそうだ。
ライフラインがストップし、寒いのに、暖かいものにありつけないひもじさ。自分のいる場所のごく近辺の様子しか知ることができない不安……。よっぱさんはひとりでそうしたものと戦いながら、少しずつ、被害の全貌を知り、言葉を失うほどの惨状を目の当たりにする。
いくらクリアに撮影されていても、映像やパソコンの中の写真では伝わってこないその凄まじさ、変わってしまった空気と大地の色と匂いに、愕然とする。


そして、よっぱさんは、優しいよっぱさんは、ウルトラ級の被災者の存在の前に、自分が受けた被害など小さいと、痛みや苦しみを飲み込んでしまっている(ように私には見える)。
こんなとき、被害の大小を比較するものではない。どんな被害でも、受けた人にとっては生涯でいちばんの衝撃だった。痛みだった。そしてそれは続くのである、ずっと。

傷を負った人を、周囲が気遣いいたわり、心配し、声をかけ、なんとか癒そうとするのは、当たり前のことなんだよ、よっぱさん。だから、ありがとうなんて、言わないで。

よっぱさん。
よっぱさんが「偉いなあ」と言ってくれた娘が、高校生になりました。
ありがとうをいうのは、私のほう。
よっぱさん、ありがとう。
よっぱさんの心に平穏が戻る日を、私も待っています。
それじゃ、また明日!