いまこの眼に映るこの色は、あの人の眼にはどのような色として映っているのだろう、と想像すること ― 2010/05/19 21:34:43

『色彩について』
ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン著
中村昇・瀬島貞徳訳 村田純一解説
新書館(1997年)
冬、娘の14歳の誕生日に、つねづねせがまれていたコンパクトデジカメをバンジージャンプする思いで買ってやったのだったが、そんなに高くないのにやたら高機能で未だ使いこなせない。マニュアルを読んでも、誌面にはもはや意味不明のヴォキャブラリが並ぶ。質問されてもお手上げ。とにかく撮りまくって慣れて覚えていただくしかない。そんなわけで、娘はどんなときも(登校時以外は)デジカメを肌身離さず持ち歩き、暇と余裕があれば撮っている。小さな機械なので手ぶれが甚だしく、それが最大の悩みだが。
「どんなモードにしても見えているのと同じ色には写らへん」
「人間の目玉を超える性能のもんは、この世にはないねん」
「ふうん。すごいもんを二つも持ってんねんな、ウチら」
「すごいけど、頼りすぎたらアカン。アカンけど、まず信用することが大事」
「じぶんのメヂカラを信じるねんな」
「メヂカラという表現がふさわしいかどうかはおいとくにしても、な」
我が家は染め職人の家だったので、私が幼い頃はいろいろな色の反物で家中があふれかえっていた。手描き友禅のような柄物は扱わず、父の仕事は無地の浸け染めだけであった。その色も、古代紫やえび茶、ちょっと華やかなところでも朱や茄子紺というふうにだいたい濃く強い色が多かった。たまに浅葱や鶸、蘇芳があると、家の中が明るくなった。
そうした色の染まりあがりを見て、父と母は「ちょっとくろい」「あかすぎるかいな」「あおいんとちがうかな」といった会話をしていた。染まった生地を引き取りに来た得意先のオヤジたちとも、そんな会話をしていた。この場合のくろいだのあかいだのは、「黒」「赤」「青」という色の話ではなく、くろい=暗い、あかい=明るい、あおい=くすんでいる、という意味であることを私が理解したのはずいぶん大人になってからであった。
色彩の明度や彩度、濃淡を表す言葉は、昔と今とではもちろん異なるし、土地によっても職業によってもずいぶんと違うことだろう。太古、最初に眼に見えるさまざまなものや現象があって、それらに名前が付くように、明るさの差や濃淡を表現するにも言葉が生まれていった。いまや色彩語は非常にグローバルだが、本来、地域や暮らしかたにより特有の色彩語があって当たり前である。というより、ひとりひとり異なる眼球をもって生まれているのだから、私の目の前の青い標識が、まったく同じ青い標識としてあなたの眼に映っているとは限らないのだ。
……というようなことを考え続けていると際限がない。その際限のない色彩についての呟きの断章を集めたのが本書であるといってよいであろう。私はウィトゲンシュタインについて何も知らなかったので、敬愛するかたのサイトでこの名を見たときぜひ読もうと思ったが、どうやらたいへん手強そうな内容の著作ばかり、でも色の話なら少しはわかるかなと思って本書を借りた。結果的に死の直前の執筆を集めたものとなったようだが、哲学者さんだったので、人生の最期が予感されて、ふと、思いもしなかったさまざまなことが疑問となって胸にせりあがってきたのだろうか。
著者は外国の人だから、その国の「青」と私たちの「青」はたぶんずいぶんと違う。青は西洋系言語ならたいてい「ブルー」というが、ブルーのひと言ですべて囲い切れないことは自明だし、では細分化するとしても、それはその人、その地の暮らしに適うやりかたでなされるとしたら、マリンブルーやブリューフォンセが紺碧や群青と同じになりえないことは明らかだ。
だが、人はとかく自分が見ているのと同じように他人も見ていると思いがちだ。
娘の薄紫のTシャツを見て「ねず(=ねずみ色、グレー)」といったウチの母は老齢で色の見分けが低下しているかもしれないとしても、こうした淡めの色や混色(中間色)は個人の受けとめかたによって「赤っぽく」も「青っぽく」も見える。それが普通だけれど、染色や印刷の現場だと統一見解が必要なので、人によって違うからねといって笑って済まされない。だから色見本が重要な役目を果たすんだけど。
それでも、人間の場合、先入観や学習経験に左右されるのでやっかいなのだ。
色彩について縦横無尽に思考をめぐらした跡をたどれる本書は、見かたを変えれば「結論の出そうにもないことをいつまでもグダグダいっている」ようにしか読めないが、著者の呟きはいちいち納得させられるもので、ちょっと疲れるけれど、そうだね、そうだねなんて相槌打ちながら読めたりもする。
異国のひとに街を案内しながら、私には見慣れたこの街の、家々の煤けた格子や甍の波、鳥居の朱や梵鐘の鈍色、薄汚れた灰色にしか見えないビルの壁の数々が、このひとの眼にどのような色に映っているのだろう、と想像した。その想像は、わりと愉しい。