オサムのメグミ(1)2008/03/07 17:52:48


『小林秀雄の恵み』
橋本 治 著
新潮社(2007年)


小林秀雄といえば橋本治なのである。
小林秀雄の随筆に出会わなければ、橋本治など読もうと思わなかったに違いないのである……というのは真っ赤な嘘である。

と書いてふと思ったが、なぜ嘘は「真っ赤」なのであろうか。悪い奴のことを腹「黒い」といい、気分のすぐれなさそうな人には、顔が「真っ青」よ、などという。黒い嘘でもなく青い嘘でもなく、赤い嘘。嘘が黒いだなんて、もうサイテーの底なしのろくでなしだわっ……というくらいひどい嘘になるかしら。嘘が青いとしたら、はん、見え透いたことをいうわねバレバレよっ……のような未熟な嘘のイメージね。
しかしいずれも「真っ赤な嘘」ほどには罪がないように思える。「真っ赤な嘘」って、もんのすっごーい嘘、に思える。
だけど、上記で「……というのは真っ赤な嘘である。」と書いたのが、ものすごい嘘かといえばぜーんぜんっ、そんなことはなく、たぶんお読みの皆さんは「またテキトーなことを」くらいにしか思われないだろうから、真っ青な嘘、というくらいだろうか、と思ってみるのだが、しかしいまいちど、

小林秀雄といえば橋本治なのである。
小林秀雄の随筆に出会わなければ、橋本治など読もうと思わなかったに違いないのである……というのは真っ赤な嘘である。

という文を眺めたところ、ここでの「真っ赤な嘘」は、「黒」より、また「青」よりずっとライトな嘘に感じられる。慣用表現というのは不思議である。

えー、ところで、嘘の色は、どうでもよいのであった。
本書は、12月に当ブログにいらしたコマンタさんのコメントで知り、その日のうちに図書館にリクエストをかけ、年が明けてから我が手にやってきた。やってきてからの3週間ほぼ毎日、勤務中食事中入浴中睡眠中以外はほとんど本書と向き合っていたのである。といっても「勤務中食事中入浴中睡眠中以外」をざっくり計算してみたら数分だったんだけど(泣)

私にとって2冊目の橋本治である。
『「わからない」という方法』の読後感がすこぶるよかったので、巷で話題の『日本の行く道』にもそそられていたのだが、自分としてはいったん彼の小説を読んでみるつもりだったのが、本書の存在を知り、読まずにおらいでか(=読まずにはいられませんわよ)モードに突入した。
とにかく頭を使う本であった。
新聞の書評には、「考えるヒントがいっぱいの本である」などと、小林秀雄の著書名にひっかけてあったが、考えるヒントになんてできない。ただただ、橋本治の思考の跡を、こっちで間違いないよな、あれあっちかな、やっぱこっちか、などと迷子になりながら、たどるのが精一杯で、とても自分自身の思考にまでひっぱり下ろしてくることができない。
ひっぱり下ろすと書いたが、橋本治は高尚なことを述べているのではない。難解では、ある。それは当人も書いている。「難解である」とは、「解するのに難儀する」、つまりむずかしいというよりはわかりにくいということである。早い話が「ややこしい」であって、橋本治は話をややこしくするのがことほど左様に得意な書き手なのだということがよーくわかる本なのであって、読者は、行ったり来たりする彼にくっついて一緒になって頷いたりかぶりを振ったりしているうちに疲れてしまって、さてでは橋本治の論考について私はどう考えるのか、というところにまで達することができない(で、本の貸し出し期間が終了してしまう)。

本書で橋本治がやっていることは、橋本治にとってけっして親しんできたとはいえない小林秀雄というひとりの高名な書き手が著したさまざまな著作を、初読、再読、再々読し、小林秀雄という書き手を必要としていたある時代の日本人たちっていったいどんな日本人だったのか、という問いの答えに達しようとする試みである。
小林秀雄著『本居宣長』を題材に、小林秀雄が描いた宣長像に疑問を呈してみる。
宣長が詠んだ歌、『源氏物語』の読み解き方をたどり、ほんとうは宣長は○○と思っていたんじゃないか、小林の読みはちょっと違うんじゃないの、といった幾つもの仮説を立ててみる。
あるいは小林秀雄著『無常という事』を題材に、その収録エッセイの書かれた時期と内容をよく咀嚼し、小林秀雄の脳内を透視しようとする。
その時代の日本の気分と、その時代の小林秀雄の気分のズレと一致に思いを馳せてみる。
そんなことを幾つも本書の中で、トライしたとおりに書き連ねていくものだから、読み手には持久力が要る。「こういうもんは、好かん!」と思ってしまうともう1行も読み進めないだろう。でも「こういうのって、スキ!」と思っちゃうと、つまり迷路に片足突っ込んじゃうとなかなか逃れられない。橋本治という藻にからめとられて身動きできなくなる状態、そしてそれが快感な自分にまた悦に入る。

はっきりいうと、書かれていることの趣旨は『「わからない」という方法』と同じである。

『「わからない――』は彼自身のセーターの本や、昔手がけたテレビ番組の台本の仕事などがその(迷路の)道しるべ役を果たしていたのだが、本書ではそれが小林秀雄であるというだけのことである。小林秀雄であるぶん、それは少々「構えた雰囲気」を漂わせることになろうし、小林秀雄であるからには、道しるべがあまりファンキーだったりフレンドリーであったりするのも変であるから、若干襟を正して見えるだけである(正して見えるといったけど、本書には「じいちゃんと私」という章があるのだが、じいちゃんとはいわずと知れた小林秀雄のことである。小林秀雄を相容れない他者のように表現する一方でじいちゃんと呼ぶ。どこまで本気でそう思っているのかは、読者にはわからない)。
いずれの著書でも橋本治が言おうとしているのは、世の中に考え方っていろいろあるだろうけど、僕はこういう考え方でもって、考えるという作業をしているんだよ、ということである。読者に向かって、お前もそうしろ、とは言っていない。共感も求めていない。「僕はこうなんだ、以上。」である。
本居宣長や小林秀雄に関するおびただしい数と思われる各種研究書や論文を、チラ見くらいはしたかもしれないが、本書を著すにあたって大いに参考にしたとか熟読したとかいった様子はまったくなく、あくまで自分自身が向かったテキストから宣長本人、小林本人を見つめている。
橋本治自身は自分は学者じゃないというけれど、これってめいっぱい学者の態度じゃなかろうか? 研究対象に関して人が書いたものをコピペして体裁整えただけのエセ学者のエセ論文が世にはばかっていることを思えば、橋本治の仕事はなかなか「いーじゃん、いーじゃん、すげーじゃん」※だと思うのである。

※ウチの娘がヒマさえあれば聴いているCDの歌詞。母もヨコ聴きして一緒に口ずさんでいるのであった。いーじゃん、いーじゃん、すげーじゃん♪ ぎんなんさんちはどう?(えへへ)

本書は、私のようなレベルの読者には、考える「ヒント」なんかになってくれそうもない。でも、橋本治が小林秀雄から「恵みをもらった」といっているのと似た意味で、本書は私にたくさんの恵みをもたらしてくれた。その恵みとは、多くの知的水準の高い人々にとっては「そんなの、だんなさまあ、おめぐみくだされえって泣きついて恵んでもらえる程度のもんじゃねえか」てなもんかもしれないが、時間と知性と物質的豊かさに著しく不足のある私にはダイヤモンドを超える恵みなのである。

というわけでようやく「オサムのメグミ その1」を挙げるのだが、長くなりすぎたのでその内容についてはまた今度ね。
●オサムのメグミ その1 『窯変源氏物語』橋本治著 …… A suivre!