続・夏がゆく ― 2008/08/26 19:53:07
トリイ・ヘイデン著 入江真佐子訳
早川書房(1999年)
昨日、平気でフランス時間のヴァカンスをとるフランス人たちめ何てヤツだ、みたいなことを書いたけど、普通に日本企業に勤めて日本人サラリーマンのごとく働いているフランス人をわずかだけど知っている。私の知り合いにはそのパーセンテージは低いというだけで、たぶん首都圏だとそっちのほうが多数派に違いない。ということは、いくらフランス人が増えても日本人みたいなフランス人が増えるだけでヴァカンス改善にはつながらないのだ。あーあ。今年もこうして同じようなことをぼやいて夏がゆく。
私のいちばん好きな花はひまわりである。
というのも私は太陽崇拝者なので、太陽を追っかけるひまわりにシンパシーを感じているのだ。若い頃、ひまわりのコサージュを大小2個買って、それを黒や茶の無地のワンピースにつける、というのがお気に入りのお洒落だったのだが、あのコサージュはどこに行ったのだろう。バブルけたたましい頃、あのコサージュをつけてパーティーに行き、デカイなそのひまわりぃと周囲から言われて得意げだったピチピチの私。
留学先を南仏にしたのは、映画『ひまわり』で観たひまわり畑と同じような風景を見られると期待してのことであった。実際には、私が選んだ海に近い町ではひまわり畑なんぞなく、丘陵地のほうへ小さな旅をしなければならなかったが。
見渡す限り広がるひまわりは、小学校の花壇とか、植物園のひまわりコーナーとかを凌駕して気高く感じられた。独りすくっと咲くひまわりも好きだったけど、群れて咲く大きな花の迫力に私は息を呑んだ。まるで、全世界を見てるわよ私たち、と叫んでいるように思えた。
娘が生まれ、初夏の街を子ども連れで歩くとひまわりの種をよくもらったものだ。ミニひまわりだったので、小さな鉢に植え、小さいながらもすくっと立って空を見上げるように咲く姿を楽しんだ。種も収穫したが、皿に広げて置いていたら、ある夜ネズミの食害に遭ってしまった(涙)。
本書が描く「ひまわり」は、痛切な記憶の象徴である。
トリイ・ヘイデンの本は『機械じかけの猫』が最初だった。若干冗長な箇所があるものの、とても面白い小説だった。私は以前からヘイデンの本を読みたくてウズウズしていたけれど、内容に圧倒されて読み進めなくなるのではないかという、児童虐待の事実への恐怖心が先に立ってなかなか手にできなかった。
が、『機械じかけの猫』に続いて本書『ひまわりの森』を読んで、彼女の既刊書に手を出す気になったのであった。
ヘイデンのノンフィクションは世界各地でベストセラーになっている。思わず目をそむけ耳を閉ざしたくなるような苛酷な事実の数々を、ヘイデンは実に滑らかに童話を紡ぐように物語化している。そのストーリーテリングのうまさがヒットの理由には違いない。
しかし、事実を語るのがうまいのと、書いた小説が面白いのとは、仕事としても重ならないし、別の次元の話だ。そういう意味で、ヘイデン初の小説である『ひまわりの森』は、ノンフィクションがすでに何冊も世に出ていてその仕事ぶりを認められていた者だから出せたといっても過言ではない。ヘイデンをすでに読み、彼女が見つめてきた子どもたちのこと、子どもを虐待する親たちのこと、そうした心が暗くなる問題のさらに暗い奥底をヘイデンとともに著作を通して見つめてきた読者でなければ、読破する体力はないかもしれない。
舞台はアメリカのカンザス。17歳のレスリーはボーイフレンドを持った経験のないことに劣等感を抱いている。私を愛してくれる男の子なんて現れるのかしらと不安だ。一方で、レスリーはそれどころではない。母は体調や精神状態が不安定になることが多く、レスリーが家事をしなければならないことがよくあった。母のために家族は幾度も引っ越しをした。だが高校卒業を控え、レスリーは今どこにも引っ越したくなかったのだが……。やがてレスリーは、母が少女時代のおぞましい体験によってひどく心を蝕まれていることを知る。彼女に献身的に尽くす父。背伸びして自己主張をする妹。家族は母を必死に支えようとする。なのに恐ろしい事件が起きてしまう。レスリーは、母が思い出をたどってよく口にしていた「ひまわりの森」を見に行こうと決意する。
第二次世界大戦の傷痕がレスリーの両親を支配している。私たちが広島と長崎の記憶を風化させないよう懸命になるのと同じで、いや、それよりもずっと強い意志で、欧米の人々は、ナチスの蛮行に代表されるあの戦争の残した亀裂や断絶や癒えない生傷、継承される悲痛を、あらゆる方法で書き残そうとしているように思える。本書も然りだ。
読むのはかなり辛いけれど、戦争の要素こそが物語に厚みを与え、読めるものに仕立てている。もし本書にそれがなかったら、かなり退屈な物語に成り下がっていたであろう。
後半、レスリーは長い夏休みを利用して旅をするが、滞在先での彼女の心情の変化にしろ、彼女の世話をする人物の心模様にしろ、少し息切れがしたのかなと思わざるを得ないような粗さを、その描き方に感じる。ただ、レスリーをカンザスからヨーロッパに大きく移動させたことは悪くなかった。
カンザスという場所は私にとって『オズの魔法使い』のイメージしかないので、荒涼としていて広すぎて、密な人間関係を想像しにくい舞台だ。広い場所、広い土地、広い道路、広い空。長い夏休み。アメリカのだだっ広さは、やはり小説を理解するのを妨げてくれるよ。
ともあれ、なんだかでかいところ、というイメージの場所から一転させることで読者をひっぱっている。ヘイデン自身、力を込めたところであるらしい。
結果的にたいへんな大作だが、たぶん、全体的にレスリーの恋や妹のエピソードなどはもっと削いでもよかっただろう。そうすれば、母の病める心と、その母を愛し抜く父の心がもっと際立って読む者の心に届いたに違いない。
母さんの愛したひまわりの森へ、みんなで行こう……レスリーは幾度となく父に訴える。だが、レスリーのひまわりも、母親のひまわりも夏の蜃気楼だった。「ひまわり」は人物の記憶と想像の中で巨大な救世主のように神話化され、消え去る。
私の愛するひまわり――清く正しくおおらかな――とはまったく異なるひまわりの描き方に、しばし呆然とした。
街路樹脇に植えられたひまわりがこうべを垂れていた。夏がゆく。
コメント
_ 儚い預言者 ― 2008/08/27 11:08:49
_ midi ― 2008/08/27 18:17:58
そして私の場合、今いちばん身近に思春期を迎えたひとりの人間がいることの不思議さに酔いつつ、彼女を大人になるまで忍耐強く見守ってやれるかどうかまったく自信がないのでした。
_ 儚い預言者 ― 2008/08/28 20:07:43
真実はいつも今、それは誰もが未知でありながら、行く方向を指し示せる唯一の場。そこに過去は偉大な遺産でも、息づかすのは知識ではなく、本来人間がもっている限りなく本能に近い知恵だと思うのです。
自信ではなくて、信頼です。自分への。そして本来の人としての。自信はバランスです。多くても少なくても状況との親和が取れない。
と書いていて私自身、親ということに為っていない事を痛感いたします。
_ midi ― 2008/08/29 14:24:06
子どもがなかったら親でいられないもん。でもつい、なんだ親に向かって偉そうに、なんて、最初から自分はこの子の上に君臨してきたかのように思ってしまう自分が浅はかでいとしいです(泣)。
うつしみの
わたしあなたの
ゆめぶたい
いきはきかけて
あなたのいきを
向日葵はいつも太陽を向く。それは生き物としての夢の具現である。沢山の種を播くことに、いのちの全てを懸けて。それは生きることの生きることを生きるすべを生きる夢という生きる輝きをそのままに、そのままでそのまま生きる。生きて生きて。
告げるのは何もなく、伝えるのも意味もなく、ただ表して現して。幾千の解釈は不要だ。ただ喜び悲しみ苦しみ悩む。その明らかな生の輝きに、向日葵は太陽に向かう。