2008/03/16 17:40:13


——春という字を、賜りました。

 ああ、かの人の、なんと澄んだ朗々たる声……。
 宮がかすかに背を震わせたのを、隣におわす帝がお気づきになったかどうか。

尾上の花の散らぬまにまに
心とめけるほどのはかなさ
開かぬ花のいとおしい春
山端の風がほのめかす春

 かの人の響き渡る詠声に、満開の枝々も打ち震えているようだ。宮はからだの奥に熱を覚える。かの人のあの息遣いを、再び耳許に受けたかのように。
「中将、見事じゃ」
「勿体のうございます」
 宴では探韻と呼ぶ詩遊戯に興じるのが慣わしであった。ひと文字記した紙札がいくつか予め用意され、詠み手は籤を引くように紙札を探り、引いた文字で韻を踏み歌を詠む。詩式は自由だが、奔放に過ぎては失笑を買う。何しろ居並ぶ公達(きんだち)はそれぞれ衣束冠帯の正装に身を包んだ、文才(もんざい)疎かならざる面々である。
 つぎつぎと、文字を引いての歌詠みが進むが、宮にはもはや聴こえない。座に控える中将の視線を項に痛いほど感じながら、しかし見つめ返したい欲望を懸命に抑え、顔を庭の中央から逸らさず、聴き入るふりに専念する。
 ひとり詠み終えるごとに、楽の音が間奏を雅やかに披露する。
 笙や篳篥、筝弦に鼓。宮は、かの人との一夜に思いを馳せて瞼を閉じる。
「宮を見よ、よほど感じ入ったようであるぞ。その火照りよう、ほほ」
 帝の言葉に宮は我に返り、その頬はなおいっそう上気する。
「お、おそれながら」
 宮はやっとのことで言葉を発した。「舞が見とうございます」
「ほほ、よろしい。探韻はしまいなされ。で、宮のご所望はどの舞かの、どの舞い手かの」
「いつぞやの……」
「青海波かの。ならば中将じゃ」
 帝は花枝を折らせ、宮にとらせた。

——賜りましてございます。

 枝のとり際、中将の指が宮の掌をこそっと愛おしげに撫でた。
 枝を唇にかの人は、ぴんと袖を張り、返す。たったそれだけの所作の、なんと美しいこと。春はそなたのためにあるようじゃ、と思わず口にしそうになる宮。
 楽奏が高まり、中将の瞳が宮を射抜く。いいえ、我々ふたりのためにどの季節も美しいのです、宮さま。
 宮の皮膚が、かの人の唇を思い出す。空の青はますます冴え、花膚にいっそう紅が差す。