「石炭はどこにあるのですか」「地の底」 ― 2009/11/17 18:18:02
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〈小特集〉『「森崎和江」を読む』
昨日、こんなイベントがあったのである。
【対談 姜尚中×森崎和江】
お二人とも大好きなので、近かったら仕事ほっぽり出して駆けつけるところだ。
いいよなあ、東京は何でもあって何でも開催されてさー。
つーても、どこにいようとそんな文化的生活、謳歌できないけどなあ、今のありさまじゃ。
あーあ。でも愚痴んのやめよ。
姜尚中って誰?とおっしゃるみなさんに。『悩む力』というベストセラー本の著者である。
森崎和江って誰?と問うかたがたに。『からゆきさん』というノンフィクションの書き手である。
イベントの告知ページはここ。
http://fujiwara-shoten.co.jp/main/news/archives/cat17/
私は、『悩む力』も『からゆきさん』も読んでいない。姜さんの本はその昔論文集として出された『オリエンタリズムの彼方へ』しか読んでいない。しかも読んだとはとてもいえない。小難しくて睡眠薬にしかならなかった。『オリエンタリズム』にノックアウトされていた後だったので、サイードつながりで読んだけど、姜さんの筆致はサイードの訳書とはぜんぜん違って難解だった。森崎さんの本は一冊だけ、『まっくら』を持っている。面白い本である。私にとって森崎さんはこの『まっくら』を書いた、女性ルポライターの魁(さきがけ)みたいな人であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。『まっくら』の初版は1960年だから、時代背景からも世代からしても(森崎さんは1927年生まれ)書くことを仕事とする女性の鑑なんである。『まっくら』はすごく面白い。身につまされる。男どもに腹が立つ。女を、しかし男をも、人間を、愛しく感じるようになる。
姜さんは、院生をしていた頃に顔を見た。大学が開催したシンポに講演者・パネラーとしてやってきた。それはクレオールやディアスポラに関するシンポだったように思うが、もう忘れた。忘れたが、永遠に忘れられないと観念するほど印象に残ったのが姜さんの声だった。ええ声だった。酔いしれてしまった。姜さんはあのとき何を喋っていたのだろう。声の響きだけが記憶の奥底にへばりついていて、言葉というかたちを成して立ち上がってこない。彼が心に残らない言葉しか発しなかったわけではもちろん、ない。私のほうに、器がなかったのだ。シンポのほかの出席者の顔ぶれも覚えていないのだから、姜さんの声を美しい記憶として留めているのは奇跡なのである。
森崎さんのことは、何も知らなかった。
今年の『環』で特集が組まれなければ、何も知らずにいたかもしれない。
藤原書店では『森崎和江コレクション』という全集を出版していて、それは去年あたりから『環』誌上で宣伝されていた。それを見て、うわ、そんなに偉大な文筆家だったのだわ、とおのれの無知を恥じるのはいいけど、それと同時にてっきり「森崎和江は故人」と思い込んでしまったあわてんぼな私。
森崎さんは朝鮮半島の生まれである。17歳までその地で生き、「内地留学」で九州の学校へ渡り、敗戦を迎える。植民者二世の彼女にとって、生まれ育った半島の自然や、民族服を纏ったおおらかな人々の記憶とは、大違いの日本。「なじめない」どころではなかった。こんなところでどうやって生きていこう。本気で生きる術を探した。
……といった生い立ちについてはこの特集の冒頭を読んで知ったのである。
冒頭はご本人の筆になる。それに続いて11人もの錚々たる書き手が森崎和江を語る。だが冒頭の、森崎さんの、『森崎和江コレクション 精神史の旅』刊行の「ご挨拶代わり」の全5巻のレジュメに、まるでかなわない。いろいろな切り口から、森崎和江に絡めて時代を、半島を、戦後を、女を、炭鉱を、語っているけれども、既視感をぬぐえない。森崎さんの冒頭の短文が、すべて語りつくしてしまったのだ。あとは、コレクション全巻を読むしかないといわんばかりに。
たったひとり、三砂ちづる氏の「森崎和江――愛される強さ」はまるでアプローチが異なっていたので、楽しく読むことができた。
『まっくら』は炭鉱の町で生きる女たちの語りのかたちをとったノンフィクションである。
なぜこの本を買う気になったかというと、誰かが「枕頭の書」「いつもこの本に立ち帰る」「こういう書き手でありたい」などと新聞で語っていたのだ。その誰かについては、もう何年も前のことなのでぜんぜん覚えていない。たぶん、ジャンルはなんであれ、もの書きさんだった。まだ若い女性だった。『まっくら』刊行当時森崎さんはまだ30代だから、それに自身を重ねることのできる年頃のかただったと思う。その記事はいわゆる書評ではなく、インタビューでもなく、日替わりのショート談話みたいなものだったと思う。ただそこに示された『まっくら』というタイトルと、「炭鉱の女」という言葉が、私を惹きつけたのだった。その記事を読んでまもなく、私は書店に取り寄せを依頼し、手に入れた。
その後私は炭鉱にまつわるノンフィクションや小説を読んだことはないけれども、たとえば映画『リトル・ダンサー』や『フラガール』などを観たとき、『まっくら』の女たちや森崎和江のつぶやきを聞くような気が、少しだけしたものであった。
コメント
_ 儚い預言者 ― 2009/11/21 07:17:14
_ midi ― 2009/11/23 13:49:30
今、男女、といっても、人間、その二種類しかいない、といえなくなってきてません? 女も男もその性別を振りかざして声高に何かを叫ぶのは、かっちょわるいという風潮もあるし。
>常に片方だけでは現れないという意味で。
真理です。二者を比較したり対立させたりして語るとき、一方なしには他方も成立しないことは、だけどけっこう忘れられたりしてますよね。
_ 儚い預言者 ― 2009/11/25 23:53:45
何時しかそれが舞い上がり空に浮く雲の形象を彩って意味の明らかな行方となった。
玄なるエネルギーは、美しい銀河の煌めきとそよ風に靡くあなたの髪に調べを寄せていた。
過ぎることの奇跡と一息ごとの永遠が紡ぐ時空の泡沫は、万感の色彩に揺れている。
あなたは言った。《流れ星に願いを三つ言えたら全部叶うのよ》
想いの風が宇宙を駆け巡り、愛のときめきと煌めきの全てで私はあなたを包む。
愛の重さに私は敵わないが、ただ今の触れ合う奇跡が永遠なる愛の軌跡に連なることを祈っていた。
_ midi ― 2009/11/26 08:12:18
毎度ご来訪ありがとうございます。
>あなたは言った。《流れ星に願いを三つ言えたら全部叶うのよ》
言ってませんよ。あ、あたしじゃないのか(笑)
_ 儚い預言者 ― 2009/11/30 21:14:51
待つ跡には色の香りに舞い、勢い通る道筋にそっと目配せしながら、馳せる事の憂愁を問うた。
あなたが言った。《満天の星、私の幸せの星はどれなの》
海中深く眠る貝、漆黒の宇宙に浮かぶ星の砂、止めどなく溢れる感情の躊躇い。存在することの真は愛である。まさしく愛が存在を支え、慈しみである。愛に分断があるだろうか。もしそれならば、存在は虚であり、もしそうならば認識することは不可能である。ならばどうして別々に見えるのか。
あなたの吐息が宇宙を亘る。私の夢が追う。
愛の円環は永遠に開かれて。
_ midi ― 2009/12/01 14:50:21
毎度ごひいきにありがとうございます。
「愛」をかぶってた直江兼続も終わりましたねえ。
>あなたが言った。《満天の星、私の幸せの星はどれなの》
言ってませんよ。って、もういいって?(笑)
私、小中学生の頃かな、天文学モドキに興味があって、けっこう小難しい本に手を出して、ビッグバンだのブラックホールだの恒星の寿命だの彗星の正体だの、そんなもんにやたら詳しかったですよ。全部忘れましたけど。
満天の星は美しいけれど、一枚の絵としてただ美しいのです。
光って見えているのは全部燃える石の玉。
津軽や小岩井、鹿児島や宮古を旅したとき、また美山や和知でキャンプをしたとき、自分の住む街ではけっして見られないきらきらの夜空を見ました。きれいです、ほんとに。でも私が思うことって、「こっちへ落ちてくんなよ」なんですよね。大気圏外に幻想は抱いてないんです。
_ 儚い預言者 ― 2009/12/03 10:31:08
あなたと愛を交わして、その時、私は宇宙を思い出したのだった。偉大な恍惚は、あの世とこの世との交感である。それは信じるという現実創造の範疇を飛び越え、なぜか懐かしい身分の取りえを戻したということかもしれない。
そしてそれは、必然的にあなたという宇宙に一体となったことである。わたしはあなたになったのである。それはわたしがわたしになったように。あなたがあなたになったように。
あなたは言った。《美しい世の中を星は知っているの》
固い物理空間とは、命の凝縮である。愛という光の濃縮である。意識は思考の視野である。そう神とは思考なのである。それは考えることを越えた考え、想い、感情である。喜びとは神の第一思考あり、最終の想いであり、プロセスの只中である。
現実とは概念であり、その合意に従い、宇宙は創造されるのである。泡は儚いが、その中では永遠の時間への経過を繰り返す。上にある如く、下もかく在り。
あなたの想いが宇宙を真実創り出すのだ。私はそっと見やる。あなたの温かな肌が優しい陽だまりになって、包みゆく夢の継承を思い、静かなる祈りへと落ちた。
_ midi ― 2009/12/03 12:19:59
お疲れさんです(笑)
不思議なものですね、預言者さまのテキストに片仮名、しかも「プロセス」なんて「英語そのまんまカタカナ語」があるとものすごく違和感あります。
>あなたは言った。《美しい世の中を星は知っているの》
言ってませんよ。でも歌います。星は何でも知っているぅ~♪夕べあの子が泣いたのもぉ~♪
_ 儚い預言者 ― 2009/12/08 17:29:31
あなたは言った。《星の数は、幸せと同じなの》
すべての風、すべての恋、すべての戦い、それは愛からだ。愛は静かな躍動である。何も裁かないから、全てを受容するから、愛は何事も尊ばない。
人は不満である。愛は自分にあることを知るために、全ての不足を適えようとする。驕りの最初は、意外にも不必要性を必要と思ったことからなのだ。
単なる夢を嫌うこと、複雑性への意趣は、この宇宙の燦然たる様相を輝かせている。
_ midi ― 2009/12/08 19:30:23
ちいいーーーーっす
おつかれっす
星の数って、いったいいくつなのでしょう。
私にとっては幸せはたった一つで十分です。
たぶん誰もがそう思っているでしょう。
地球上の60億人が皆、たった一つの幸せでいいと思っていたとしても、60億個の星が必要ですが、60億人が皆、私のように「幸せ=たった一つ=たった一つの星=地球」と考えていたら、やはり地球が60億人分必要ということであり、人数分用意するのはちと無理であるからして、このたった一つの地球を60億人で分かち合わねばなりませんね。大事にしよう、地球。
(最近エコ関係の記事広告を作ったのでこういうノリなの。コップ何とかもやってるしね)
それは二元性の単なる振れであるのか。
そろそろ人はそのエネルギーの振る舞いを全体性として観るべきかもしれない。
戦争と平和、マイノリティーとマジョリティーは、常に片方だけでは現れないという意味で。
愛の故郷へ。