フランス語へ導いてくれた偉大なお兄さま2009/11/13 08:25:06

昨日、ラジオを点けるとサリフ・ケイタがしゃべっていました。
すぐにサリフ・ケイタとわかったわけではもちろんなくて、なんかおっちゃん二人がしゃべりながら、ときどきサリフ・ケイタ、という単語を会話に織り込みつつ、会話が途切れるごとにサリフ・ケイタの歌を挟みつつ、というような番組だったので、サリフ・ケイタを紹介していることは瞬時にわかったのですが、ご本人もそこでしゃべっているということに気がつくのに若干時間を要しました(笑)

サリフ・ケイタのオフィシャルサイトはここみたいです。
http://salifkeita.artistes.universalmusic.fr/

でもサリフ・ケイタって?
まずは聴いてください。(便利な世の中だね)
http://www.youtube.com/watch?v=bqDnoSNq6Qc
http://www.youtube.com/watch?v=3ksr18dZTgc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=z1pqUKWfFl4&feature=related

三番目のはあこがれのマリの風景がでてくるので好きなクリップです……。

大学時代からアフリカに傾倒していた私は、けっこう節操なく手当たり次第聴いてたんですけど、雑誌かなにかでサリフ・ケイタの名前を見て、たぶんレンタルか何かで彼の音楽を聴いてノックアウトされました。でもそのときの曲がなんだったかもうわからない。一枚も、LPにしろCDにしろもっていないので、何年のことだったかわからない。
手探りでアフリカアフリカといいながら、大学を卒業して、社会人になって、アフリカとは別のきっかけで仏語教室に通い始めました。
大阪の繁華街の、キタかミナミかもう覚えていないんですが、とにかくもうおそらく今は無き、倉庫を改装したライヴハウスで、サリフ・ケイタのライヴを観ました。
その日から彼は私の神になりました。
彼がMCで話していたのは、フランス語でした。何を言っていたのかわからなかったけれど、最初のボンジュールくらいは聞こえたし(笑)

彼はとても、白かったんです。
周囲に、真っ黒な肌に極彩色のアフリカンな紋様の布をまとったダンサーや、伝統的な装束の要素を取り入れたすっごいかっこいい衣装に身を包んだやはり真っ黒な肌をしたコーラスを置いて、彼自身は真っ白な肌に真っ白な衣装を着けて、両手を胸の位置で時折合わせながら、澄んだ伸びやかな声で歌いました。神々しいほどの、いえ神ですからまさに神そのものなんですが、存在がそこにあって、ノリノリの観客たちをよそに、私はなんだかぽつんとそこに、たったひとり暗闇に立ち尽くし、何となく、サリフ・ケイタに厄払いのご祈祷してもらっているような気分でした。ちょっとうまく言えないけど。

サリフ・ケイタについて上手にまとめておられる文章を見つけました。
http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/salif-kaita.htm

フランス語をマスターして、サリフ・ケイタに会いにいく。
それがわたしの、仏語学習における目標となりました。
ということを、昨日のラジオで思い出したのでした。

ラジオでは、パーソナリティがサリフ・ケイタを呼ぶときに必ず「mon grand frere Salif Keita!」というふうに「我が兄よ」と言っていたのが印象的で、そうだな、と思いました。仏語と日本語とでは「兄」のもつ意味や語義の範囲とか語源が異なるので短絡的に考えてはいけないのですが、確かにこの人って兄さまよね、お父様じゃないわよね、と妙に納得したのでありました。

サリフ・ケイタ、みなさんもぜひ親しんでくださいね。

誕生日とお正月準備の話2009/11/13 20:24:28

今日は何の日?

今日は13日の金曜日である。
マイ母の誕生日である。73回目だ。
父が亡くなったのと同じ年齢になったけど、幸い彼女はとりあえず元気である。私の母の場合、カラダは大変頑強である。母のきょうだいはみな、問題を抱える者もいるが、カラダは元気である。今年の夏、長姉のさよ伯母が亡くなったけど、およそ病とは無縁の人であった。長兄は認知症が始まっているけれど、カラダのほうはまるで大丈夫である。
8人きょうだい(うち2人は夭逝しているから実質6人)の末っ子の母は、やはり末っ子だけあって、というと世の中の末っ子からブーイング来るかもしれないけれど、自分で道を切り開けないというか、主体性がないというか、人に頼ることしか知らないというか、そのくせ叱られるのが怖いから(まずいことは)黙っているとかそんなとこにだけ智恵がまわるというか。
母は姑(私の祖母)の嫁いびりにも耐えたし、父の女遊びにも耐えたし、染め工場の専従者として仕事と家事を両立させてきたし、なかなか図太くて根性入ってて、立派な女性なのである。だからもっと自信をもてばよいのである。なのに発想も発言もネガ志向である。まじめに喋っていると気が滅入ることしばしばである。面倒だから書かないけど。
そのわりにはもうちょっと真剣に考えてくれよ、というようなことをすーっとスルーしちゃうというか問題視しないというか忘れるというか。

私は出来合いのおせち料理の広告が大嫌いである。
ちっとも美味しそうに見えないということがひとつ。
もうひとつは実際に美味しくないのに決まり文句で過剰に飾り立てて御節を作るという日本文化を破壊しようとしているからである。

一度、社用でどうしても某超有名ホテルの割烹による御節三段重を注文しなくてはならなかったので注文し、間違いなく大晦日に届いたのでお正月にありがたくいただいたのであるが、私たちの郷里の御節とはまるで異なるものが入っていて(そのホテルはよそさんでしたの)、どうすればこんなけったいな味付けになるのか、というような代物ばかりであった。その地方では定番の名料理なのかもしれないが、なじんでいない、口に合わないということをあれほど思い知らされたことはなかった。やはりその土地のものはその場所へ行って、その土地の地を踏み空気を吸って、その土地の人と話をしながらいただかないと美味しくない。その経験もあって、我が家では、主に母が、であるが、御節はやはり自分の家と、地元の気心知れた商店街とで準備したほうがいいという意を強くしたのである。
去年、ひいきの魚屋さんのおじちゃんが亡くなって、棒鱈の下ごしらえを頼める人がいなくなって、母は何年ぶりかで自分で戻すところから始めたのだったが、手順がどこかで欠落したのか、棒鱈はかなり硬いままであった。味付けはバッチリだったので、やはり戻してから煮るプロセスで「ちょっと面倒くさくなった」のがいけなかったのだと母は反省し、今年は完璧な棒鱈をつくると張り切って、隣近所のオババどもにリサーチしている。
お正月準備は、その気心の知れた商店街のいくつかのお店にリストを渡し、配達してもらうのが慣わしだ。私は掃除と飾りつけ係であるので、注連縄などの買い出しには自分で行く。とはいえ去年あたりからどこにでも背が届くようになった娘が、飾りつけもほとんどやる。重詰めもする。そのうちばあちゃんと一緒に煮炊きもするかもしれない。けっきょく私には料理当番はまわってこないかもな、と思っている。ま、そのほうが、母は元気で長生きしそうである。まだまだ家事の大部分を引き受けてもらわないといけないのであるから。
「おばあちゃん、いんようになったらホンマ困るよな。生き延びれへんかも」
こら、真剣にいうな、娘。

というわけで、ハッピーバースデー母ちゃん。