女教師 ― 2007/07/01 03:35:55
握ったこぶしの内側がじっとり湿ってくるのを感じる。
まさか、思ってもみなかった。
胸の奥が痙攣する。怒りか、恐れか。
しかし、女教師は自身を奮い立たせるようにつぶやいた。
「確かめなくては」
学校や生徒を巻き込むわけにはいかない。
待ち合わせは駅前のカフェ、スターボックス。テラス席のいちばん端、通り沿いの席に座っています、と電話で告げておいた。はたして、相手は時間どおりに現れた。
「あの……南中の小坂先生ですか? はじめまして、東小学校の駒田です」
駒田のスーツは地味な色だったが、明るめのボールドにアールデコ調の模様がプリントされたネクタイが効いていた。
女教師は自己紹介もそこそこに、「さっそくなんですが」と切り出した。
「わが校には東小からの生徒も多いんですが。今中学2年生の向井君と鹿部さん、駒田先生はご存じですよね」
「ええ、ええ、よく覚えていますよ。実は、あの学年は、私が赴任して国語を受け持った最初の子どもたちでしてね。つい、力が入りましたので、ひとりひとりをよく覚えていますよ」
それから駒田は少し目を閉じ思い出す素振りを見せ、「向井君は」という言葉と同時にポンと手を打ち、続けた。
「物事を真正面から見ないんですよ。横や、後ろ、斜めの角度から見る。そうして見えた物事を、見たまま書くのではなく、真正面から見たように書くんです。非常に面白い感性の持ち主ですね。そうそう、運動会のことを作文に書かせた時、走るのが速い生徒がいましてね、向井君はその生徒のスニーカーの気持ちを、書いたんです。誰よりも強く踏みつけられることでぼくは君の力を倍増させているとか、そんな内容でしたね。素直に、その生徒の走りをほめた作文でしたよ」
「鹿部さんは内面を書くのが上手でしたね。母の日や父の日、兄の誕生日、など家族をテーマに書かせると絶品でした」
駒田はキャラメルマキアートをひとくちすすって「それで?」といった。
女教師は、気づかれないようにひと呼吸つき、
「わたくし、文芸部の顧問をしておりまして、向井君も鹿部さんも部員でしてね、上級生顔負けの素晴しい作品を書くものですから、東小学校で何か特別な指導でもされていたかと興味を持ちましたの」
駒田は、ああ、と大きくうなずき、
「前任校の臼田坂学園では大部な卒業文集をつくっていたものですから、子どもは6年生になると徹底した文章指導を受けることになっていました。短文は毎日、週に1回800字程度、月に1回は原稿用紙5枚から10枚。そのうち年に3回くらい、著名な文筆家の添削指導を受けます。これが励みになりましてね、みるみる文章力が上がっていきますよ。中高等部になると小論文対策に入りますから。臼田坂は系列の大学を持たないし、入試を勝ち抜いてもらうためにはね、文章力だというのが、当時の小学校長の信念でしたね」
一気に喋ったあと駒田は駅前広場の青空を見上げ、「しかしね」と続け、
「臼田坂に10年いて、同じようなことしかいわない、同じように優秀な子どもしか入学してこなくなった現状に、マンネリ感を抱いていたんですよ。いや、本当は子どもはひとりひとり違うはずなんですがね、おかしいですね、親御さんの顔まで同じに見えてきまして。これは一度、仕事の環境を変えなければと思いまして、公立に移ったのです」
「そこで出会ったのが、向井君や鹿部さんの、あの学年でした。子どもたちはそれぞれみなユニークで、楽しかったです。東小と臼田坂とではもちろん教育方針が違いますが、ぼくにはノウハウがありますから、それを応用して、いろいろ書かせましたよ」
駒田はストローをくるくるさせながら、キャラメルマキアートをなおもすすり、「そうは言っても」と、今度は腕組みをして続けた。
「あの二人は天性の才能を持っていますよ。月並みですが、作文が上手な子、というレベルではありませんでした。ぼくが手塩にかけたとか、そんなこというつもりはないですよ。これから、しっかり伸ばしてやってくださいよ」
女教師は、両手を温めていたホットコーヒーをごくごくと飲み、駒田を見据えて、臼田坂学園の先生方とは会っていないのか、ときいた。
駒田は、あまりもう、交流はありませんねえ、と、遠い目をして答えた。
「だけど、忘れたとは言わせませんわ」
「は?」
「私を見て、何もお感じになりませんの?」
「はあ……いや、その」
女教師は栗色の巻き毛のウイッグを、まるで雑草を引き抜くように、髪からむしり取り、赤縁の伊達めがねを外しどちらも足元に投げ捨てた。
「駒田先生。あなたが教えた生徒のことはご安心なさいませ。私が必ず世に出してみせますわ。ですから子どもたちにことは次々にお忘れくださってけっこうです。だけど私のことを忘れたとは言わせませんわよ駒田先生。それともヒロシと呼ぼうかしら」
「お、小坂先生……」
女教師は、初めて教育実習を履修したのが臼田坂学園だった。駒田弘はそのときの指導教員だったが、案の定、実習生に手を出した。しかし教科主任着任を目前にしていた駒田はあっさりと女を捨てた。
捨てられた実習生は中学校教員資格に切り替え、公立中学に赴任する。何度か配置替えののち、現在の南中へ着任した。
ずっと臼田坂でふんぞり返っていると思っていたのに、同じ街の公立小学校に転職していたなんて。
「仕事が決まるまで、本当に大変だったんですからね。何が名門臼田坂よ。何が文章指導よ。よくもまあしゃあしゃあと公立に来てくれたわね。そんなヒロシに騙された、のは私だけじゃなかったって、誰も知らないとでも思ってるの」
立ち上がってまくしたてる女教師に驚いて、スターボックスカフェのテラス客の視線は一様に駒田に注がれる。
「あの、周りを……小坂先生」
困ったような素振りで、駒田がいう。
女教師は周囲の視線に気づき、思わず赤面した。表情がゆるんでいく。情けない。
「君だったんだね。やっと柔和な表情になってくれたから、思い出したよ」
駒田はいま一度深く椅子に座り直し、女教師をこんどはそらさず見つめた。唇の両端をゆるく上げながら、白い歯をちらりと輝かせてみせた。
コメント
_ おさか ― 2007/07/01 11:26:41
_ ぎんなん ― 2007/07/01 12:36:02
いやー、まさかこんな展開に。
で、これが800字になってんですよね。あー読んじゃったよ。うぷぷぷぷぷ。
_ ちょーこ ― 2007/07/01 13:31:03
疼く古傷を抱えて生きてきた女教師が怒りをぶつけたのに、相手は余裕でにんまりだなんて。腹立たしいったらありゃしない。……ってそういうとこでコメントするように。
……うーん……これは出さないかも。
_ 向井たかし ― 2007/07/01 18:36:19
ふけつ!
っていわれました、せんせいはぼくにふけつなことをしてくれてませんよね? 鹿部さんはなにかかんちがいしてるだけですよね? せんせいはおとこのこのよごれやすいぶぶんをきれいにして、ちのめぐりをよくしてあたまがよくなるようにしてくれるようにしてくれているだけですよね?
ううん、鹿部さんにはいってしまったけど、おかあさんにはぜったいいってません、だってせんせいとのやくそくだもの、まもるのはよいこのしるしだもの。
……あのね!
昨日のチャットログみましたよ!
中年とはmukaさんからこっち?
あと三十年たったら、マロさんも僕もただの爺さ!
よくも云えたものね?
僕よりちょっとだけお姉さんなのに、
ハーッハハハハハハハハハハハハハ!
……さいきん、椅子から立つとき、どっこいしょ、という時があります。
_ ちょーこ ― 2007/07/01 19:44:29
夕べの話なんかもう全部忘れちゃいましたよ。
いいじゃん、あたしなんかもう初老なんだし。
_ 駒田弘 ― 2007/07/01 22:04:47
これも不徳のいたすところというべきなんですが、前の年に実習に来た女子学生(名前は伏せます)と関係がこじれて――清水由起子似のおとなしいいい子だったのですが、「お元気ですか」という留守電メッセージに折り返しをしなかったことから、毎日のように消印のない手紙がポストに投げ込まれるようになって――、その処理で精神的に追い込まれていて、とても小坂君に連絡できる状況ではなかったんです。ようやく落ち着いたときは、もう電話は通じませんでした。
……小坂君とぼくは、スターボックスを出、花見小路を歩きながら話をしました。あんなに怒っていたにもかかわらず、小坂君は(あの日と同様)肝心なことはなにもいいませんでした。おいしいハモを食べさせる店に連れていっても、向井君や鹿部さんのことばかり熱心にしゃべっていました。
帰り、それでもいくらか酔ったのか、店を出るとき、いいというのに財布をとりだそうとしてよろけ、その拍子にハンドバッグを落としました。定期入れかなにかがぱっと開いて、幼い男の子の写真が見えました。それがどういうわけかきれいな坊主頭にそり上げているのです。
え、お子さん? と思わず聞いてしまいました。聞いてから、しまったと思いましたが、彼女はハンドバッグを拾うと、なにも答えず歩き出しました。それからは打って変わったように口を閉ざしたのでしたが、とてもやわらかな気持ちでいるのが並んで歩いていてわかりました。森伊蔵のロックをもう一杯飲んでいたら、きっとぼくは肩に手を回していたでしょう。
気がつけば、もう最後の雷鳥が行ってしまった時間。鈍行を乗り継いでいくかタクシーかしか、もう彼女に帰る手だてはありません。今夜は泊まって、明日の朝帰る手もあるが、と思ったところで、ハッ! としました。デジャヴ? あの日のビデオテープが再生されているような、なにか大がかりなドッキリが企画されているような。
次の角を曲がれば駅が見える。というところまできて、ぼくはふいにおそろしくなって、少し遅れて歩いてくる小坂君にふりかえっていいました。「どうする? もう雷鳥ないよ」「ビジネスホテルにでも泊まる」「……そう。……じゃ、そこまで行くよ」「そこまでって」「君が泊まるところ……。ぼくんとこ、泊まってくれてもいいんだけど……」
◇ ◇
作者はここで筆を擱くことにする。このあと、「写真の子、あなたの子なの」と小坂にいわせ、感傷的なフィナーレになりかかる再会にあらたな苦悩の彩りを添えてみようとしたが、それでは小坂にあまりにも残酷な気がしたからだ。こぼれたインクの滲みは消そうとすればするほど広がる。その古諺によって懸命におのれを律しようとする、すでに若くはないふたりをそっとしておきたい。
そんなヒロシに騙されて♪
いや、何も言いませんよっ私。ええ何もっ。ぷぷぷ。