わたしたちのはじまりは2007/06/20 08:54:47

コンビニで買った「小玉スイカの種」が芽を出して次々葉を出してます。
我が家のスイカのはじまり。


『はじまりの樹の神話』
岡田 淳 作/絵
理論社(2001年)


岡田さんの本については、目下のところどれも例外なく面白い、という感想を持っている。この作者のことをあまり知らずに何気なく借りた『不思議な放課後』だったか『放課後の時間割』だったかを読んで、へーえ、と感心した、失礼な言い方だけど。
こんなに、ほとんど日常生活モード、どこにでもある学校モードの設定で不思議な世界を描くなんて。
『びりっかすの神様』なんて素晴しすぎる。
とにかく、児童書についてとっても暗い私は、子育てを通じて多くの児童文学作家の秀作を読ませてもらえることがただただ幸せに思えてしかたがない。子どもに感謝する。

岡田さんに惚れた私は、「こそあどの森の物語シリーズ」を全部買い揃えることを目標に、手始めにこの『はじまりの樹の神話』を買った。
たぶんシリーズの最初から読めば「こそあどの森」や登場人物についての理解も早かろうが、へそ曲がりな私は当時の最新刊だった6巻目の本書を買った。表紙画にいちばん不思議臭を感じたからだった。

主人公のスキッパーは博物学者のバーバさんと一緒に住んでいる。バーバさんはまた旅に出た。一人になったスキッパーのところへ、光る尻尾をもつキツネがいきなり現れ、今すぐ一緒に来いという。
「森のなかに、死にそうな子がいるんだ」(11ページ)
「スキッパーがいけば助かるんだ」(同)
わけがわかんないけど、死にそうな子を見殺しにはできないので、スキッパーは変なキツネのいうとおり森へ入っていく。
なんでキツネが言葉を喋るの? なんで僕を指名するの? 疑問はつきないが、森の奥にたどりつくと考えるまもなく救出作業に入らざるを得なくなった。
女の子が、手足を縄で縛られ、巨木にくくりつけられている。
「急いだほうがいい」キツネがささやくようにいいました。「その縄をほどいてくれ。おれにはどうしてもできなかったんだ」(18ページ)
スキッパーは縄をほどくのに成功し、女の子を担いで帰路につく。
その女の子は、とんでもないところからやってきたのだ。
女の子がくくりつけられていたあの巨大な樹は……。

まだ神がひとの近くにいた時代。
草の茎と根と、木の実が暮らしの糧だった時代。
本書は、読者を時空を超える旅にいざない、そうした時代の幸福な空気を少しだけ味見させてくれる。
登場人物のうちレギュラーメンバーは欧風だが、キツネと女の子には「弥生」を感じる。ん? 「縄文」か? わからん。

ものすごく壮大な物語というわけではないけれど、深い森や巨木といった風景の水平な広がりも、時間の流れもイメージできなかった当時のウチのお嬢さんには難しすぎた。
そんなわけで「こそあどの森シリーズ」は本書のほかに『ミュージックスパイス』を加えたところでいったん停止中。
自分で読んでくれたらいいんだけどなあ。

コメント

_ コマンタ ― 2007/06/21 14:21:52

ちいさいころにこういう絵本や童話を読んでいたら、自分ももうちょっと厚みのある人間になったかもなあと、ちょーこさんの日替わり記事をブロイラーのように丸呑みしながら思いました。記憶にある「ごんぎつね」とか「かわいそうなぞう」とかは、たぶんもう小学校に入ってからのものじゃないかなあ。それ以前だとアンデルセン、グリム、イソップ……。失われた童話時代。ま、いい童話は大人になって読んでもいい童話なんでしょうけど。

_ midi ― 2007/06/21 15:44:52

「ごんぎつね」、好きです、私も。じーんときますよね。今、小学校の国語の教科書に載るの、たしか高学年ですよ。遅くないかい?

>いい童話は大人になって読んでもいい童話
そのとおりですよ。
浜田廣介や新美南吉、宮澤賢治は大人になってからも反芻したい作家です。

私、ひとまわりも年の違う従姉妹から「少年少女世界文学全集」とか何とかいうやつを譲り受けて、その頃それをちっともありがたいと思わずに読まないでほったらかしていたんですが、後年、その監修者に川端康成の名前を見つけてミーハーな私は小躍りし、あらためて、旧仮名遣いも混じるその本を読んだという記憶があります。

そのあとまた何年も経って、いま子どもに読み聞かせるのに使っています。表現が古臭かったりもしますが、いいお話は、ちゃんとそのよさが伝わっていくんですよね。

_ 儚い預言者 ― 2007/06/21 19:32:32

 子供が大人になる。その感性はどこにいくのだろうか。
 子供には大人には分からないが、子供独自の世界があるように思います。その世界を表現するのには、数々の言葉考えを学ばなければいけない。そして、大人になったときには、表現に熟達した分、みずみずしい感性が奪われてしまう事もあるのではないでしょうか。いつも何か一番良い事に進む道が、第二第三の道になり、そして手段が目的化することをいつも心掛けなければ、私のいまいる位置すら分からなくなる。
 教えるとは最大の学びである。

_ コマンタ ― 2007/06/22 01:33:53

ぼくは「ごんぎつね」、大人になってから読んだとき、解せなかった。なぜ友達なのに鉄砲で撃っちゃったんだろうって。悪いことした場合は、死ぬような攻撃を加えてもいい、それで死んじゃっても仕方ない、なんて。そんな相手を、種は違うけど、友達っていうかな、と思ったのです。

_ ろくこ ― 2007/06/22 07:03:07

私ね、児童文学と普通の大人文学の境目が
多分一生わからないと思うんですね
児童のための文学だから
本当は児童が書くべきではないかな、と子どものころ思いました
単純な私はそのほうがわかりやすかったんですねぇ

ところが

大人は子どもの気持ちを知っているし
理解できるけど
子ども自身は自分の気持ちを
後から考えて
あれ?そうだ、そうだったんだ!とわかったりするでしょ
で、やっぱりふしぎなんだけど子どもの気持ちは
大人にしかかけなかったりする

だから子どもは面白いなぁと思ってさらっといくところも
大人は感慨深く読んだりする
それが児童文学のような気がするんです
あれ?じゃあ、これって普通のお話と一緒では?

児童文学というくくりは
子どもの頃は馬鹿にされているみたいで
あんまり好きではありませんでした
(ひねくれもの)

去年梨木さんの本を読んでから
児童文学は大人の読み物でもある、と知り
(それまではあえてこの分野は読まなかった)
最近になってノンちゃんとかを読み始めつつ
あります

森の中に死にそうな子がいるっていうのは
なんだかかっこいい始まりですね
読んでみようかな♪
長いコメントでごめんなさい

_ midi ― 2007/06/22 07:04:39

預言者さま
こども時代だけの瑞々しい感性、それがどこへいってしまうのかは、きっとそのうち脳科学者さんなんかが解明してくださるでしょう。
よく、少年の心を失わない人、なんて表現をします。ひとつ間違えればただのでかいガキ、ですが、クリエイティヴな仕事をする人などに肯定的な意味で使われますよね。
でも、そうなのかな、と思います。子どもの感性ってやはり子ども特有のもの。特定の一時期だけに現れ光り輝いて、歳月とともに消えるんです。だから貴重なんですよ。

コマンタさん
ごんと兵十は「友達」でもなかったんじゃないですか?
ごんは村へ出没してはいたずらばかりする悪いきつねで、別にとくに誰かと友達でもなかったような。
村びとはまたごんぎつねめ、なんて、つねづね怒ってて、とくに兵十は、母の死とごんのいたずらが重なって、頭にきていた。
で、お詫びに栗を運んでいたのがごんとは知らずに撃ってしまった。

最後、ごんがうなずくのが、ありえなくって切ないです。

_ コマンタ ― 2007/06/22 08:47:16

あれ? じゃ、なにか別のおはなしと混同してるのかな、ぼく。今度図書館行ったら調べてこよう。ごんぎつね。
ろくこさんが興味深いはなしを書いていますが、宮澤賢治の童話なんか読むと、子供だったらどういうところを面白がるのかなと、ふしぎというか、聞いてみたくなります。「やまなし」が教科書に載っていた気がするけど、そのときは「なにコレ?」って感じでした。いま読むと戦慄します。

_ midi ― 2007/06/22 08:49:26

ろくこさん
私もね、子どもの頃は、子どものための本というのは「君たちにわかるのはこの程度でしょ」と大人にいわれているような気がして、読む気にならなかったのだと思います。背伸びしたがってたんですね。
残念ながらもう子どもの頃の気持ちで児童文学に向かうことはできないわけだけど、こうしていろいろ読むようになると、どういう本がどんな子どもにフィットするか、なんてことが、感覚的にわかるようになってくる。
そういう目で梨木さんの本を見ると、これは児童文学ではない、と思うんです。彼女の作品は子どもが主人公で子どもの心を描くし、さほど複雑ではないと思うのだけど、お話の裏側に「表面に見えているものとは別の作者のいいたいこと」を含み過ぎ、というか。
『裏庭』を読んで、ものすごくそう思ったの。梨木さんの作品を全部は知らないけど、心の内に何か抱えていて、吐き出せないでいる、子どもから大人になろうとしている難しい時期の少女、あるいはそういう少女期を引きずったまま大人になった女性。彼女の作品のターゲットはそういう人に限定されると思いました。
梨木さんの本が売れているというのは、そういう人が多いことの証左だと思うのです。

それに比較すると、岡田さんの一連の作品はとても明快に小学生を目指しています。でありながら、大人が本を読み聞かせるということを想定して、その大人も楽しめる内容になっている。『はじまりの樹の神話』はとてもいいし、私なんかは何度も繰り返して読んだけど、梨木さんの本のように、大人が自分(さがし)のために読む本ではないですね、きっと。
そういえば岩瀬さんも、児童文学の枠にくくるのはもったいない作家さんです。

_ midi ― 2007/06/22 08:51:41

コマンタさん
「やまなし」、ウチの子は好きでしたよ。まずは紙芝居で聞かせて、次に絵本で聞かせて。でももう覚えていないかも。
戦慄ものの物語、子どもは好きなんですよね、あまり深く考えないから。

_ コマンタ ― 2007/06/22 09:00:51

はやっ! 紙芝居、いいね。
「銀河鉄道の夜」がアニメ化されたとき、キャラクターが猫になっていたときはびっくりして鳴きました。猫に罪はない。

_ midi ― 2007/06/22 10:06:57

私もかなり違和感がありました、あのアニメ。
当時ゼミで、あのアニメ作品の意義というのか作品意図を熱弁する同級生がいて、そういう受けとめ方もあるのだと妙に感心しました。
私はなんと、『銀河鉄道999』にハマってから、そういえばと賢治の『銀河鉄道の夜』を文庫で読みました。ジョバンニが鉄郎に、カンパネルラがメーテルにイメージされて仕方ありませんでした。

トラックバック