チェチェンニュースからのお知らせ再掲&追記 ― 2010/04/02 11:00:43
よろしくお願いします。
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Sun, 21 Mar 2010
チェチェンニュース #331(転送・転載歓迎)
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■『アンナへの手紙』上映会 in 練馬
チェチェンとロシアを巡り、静かな感動を呼ぶ映画、『アンナへの手紙』が、練馬区で再び上映されます。チェチェン音楽や、写真のパネル展示なども予定されており、練馬に「小さなチェチェン」が現れるとのことです。ぜひとも、足をお運びください。
日時 2010年4月2日(金)19:00~21:30(くらい?) 開場18:30
会場 大泉学園ゆめりあホール
http://www.neribun.or.jp/oizumi/
参加費 一般1,000円 高校生以下500円
主催 市民の声ねりま
(チケット申し込み、お問い合わせは)
練馬区東大泉5-6-9 池尻成二事務所 03-5933-0108
siminnokoe[at]nifty.com
ドキュメンタリー映画「アンナへの手紙」
2008年 スイス ドキュメンタリー 83分
監督:エリック・バークラウト
作品提供: Refugee Film Festival (難民映画祭)
日本語字幕:日本映像翻訳アカデミー
プーチン大統領が54歳の誕生日を迎えた2006年10月7日、ロシア政府をもっとも厳しく批判し続けたジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤは、モスクワにある自宅のエレベーター内で暗殺された。娘に子どもが生まれることを喜んでいた矢先の悲劇だった。
彼女は、一党独裁に近づくロシアの各地を歩き、格差の広がる地方の人々の声を拾い集めた。そして、世界から見捨てられた、チェチェン共和国への軍事侵攻の実態を暴き、弱者に常に寄り添ってきた。
一人の女性の人生を辿りながら、ロシアの闇に切り込むドキュメンタリー。彼女の死から3年。決して忘れられてはならない人が、ここにいる。
上映後、トークイベント開催!
鼎談
寺中 誠(アムネスティ・インターナショナル日本事務局長)
林 克明(ジャーナリスト)
大富 亮(チェチェンニュース)
●アンナ・ポリトコフスカヤとは
ロシアのジャーナリスト。1958年生まれ。1980年、国立モスクワ大学ジャーナリズム学科卒業。モスクワの新聞「ノーヴァヤガゼータ」紙評論員。1999年夏以来、チェチェンに通い、戦地に暮らす市民の声を伝えてきた。「ロシアの失われた良心」と評され、その活動に対して国際的な賞が数多く贈られている。2004年、北オセチアの学校占拠事件の際、現地に向かう機上で何者かに毒を盛られ、意識不明の重態に陥った。回復後、取材・執筆活動を再開する。
2006年10月7日、モスクワ市内の自宅アパートで凶弾に倒れた。著書に『チェチェンやめられない戦争』(NHK出版)など。
●チェチェン戦争とは
ロシア南部に位置するチェチェンは、19世紀にロシアが併合した地域で、先住民族のチェチェン人が人口のほとんどを占めている。1991年のソ連邦崩壊の際、チェチェンは独立を宣言したが、1994年、ロシア政府は武力侵攻を開始した。この戦争によって、人口100万人のうち、すでに20万人の民間人が犠牲になったと言われている。
●ロシア社会の状況
1991年にソ連邦が崩壊し、共産党による一党独裁の時代が終わり、ロシア社会は民主化に進むかに見えた。しかし、1994年の第一次チェチェン戦争を経て、軍や連邦保安局(FSB=新KGB)をはじめとする武力省庁が権力を拡大。その象徴が、1999年のプーチン大統領(FSB元長官)の就任と、第二次チェチェン戦争の泥沼だった。
以下は昨日届いたニュースからの抜粋です。
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Thu, 1 Apr 2010
チェチェンニュース #334
■モスクワ連続爆破事件に犯行声明
29日にモスクワで起こった連続爆破事件について、コーカサス首長国のドッカ・ウマーロフから犯行声明が出た。日本のメディアも国際面で報じている。
チェチェン独立派犯行声明 モスクワ連続爆破 東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2010040102000194.html
モスクワ地下鉄テロ「プーチン氏に報復」 武装勢力声明 朝日新聞
http://www.asahi.com/international/update/0401/TKY201004010143.html
モスクワ地下鉄爆破テロ:イスラム系武装組織が犯行声明 毎日新聞
http://mainichi.jp/select/today/news/m20100401k0000e030021000c.html
などなど。
マスメディアの情報には、重要なディティルが抜けていたので、カフカスセンターの元記事を読んでみた。
http://d.hatena.ne.jp/chechen/20100401/1270111904
『声明の中でドッカ・アブ・ウスマンは、地下鉄への攻撃が、2月11日に、イングーシのアルシュティ村で、貧しい住民たちが野生のガーリックを摘んでいた際に、ロシア侵略者が虐殺行為を行ったことに対する復讐であり、懲罰だと明らかにした』
こういう事件だった。
http://d.hatena.ne.jp/chechen/20100221/1266766192
ロシア特殊部隊が14人の市民を殺害した。ヘリによる空襲で、武装勢力20人だけでなく、ギョウジャニンニクを摘みに山に入った一般市民が殺害された。
今回の声明で、あのとき犠牲になった人々の「報復」なのだという主張はわかった。各紙がそれを見出しにしている。
しかし、やはり振り返りたいのは、チェチェンでどれだけひどい人権侵害が起こっていても無視するのに、モスクワで爆破事件が起こると一大キャンペーンが始まることだ。マスメディアというものが抱える、なにか構造的な欠陥があるのだろう。
チェチェンに対する戦争が低調になると、今度はダゲスタンやイングーシに拡大してきた。一見これは「テロリストがチェチェンから出てきた」ように見えるが、それは違う。
チェチェンでの弾圧の激しさもさることながら、コーカサスの他の地域でも大規模な人権侵害や虐殺が(今回のニンニク摘みの件のように)あるから、やはりそこでも抵抗の武装蜂起が起こっているのだ。「北コーカサスにテロリズムが広がっている」という最近の言い回しには、注意が必要だ。
復讐という言葉が出てくると、かならず訳知り顔に「復讐の連鎖を断て」とか、「テロに屈してはならない」と言い出す人がいる。はっきり言って、それは間違いだ。
独立を宣言したチェチェンに対する徹底した弾圧がなければ、こうまでこじれることはなかった。暴力は円環状に続いているのではなく、始点がある。それは、1991年に、ロシア内務省軍がチェチェンに進駐したときに始まっている。最初の間違いに誰かが責任をとらなければ、抵抗も、人々の憎しみも終わらないだろう。
一方で、ロシア側が、どんな謀略を使って「テロ」をおこさせるかということも、考えてみなくてはいけない。モスクワ劇場占拠事件を挑発したのは、ロシア側が送り込んだスパイだった。
2004年に、ベスラン学校占拠人質事件の裏面についてのエレーナ・ミラシナ記者の記事が翻訳された。ぜひ読んでほしい。(大富亮)
http://d.hatena.ne.jp/chechen/20100401/1270107514
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新学期! ― 2010/04/05 18:20:40

今日から学校が始まった。
といっても春休み中ほとんど部活で学校へ行っていたウチのお嬢さん。ジャージ姿で行ってたのが制服に代わっただけである。
今日は教員の着任式と始業式。小学校時代から毎年経験していることとはいえ、新着任の先生方ってどんな人なのか、生徒ゴコロにはとっても気になるらしく、4月1日の地元紙に一斉掲載される教員異動の記事を穴が空くほど見ていた娘。去年新着任の先生が担任だったので、またそういうことになったらどうしよーと不安も混じり。
昼、いったん帰宅した娘が携帯を鳴らした。
「お母さん、嬉しいお知らせ!」
「なに?」
「担任の先生な、嶋先生!!」
「えっ! マジ? うそ、ラッキーやん。きゃっほーい家庭訪問が楽しみ!」
なんと、今年の担任は長年本校にお勤めのベテラン教諭、技術科担当の嶋先生だというではないか! 私は2年前から嶋先生の大ファンである!!!
と、そんなことを申し上げると私のことをよく知るレギュラーメンバー、準レギュラーメンバーのみなさんは、嶋先生がどんなイケメンかとお思いになるであろう。
残念でした。そっち方面ではないのだ。
でも、嶋先生が「ええおとこ」であるには違いない。
たぶん、私と同世代じゃないかと思う。部活顧問のカン爺先生も同世代なんだけど、で、カン爺先生もいい先生だけどちょっと違うのである。カン爺先生は陸上部指導歴が長いせいか、生徒用の顔と保護者用の顔を使い分けておられる。嶋先生はコンブ顧問だ。あ、コンブというのはコンピュータ部である。そのせいか、運動部顧問の教員とはなにかしら生徒に対するスタンスが違うような気がする。カン爺先生は生活指導担当でもあって、容赦ないのである。嶋先生はそれに比べると売れないお笑い芸人がぽつっとギャグかますような感じで注意するので(見たわけじゃないんだけど)、逆に生徒たちは襟を正すそうである(最近の子どもはわからんもんですな 笑)。
私の印象では、喋りかた、間の取りかた、「あ、いま笑いを取ろうとしているな」というトボケかた、などが妙に自分の感覚とフィットするというのか、話を聞いていてたいへん心地よく、楽しいのである。もっと若いお母さん方にとってはこの限りではないかもしれないが。
入学して最初に「部活動紹介」という保護者向けの集まりがあって、その司会進行をされたのが嶋先生だった。これがたいへんよろしかった。以来、嶋先生大好きモードのアタシ。その次は授業参観でたまたま技術科だった。パソコンのお絵描きソフトでを使いなにやらつくる授業で、授業というより、PC室で生徒がめいめい勝手に作業するのを巡回して指導するというスタイルだった。先生がどんなふうにどんな言葉を生徒にかけているかを必死で耳で追いかけていたアタシ。娘が画面でつくっていた絵はほとんど見ずだった(笑)。嶋先生を評価するにはあまりにも材料不足なんだけど、それでも、以上たった二回の逢瀬で、本校一等賞は嶋先生で決まり、だったのである。
中学生のお子さんをお持ちのかたでなければ、いま中学生が技術科でどんなことを学習しているかご存じないであろう。あるいは、殿方は、ご自分が中学生の時に学習していたことと一緒だとおっしゃるのだろうか。俺たちのときのほうがもっと難しかったよ、とおっしゃるのだろうか。
私は娘が図面を引いたり、電気モーターの部位名や大工用語を暗記したり、本箱を作ったり、ラジオを作ったりして持ち帰るのを見て仰天した。
「さなぎ、技術科の勉強はいいから数学とか英語、もう一回復習しなさいよ」
「数学とか英語とか、やっても無駄やもん」
「それ、難しすぎるやん。いま覚えんでもいいって、その技術科のワークブック」
「もう覚えたもん。今は見直ししてんの。自信あるもん、技術」
その言葉どおり、娘は技術科が大得意である。お母さん、技術が0点でもおこらへんよ、といっているにもかかわらず、技術はほぼ満点に近い点を毎回獲得している。それもこれも、嶋先生の授業が好きだからである。どうして嶋先生は技術科の先生なのよ、どうして数学担当じゃないのよまったくもう、と思うほど、いい先生である。
もちろん生徒たちにも人気である。
長年、本校に在任なので、異動かもしれないなと、じつは母娘で気にかけていた。残られることがわかってよかったあ~と胸をなでおろした年度末。でも、まさか受け持っていただけるとは思っていなかった。
そりゃ、担任になったらまた印象変わるかもしれないけど。
今年は中三だし、大事な年なんだけど。
大事な年だけに。
こいつは春から縁起がええわい!
わーいわーいわーい!!!
日本で上映されるといいなーと思う仏映画 ― 2010/04/06 21:17:53

前エントリの二色の花は梅みたい。ウチの近所の城跡にも同じように紅白二色咲く「源平」と名づけられた梅があるそうだ。ン十年以上近所に住んでいるのに、梅を観賞しに出かけたことはなかった。
映画、観たいなあ。でも、いいフランス映画はなかなか私の町へは来ないのだ。小さな館であっという間に上映期間が済んでしまう。
そういうなかでも、『幸せのシャンソニア劇場』はけっこう健闘したのであった。たいへんよい映画で、私の町の小名画館でもひと月の間、かかっていた。でも、最終的に、興行的にはどうだったのだろう。数年前の、『あるいは裏切りという名の犬』も、重いが上質の作品だった。が、日本での興行が成功だったのかどうか、そのあたりもてんで話題にならないのでよくわからない。
フランスのニュースサイトやポータルサイトをはしごしていると映画の広告によく出会う。気になった映画の予告編をいくつか貼ってみる。あ、現地ではもうすでに上映されていたり、終了していたりであるのであしからず。日本に来たらいいな、ちゃんと字幕つきで観たいなと思う作品群である。解説、翻訳はしないのでこれもしあしからず(だってわかんないもん。もしかしてつまらなかったりして)。
『Les invites de mon pere』
んんんーなんて訳すのがいいかなあ。「パパの新しい家族」? 「父の賓客」?
『Le Concert』、現在はモスクワの劇場で清掃夫をしている元交響楽団の指揮者がかつての仲間によびかけて演奏会を開催するというお話。好きな女優ミウ=ミウが脇を固めている。
『L'immortel』「不死」、かな。血なまぐさいよー。お決まりのジャン・レノだけど、オヤジになったなあ(笑)。これを観たいわけは、『幸せのシャンソニア劇場』にジャッキー役で出ていたカド様がマフィアのボスで出てらっしゃるからなの。
『Mumu』「ミュミュ」? いちばん観たいのはこれ。観たいよー。1947年頃のフランスの全寮制小学校が舞台。ああ、たまんないわー(って何が 笑)
週の真ん中、真昼間だというのに(1) ― 2010/04/09 18:04:32
【老舗の大旦那様の巻】
とある印刷物でお世話になっているある自治体のメインストリート。メインストリートとはいっても人と車がまばらに行き交うだけで、賑わっているというには程遠い。小さな取材アポが3件集中したある日の午後、私はいささか疲れてこの道を足を引きずって歩いていた。すると、約2年前から広告クライアントとして取引のある、界隈屈指の老舗の大旦那様が店先に出てきて声をかけてくださった。
実はこの店の前を通る時に、大旦那様の姿がチラリと視界に入ったので、店は覗かずまっすぐ前を向いて通り過ぎようとしたのだったが、また、顔さえ合わさなければ私だとはバレないと思って知らん顔しちゃえと思ったんだけど。……見つかった。
「まあまあご無沙汰やないかいな。お茶でも飲んでいきなはれ」
「大旦那さん、ほんまにお久し振りですね、いつもお電話ばかりで失礼してます」
「いやいや、あんさんも遠いさかいにな。ほれほれ一服していき」
「ではお言葉に甘えて」
「今日はどっか、店訪ねはるんでっか」
「次の広報誌でこの商店街のお店を何軒かピックアップしますんで、お話を聞いてきたんです。大旦那さんとこにも、その節はお世話になりましたね。お店の歴史が町の歴史みたいなもんやから、ほんま勉強さしてもらいました」
「ほやったなあ。今日はどこさん行ってきゃはったん」
「喫茶○○さん、蕎麦の△△さん、クレープ屋さんの◇◇さんです」
「ほうか、ほうか。ええように書いたげて」
「はい」
「ウチはなあ、えらいことになっとるさかいに」
来た。始まるぞ。
この大旦那さんのところは全国に名を轟かせる何百年の老舗なのだが、大旦那さんの代でとんでもないお家騒動があったのである。大旦那さんは次男で、長男であるお兄様と揉めておられるのだが、その揉めかたが半端ではない。裁判沙汰を通り越して泥沼化してしまったらしく、どっちの立場でも気力体力消耗することは想像に難くない。どちらももうご高齢でらっしゃる。詳細はここには書けないのでお読みくださるかたにはチンプンカンプンであろうが、今はそのことを問題にはしていないので読み流してくださるがよろし。だいいち、私はこの大旦那さんとしかお話をしたことがないので、お兄様の言い分はわからないから、私自身もチンプンカンプンなのである。
そんなわけで大旦那様、揉め事のそもそものいきさつから、店の発展拡大、歴史的資料の保存、新規開拓へと自分が頑張ってこられたことを語り、なのに兄ときたらと愚痴をこぼし。えんえんと、えんえんと。あのーあたし、帰社しなくっちゃ……。わしはもう七十超えてしもうた、これ以上揉めても体力続かんわ……
「大旦那さん、お子さんは?」
「息子がおりますねん、ほれ、あそこに。遅うにできた子やさかい、やっと三十出たとこや」
「頼もしいじゃないですか、もうあと少しでしっかり継いでくださいますよ」
と、店の奥でなにやら仕事に勤しんでいる若者の背中を見て言うと、
「あんさんな、どや、息子」
と、私の左手を両手でしっかり握る大旦那様。「へ?」
「店、任せたい思ても、嫁が居らんと話にならん。早よ嫁探せ、ていうとるんやが」
「はあ、こればっかりはご縁ですもんね(つーか、ダンサン手ぇ離しとくりゃす~)」
「あんさんやったら、わしは反対せん。しっかりしたはるし、今でもムツカシイ仕事したはんのやから、ウチの店くらい切り盛りできる」
「あはは、かなんわあ。そんなん若旦那さんが気の毒ですわ、わたしみたいなオバサン」
「いやいや、ちょっとオバサンくらいでちょうどええ」
「あはは、あはは、あはは(ちょうどええ、の根拠はなんやねんー!!それよりオバサンつーたなジイサンめ~ と悪態を脳内にめぐらしながらただひたすらにカラ笑いをする私)あはは、あはは、あはは(ジジィ、手ぇ離せーっ 泣)」
はたして、逃がした魚は大きかっただろうか(笑)
週の真ん中、真昼間だというのに(2) ― 2010/04/12 15:26:18
【電車に乗り合わせた白ヒゲ爺の巻】
外出先から快速列車に乗った午後。乗客はまばら。私は二人掛け座席の窓際に座り、通路側にどかっと鞄を置いた。
「ねえさん、すんまへん」
「え?」
こんなにがらがらなのに、他へ座れよ、と思ったが、その老紳士はどうしてもここへ座りたいんじゃといわんばかりに「すんまへん」を繰り返し、私が鞄をどけるやいなやその華奢な体を沈めた。真っ白いあごひげが細く細く伸びて、スラックスのベルトあたりに届きそうだ。その白いヒゲに比べて髪の毛は、薄いがけっこう黒々している。
「ねえさん、終点まで行かはりまっか」
「はい」
「そこのお生まれでっか。そうでっか、よろしいなあ、あの街は。わしは■■出身ですねんけど、引っ越しましてん。憧れてましてな。そやから今はねえさんと同じ街の住民でっせ。小さいアパートですけど、連れがしょっちゅう来ますねん。ほやから泊めたりますねん、気前よう泊めたったらね、その次来る時に手土産ぎょうさんもってきてくれよる。人に親切にしたら必ず返ってきますな。直接返しがのうても、めぐりめぐってなんかしら、返ってくるもんやさかい、人には親切にせなあきまへん。わしはねえ、独りもんですさかい誰に気兼ねもないし、気楽なもんですわ。なんで独りもんかいうたら、わしの嫁はんやった女はね、一番下の子がまだ二つの時に、○価○会の男とね、いや、わしら○価○会に入ってましたんや、その時。ありゃろくでもない宗教団体ですわ、そやけど最初は思てへんさかい、ええもんや思ていてましたけど、そんなんいうてたら嫁はんそこの男と朝帰りするようになりよって、わし、怒りましてん、どういうこっちゃねんお前小さい子が母親待っとるちゅうに男と朝帰りて、そらなんやねん、てね、一番下は二つでしてん、あ、一番下言いましたけど、子ども三人おりましてな、今はみな所帯もって独立してますけど、夫婦ふたりで必死こいてても、わしはサッシの会社、小さい会社やけどしてましてな、五人ほど人を雇うてな、朝から晩まで働きづめでしてん、ほんであんた、子ども三人いうたらたいへんですがな。そやのに朝帰りてなんですねん。ほんま。○価○会てね、そんなんばっかりでっせ。そん時にわしはすっぱり抜けました。ありゃあかん、ほんまにあかん。だいたい○価○会つうのは(中略)一番上の子が今45歳になったかなあ、そこの孫が二人、じいちゃんじいちゃんいうて遊びに来てくれます。可愛らしいもんですなあ、孫は。一番下の子のとこは、まだ小さいさかい親が来れる時でないと会えまへんけどね。なんやかんやいうて、しっかり社会人しとるさかいよかったんやけども、それがね、ねえさん、真ん中の子、娘ですけど、問題はこの娘でんがな。娘はね高校出てすぐにやーさんとひっつきましてな。ほれあの、▲▲組ですわ、いや、そこの系列の小さい組でっけどな、そこのろくでもないチンピラでしたんですわ、そやからね、縁切りましてん。すっぱりとね、切りましてん。んなもん、そうでっしゃろ、▲▲組のチンピラと親戚になれまっかいな。だいたい▲▲組やなんて(中略)わしは73になりましたけどな、今が人生花ですわ。年金暮らしやさかい細々したもんですけど、好きな時に食べて、飲んで、誰に遠慮もせんと、連れに会うて、孫に会うてね。桜きれいでんなあ、ほれ。ほんまよろしいわ、ああ、着きましたな終点、ねえさん、幸せでんなこの街住んで、わしもですわ。わっはっは。ねえさん、おおきに、おおきに、話聞いてくれはって、ほんまおおきに。おおきにでっせ、おおきに、おおきに、おおきに……」(と私の右手をいきなりとって両手で握ること約10秒間)
お気づきだろうか。私の発声は最初の「え?」と「はい」だけだったのである。快速が終点に到着するまでの18分間、白ヒゲ爺はあっけに取られる私の横で見事にその人生を語り終えたのであった。しかも大声で。他の乗客の白い視線を一身に浴びて、しかし何も感じないまま、その長い白ヒゲをなでながら。
なぜ、白ヒゲ爺は、他の乗客でなくこの私に語ろうと思ったのだろうか。
週の真ん中、真昼間だというのに(3) ― 2010/04/14 20:35:10
湿気を含んだ生温かい空気のせいで、天候のよさが少しも快適に感じられない。花粉症の身には空気は乾いているより湿っているほうがいいけれど、中途半端にジメッとして不快指数を上げてくれるよりは、どしゃ降りの雨のほうがありがたい。そんなことを考えながら、私は疲れきった足を引きずって、駅の改札を這い出るように抜け、バスターミナルへ向かった。
始発駅からだとたいてい車内で座れる。バスに乗るのは15分程度だけど、この間何も思考せず見慣れた車窓の風景に視線を投げるだけでいることがどれほど疲労を回復してくれることだろう。私は乗車ドアが開くと、重い足を、何とかステップまで引き上げて、倒れるように座席に体を沈めた。
夕刻だった。仕事帰りふうの乗客はまだ少ない。これから観光地に向かうような時刻でもない。なのになんだか人が多い。次から次に乗ってきた。あっというまに席は埋まり、吊り革をもつ人が通路にぎっしり。
落とした視線に杖の先が入ってきた。見ていない振りをしてみたが、杖は私のすぐそばで止まった。私は音にならないため息をひとつついて、決死の覚悟で立ち上がった。
「どうぞ」
「お、いや、これは、申し訳ない」
杖をついた老紳士は、英国紳士風の洒落た身なりで、ダークカラーチェックのジャケットに茶系のパンツを合わせ、ワイン色が基調のスカーフを胸元にあしらい、履きこなしているが汚れてはいない革靴を、擦るように前へ進め、ゆっくりだがけっして野暮ったくない動作で空けた席へ座った。
「お疲れなのに、申し訳ないことですね」
「いえ、そんなことないです」
そんなことあるけど、正直私はこの老紳士に見とれていた。かっこいい。歳はこうとりたいもんだね。杖はついているけれど、頭髪は真っ白だけれど、最近の高齢者の皆さんは元気な方はとても若々しいので年齢が読めない。この老紳士も、まるでわからない。70代後半じゃないかと思うんだけど……。そう思いながら、通勤途上でよくすれ違ったある老紳士に思いを馳せていた。朝の散歩なのだろう、杖一本ではとても覚束ないほど弱々しい足取りで、しかし少しずつ、表通りの歩道を歩いていたその人は、いつもダークカラーのチェックの背広に同系色のパンツを合わせ、胸元にスカーフをあしらっていた。中のワイシャツはチラとしか見えないが、細かいストライプだったり、薄いイエローやピンクだったり、ボタンダウンだったり。会うたび、ちょっぴりだけど組み合わせが違っていて、なんてお洒落なおじいさまだろうと感心していた。白髪は肩まで伸びていて、けれどきちんと梳かしつけられていて、眼鏡をかけた顔立ちを美しく縁取っていた。背中は曲がっていたけれど、彼はあの朝の散歩を確かに楽しんでいたと思う。しかし、その老紳士の散歩に出会わなくなってからもう何か月も経つ。おはようございますと声をかけたくてうずうずしていたのに、いつも遅刻ギリギリなもんだからチャリで疾走しているもんだから、知らない人に挨拶する心の余裕なんてないのだ。ただ、あ、今朝も会えたわ素敵なおじいさまと心にビタミンもらったような気持ちになるだけで、ということは一方的に私のほうが得をしていたのだった。なのに、あのおじいさまをもう見ていない。内心穏やかでなかったが、そうは言っても手がかりがないので知る術もない。と、久し振りに散歩のおじいさまを思い出しながら、目の前の座席に座った老紳士を見つめていた。
紳士は両手を杖に置き、車窓を眺めていた。幾度かの停車ののち、降車するバス停が近づいたので私は前へ進んだ。料金箱に小銭を投げ入れて、今度は本当に大きくため息をつきながらステップを降りた。ふと、気配を感じて振り向くと、杖の老紳士がいた。敬老乗車証を運転手に見せて、杖をこつこつさせながら、ステップを降りようとしている。
「危ないですよ、ゆっくり」
私は手を差し伸べた。老紳士は乗車証をポケットに滑り込ませた手を私の右手に預け、
「いや、これはまた、お手数をおかけします」
と、しっかり私の手を掴んで降車した。
「気をつけてお帰りくださいね」
と言い残して立ち去ろうとする私の右手を、杖の老紳士は離そうとしない。
「申し訳なかったですよ、本当に」
「いえいえ、そんなことありませんから」
「お時間、ありませんか。お茶をご馳走します。どうです、一緒に来てください」
不覚にも、私はかなり、ときめいてしまったのだった。
ドキドキドキ……
い、いかんっ
「せっかくですが、まだ仕事中なんです。得意先との約束がありますので、行かないと」
「そうですか、それは失礼をしましたね。残念です」
老紳士は私の手を二、三度握り直したあと、何度も頭を下げてありがとうを言い、立ち去った。私も交差点の信号が変わったので、彼とは反対方向へ歩き出した。得意先とのアポなんて嘘だった。コーヒーご馳走してもらったらよかったかなー。だけどだからって、どうなるもんでもないしなー。どうなるって、どうなんだつーのよ。そんな阿呆な独り言を心の中でつぶやきながら、会社へ向かった。
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外出の多かった一週間のうち、なんと三度も、70代のおじいちゃまに手を握られるという幸運に見舞われたので、ちょっと珍しいと思い、書き留めました。ご静読(?)ありがとうございました。
単なるニュースの写しですみません 水俣(2) ― 2010/04/16 18:22:53
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水俣病救済方針を閣議決定=未認定患者3万人超対象-全面解決目指す
4月16日9時8分配信(時事通信)
政府は16日、水俣病救済特別措置法に基づき、水俣病未認定患者の「救済方針」を閣議決定した。一時金を1人当たり210万円とするなど、先月の熊本地裁での和解と同等の条件とした。対象者は3万人を超える見通しで、政府はこれにより、水俣病問題の全面解決を目指す。
方針によると、新たに救済対象となる患者には、一時金のほか、医療費の自己負担分、月額1万2900~1万7700円の療養手当を支給する。患者団体に対しては、団体活動に必要な加算金も給付する。
熊本、鹿児島両県の水俣湾沿岸や新潟県阿賀野川周辺に長期間居住した経験がなくても、この地域の魚介類を多く摂取して症状のある患者も申請対象にする。判定は、関係各県が指定する病院で検診を受けた上で、各県の判定検討会が行う。
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……と、淡々と書いてありますがなかなか簡単には進まないでしょうね。「全面解決」には何十年もかかると思います。本当に「解決」しようとすれば。
で、関連記事のコピペです。
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水俣病:和解へ…闘いに苦渋の決着(毎日新聞)
2010年3月28日23時37分 更新:3月29日1時49分
水俣病未認定患者団体「水俣病不知火(しらぬい)患者会」が28日の原告団総会で熊本地裁の和解案受け入れを決め、3万人以上に上るとみられる未認定患者の救済問題は決着へ向かうことになった。ただ、「ノーモア・ミナマタ」を掲げて4年半にわたる裁判を闘った原告らは、和解案受け入れの決断に複雑な思いもにじませた。【西貴晴、結城かほる】
◇国は真に謝っていない/生きているうちの救済を
「反対の方は挙手を」。総会が開かれた熊本県水俣市総合体育館。原告1050人の中で、第1陣原告の男性(83)だけが手を挙げた。「原因企業のチッソや国が、真に患者に謝っているとは思えなかった」からだ。
男性は戦前に水俣に移り住み、旧国鉄水俣駅で働いて定年を迎えた。手足の感覚障害や耳鳴りはあったが、検診を受けそれが水俣病の代表的症状と知ったのは提訴直前。症状が明確だったこともあり、第1陣に入った。
「チッソと、被害拡大を防がなかった国や熊本県に心から謝ってほしい」。男性が裁判にかけた思いだ。しかし今回の救済策は「水俣病問題の最終解決」を掲げ、男性には一時金などで過ちにふたをしようとしているようにも映った。「被害者の命が軽んじられていることが悔しい」。総会後、男性は語った。
水俣市の南アユ子さん(66)は採決を棄権した。国は当初、チッソが水銀排出を止めた1968年までに救済対象を限った。2月の和解協議で子どもが母胎内にあった期間を考慮し「69年11月生まれ」まで延ばすことになり69年6月生まれの次女(40)は救済対象になった。
だが、出生年で救済から漏れる可能性のある原告はまだ12人いる。「裁判を闘ってきたのは全員救済を求めるため。子供たちの代がすべて救われないのでは支援者にも申し訳なく、賛成できなかった」
一方、別の第1陣原告の男性(75)は賛成に手を挙げた。患者会の原告2123人中、既に55人が亡くなった。「和解を拒否して判決を待てば、亡くなる会員も増える」と。
前回95年の政治決着時、男性は水俣市内にあるチッソの取引先会社に勤めていた。救済対象者を判定する検診当日、会社に「検診に行く」と言い出せなかった。悔しさが募り、不知火患者会の提訴を聞いて自ら加わった。
何度も法廷に出て、解決を訴えるビラ配りもした。今回の救済内容に、完全に納得しているわけではない。しかし「ようやく和解にこぎ着けた。判決を待てば、私も生きているか分からない。ここで決着するしかない」。苦渋の決断を語った。
◇「まだ油断できない」…関西の原告ら思い複雑
今回の和解案受け入れについて、大阪地裁に同様の訴訟を提訴している「水俣病不知火患者会」近畿支部の浦田建国(たてくに)支部長(69)=大阪府岬町=は「和解案受け入れは評価したい。しかし大阪地裁ではまだ和解勧告が出ておらず、国が相手なので油断できない」と話した。
一方、現在も行政上の患者認定を求めて熊本地裁で係争中の川上敏行・水俣病関西訴訟原告団長(85)=東大阪市=は「最高裁判決では患者と認められたが、行政は40年間も放置した。患者と認めてほしいという訴訟を起こした意味を考えると、今回の金銭での和解には割り切れない思いもある」と語った。【日野行介】
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命は、単に各個別の体に宿るものであるというだけではなく、連綿と受け継がれているもの……。そんなこと、理屈でなくわかっていたはずなんですけどね、人は。
これも同じ時期の関連記事です。
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水俣病訴訟和解も…全面解決なお遠く(産経新聞)
3月30日10時44分配信
最大の患者団体「水俣病不知火患者会」と国や熊本県などとの和解協議の基本合意が成立した。昨年成立した未認定患者救済の特措法での救済を合わせると3万5千人以上が対象になるが、患者には「今回の政治解決でもれる人がいる」という不安感は強い。
熊本地裁が示した和解所見によると、対象外の地域に住んでいた場合は、水俣湾や周辺の魚介類を多く食べたと認められなければならない。昭和44年12月以降生まれの原告は水銀値が高濃度だったことを示すデータが必要とされ、被害者が生まれた年代などで「線引き」は生まれる。「今回を逃せば救済されずにもれてしまうのではないか」。患者の一人はこう不安げに話す。
公式確認から半世紀余り。水俣病はこうした「線引き」とそれによる地域の亀裂をうんできた。偏見を恐れて患者として手をあげられなかった人たちもいる。
別の被害者団体「水俣病被害者互助会」は「全面解決にはほど遠い」として裁判での闘争を続ける方針だ。特措法は救済のための資金を確保するため、現在のチッソを患者補償会社と事業会社に分けることを認めており「チッソが逃げてしまう」という反発も強い。
国は「水俣病問題の全面解決に向けて確かな糸口が開かれた」(小沢鋭仁環境相)としており、5月1日には救済をスタートさせるとしているが、全面解決までの課題は大きい。
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補償額が膨らんで経営が危うくなったとき、今から三、四十年くらい前のことですけど、「いっそ倒産してしまって新会社になってしまおう、そうすればもう責任取らなくて済む」という声がチッソさん内部にはあったんですが、そこで地元や県、国がチッソを逃がしてはイカンと頑張って生き延びさせたんですね、投資して。英断でしたね。だって、そうでしょ。薬害エイズのミドリ十字とか、今、影も形もないように見えて実は生き延びているんですが、もう「ミドリ十字」として糾弾されることはないんですもん。
現在のチッソさんの超繁栄振りには、複雑な気分にならずにいられませんけどね。
帰還 ― 2010/04/17 22:32:08
おかえりー♪
わずかな期間でも家にいないと心配ですねえ(笑)
中学校のブログには逐一行動が報告されていますけど、「ざっくり」ですもん、我が子の様子が細かくわかるわけじゃなし。
つーか、手持ち無沙汰なんですねえ……ふだんは、うるさいなあ、めんどくさいなあ、もうっ自分でやりなさいよんんなことぉ、なんて言ってる対象がいないとねえ。
さびしかったよーん(笑)
無事に帰ってきてよかったよかったよかった×100
歓喜 ― 2010/04/21 12:13:25
念願の仏和大辞典が入ったエクスワードを……買ったぞーーー!!!
6~7年愛用してきた旧エクスワード(なんと、蓋と本体のつなぎ目がバキッと折れた!)に比べると飛躍的に収録語数が増えたっ
これでもう怖いものナシであるっ えっへん。
なんだって訳してやるさっ
難解小説も変態エッセイもどんと来いぃぃぃーーー!!!
私「見て見て、ニュー電子辞書」
娘「えっとうとう買ったん? わわわ見せてー あ、サイトーのと一緒」
私「なにっ サイトー?」
娘「あれ、違うかな。ハッシーのに似てるかな」
私「ハッシー?」
娘「みんなこれとそっくりなん、持ってるよ」
私「中学生の分際でこんな贅沢な電子辞書、学校に持って来てんの?」
娘「すごいねんで、落書きモードとかあるねん。タッチペンどこ? あ、あった。あれ、これは落書きモードないの? それに音楽も聴けるし、さなぎ、いつもクラシック聴かせてもろてるねん。音楽選ぶとこどこ? ないなあ」
私「あのー。すみません。みんなが持ってきてるのはディーエスとやらでは、ないのでしょうか」
娘「DSはゲームやし、禁止やで。でもこれは辞書やん」
私「こんな多機能な電子機器を辞書のひと言で許可してよいのだろうか(独り言モード)」
娘「むかつくーーーこの辞書、ウチの手書き文字認識しいひんーーーよし、ほかの字書いてみよ。あれーアカン(独り遊びモード)」
私が購入したのは仏和辞書機能メイン(仏関係6種類)であるが、もちろん広辞苑をはじめとする国語辞典関係は9種類(NHK日本語発音アクセント辞典などという不必要なもんまで入っている)、英和・和英・英英(5種類プラス英会話9種類。要らんっちゅうに)もふつうに搭載されている。そればかりか旅行会話集として12か国語(要らんってば)、世界の料理・メニュー辞典(参考になりそうだがここに搭載されている必要があるのか)、ブリタニカ国際大百科事典(参考になりそう以下同文)、ビジュアル大世界史(参考に以下同文)、百科事典マイぺディア(参以下同文……つーか、どれかひとつでいいんじゃないの?)、世界の名演説集(バラク・オバマも!)エトセトラエトセトラ。主なものはすべて音声つきなので、トラベル会話集はすべてネイティヴの発音が聴けるし、オバマちゃんの演説もご本人の声で聴ける。
おそらく、エクスワードの種類は非常にたくさんあったので、ビジネスマン用、大学生用、中高生用と、ユーザーの目的別に中身もビジュアルも音声も異なっているのだろう。教科別の参考書や問題集なども搭載されていたり。そういう若年のニーズに答えるために音楽を聴けたり、写真の取り込みができたりという機能が必要なのだ。
(というようなことを考えると、昨年、税の作文でさなぎがご褒美にもらった電子辞書なんかもはや前世紀モデルに近いぞ。奴はぜんぜん使っていないが、学校の友達がこんなカラフルなビジュアル機器を持っていたら、使う気は失せるだろうなあ)
私は「仏和大辞典」さえあればよい。紙の「仏和大辞典」はものすごく大きくて分厚くて机上で場所をとるし引くのが億劫だから、電子版がほしかっただけだ。ふつうの大きさの紙の辞書を引くのはいっこうに苦にならない。古今東西の文学作品(なんと400編入っている。要らんっちゅうに)とか演説とか冠婚葬祭マナーとか、そんな、必要があれば手頃な本一冊買えばすむようなもんは要らないから、もっとシンプル廉価版があればいいのになあ。
とか何とか言いつつも、新しいもんを手にするとウキウキと嬉しいものである。えへへ、えへへ、えへへ♪
誰か「京都タワー」をネタにお話、書きませんか? ― 2010/04/27 21:12:58
リリー・フランキー著
扶桑社(2005年)
私「見てみて、ほら」
娘「あ、東京タワー。どっち? オカンのほう?」
私「うん、オカンのほう」
娘「なんでそんなん、今頃読んでんの」
私「図書館の棚で、初めて見た、これ。こんな白い本やったんやーと思って」
娘「ウチ、借りて読んだで、1年のとき」
私「学校の図書室で?」
娘「ううん、サリーから。あ、でも、全部読まへんかった、たぶん」
私「なんで? 長すぎた?」
娘「うーん、あんまり覚えてへんけど……何の話なん、これ、……っていう感じで」
私「長すぎたんやな、要するに」
娘「そういうことやな」
私「なんかさ、ようあったやん昔生き別れになった親とか子どもを探して会わせてくれるっていう番組」
娘「うん」
私「ああいうのでさ、なんか再現映像とかあるやん、素人くさい役者使ったやつ」
娘「うん」
私「そういうのを字で読まされてる感じ、するわ」
娘「……ふうん……読んだ人は泣ける話やってゆうてたで」
私「最後、オカン死ぬから、そら、泣けるやろ」
娘「オカン、死ぬんか」
私「オカンの病気のとこまで、読んでへんやろ」
娘「なんか、今どこに住んでんの、これは誰のばあちゃんなん、とかオトンはどうしてんのとか、そういうことがわからへんまま歳だけとっていってる、みたいな」
私「ははは。あんたの読みかた、それ正しいわ」
娘「お母さんは、泣けへんかったん」
私「リリーさんがお母さんの前に座ってて、一緒にお酒飲んでて、俺な、実はな、小さい時はこうでああで、大人になったらこんなであんなで……ていうふうに身の上話をしてくれはったんやったら、もらい泣きしたかも知れんわ。わかるで、つらいやんなあ、とかいいながら。けどな、本っていうか小説にされると……ちょっと辛い。紙とかインク使うならもうひと工夫してほしい」
娘「文章にしたらアカンってこと?」
私「インタビュー記事ならオッケーやで。ただし100分の1に圧縮せなあかんけど、長さを」
娘「今頃読んでるし、よけいに面白ないって思うんちゃう?」
私「小説っつーもんはいつ読んでも面白くないと小説とはいわんのよ」
*
リリー・フランキーの『東京タワー……』は、いつも貸し出し予約数が500以上で、つねにランキングのトップクラスにあり、『よろしければ寄贈をお願いします』という図書館の呼びかけの上位に名を連ねていた。愛するウチダの本をはじめ、読みたい(けど買うには高い、あるいは装幀デザイン的にちょっと気に入らない)ものなど、100だろうと200だろうとどんなに予約が入っていても私はめげずに予約を入れるんだけど、そもそも小説を読まない私には、貸し出しランキング上位にあったダヴィンチ・コードや告白や作家名でいえば東野なんとかさんとか「伊」のつく人とか(すみません、ほんとに覚えてないんです、名前を伏せたいわけじゃなくて)、そして本書も、まったく興味をそそられなかったが、それでも人気があるということだけは社会現象として知っていたので、図書館書架にてん、と並んでいるのを見るとおおおっと仰天した。とうとう普通の場所にお目見えしたな、と。それでつい、手が伸びてしまったのである。
で、感想は、娘との会話で述べたとおりである。
リリーさんの自伝である。小説ではなく自伝である。そう思えばよい。多才な人らしいので、自分で書きたかったんだろうし、ただただ書きたい気持ちに任せて素直に書いた、ということだろうから、そういうもんがこの世にあってもいいと思う。
でも、本屋大賞だって。
山崎ナオコーラさんという作家さんが、どんな文学賞よりもほしい賞だと言っていたので、受賞作としてちょっぴり期待して読んだんだけど。
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母親とは? 家族とは? 普遍的なテーマを熱くリアルに語る
読みやすさ、ユーモア、強烈な感動! 同時代の我らが天才リリー・フランキーが骨身に沁みるように綴る、母と子、父と子、友情、青春の屈託。
この普遍的な、そして、いま語りづらいことが、まっすぐリアルに胸に届く、新たなる書き手の、新しい「国民的名作」。超世代文芸クォリティマガジン『en-taxi』で創刊時より連載されてきた著者初の長編小説が、遂に単行本として登場する!
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以上、扶桑社のHPより。
冒頭に「読みやすさ」とある。そうなのか、いまは何よりも読みやすいことが小説に求められるのか。そして、こういうのが読みやすいとされるのか。
(滅多に本を読まない我が娘が読みやすいと評したのは「親指さがし」でしたけれど。笑)
読みにくいですよ、この『東京タワー』。文章の巧拙云々は別にして、と言いたいがやはり巧拙に関わることなのかな。小説というにはあまりに正直な、気分にまかせた自分語りである。そうね、仕掛けがない。表現に工夫をしているというふうに見せたい、という意図は感じるけれど、そんなもん読者に感づかれたら工夫とはいわんしね。
よけいな飾りがひっかかる。そのせいで純粋にストーリーを追えなくなる。追えたところで、そこにサプライズがあるわけではないんだが。
なんというか、材料はたいへんいいのに調理のしかたを知らないからまずく仕上がっちゃった料理、とでもいえばいいのだろうか。それだけいい素材持ってるのに刻みすぎたわね、煮込みすぎたのかしら、油かしら塩かしら多すぎたのは、という感じ?
人の生は人の数だけある。それぞれが固有だし、それぞれが自身にとって特別だ。逆にいえば、特別な生なんてどこにもない。この国には1億以上の生があり、中国には13億以上の生がある。長短も濃淡も起伏も棘の数も穴の数もさまざまだから、全体で見れば、突出してすごい人生なんてそうはない。思いもしなかった身内の死は辛いし悲しい。身近に起これば同情もする。死者に対する贖罪の気持ちとか死んで初めて知る愛情とか、それは当事者だけに固有のものだが、第三者である自分にも似たようなことが起こる(起こった)から、投影して泣きたくなるということもある。生きているということは、自分と似たものや、自分に共感してくれる誰かを探す日々を過ごすということだ。
結果的に200万部も売れたというこの本にその数だけの人々が自分を映してみたくなったのだろう。そのこと自体は悪いことではない。でも「よく売れたで賞」以外の何らかの賞に値するのか?
私は娘が学校から借りてきた湊かなえの『告白』を横から読んで壁に投げつけたくなった(失礼)が、リリーさんの『東京タワー……』に比べたら、『告白』は小説としての体裁は維持している。テーマが重いわりには薄っぺらに感じるのだが(いや、いまは『告白』の話ではないのでやめておこう。といってこの本を今後も取り上げることはないけれども)。
リリーさんは、本書のほかに小説を書いているのだろうか。余計なお世話だろうけど(いやまったく)、小説を書くことが彼の本分ではないはずだし、本書も小説を書こうとして書き始めたものではなかったのではないか。オカンへの思いを書き尽くして、次に彼が何か表現するとしたらそれは「小説」でなくていい。
***
「君んとこのエッフェル塔、面白い形してるね」
「ろうそくなのよ。神と仏の街だからね」
「ろうそく? そうか?」
「和ろうそくは、少しくびれているのよ」
「なるほど」
「そうはいっても、ちょっと無理があるよな、というのは市民も知ってんのよ」
「ろうそくジャポネだと思うと、神聖な気分になるよ」
「あなたはいい人ねえ」
今月は週末ごとに神社仏閣をけっこう巡った。そして街のどこにいても、わりとタワーがよく見えることに気がついた。あっちにタワーがあるからこっちが北ねというふうに、ちゃんとランドマークの役目を果たしている。えらいね、タワー。誰か私の街のタワーをネタに、まともな小説を書いてくれないだろうか。