北極圏からのラブレター ― 2007/05/05 09:13:00
昨年の12月、娘は意を決してサンタクロースに手紙を書いたのだった。枕元においておく手紙じゃなく、お母さんに託す手紙じゃなく、自分で封をして宛先を書き、投函するための手紙。
「お母さん、フィンランドのサンタさんの住所、絶対調べといてっ」
「は、はいっ」
サンタさんの住所、なんてあるのか。
サンタなんとか協会とかクリスマスほにゃららクラブとかって名前のついた、慈善事業なのかビジネスなのか正体不明なやつのアドレスじゃなしに、本物の、正真正銘のサンタクロースの住所。
お母さんは、必死で探しましたよ。
「わかった? サンタさんの住所」
「わかんないよ」
「北極点のどこかでしょ」
「そんなとこ、白熊しか住んでないよ」
「だからさ、白熊のいるところよりもう少しだけ南でしょ、あたりまえじゃん、そんなの。ラップランドの山の向こうだけど、氷の海よりもこっち」
向こう、とか、こっち、とかってなあ、隣街のじいさんに御歳暮送るんとは違うんだぞ。
しかし、なにしろ娘は映画『ポーラーエクスプレス』をほぼ実話だと思っている。
我が家に初めて届いたサンタクロースからのプレゼントは、サンタの村を描いた絵本だった。サンタの村はラップランドの向こうにあるという内容で、以来、私たちの頭の中ではサンタはそこにいる。サンタは、北欧のフィンランドの、最北地方ラップランドにある、普通の人には越えられない山の向こうにある村に住んでいる。それが娘の持論で、『ポーラーエクスプレス』はそれを裏づける役目を果たしたわけだった。
ある日私はとうとう見つけた。
ここに出せばサンタに手紙が届くという宛先を。
「フィンランド」や「サンタ」、「手紙」をキーワードに懸命に検索した結果見つけたその住所はフィンランドの、北極圏内にあたるところで、サンタ専用郵便局なのだった(!)。
エアメール用の赤と青のシマシマ縁取りのついた封筒に、薄い薄いグラシンペーパーみたいな便箋。娘は何度も下書きをして、心を込めてサンタクロースに手紙をしたためた。フィンランドの宛先も、封筒に一字ずつ丁寧に書いた。
「自分の住所も書きなさいよ」
「漢字で?」
「ローマ字のほうが、いいんじゃないの」
「えーやだ、間違っちゃうから、そこだけお母さん書いて」
12月半ば、娘の願いを乗せた手紙はフィンランドへ旅立った。私の願いはただひとつだけだった。
「どうか、宛先不明なんかで戻ってきませんように」
どうやら、手紙は先方に届いたらしい。クリスマスに届いたプレゼントの中身を検証すれば、サンタクロースがきちんと手紙を読んでくれたことは明白らしい。娘によれば届いた品物は、「手紙を読んでくれて、気持ちをわかってくれた人でなくちゃ選べないもの」なのだった。
サンタクロースは実在する。確信をさらに強くした昨年のクリスマスだった。
そして昨日、なんとサンタクロースから返事が来たのだった。
フィンランドの切手に、北極圏を示す地図をデザインした消印。
日付は4月27日だった。
娘も私も(とくに私!)、目が点になった。
見た目はなんかのDMみたいだったんだが(笑)。間違いなく、かの地から送られてきたものだ。
ラップランドの四季の暮らしが、サンタの言葉で綴られていた(日本語!だけど)。
「夏はこの地方も結構暑いから、わしも半袖じゃよ」というふうに。そして、ぜひ一度、素晴しいラップランドの自然を満喫しにおいで、と。
「行きた〜い!!!!!」
言うと思ったよ。隣街のじいさんに会いに行くんじゃないんだぞ。
娘は「恋人」からの手紙を抱きしめて、また開いて読んで、また抱きしめた。何度もそれを繰り返し、流行りの歌のメロディーに合わせて「サンタさあん、サンタさあん」と口ずさんだ。
この手紙によると、サンタクロースは75万通以上もの手紙を受け取ったらしい。たぶん順番に、返事を書いているんだろうな。ボランティアスタッフもたくさんいるんだろうな。いろんな仕事があるもんだ。喜ぶ娘を横目に、私は少々複雑な思いだった。とんだところからラブレターが来たもんだ。
湧き出る泉のような「結婚力」 ― 2007/05/11 16:37:28
ダニエル・デフォー作 井澤龍雄訳
岩波文庫(初版1968年)
もう数週間ほど前になるが、日経新聞の夕刊に、最近の結婚の実情についてまとめたレポートが載っていた。晩婚化がいわれて久しく、また離婚率も上昇の一途だ。世の中シングルの(生活を楽しむか寂しがっているかを問わず)男女が大変多いようである。
そのレポートは、昨今増えている《バツイチ女性と初婚男性の組み合わせ》について述べていた。結婚仲介業(という業種名が正しいかどうかわからないけど)やお見合いパーティー(よく「ねるとん」とかいったけど、今でもそう呼ぶのかな?)企画業者などにリサーチした結果、先述の組み合わせでの成婚率が急上昇中らしい。
その理由について述べられていたのだが、詳細は忘れてしまった。だいたいこういうことだったと思う。
(以下は記事からの引用ではなく、こんな内容だったなというあやふやな記憶に基づいて、私見を書き出したもの)
【女性のキモチ】
そもそも現代女性は一度失敗したぐらいではへこたれないというチャレンジ精神が旺盛。
一度経験してしまえば離婚なんか怖くないし、経済力もあるからまたやってみっかな、と、初婚時よりも結婚に対する精神的ハードルが低い。
一度結婚していることで、自分は結婚できる女性だという自信、自分の女性的魅力について自覚している。
離婚の経験から男性に対して許容範囲(個人差あり)は広がってはいるが、同時に同じ失敗を繰り返さないに越したことはないとの思いから、前夫への不足感(個人差あり)を補う要素(個人差あり)を持つ男性を求める傾向がある。その要素とは、容姿や経済力、社会的地位ではなく、思いやり、優しさ、女性を尊重し敬う心を持っていることである。
【男性のキモチ】
昨今、俺について来い、なんて台詞はとても言えない。
正規雇用で安定しているように思えても、いつ会社が倒産するか、自身がリストラされるかわかったもんではない。だから経済的に自立している女性と結婚したい。
だけどそういう女性は理想が高いのが普通だ、たぶん俺なんか眼中にない。
でも。
バツイチ女性は、男は顔じゃない、男は身長じゃない、男は学歴じゃない、男は収入じゃない、ということを知っている(と思う)。
バツイチ女性は、経済力があるから離婚に踏み切った、または離婚後に経済力をつけたという人が多い(と思う)。
バツイチ女性は、その離婚経験から、結婚生活を円滑に進めるため、つまり幸せになるため、より努力をしてくれる(と思う)。
だから俺、結婚するならバツイチ女性がいいな。そのほうが初婚の若い女性よりリスク回避できると思う。俺は結婚に失敗したくないし、だいいち失敗できないよ、この年だし。親も年だし。
とまあ、こんなところだろうか。
記事は、とりわけ未婚の男性側の、バツイチ女性を要望する傾向の大きさを指摘している。結婚相談所や仲介業者を訪ねる男性の中には最初から「バツイチ希望」とする人が増えている、「バツイチ女性と未婚男性限定」のお見合いパーティーの開催が盛んである……というふうに。
そして記事は、とりわけ女性を意識して、これからは結婚経験が豊富な者と未経験者がはっきり分かれていくであろうと締めくくられていた。こういうふうに。
《これからは、「結婚力」のある人は何度も結婚する一方で、ない人は未婚のまま生涯通すという結婚格差が二極化していくかもしれない》
「結婚力」だとおおおおーーーー!
なんでもかんでも「○○力」っていうなああああーーーーー!
※《》内は正確な引用ではないが、「結婚力」はカギカッコつきで用いられていた言葉である。
なんでもかんでも格差化するなあああーーー!!!
経済格差、教育格差、家族格差、結婚格差! こちとらぜーんぶ二極化の「下」のほうだよっ 悪いかバカヤロー!
と、叫び終えたところで。
モル・フランダースである。
先述の結婚力記事を読んで即座に思い浮かんだのがモル・フランダースであった。
この言葉を用いて形容するに、モル・フランダースほどふさわしい女性はない。
「結婚力にみなぎる女性」
おおお、なんてパワフルなイメージ。
その力は現代日本女性の比ではない。なぜならモル・フランダースは経済力があるわけじゃない。結婚経験によって男性に対するキャパが広がっているわけでもない。
ただただ彼女は自身の魅力と処世術で結婚を繰り返して、食いつないでいくのだ。
まさに、尽きない泉のごとく溢れ続ける「結婚力」。
ああ、本当にあやかりたい(本音)。
冗談やまやかしじゃ、ないんですのよ。モルったら、ほんとに次々と結婚しちゃうんですの。
彼女は孤児でした。出生の顛末からジプシーに拾われますが、また捨てられ、その後孤児の世話をする女性の家に引き取られます。その、いわば里親に、幼少時から縫い物や刺繍など仕込まれて、贅沢さえいわなければつつましく生きていくことのできるくらいには、手仕事を身につけるのす。
それなのに、どういうわけか、《あたい、“奥様”になりたい》などというのが口癖で、貴婦人になる野望を持つのです。自分は貴婦人になるにふさわしい人間だと最初から思っているふしがあって、その信念から貴族の奥方たちを観察するのに余念なく、どうすれば貴族の気に入り目に留まるかをたえず考えている、そんな少女なんですの。
里親は彼女を諭すんですよ。貴族の生まれでないお前は貴婦人にはなれっこない。“奥様”(マダム)は、貴族に生まれた女が貴族に嫁ぐからこそ与えられる呼称だと。親切からそういう里親の言葉に頷いて見せるものの、彼女は心の中で《あたいだって》という気持ちを忘れないのです。
あ、いきなり「ですます調」になってますけど、というのも『モル・フランダース』はモルの一人称で、自身の人生を回想するかたちで語られますが、その語り口がとっても貴婦人チックなのです、最初から。私はとてもそんな貴婦人口調では語れないけど、ともすればすぐ○○だとおーバカヤローなんて口走る癖があるところを、モルの紹介くらいは多少なりとも丁寧に、と思ったもんですから。
モルは18世紀のイギリス女性という設定です。原書は1722年の出版らしいのですが、物語の終わりには1683年記すって書いてありましたわ。
私は、英国社会については中世も近代も現代も何にも知りません。だけど、人々は階級できちっと隔てられ、たとえろくでなしでも貴族は貴族として、いくら働き者でも貧民は貧民のまま、どんなに優しくても泥棒は泥棒のまま一生を終えるのが当たり前という時代だったってことはなんとなく想像ができます。ということは、《あたい、“奥様”になりたい》なんていうモルの願いなんてのは、身の程知らずも桁外れすぎるって感じじゃあ、ありませんこと?
作者のデフォーは、経済系のジャーナリストだったんですってね。私はまったく読んでいませんけど『ロビンソン・クルーソー』を書いたあとにこの『モル・フランダース』を書いたそうです。ジャーナリストとして取材した事実をもとにして書いたという体裁をとっているんですよ。
ちなみに英語の原題は:
The Fortunes & Misfortunes of the Famous Moll Flanders Who was Born in Newgate, and during a Life of continu'd Variety for Threescore Years, besides her Childhood, was Twelve Year a Whore, five times a Wife (whereof once to her own Brother), Twelve Year a Thief, Eight Year a Transported Felon in Virginia, at last grew Rich, liv'd Honest, and dies a Penitent. Written from her own Memorandums ...
『有名なモル・フランダースの幸運と不幸なこと。彼女はニューゲート牢で生まれ、子供時代を除く60年の絶え間ない波瀾の生涯において、12年間情婦、5回人妻、(そのうち一回は彼女自身の弟の妻)、12年間泥棒、8年間ヴァージニアへの流刑、最後に裕福になり、正直に暮らし……』
という長いもので、一般には最初の:
The Fortunes & Misfortunes of the Famous Moll Flanders
をタイトルとしているそうです。
訳者によりますと、こういうふうに数字を並べ立てるところは大変デフォーらしいんだそうです。
12年間情婦、というのは、間違っちゃいけないけど「娼婦」ではないんですよね。誰かの愛人だったわけで、現代なら愛人生活12年なんて人、珍しくはありませんよね(個人的には知らないけど)。すごそうに見えてモルは、男性に結構翻弄されてしまうのです、最初は。
で、そんなに愛人ライフやっていながら、5回も結婚してるんですよね。
これがすごくありません?
その結婚にいたるプロセスっていうのは、ほとんど結婚詐欺師やーん、とツッコミたくなるようなものなんです。でもモルはなんだかんだいって愛情感じていたり、逆に相手が詐欺師だったりして、なんだか可愛いのです。
うち1回は弟と、とありますが、これ、知らずに結ばれちゃって、真実を知ったときモルも相手もそれはそれは立ち直れないほど罪の意識に苛まれるんですよ。ちょっとこの展開は、読み手の胸を締めつけますわ。
ま、とはいえ、ええ年したおばさんになってから泥棒になったところは感心しませんけどね。最後に裕福になり穏やかな暮らしをするにいたるところは、なんでやねーん、って思わなくもありません。子どもも、ちゃんと数えなかったけど7、8人は産んでいるんですが、ひとりとして自分の手許に置いていないし、物語の中での言及もないんですの。そこは、現代の物差しではとても測れないところですわね。
本書を原作にして、映画もつくられています。1996年ですから、そんな古いものではないですね。映画のあらすじをどこかのサイトで読みましたが、原作を読んだ後だといかにも物足りない印象です。山ほどあるエピソードをすべて詰め込むのは無理であるとはいえ、そりゃちょっと違うんじゃございませんといいたくなりますわ。というのも、結婚回数を大幅に減らしているようなんですのよ。それでは尽きることなく湧き出る結婚力をみなぎらせ続けるモルの魅力が表現できていないんじゃないかしらと、思うんですの。
でも、聞くところによると、映画としての出来はすこぶる良いそうですのよ。モルを美しく強く演じているのは、つい最近も何かでの好演が伝えられていたロビン・ライトという女優さんだそうです。
実際、本書『モル・フランダース』は、モルの語り口のせいもありますが、少々メリハリのない構成で、人によっては退屈に感じられるでしょうから、まずは映画から試してみるのもよいかもしれませんね。DVDだかビデオだかも、出てるみたいです。
5回もしたくはないけど、死ぬまでに2回ぐらいは結婚してみたいなあと真面目に考えていたのだが、どうやら私には「結婚力」が欠如しているようである。本書は図書館で借りて読んだが、絶版にならないうちにバイブルとして購入しておこうかなと思わなくもない。バイブルってところ、マジ。
断片のきらめきに目が眩む ― 2007/05/15 18:18:04
ジャック・ロッシ著 外川継男訳 内村剛介解題
成文社(1996年)
ずいぶん前になるが、書店で平積みになっていた『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(辺見じゅん著)という本を、何の気なしに買った。
もうあまり覚えていないが、国の外にばかり目がいく傾向があった自分を押しとどめようとしていた時期に、この本は出版されたように思う。思い出しても可笑しいのだが、まともな日本人であるためには日本文化について語れなくちゃな、なんて、俄仕込みでは何の意味もないのに、古典を読み漁り、古い歌のおさらいをし、ベーシックな折り紙をマスターし、きものの着付けや作法を(さらっと)習ったり。留学前夜、私は西欧・アフリカへ逸る気持ちを抑えて「日本」に向き合おうともがいていた。で、ご想像を裏切ることはないと思うが、俄仕込みカルチャーはひとつとして血肉とはならぬまま忘却の彼方、もはや青春のひとコマよりも色褪せている。
たったひとつ、この『収容所から来た遺書』だけが、抜くことのできない杭を私の心に打ち込んだ。
私は、幸い(というべきなのだろう、本当に)、身内に戦争体験者がいない。家の男性たちは、戦争に駆り出される世代からちょうど外れていたのだろう。祖父は、もう少しいたずらに戦争が長引いていたら、この国が若者を使い果たした後に召集を受けたかもしれないが、その前に戦争は終わった。伯父はもうあと1、2年早く生まれていたら特攻で散っていたかもしれないが、終戦時に16歳だった。三つ下の父は、玉音放送を聴いて「なんやわからんかったけどなんか知らん悔しかったさかい、歯ぁくいしばって、声出さんように泣いた」そうだ。
他方、母は、近所に纏足の中国婦人が何人も住んでいたのを覚えているが、幼心に「〈けったいな足やなあ〉と思った」以外、戦争にまつわる具体的で象徴的な記憶はない。
だから、学校の授業や社会見学、あるいは映画やテレビ番組などで戦争についての知識を重ねていくようにはなるけれども、どちらかというと兵士たちではなく、一般人がどんな目に遭ったかという視点で語られるものばかりを、またあまり問題意識も持たずに吸収していたように思う。広島、長崎、沖縄、南京、シンガポール。戦争の名のもとに幾万もの命が痕跡を留めぬほどに踏み潰された場所は数え切れない……ということは知るけれども、では兵隊さんたちは、どんなふうに死んでいったのか、どんなふうに生きながらえたのか。いわゆる美談も真実味のある話も、米国との関わりの中で伝えられることが多かった。
シベリア抑留については、よほど関心を持って知ろうとしない限り、情報のほうからやってくることはなかったように思う。
生き残った男たちの口から引き出した収容所の生活と、死んでいった者たちの思いを、大げさでなく淡々とした文体で綴る。それがかえって胸を打つ。私はもともとノンフィクションばかりを、面白がって読むほうだが、事実の積み重ねだけでこれほど心を揺さぶられたことはなかった。感涙、などという安っぽいものがこみ上げる余裕を与えてくれないのだ。読む者の心に。
図書館のフランス文学書架に『さまざまな生の断片』のタイトルを見たとき、おお、なんとカッコいいタイトルかと思ってすぐに手を伸ばした。だがその下に小さな字で記されたサブタイトルにソ連強制収容所の文字を見たとき、件の辺見さんの著書が思い浮かんで一瞬躊躇した……んだけれども。
著者のジャック・ロッシは1909年生まれのフランス人。早くに父を亡くし、母はポーランド高官と再婚する。義父の転任でヨーロッパ各地に滞在、やがて一家はポーランドへ。ジャックは16歳のとき、ポーランド共産党に入党し、ビラ配りをしていて逮捕される。釈放後も党の指示で行動するようになり、チェコやハンガリー、ドイツで学んだあと、パリの美術大学などでも学ぶが、20歳のとき党の命令でソ連へ向かう。
1937年、スペイン内乱で召喚され、コミンテルン(共産主義インターナショナル)に精を出していたジャックはモスクワに帰され、直ちに逮捕された。容疑は「フランスとポーランドのために行ったスパイ活動」。もちろん濡れ衣なんだが。
一時的に釈放されるが再逮捕。実に28年間、ソ連各地の収容所(ラーゲリ)生活を余儀なくされ、ようやく1961年に釈放。ただし出国は許されず、ポーランドへの帰国が許されたのは3年後、祖国フランスの地を踏めたのは1985年のことだった。
表紙デザインに施された線画のイラストはジャック自身のスケッチである。この美しい装訂だけでも気が滅入る。いったい中にはどのような事実が記述されているのか。
それでも私が読む気持ちになったのは、本を開いてすぐの、「日本語版への序文」で著者が、強制連行されていた日本の兵士たちに言及していたからだった。
《……虚偽によって個人の廉潔をうち砕き、それをごみと化し、魂を汚すために考え出されたこの世界で、……日本人に出会ったことは私にとって、まさにさわやかな一陣の風であった。……これら満州の旧軍隊の将校たちは、この汚い水溜まりのなかでも汚されることがなかった。……清廉潔白で、団結していられたのだ。……私はそれをけっして忘れないだろう》
ラーゲリから帰還した人たち自身がもし読んだら、この本をどのような気持ちで受けとめるだろうか。
ジャック・ロッシは、ラーゲリで出会ったあらゆる民族出自の人々、あらゆる職業、階層の人々と交わした言葉の数々、その眼で見た幾シーンもの惨い光景を脳裏に刻み込み、長い時間をかけて書き綴った。
『さまざまな生の断片』という題名が示すとおり、本書はいくつもの断片的なエピソードが書き連ねられているにすぎない。当局への批判めいた文言がないばかりか、囚人が受けた拷問の描写などにも誇張がなく、ただ著者が見たこと、聞いたことが、順不同に並んでいる。「贅肉をすべて削ぎとった簡潔な文体、動詞の現在形といくつかの過去形の使い分けの妙」(訳者あとがき)によって、たしかに存在していた「生」の証拠を、読者に重くつきつける。
ジャック・ロッシは2004年、94歳で亡くなった。彼の著作は他に、『ラーゲリ註解事典』(だったと思う)がある。
『さまざまな生の断片』は、これまでに何度か借り出して読み返している。
ところどころの挿画は実に巧みで気が利いている。そんな本だから、深刻に考えず、思考をあまり飛躍させずにさらっと読み通すこともできる。そういうふうに読むこともあるし、人物ひとりひとりについて、証言ひとつひとつについて考え始めて眠れなくなることもある。
実は、買ってすぐに貪り読んだとき以来、『収容所から来た遺書』を読み返せないでいる。
『さまざまな生の断片』を、あと何度読んだら、日本人のラーゲリと再び向き合えるのだろうかと、なかなか意外なところでひ弱な自分の読書マインドに、いささか暗澹たる思いなのであった。
ナイスショット【上】 ― 2007/05/16 20:31:15
あ、正利。なんだろ、はりきっちゃって。
「見ろよ、これ」
近所のプリントショップの名前の入ったアルバム。
開くとそこには……。
うわ。
栗山先輩。
栗山先輩の、シュート。ドリブル。ガッツポーズ。
「ナイスショットだろ? へへへ」
得意げな正利。でも、どうして?
「美由紀さ、こないだ応援に行ったんだろ、バスケ部の試合? せっかくカメラ持ってったのに、全然撮れなかったって知子と喋ってるのが聞こえちゃってさ」
そうだ。栗山先輩を応援しに行った。あわよくば、生徒手帳に入れとく写真を撮りたいと思ってカメラも持っていったけど、バスケットっていきなり動きが速くなるから、撮りたい瞬間に間に合わない。ナイスパース、ナイスショーット、ドンマイ、ディフェーンス。けっきょく、声を張り上げてひたすら応援するばかりだった。
試合の勝ち負けは、栗山先輩には悪いけど、どっちでもよかった。だっていつだって、栗山先輩は一生懸命だもの。先輩の真剣な目を見られるだけで、いい。
それにしても。
正利ったら、こんなに写真の腕が、いいんだ。
「能ある鷹は爪隠すってな。親父が趣味で写真やってんだけど、ちょっくら教わったりしてるわけだよ」
正利がとらえた栗山先輩の姿。まるで美由紀の瞳に映った像を盗み撮りしたかのように、いつも美由紀が見ている栗山先輩そのまま。
「美由紀さ、栗山さんにコクる気ないのか?」
いきなり、なんだよっ。髪の毛が逆立つ。頬が、かっかとほてる。
「俺、女の友情に水差す気はないけどよ」
女の友情って。
「知子がさ、栗山さんに接近中だぜ、知ってるのか。いいのか、黙ってて」
知子が? なんだってえええええーーーーー???
美由紀と知子は文芸部の仲間だ。
美由紀はいつか、一学年上の、バスケットボール部の栗山先輩のことを、もちろん名前は出さずに、詩に書いた。けれども知子には見破られてしまった。
「わかる、わかる。カッコいいもんね、栗山先輩」
応援するよ、美由紀。そう言ってたのになあ。
美由紀は、正利の言葉には驚いたけれど、だからって知子を責めようという気にはならなかった。美由紀にとって知子は大切な友達だ。入学したばかりの1年生の4月、机が隣り合わせになった。少し言葉を交わすだけだったのが、ある日、ノートを差し出して、
「ね、美由紀ちゃん、これ、読んでくれる?」
そこに書かれていたのは、幾編もの詩だった。ひとつひとつはなんでもない言葉なのに、連なると輝いて、金の鎖のようだった。そういうものを読むのは初めてだった。金子みすずや谷川俊太郎の詩は小学校で習ったけど、こんなに感動はしなかった。
「小学校からの友達には恥ずかしくて見せられなかったの。よかった、美由紀ちゃんが気に入ってくれて」
文芸部に入ろうよ。知子の誘いを断る理由は、美由紀には、なかった。
もしあれば入りたい、と思っていた写真部は、この中学にはなかったからだ。
入ってみると文芸部は結構面白かった。先輩たちはそれぞれ、ホラーや探偵もの、中途半端なミステリーやありえないサイエンスフィクションなど、小説の出来損ないみたいなものを次々に書いては、部員に読ませた。読むだけで、美由紀には十分刺激的で楽しい部活動だったけど、知子は私たちも書かなくちゃね、と張り切って、詩や短文を次々に書いた。先輩たちも、顧問の小坂(おさか)先生も、知子の作品を褒めた。けれど、知子の書くものは、みんなが褒めるのとはまた違った印象で、美由紀の心に余韻を残した。
うまくいえないけど、知子の書くものって、大好きだよ。美由紀は知子に、そういったことがある。
ナイスショット【中】 ― 2007/05/16 20:34:44
知子も例外じゃない。
「これなんかさ、決定的瞬間って感じだろ」
得意げに、写真一枚一枚を解説する正利が最後に指し示したのは、ホイッスルが鳴った瞬間の、天を仰ぐ栗山先輩の横顔。予選での敗退が決まった瞬間。
美由紀と知子が応援に行った2回戦、チームは危なげなく勝利を収めたが、正利が撮影に行ったのは強豪とぶつかった3回戦だった。その日、美由紀は用事で行けなかったが、
「知子は、来てたぜ」
知子は見ていたんだ、悔し涙の栗山先輩。
「しかも、体育館の外でも待ってたぞ」
ぐぐ。でも、正利はなんでそれを言うんだろう。女の友情に水差す気はないっていうけど、十分差してるってば。
「俺は男の友情を貫きたいんだよ」
今度は男ヴァージョンかよっ。
「知子のことが好きでしょうがないのに、いつでもコクれる場所にいるのに、なんにもいえないバカが親友なもんでね」
あ。
それは孝司(たかし)のことだ。孝司は知子と同じ小学校出身で、入学以来同じクラスの正利と仲がいい。正利は科学部だけど、孝司は、文芸部に入った。そうだ、今思えば、まるで知子を追いかけるように。
孝司も、勢いよくたくさんの物語を書く。よく思いつくなあと感心する。知子の書くものとは違う意味で、面白い。小坂先生が知子と孝司の小学校では特別な作文授業があったのか、なんて目を丸くしていた。孝司は、文芸部では知子へのライバル意識むき出しにして、今度の部誌に投稿するもの書いたか、次のテーマは何にした、とかさかんに話しかけてくる。
はっきり言って、知子は嫌がっている。
正利が撮った栗山先輩の写真を眺めて、美由紀は大きなため息をついた。
ほんとにカッコいいなあ……素敵だなあ。
「だからさ、友情に篤い俺としちゃ、知子の気持ちをこれ以上栗山さんに向けないために、ここは美由紀さまに猛アタックかけてもらって、見事栗山さんのハートを射止めてもらいたいんだな。この写真は、なんつーか、お守りだな。お札代わり。または、戦う兵士への精神的差し入れ」
え、くれるの? う……嬉しいけど……そんなに煽られても、困るなあ。
美由紀と正利は、西校舎の廊下の窓から、校庭を挟んだ向こう側にある体育館を眺めていた。部活の終わる時刻になると、部員がぞろぞろと出てきて、少し離れたプレハブの部室まで歩いていく。練習後の、力の抜けた様子で、長い腕の先に大きなバッシュをぶら下げて歩いていく。美由紀は、そのわずかな時間にみせる部員たちの表情がお気に入りだった。それぞれが、今日も頑張りましたあーって、すっきりさわやかな顔をしている。こういうときの彼らの表情をうまく書けないもんだろうか。知子なら、どう書くんだろう。
ナイスショット【下】 ― 2007/05/16 20:39:57
噂をすれば知子だ。正利のせいでどきどきするじゃんかよっ。
「あれ、これなあに? わ、栗山先輩じゃーん。もしかして正利が撮ったの?」
知子はへーえ、ふーんと頷きながら楽しそうに写真を一枚一枚見ている。
美由紀は少し、気持ちがざわつくのを感じた。あの……と口元を動かしかけたとき、正利の声がした。
「じゃ、俺帰るわ。写真、他のやつには見せるなよ」
「美由紀ちゃん、正利、なんて言ってこの写真くれたの?」
美由紀は、正利との会話を手短に話した。ただし、孝司のことは除いて。
「うん、このあいだ、バスケの3回戦見に行ったんだ。黙ってて、ごめんね。そのとき正利が三脚立てて写真撮ってるから、びっくりしたよ」
たしかに、それはびっくりだ。
「あたし、栗山先輩のこと待っててさ、もし、負けたショックが大きそうで、すごく打ちひしがれた感じだったら何も言わないで帰ろうと思ったんだけど」
聞きたくないなあ、その先。
「なんだか、すごく晴れ晴れしてて、笑顔が素敵だったよ」
いつだって栗山先輩の笑顔は素敵だよっ。
「あたし、呼び止めて、思い切って聞いたんだ。先輩、好きな人いますか。つき合ってる人、いますか。そしたらさ、うんいるよ、だって。あっさり」
ええええええーーーーーっ。美由紀はほとんどその場に突っ伏してしまいそうだった。
「いないよって答えてくれたら、美由紀と一度会ってくださいって言おうと思って、何度も頭の中で予行演習していたのにぃ」
知子は心底残念そうな様子で、大きくため息をひとつついた。ホントか、それ、真実か? ほんの少しだけ、美由紀の脳裏を疑念がよぎったが、どのみち、栗山先輩には彼女がいるのだ。あああ。
「それがさ、北中のキャプテンだって。猫のように素早く人のあいだをくぐり抜けてシュートする、人呼んでモモキャットのユウコだって。これは横にいた本田先輩が教えてくれたんだけど」
北中はピンクのユニフォームがいささか派手な、女子バスケの強豪だ。そこのキャプテンかあ……悔しいけど、お似合いかもしれないなあ。
「ふふふ」
な、なんだよ今度はっ。
知子は、アルバムを何度も、品定めをするように見ている。
「愛だねえ、正利ったら」
愛だねって、もしや、正利には倒錯の傾向が? そんなばかな。
「正利は、美由紀のことになると一生懸命だよ。ほら、文芸部の部誌の春号、あれ見て正利、美由紀の作品のことばかり」
美由紀は、知子のいう意味がわからないまま、曖昧に相槌を打っていた。
「わかったんだよ、あたし。3回戦の会場で正利の真剣な顔見て。美由紀ちゃんの視線のつもりになろうとしていた。栗山先輩を見る美由紀ちゃんの気持ちになって、撮ろうとしていた、美由紀ちゃんが見たいと思う栗山先輩のプレー……想像だけど。たぶん、そうだよ、正利」
体育館から、バスケ部の部員がぞろぞろ出てきた。へとへとになっているのは1、2年生だ。先日の試合で引退した3年生は、あまり汗はかいていないようだ。
さばさばした表情の栗山先輩たちを眺めながら、美由紀と知子はしばらく沈黙していた。
本人はともかく、この写真の腕には、たしかに惚れこんでしまいそうだ。美由紀は自分の考えに心の中で苦笑しながら、正利の出方を待つよ、と知子にいった。この写真を返すときに先輩には失恋したからって言っとく。
「そっか」
知子は肩の荷を降ろしたように、ほっとした温かい笑顔を見せた。
やっぱり、知子は今、いちばんの友達。
孝司のことをほのめかそうかな、と思ったけれど、
「ねえねえ、美由紀ちゃんの失恋、次のお話のネタにしてもいい?」
えーっ、やめてよぉー。知子の意地悪!
こうなったら絶対、孝司とくっつけてやるからねっ。無理やりにでもっ。
(おわり)
放課後の教室で ― 2007/05/16 20:46:13
夏季大会の予選が終わって、体育系クラブの練習風景はどことなくのんびりムードだ。どの部も、県大会にも進めなかった。でも、弱小チームにもストーリーはあるんだからね。ミチは胸中で独り言をこぼしながら、敗れた試合で憧れの先輩が見せた涙を思い浮かべた。思い浮かべて、また泣きそうになった。校庭から、ファイトォー、ダァーッシュ、と掛け声が響く。放課後の誰もいない教室で、ミチはぼーっと時間を過ごしていた。
「おい、ミチ!」
クラスメートのトシだ。これ、見ろよと、同時プリントサービスでもらえるアルバムが、どさっとミチの前に置かれた。トシは鞄も置いて、一度廊下のほうをうかがいに行って、また戻ってきて言った。
「なかなかの出来映えなんだぜ」
トシに促されてアルバムを開くと、そこにはミチの憧れの先輩の雄姿がいくつも挟んであった。
「すごいじゃない。よく撮れたね。プロ並みじゃん、もしかして」
ミチは素直に感心して写真を褒めた。先輩はバスケ部のエースだった。写真は一回戦の試合を撮ったらしい。シュートの瞬間がいくつもある。ドリブルで走る姿にも、スピード感があふれている。楽に勝った試合だった。先輩にも余裕の表情が見える。
それにしても、いい写真だ。被写体が先輩だからではない。バスケの試合の臨場感がすごく伝わってくる。プロ並みというのは、お世辞ではない。
「その写真、やるよ」
「どうして」
「どうしてって……そいつのこと、好きなんだろ。まさか誰も知らないって思ってないだろうな。いつ告白するんでしょうねミチさんはって、みな噂してるぜ」
「うそ」
ミチは顔が真っ赤になるのを感じた。屈辱、というほどではないけど、恥ずかしかったし、なんだか少し悔しかった。
「勇気出して、告白しろよ。それ、お守り代わり。見てるとさ、勇気百倍って感じになるだろ?」
お守りだなんて。ミチはぷっと吹き出した。三年生の最後の試合から三日後、ミチは先輩に思い切って気持ちを打ち明けたのだった。けれど、玉砕。先輩には他校に彼女がいた。
「だから、もう、いいんだよ」
「そうなのか」
トシは、我がことのようにがっくりして、じゃ、こんな写真もう要らないんだな、とぽつっと言った。
「そんなこと、ないよ。そうだ、展示しなよ、廊下とかさ。もう少し引き伸ばすと迫力出るかもよ。あたし、写真部の先生に相談したげる」
いや、そんな、そこまでは、と遠慮するトシを真っ直ぐ見て、ミチは、トシの写真のおかげでふっきれたよと言った。
「ありがとね」
「……うん」
校庭から、練習の終わる気配がしていた。
蛙の次は蛇?という話ではない ― 2007/05/18 08:41:54
「ちくま文学の森13 旅ゆけば物語」所収
筑摩書房(1989年)
私はなぜか「ちくま文学の森」を別冊を除いて全巻持っている。
古今東西の名作名文をそれぞれ何かしらキーワードをたてて、その趣旨にそって各巻計20編余集めてあるものだ。
殊勝にもちょこちょこと買い揃えたのであるが、それはただただ、カバー絵が敬愛してやまない安野光雅氏の絵だったからである。私はこの画家にめっぽう弱い。安野さんの絵は、何を題材にしてあっても哀愁と洒落っ気が漂い、胸にじわりとこみ上げるものを感じるのだ。大好きなのである。
筑摩書房からは文庫サイズで日本文学全集みたいなのが出ていたと思うが、それにも安野様の絵がカバーに使われているので、中途半端に5、6冊、いや7、8冊持っている。全巻揃えてはいないけど。内田百けん(「けん」は門の中に月)とか、宮澤賢治とか。賢治なんかそれをわざわざ買わなくてもすでにいっぱいあれこれ持ってたというのに。
私は死刑廃止論者か?(大した意味はないのでいきなり何やねん、と思わずそのまま進んでくれ)そうであるともいえるしそうでないともいえる。……という、まことに微妙な立ち位置にいるというよりも、どっちが正しいのかわからないから、自分で結論出せるほど考えようとしたことがないから、どっちだとはいえないんだけど、にもかかわらず死刑廃止キャンペーンをしているアムネスティインターナショナルのグッズを購入するのに余念がない。いうまでもなく、安野光雅大先生によるオリジナルグリーティング・カードや絵葉書があるからだ。
それはともかく、そうして買い揃えた「ちくま文学の森」の中身については、全部読破したとはとてもいえない。好きな話は何度も読むし、関心を引かない巻は一度も触らないまま麗しき表紙カバーが色褪せたりしている。
この13巻も、アンデルセンの『御者付き旅行』しか読まないまま、長きにわたって書架のアクセサリーになっていた。それを今取り出したのはわけがある。
最近、スタンダールに関する研究論集を頑張って(なかなかに難しかったので)読んでいたのだが、その最初のほうにこういう一文があった。
《明治四十一年(一九〇八)七月、永井荷風は欧米滞在から帰国する。四十一年十一月、『早稲田文学』に、短編『蛇つかひ』を発表するが、それには題辞として『アンリ・ブリュラールの生涯』第十四章の文章が引かれている。
「(仏文省略)
われは其のまゝに物の形象を写さんとはせず、形象によりて感じたる心のさまを描かんとするものなり。——スタンダル」》
(『スタンダール変幻』慶應義塾大学出版会、7〜8ページより)
なんつうええ言葉や。ものを書く者の心に響くではないか。私はこの「題辞を冠した『蛇つかひ』」をなんとしても読みたいと思った。ところが、「蛇つかひ」で図書館を検索してもひっかからない。現代仮名遣い「蛇つかい」で探してみると見つかった。「ちくま文学の森13」。へ?
灯台下暗し。我が家に15年以上前からある本ではないか。私は嬉々として13巻を取り出した。
目次を見て、ページをめくる。『蛇つかい』。よしよし。
しかし。
そのスタンダールの題辞はなかった。
私はいっとき、当時の連れの影響で永井荷風の『断腸亭日乗』を何度も読んだ。世の中に日記風の文学は多々あるが、私にとってはこの『断腸亭日乗』がダントツで傑作だ。荷風は別名断腸亭主人と名乗ったと(あるいは後世にそう名づけられたかは知らないけど)いうけれど、私にとっては○○亭主人なんて小粋に名乗って許せる物書きは荷風だけである。それほど『断腸亭日乗』は面白い。
『断腸亭日乗』にはたびたび「曝書(ばくしょ)」という言葉が出てくる。初めて目にした時はその語感から「本を読みまくる」ことかと思ったがそうではなく、蔵書を虫干しすることだった(笑)。なんと風流か。私も曝書したい、と思ったが同時に気が遠くなったものだ。
新しい東京の地名の付け方なんぞにもいちゃもんを述べていたりする。『断腸亭日乗』、ほんとうに面白かった。どさくさにまぎれて連れに本返さなけりゃよかった、と後悔するくらい面白かった。面白すぎて、荷風は何でも面白いのだと思って『ぼく東綺譚』(「ぼく」はさんずいに「墨」)にチャレンジしたら死ぬほど退屈だった。
荷風はいくつか仏語訳も出ていて、向こうにいたときこの『ぼく東綺譚』の仏訳を見たけど、こんなものに耐えられるフランス人がいるのかと叫びたくなるほど、仏訳の流れは和文に忠実で、アルファベットの隙間から退屈がにじみ出ていた。
いや、私にこれを読む素養がなかっただけなんですけど。
連れは言ったものだ。「荷風はこれ(断腸亭)で価値があるのさ」
まったく知ったかぶりにもほどがあるけど、いたいけな乙女だった当時の私は露ほどにも疑わずそれに頷き、『断腸亭日乗』以外の荷風はけっきょく読まなかったのである。
そして『蛇つかい』。
スタンダールの引用はないけれど、短い話なので私はその場でふむふむと読み始めた。
美しい。
舞台はリヨンだ。ジャガード織、西陣織のふるさと。
教会のある高台からは街を全望できるが、ローヌとソーヌという二つの河が街の骨格をつくっているのがよくわかる。
機織工が多く住んだ界隈は、今もその佇まいを残しているはずだ。
長く滞在したことのない街なので、荷風が描く風景を記憶でたどることはできないし、市民の生活風景のこまごましたところ、通りに出した床机に腰掛けて編み物をする女たちなど、現代フランスが失ったものについては映画で見たシーンを思い浮かべるしかない。けれど、フランスの街は、例外はあるが、日本ほどには変貌していない。リヨンを思い出せなくても、ほかの田舎町に重ねて、荷風の見た風景を、フィルムを編集するようにして、追いかけることは可能だ。
美しい。
描かれる情景も然り。だが何より荷風の記述が冴えているに他ならないのだろうが、当時の言葉の連鎖の美しいことよ。
物語は、リヨンのはずれで見た見世物小屋の蛇つかいの女を通して、語り手=荷風が感じた生活の哀愁、のようなものを描いている。
《自分はなんだか妙に悲しい気がした。(中略)それが原因であろうか。そうとも云えるしまたそうでないとも云える。(中略)悲しいような一種の薄暗い湿った感情を覚えたとでも云直しておこう。》
この「そうとも云えるし」のフレーズ、やたら使いまわされているのではないか? どこで、と聞かれても例を挙げられないが。そうなのか、オリジナルはここだったのだ。
この一編は『ふらんす物語』という短編集に収められて出版されたそうだ。もはや、学校では荷風作品は習わないだろうし、大学でも荷風をことさらに取り上げて研究しようという人は、もういま、いないだろう。こういう作品は、私のようにフランスの端っこをちょっとつまみかじりした者だけが、たとえば熟語の横に仏語をカタカナにしてつけてあるルビや、貼り紙の文句(仏語)の抜き書きに付記した時代錯誤な訳文をみて、くくくと笑うことができる。くくく。
ところで、先のスタンダールの研究論文集だが、自分の文庫本を整理していて『赤と黒』なんぞが出てきて、ちょっと読み直そうかななんて気になってたところにたまたまこの本の存在を知って、借りてトライしたというわけである。興味深い論考もあったが、貸し出し期間延長しても全部は読めなかった。だが、スタンダール云々の前に『蛇つかい』という思いがけない拾いものをしたことが嬉しくてしかたがない。
押入れの奥にしまわれていて気づかなかった祖母の指輪のような、よそには値打ちがないものでも自分にかけがえのないもの、そういうものを見つけた気分である。
古都でコトコト言の葉がさね ― 2007/05/22 18:43:19
5月19日土曜日、関西オフが再び開かれた。詳しくは塾長の爆笑道中記をごらんいただくとして、私のほうではお目にかかったみなさんについて印象を述べたい。
出席者は:
木の目さん(from 北海道)
でんちさん(from 東京)
ぎんなんさん&なっちゃん(from 福岡)
くれびさん(from 大阪)
マロさん(from 生駒、つまり奈良)
mukamuka72002さん(from 上六だったっけ? とにかく大阪)
鹿王院知子さん(from 鹿王院、というより太秦? 車折? とにかくジモッピー)
それから:
わたくし&さなぎ(←あおむし、でもいいけど)
(from 二条城、というのは嘘だけど近いよ。とにかくジモッピー)
木の目さん、でんちさん、ぎんなんさん&なっちゃん、くれびさんには、この日初めてお目にかかった。
私とさなぎは自転車を無難な場所に駐輪するのに多少時間を要し、少し遅刻して到着。通りから、それらしき人びとの横顔や後頭部が格子窓の向こうにうかがえる。きっとあの席だ。
その個室に案内され、一歩足を踏み入れると、そこにはずらり、ひと目でその人とわかる(笑)顔ぶれが。
私は前回同様半ばボーっとしたまま、ろくに挨拶もしなかった。皆さん大変失礼しました。そしてさなぎとともに空いていた椅子にすすすっと座った。私の右にはパッチリおめめのライオンハートmukaさん。その向かいに毛虫の怖いイケメン探偵マロさん。
その隣にでんちさん(つまり私の向かい)。
その隣にくれびさん(つまりさなぎの向かい)。
その隣に木の目さん。
その隣にろくこさん。
その向かいにぎんなんさん。
その隣になっちゃん(つまり木の目さんの向かいでさなぎの隣)。
「お母さん、お母さん」
「何?」
「みんなおっちゃん? おにいさん?」
「君にはおっちゃん。お母さんにはおっちゃんだったりおにいさんだったり」
「お母さん、お母さん」
「何?」
「みんな、作文上手?」
「上手やで」
「誰がいちばん上手?」
「うーん……(答えに窮している)」
「お母さん、お母さん」
「何?」
「背広のおっちゃん、学校の先生やったら、いやかも」
「×××(声を立てずにうつむいて苦笑)」
以上、会食の席ではしたなくもさなぎと私が交わした内緒話の抜粋である。
帰路。
さなぎは両手の指をそろえて顔の横に添え、指先が少しだけ天をつくような仕草をし、
「髪の毛がこんなんやった人」
「ああ、でんちさん」(でんちさん、ごめん)
「最初見たより優しい感じやった」
「うん、優しいよ。うふふふふ、とか、ごろごろ、とかそんなん書かはる人やねん」
でんちさんは、何がしかの伝統工芸とか大工とか、そういう分野の若手職人さん風の、とても渋い容貌の方だった。この方が、どのような表情でパソコンに「うふふふふ」とお書きになるのか、私は想像しては笑いをこらえていたのである(でんちさん、ごめん)。物静かで、あまりお喋りされなかったけど、短い受け答えには、ふだんから相対する人に対して謙虚に振舞い思いやりをもって接しておられる姿勢がにじみ出ている。それはそうだ。そういう真摯な人でなくてはとてもとてもこんなコミュニティーの面倒は見られないだろう。でんちさんがそのようなお人柄でいらしたことに、ただただ感謝である。
「前に座ってた猫のおっちゃん」
「ああ、くれびさん」
「すごい、ええ感じ」
「そやろ、そうそう」
くれびさんは、たとえばどこかのNPO主催の「親子でクリスマスリースを作ろう」とか「牛乳パックで汽車ぽっぽを作ろう」なんてイベントに行ったら必ずいる優しくて面倒見がよくて適切なアドバイスをくれるおじさん(というのは申し訳ないほど若々しい)、という印象だった。当日はボーダーの長袖Tがお洒落だったけれど、スーツを着たらバリバリエリートビジネスマン、きものを着たら室町の若旦那、エプロンつけたらクッキングパパと何でもお似合いになりそうだった。可愛い飼い猫たちの写真をさなぎに見せてくださったが、猫を語るときのくれびさんの表情の柔和さに、あの血飛沫がどばーっと迫る、それでいてお洒落な愛憎劇なんぞを、本当に書く人なのかどうか、一瞬疑心暗鬼に陥った。くれびさんの文章を読むのはもう少し大人になってからね、さなぎ。
「なっちゃん、お母さん(ぎんなんさん)とそっくりやー」
「ほんまやなあ、二人とも優しいまあるい顔で」
「なっちゃんとこにはモルモットがいんねんて」
「うん、そうらしいなあ」
「ほんでな、あおむしも7匹いるんやって」
「えええ、そうなんや。草食べんのばっかりやな」
「そやしウチもイモリ飼おうさあー」
「なんでやねん」
とてもシャイなぎんなんさん&なっちゃん母娘。機関銃のように喋る私やすぐ横から口出しするさなぎをさぞかし節操のないことと呆れて見てらしたのではないかしら。お目にかかったらあれも話そう、これも話そう、と思い描いていたけれど、全部は叶わなかった。ぎんなんさんの、切れ味のいい文章やツボを突くコメント、時にはカウンセラーも務まるほどの思いやり。つぶらな瞳の奥に、その人生の喜怒哀楽から得た信念のようなものを見る気がして、私は心の中で感動していた。なっちゃん、母さんについて行きな。
ぎんなんさんは私がリクエストした「スパム」の写真をポストカードにして持ってきてくださった。さなぎは「きのこファミリー」をいただいた。とても嬉しい。この次はぜひ、3人でおいでやす。
「北海道のおっちゃん、イメージとちごた」
「どんなふうにイメージしてたん?」
「あんなあ……えーと……。やめとくわ、やっぱり」
「なんやねん」
木の目さんは、逆さにしても実直なサラリーマンだった。スーツにネクタイといういでたちでらしたのでよけいにそう感じたかもしれないけど、お話し振りを見ていて、昔勤めた会社の人事部にこんな人いたっけ、なんて思ったりした。普通にサラリーマンをやってたら平穏な日々だっただろうに、こんなことに足を突っ込んでしまって、だけど突っ込んだからにはどこまでも夢を追いたい、追えば実現するような気がするんだと、その普通の実直なサラリーマンの風貌からは想像できないほどの熱い思いを吐露しておられた。若い頃にアルバイトで訪ねた作家の話なども楽しくて、オンラインでのやり取りだけではわからなかった木の目さんの、書くことへの情熱が、食卓にほとばしっていた。ほんの少し、圧倒されそうになっていたのである。
またしても夢のひとときを、またしても地元で味わわせていただけて、このような幸福があるだろうか。
「また、集まる?」
「何か月か先になると思うけど」
「今度は遠いところで集まるの?」
「わからへん」
「いっしょに行きたいなー」
「来んでええよ」
「ほな、ここで集まってもろてよー」
「あのなあ」
皆さん、本当におつかれさまでした。
ちなみに文中のさなぎとはウチの娘のことです。
時間は時計の「針」で知りたいわよね ― 2007/05/28 09:20:31
澁澤龍彦著
平凡社(1987年)
我が家の時計草が今年もたくさん蕾をつけている。
物干し場に麻紐を何本も張って、一面時計草の蔓でうまるように画策したのだけれど、気まぐれな蔓は年によってあっちへ伸びたりこっちへ伸びたり、紐のない場所にばかり伸びてくれるので、「時計草のカーテン」は非常に貧相である。今年もまた、紐のないほうへいくつも茎と蔓を伸ばして互いに巻きつきあって、もつれるようになりながら、それでも等間隔についた蕾がふくらみかけている。今日は開いたかな、明日は開くかな。全部が無事開花するとは限らないのだけれど、今から夏にかけては、洗濯物干しが楽しい朝のイベントになる季節なのだ。
街のアンティーク雑貨店を取材した時、青い器に見覚えのある花が浮かべられて、ディスプレイされていた。店主に、この花はもしかして時計草ではないですか、と尋ねたら、ええそうですよ、いっぱいあるもんですから。はあ、いっぱいあるとおっしゃいますと。裏の壁一面に生えとりますねん。
雑貨店の裏手の壁をびっしりと、時計草の蔓がうめつくしていた。横長のプランターが10個ほど、壁に沿って置かれていて、そこからいくつか伝い棒が立てられていたが、上の階の窓の桟から大きな目の網が吊るされており、時計草たちはその網にしっかり蔓を巻きつけて繁茂していた。
私は時計草なんてそう簡単にお目にかかれないと思っていたので、こんな近所に時計草の壁があるなんて、と取材の趣旨そっちのけで店主としばし、時計草に談笑した。
時計草は、開花すると時計の文字盤のような、もちろんアナログの、ちょいとアールデコ調の面白い表情を見せる花である。植物の種類に疎い私が、その花に出会ったのが『フローラ逍遥』の中であった。
この本は著者が『太陽』という雑誌に連載していたエッセイをまとめたものだそうだ。私はこの本をきっかけに澁澤ワールドに足を突っ込みかけて、つま先だけ触れて引っ込めた。だからけっきょく、著者の世界にうんと浸りきったわけではないのだが、それでも本書には、うんとうんと浸らせてもらった。
何しろ本書は装訂が美しい。本屋でひと目見て惚れて購入したと記憶している。ハードカバーでケース入り。ケースと表紙は本文の挿画としても使われている花の絵で、たっぷり贅沢に覆われている。
挿画というのは、東西の植物誌から拝借したらしき数々の花の細密画。その控えめで美しいことといったら。花の魅力を、ただ対象を忠実に描くだけの技法で、200%も表現している。とうてい、写真の力の及ぶところではない。なぜ昔の人はこのように奇跡的な眼力を持ちえたのかと、そりゃ機械がなかったからさとわかってはいても、驚きを禁じえないし、嫉妬すら覚えるのである。
というわけで、画と文とどちらが主役かわからないようなこの本の、主役はもちろん澁澤さんのエッセイである。花の名を題にして、その花にまつわる思いやエピソードが連ねられている。澁澤さんの著作をあらかじめ読まずにこの本に触れたことが私には幸いして、深読みをすることなく、花びらのように軽やかな文章を読んでは絵を見つめ、絵を見ては文章に戻り……を、ただ単に繰り返すだけで幸せに浸れた。
ほとんどが知っている花の名と姿であったが、なかで時計草だけが知らない植物であった。時計草だけが、実物ではなく本書にある挿画の姿で、長らく私の脳裏にあった。
その、挿画そのままの姿の時計草を、くだんの雑貨店の、青い器の中で見た時の、私の喜びといったら。
私の興奮にただならぬ気配を感じたのであろう、店主は、取材と撮影を終えて帰り支度をする私に、時計草のひと束をくださった。あの裏の「壁」から、等間隔に蕾のついた幾茎かを、切り分けてきて、手土産にくださったのである。
その時計草の茎たちは、ついていた蕾を順々に見事に咲かせた。やがて端に白い髭のような根が見えたので、短く切って土に挿した。
それが今、我が家の物干しを不細工ながら飾っている時計草のカーテンである。
ところで、本書の中で最も気に入っているエッセイは「時計草」ではなく、「椿」である。
ある宴席で、澁澤さんのお友達がなにやら歌を歌うと言い出し、「澁澤、この歌詞をフランス語に訳してくれよ」というので、何とかばたばたと訳した。その歌詞の中に「つんつら椿」というくだりがあって、そこを迷った挙句「カメ、カメ、カメーリア」と訳したが、はたして友人氏がそのくだりを歌ったとき会場は大いに笑ったと。「私は今でも、つんつら椿をカメ、カメ、カメリアと訳したのは生涯でいちばんの名訳だと思っている」と、そういうふうに書かれていた。
カメ、カメ、カメリア……って、澁澤さんたら。
著者が、ちょっぴりお茶目なインテリの、だけど宴会の大好きなただのオジサンに感じられた、とても好きな一編である。