こんなんもでてきたよ2007/08/23 18:53:28

文章塾でのハンドルでやってみた。
だからっ あたしはっ なにもんだっつーのっ
皆さんもう私の申し上げることは信用しないでくださいませ……
(それでも頭の中は食欲が貫いているというこの見事さに我ながらうっとり)

【負け犬譚(1)】成し遂げるって、こういうことさ2007/08/24 18:24:01

Abolition
par Robert Badinter
Editions Librairie Artheme Fayard, 2000

(邦訳:『そして死刑は廃止された』
 ロベール・バダンテール著、藤田真利子訳
 作品社、2002年)


オンライン書店で本を探す。面白いもん、ないかな。

あまり本の渉猟は上手くないと思っているが、友人たちは「原書探しの鼻が利く」と私を評してくれる。たしかに、出版社(の一担当者)が興味を示しそうな本は探すのだが、出版社というところは社内に障壁がいくつもあるので、いくつめかの障壁で私の翻訳企画は挫折するようだ。仮にすべての障壁を越えるのに成功したとしても、そのあとの原書出版社との交渉は「代理店」の手に委ねられる。そこではいろいろな物事がけっこう機械的に処理され進められる。
・膨大な書籍の中から「この本」を探し出し、「この本」を訳したい、と思った私の「この本」への熱意。
・私の熱意に共感し、ぜひ自分の手で「この本」の日本での出版にこぎつけたいと思った編集者の熱意。
こうした熱意の集合体は、日本の出版社から代理店経由で行われる翻訳権取得交渉というアクションの過程できわめて事務的な文面のやり取りに変身する。ウイかノンの二者択一を問うやり取り。やがて返事がくる。ノン。

どんな世界だってそうだ。わかってるさ。
私だけが、「ノン」ばかり突きつけられているわけじゃないさ。
わかってるさ。

「原書探しの鼻が利く」といわれて幾年月。門前払いを食らったり、ひとつしか山を越えられなかったり、代理店に投げ出されたりで、まだ一冊も訳書が出せないでいる。つまり、あたしが面白いと思っても、世の中は面白くねーよって思ってんだろーっ……ってやけっぱちになってみたくもなるんだが、お人好しのあたしはマジでやけっぱちになることなく、相変わらず、面白いもん、ないかなと書店サイトをスクロールし続ける。

企画提案した本の数、数知れず。【負け犬譚】と名づけて紹介するのは、素晴しい邦訳書となって世に出ている本たちである。タッチの差で(というのは嘘だけど)私の手には翻訳業務が落ちてこなかった本たちだ。悔しいーーーーーーーーーーい。いわば負け犬の遠吠えシリーズ。

というわけで、やっと本題に入る。

『Abolition』の書誌情報を読んで、著者のプロフィールも調べて、私はこりゃあ面白いぞと速攻で注文ボタンをクリックした。abolitionとは「廃止」の意味だが、ここでは死刑の廃止を意味する。バダンテールには『死刑執行』(藤田真利子訳、新潮社1996年)という前著があるので、彼がabolitionというとき、それは他でもない死刑制度の「廃止」なのだ。
ロベール・バダンテールは弁護士であり、ミッテラン政権では法務大臣を務めた。

70年代の初め、著者はある凶悪犯の弁護に立ったが、裁判所は被告二人に対し死刑判決を出した(二人のうち一人は殺人実行犯ではなかった)。大統領の恩赦もなく、二人の処刑が実行される。著者はその場に立会い、ギロチンが二人の首を落とすのを目撃した。
前著はこの裁判について、事件の勃発から判決までを詳述したもので、本書のほうは、この二人の処刑後から、ついにフランスが死刑を廃止するまでの長い闘いの道のりを書いたものである。

先述の処刑された二人のうち、実行犯でない若いほうは、主犯格の男の行動に巻き込まれただけだったようである。しかし陪審は二人を同罪とし、裁判長はそれを支持した。そして彼らは処刑された。共犯は20代半ばだった。その命を救えなかった。この思いが、これ以降のバダンテールの弁護士活動を支え、ひとつひとつの訴訟を闘うほかに、立ちはだかりびくともしない壁との闘いに挑ませるることになる。「死刑廃止実現への闘い」である。

フランスでは死刑囚の処刑は大統領の手に委ねられている。つまり、大統領には恩赦権があるが、「恩赦します?」と問われた大統領が「ウイ」の署名をすればその死刑囚は処刑を免れ無期刑となる。はっきりいって大統領の気分次第だ。フランスの大統領たちは、けっして「処刑だーい好き」なわけはなかったが(大好きだったかもしれないが)、「犯罪の抑止として」「国民感情に照らして」死刑存置を支持していた。だから大統領たちは自分の支持率を下げないためにも、「ときたまなら恩赦してもいいけどやっぱ凶悪犯はギロチン送りにしなくっちゃ」という考え方だった。死刑を廃止するためには、大統領になる人間が、他者の顔色を窺って死刑の存置・廃止を検討するのではなく、心の底から、信念に基づいて死刑を廃止するという人物でなくてはならない。バダンテールにとってその人物はフランソワ・ミッテランだった。

そのミッテランが大統領選に立ち、その演説で「良心から死刑制度に反対する」と述べた。そして国民はミッテランを選んだ(フランスの大統領選は国民投票)。弁護士活動のかたわらミッテランの選挙運動に奔走していたバダンテールはミッテラン内閣で法務大臣に就き、死刑廃止法案を提出。そして、1981年9月30日、死刑は廃止された。

ヴィクトール・ユーゴが「死刑は蛮行である」と論じた時代からずっとフランスはこの問題を先送りしてきた。本書が執筆された時点で、フランスは西ヨーロッパ最後の死刑存置国になっていた。欧州各国から非難の声を浴びても浴びても、ギロチンはその刃で罪人の首を落とし続けていたのだ。

***

難解な箇所はさておき、私はこの壮大な物語に感動した。
バダンテールは、もちろんたった一人でというわけではないけれども、死刑廃止という難業を成し遂げたのだ。死刑確実と見られた殺人犯たちを無期懲役にとどめながら、フランソワ・ミッテランの支援に尽力し、自ら法案を作成して。フランスが何世紀も先送りしてきたこの問題に終止符を打ったのだ。

かっこええ。
信念で法律を変えた。歴史を変えたのだ。かっこええ、文句なしに。

ロベール・バダンテールに心酔し、「あたしが訳さずに誰が訳すんだ」の心意気で、私は本書を手に、アムネスティ・インターナショナルに関わっていたある友人に相談した。どう思う? うん、面白いよ、さわりだけでも試訳してみて、持ち掛けてみるよ。
私は第一章を訳出し、企画書に仕立てて彼女に託した。だが、彼女がアムネスティから得た返答は「あ、その本ね、もう藤田さんに決まっているそうよ」だったそうだ。

主題を同じくする前著があるなら普通はその訳者に引き続き話が行く。常識だ。とくに、こういったある種の専門性を求められる仕事の場合は。他の誰かならともかく、藤田真利子さんに決まっているなら勝ち目はない。
こうして私は闘わずして負けたのだった(号泣)。

二年後に刊行された邦訳書『そして死刑は廃止された』、私は悔しくて手に取ることができなかった。
何年かのちのある日図書館で目に留まり、ようやく読んだ。やはり面白かった。訳者の腕が冴えているからなおさらだが、バダンテールの揺るぎない信念が貫かれ、壮快である。
それに、読み違いは、していなかった。私は自分の仏語読解力にとりあえずほっとした。
そして、かっこ悪いけど、かつて試訳した第一章のテキストを出力して訳書を比較してみた。
ぐぐ。さすがに本のほうがキレがいい(当たり前!)。
しかし。
自分の訳文だって悪くないぞ。イイ線いってるぞ。むうう、よっしゃあ(とガッツポーズ)。
……て、マジかっこ悪いぞ。そのガッツポーズ以降進歩していないという事実にも、自己嫌悪。

でも……この邦訳書、装訂はバツ。赤い薔薇には意味がある、それは事実だが、こういう使い方は少々下品に感じるんじゃないかな、日本人は。

美しい男の話をしよう2007/08/28 19:18:24

若き日のシェブ・カデール。ジャケ写真。

昔、つきあった男はジャズが好きだった。すごく好きで、ものすごくよく知っていた。ひとくちにジャズといっても幅広いんだが、どんなジャズも網羅して知っていた。彼はディキシーランドジャズも好きで、マイルス・デイヴィスにも入れこんでて、阿川泰子もちゃんと聴いていた。
私は当時フランス語学習中で、仕事帰りに地下鉄ふた駅向こうの学校に、週に2回通っていた。授業でときどき紹介されるぶしゅぶしゅぷすぷすじゅぶぼぼぼ~んって感じのシャンソンやポップスには興味がわかず、アンダーグラウンドなミュージシャンを求めて、輸入レコード屋をめぐったものだ。あの頃、街には一癖も二癖もあるこだわりのレコード屋がたくさんあった。ジャンルごとに使い分けたり思わぬ拾いものに出会ったりしたもんだ。いろいろ当たりも外れもあったけど、私がハマッたのはブリジット・フォンテーヌという女性歌手だった。初めて買ったLPは、アート・アンサンブル・オブ・シカゴというアメリカのバンドと一緒に録音したものだった。それがとってもイカして聴こえた。
私はフォンテーヌのジャンルをジャズだと思わなかったし、男はフランスものは知らなかったので、つき合い始めてもしばらくは会話に出なかったが、あるとき例によっていろんなジャズミュージシャンについてのうんちくを聞いているとき、ふと彼の口から「アート・アンサンブル・オブ・シカゴ」の名が出た。
それ、知ってるよ。
え、なんで?
それ、ジャズなの?
そうだよ。

私はアングラフレンチへの関心はキープしたまま、ジャズへの関心を高めていった。しかし、そもそもアフリカの太鼓の虜であったので、ジャズを知るほどに、関心のベクトルはもっと土着なほうへ振れていき、話をややこしくしていくのだが、それはさておき。

そんなふうにあっちの歌こっちの音楽とレコード渉猟をしているとき、突如として私の目に飛び込んだのが写真のジャケットである。
うわ、おとこまえ!
即決購入。
そのレコードがいったいどこに分類されていたかも確かめず。

帰宅して聴く。
信じられない。
私は感動の渦に巻き込まれぐるぐる回ってすっかり酔いしれた。
ジャケットにある言葉は「シェブ・カデール」と読めた。
それがレコードのタイトルなのか歌手本人の名前なのかすら見当がつかなかった。
レコードはフランスで製作されていたが、この人は出自がアルジェリアで、歌っているのはかの国の正統派音楽(日本でいうと演歌とか民謡とかになるのかな)、「ライ」と呼ばれるジャンルの歌だった。
それまでに聴いたこともなかった旋律、特徴的な音の伸ばしかた、どれもがすごく新鮮だった。言語はわからない、でもなんて甘くて太くて力強くて繊細な歌声(どんなんやねん)! おまけにこの美貌。
私はこれ以降、「ライ」のレコードをいくつか買って、カデールの新譜を探し続けた。しかしいつかの店は閉まり、「ライ」を置いている店自体、探すのが困難になった。

ある日、同級生ののんちゃんが、フランスで出会ったアルジェリア人のダーリン、アズディン君を紹介してくれた。
シェブ・カデールには負けるけど、ええ男だった。
私はそのとき決めた。
アルジェリアに渡ってええ男をゲットだ!

***

当時の彼とは終わっちゃって、音楽談義のできる相手がなくなって、レコード屋はがんがんなくなって、アルジェリア上陸も果たせなかった。
でも、私はずっとライを愛し続けている。
誰の歌声であろうと、聴こえてくるとうっとりする。最初はむっちゃええ男に導かれたのに、その「うっとり」はどちらかというと、情熱的な恋の感情ではなく、懐かしい故郷の家の匂いの中に身を沈めたような、安堵に満ちた陶酔感だ。それはたぶん、アルジェリアのなんたるかを知らぬままライを愛し、ライとアルジェリアを同時進行でリアルタイムで見つめてこなかったせいだ。けれど、だからこそ私は今でもライを好きでいられる。ずっとあの衝撃の出会いのときのままの気持ちでライを愛し続けたから、こんなに便利な時代になって、ライを愛する人が他にもいるとわかって助言をもらい、シェブ・カデールの新譜を買い求めることもできたのである。
カデールさんはちょっぴり中年太りの、「ええおっちゃん」になっていた。
その声はやはり、甘くて力強い。

美しい男の話をしよう 22007/08/30 19:10:03

ラシッド・タハ。

前回のエントリで、
http://midi.asablo.jp/blog/2007/08/28/1756698

誰もライとかアルジェリアとかに引っかかってくれなかったので(しゃあないか)、しつこく引っ張ることにした。

私をアルジェリアに引っかけたのはフランツ・ファノンである。そのファノンを知ったのはフランス語を学び始めた頃だったから、相当古いお付き合いである。ファノンの存在が、私とフランス、私とアルジェリアの結びつけ方を最初からちょっと心理的に複雑なものにしてしまった。複雑なまま、もつれたままの自分の思考を解きほぐしてすっきりしようとしないまま、早い話が放置したまま、今日に至っている。で、そのことはもう、それでいいのである、もはや。

何も勉強していないので、アルジェリアについて私は何も語れない。また、ライについても同様だ。前回紹介したシェブ・カデールは数曲ヒットを飛ばしたあとすぐいったん引退し、最近復活したらしい。私がライに夢中になり始めたころ、他のシェブさん(シェブという名が多い)はあれどカデールのレコードが見つからなかったのはそのせいだったのだが、カデールのブランクは私のブランクでもあって、私はライについて感覚的なことしかいえない。
けれど、アルジェリアのライについてコンパクトにまとめてらっしゃる場所があるので興味があれば読んでください。
http://www.mayoikata.com/music/04_rai_a.html

さて、話はいきなり飛ぶ。

留学中、滞在していた街で、ベルナール(仮名)とフレデリック(仮名)という二人の青年に出会った。ふたりは幼馴染みだといったが年もわからず二人に年齢差があるのかもわからず、というよりそういう野暮な質問はかの国ではしないのが普通なので訊ねなかったし、私も年は訊かれなかった。あ、かの国というのはフランスです。
見た目はベルナールが目一杯おいしそう(=オトコマエ)だったので、ベルナールに近づこうとしたんだけれど、フレデリックのほうが私に興味をもったらしく電話攻めにしてきたのである(ええ、電話番号教えたんです、下宿先の固定電話よ)。

このフレデリックがなんとむっちゃ「ええ声」の持ち主なのである。超恋愛用言語フランス語をそんないい声で受話器の向こうで囁かれたりしたら、恋愛経験に非常に乏しい私などはへにょへにょとノックアウトされてしまうのである。
かくしてフレデリックと楽しい日々が始まった。
が、いっぽう、ベルナールが気にならなくなったわけではなかった。
ふたりが幼馴染みでなかったら、モラルも節操も何もない私は平気で二股かけただろうが、さすがにそれはできなかった。

留学期間を終えて帰国した。
インターネットもなかった。電子メールも知らなかった(パソコン通信というのがあったと思うが知らなかった)。
だから、フレデリックには手紙を書いた。しかし彼はどうやら筆不精のようだった。やっと来た返事は数行だけで、しかも筆跡は子どもじみていて(だいたいフランス人はみな悪筆だが)、いささか私を幻滅させた。
いっぽう、ベルナールはたくさんたくさん返事を書いてきた。便箋に何枚も。話題はとりとめのないことだった。でも、達筆とはいわないのかもしれないが、「書くのが好き」で「書き慣れた」人の字だった。彼は子どもの頃のこと、日本のマンガやアニメの話、中高生の頃仲間と喧嘩した話など、尽きることなく書いてきた。フランスと日本の間の郵便は、投函してから届くのに1週間かかるが、私が出したらきっちり2週間後に彼からの手紙は届いた。
それよりよけいに間が開くと、次の手紙にはこんなことが書いてあった。

「君の手紙は僕の日常になくてはならなくなっている」
「ぼくは、君を読まずにいられない。君を読みたい」

文章に恋するということがあることを、私がはっきり思い知るのはもっと後のことなんだけど、思えばこれがその最初の経験だったといっていい。
ベルナール本人よりも、彼の手紙に恋をした。それは彼のほうも同じだったのだろう。稚拙な私のフランス語は、読みようによっては可愛げがあったことだろう。

でも、私たちは文通友達以上にはならないまま、何年も時間を過ごす。

あるときフランス旅行を思い立った。懐かしい街の人たちに連絡を取った。インターネットが普及し始めていた。私はしばらく音信不通になっていたベルナールに手紙を書いて、以前のようにあの街に住んでいるなら訪ねるからここにメールをちょうだいと書いた。
返事が来て、私たちはしばしやり取りをし、再会の約束をした。

駅のホームで、ベルナールは待っていた。「おいしそう」と思ったあのときのままだった。目じりの皺が増えて、髪は薄くなっていたけれど。
いろんなことが思い出されて、私は泣きそうになったんだけど、意外と彼は冷静で、「なんか食う?」なんつうしなくてもいい会話をしばし、した。

ラシッド・タハはその頃フランスで売れていた歌手らしい。私は知らなかったが、たぶん君好みの音楽だといってベルナールがCDをくれたのだ。そのジャケ写が冒頭の写真である。そのとおり、タハの歌はすごく好みだった。彼はアルジェリアのオラン出身で、フランスで音楽活動をしている。ライとロックをかけあわせたような小気味よさが気に入った。
もちろん、ベルナールがくれたから気に入ったということもあったんだけど。

私とベルナールは一緒に生きていこうねという約束までするんだけど、お互いの気まぐれから氷山が崩れるようにこの恋はなくなった。いったいなんだったんだろう、あれ。
そして後から気づいたが、タハの容貌はとてもベルナールに似ている。ええおとこです。よかったら、見てやって。
http://rachidtaha.artistes.universalmusic.fr/

ウチダに首ったけ!2007/08/31 12:24:28

内田樹が第6回小林秀雄賞を受賞した。
やばい。
これで内田さんが有名人になってしまう。あの茂木さんのように。
やだ。それはぜったいにやだ。
私だけのウチダだったのに……!

ウチダとの出会いは、いつだったかもう忘れた。
どこかで新聞への寄稿を読んだ。
ほどなくして、我が家で購読している2紙にも寄稿を始めたことがわかった。
まっとうなことを切れ味よくわかりやすく書いていた。
奇特な意見の持ち主ではなく、誰もが同意しそうなことを、しかしウチダでなければ思いつかないような例の挙げ方で、解説していく。
ひと目惚れではなかったけれど、ウチダの文章がわが心を侵食していくのにさほど時間はかからなかった。私が範としたいのはこういう文章なのだ、とウチダに触れて初めて気がついたかもしれない。
多くの人の文章を読み、感動し、お手本にもしていたけれど、所詮書く人間が違うのだから書かれる文章が異質なものになるのは当たり前、もとより文章は「真似る」ものではないし……と真面目な考えでいた。が、ウチダに出会ってからの私は次第に彼に同化してしまいたい、いっそウチダになりたい、と考え始めていた。
もとより内田さんとは知の蓄積の質量が異なるので逆立ちしたって私はウチダになれない。わかっているけれど。

ウチダに惚れてからあまり時を置かずに、彼の顔写真を見る機会があった。これも新聞か雑誌の紙上で。
うわ、おとこまえ……。

お察しのとおり、これで本格的に私はウチダに恋をしてしまった。
あとからいろいろ見聞して、私がたまたま見たその写真はかなり写りのいいものだったと判明する(内田さん、すみません、笑)が、彼が「ええおとこ」であるという私の確信は天変地異が連日ほぼ恒久的に訪れようとも揺るがないものになっていたのである。

ウチダのブログは時に抱腹絶倒、時に感涙、時に怒りを読者にもたらす。たしかに勢いに任せて書き殴っている感は否めない。だからこそ、更新時点でのウチダの脳内が透けて見えるようで、私は大好きである。アクセス数の桁がすごいんだけど、たぶん私はかなりそのカウントに貢献している。更新されてなくても毎日読むし、一日に何回も読む。読んでうっとりしている。

ウチダの著作は、図書館では常に「予約が満杯」でなかなか手にすることができない。『下流志向』なんか200人待ちになっていた。それでも201人目として予約を入れたが、読めるのはいつのことやら。
少ないものでも10人以上の予約待ちを経て、ほとんどを読み終えたけれども、なかでも私がいちばん好きだったのが『私家版ユダヤ文化論』であった。最終章のほうでは涙が出てくるのだ、ほんとうに。
今回の受賞対象になった著作である。
よかった、『下流志向』や『東京キッズリターンズ』とかじゃなくて。

『私家版ユダヤ文化論』については、日を改めてきちんとエントリしようと思っている。
今、私の手元には『知に働けば蔵が建つ』(文藝春秋、2005年)がある。
ブログに書きためたものを編集し加筆したものだが、どの章も面白い。でも著者自身が言及しているように、日頃ブログを愛読しているとあまり新鮮味は感じられないのも事実だ(笑)。
私のようにどっぷりと入れ込んでいると、それでも幸せなんだが。ああ、恋は盲目。

今日の新聞に、小学校の授業時間数を増やすことが決定したと書かれてあった。同じ記事中に、高学年で週に一度オーラル中心の英語の授業も始めるとあった。
でも、そんなのやってもしかたない。
それはわが娘が実証している。
娘の小学校では先駆的に低学年から「英語で遊ぼう」という授業を実施しており、外国人講師を招いて歌やゲームをして遊ぶ時間を設けている。
講師陣の国籍や民族出自はさまざまで、語学習得云々より、世界にはいろいろな人がいるということを肌で感じるのはいいことだと思う。しかし。
で、英語のほうだが、6年生になった娘は、今でもたぶん「私は日本人です」「私の名前は○○です」「あなたの好きな果物はなんですか」(以上、5年生までに習ったとされているセンテンスの一部)を、自発的に英語で述べることはけっしてできない。「りんご」を英語で綴ることもできない。
ほらみろ、である。低学年でよその国の人と触れ合ったら、次はよその国の文学に触れよう、というほうへ行くならまだしも、高学年になっても相変わらずずっと「遊んで」いるのである。

『知に働けば蔵が建つ』には、内田さんがつねづね述べている「外国語教育の基本はまず『読むこと』である」ことを取り上げた章もある。
国際化、というが、私たちはそんなに「外国人」と実際に会って話す機会があるだろうか? インターネットの普及で、私たちはタイムズ誌やルモンド紙のサイトにいける。各国のブロガーたちの日記にも行ける。しかし、日常的に海外諸紙の論考を読んだり、ブログにコメントを残したりしている人がどれほどいるだろうか。そんなにはいないと思う。なぜか。
《外国語が「読めない」からである。もったいない話である。》(275ページ)
数年前から中学高校における英語教育もオーラル中心になっているそうだ。その結果、決まり文句を少々よい発音で発声できる人は増えたが、英文を読み書きできる若者は少なくなった。ましてや英米文学を読もうと大学で専攻する学生は希少種になった。
身についた「ちょっとばかしいい発音」で世界を渡り歩いていけるかといえば、ノンである。

……と、もうこの話はやめるが、何がいいたかったかというと、私とウチダの思考は相似形である。そのことを私はひそかに愉しみ、こっそりとウチダへの愛を胸のうちで育んでいたのであるが、彼がこんな賞を獲ってしまったら、彼も茂木さんみたいにメディアに引っ張りだこになってしまうのではないか。

ここに宣言しておくが(なんて狭小範囲な宣言だろうか)、ウチダは私のものだ。誰にも渡さない。ちょっと、そこの女子学生! 近づきすぎだよっ
……笑うやつは笑えっ。(泣)

内田樹さんに愛を込めて。