Je suis sûre que, si c’était moi qui avais aimé cet homme-là, la fin de cette histoire avait été si différente…2011/09/14 18:58:20

『ツ、イ、ラ、ク』
姫野カオルコ著
角川書店(角川グループパブリッシング/2003年)


本書が発売されたときに、書評を何かで読み、すごく読みたくなった。これは読まなければ。非常に強くそう思ったのを覚えている。ちなみに私は姫野の作品を一つも読んだことがなかったし、評判を聞いたこともなかったし、若いのかそうでないのか、作家としてのキャリアもまるで知らなかったし、今も知らない。『ツ、イ、ラ、ク』を読みたくなったといって、いきなり姫野カオルコとは誰ぞやと調べてみることもしなかった。
本書は人気作品なのか、図書館ではいつも貸し出し中だった。何が何でもどうしても読みたい本、読まなければならない本は予約を入れるが、本書についてはそれをしなかったので、たぶん当時の私には、いくら読みたいという気持ちがあっても予約するというアクションを起こすほどの熱意をこの小説にもつことはなかったのだろう。しかし私だって小説の書架を眺めるときはあるので、書架の「作家名ハ行」の棚に姫野カオルコの名を見つけると、『ツ、イ、ラ、ク』を思い出した。しかし『ツ、イ、ラ、ク』はいつも、なかった。しょうがない、他の作品を読むかな。……と、思ったことは一度もない。姫野カオルコという作家に関心があったわけではなかったから。

そのうち、私は『ツ、イ、ラ、ク』を忘れてしまっていた。書架に姫野の名を見つけても、(例によって『ツ、イ、ラ、ク』はなかったから)『ツ、イ、ラ、ク』を思い出すこともしなくなっていた。なぜあれほど読みたいと思ったのだろう。新刊書の書評なんてものは、あらすじを語っていてもネタばれするわけにはいかないし、作品にかんしてたいした情報を提供してくれるものではないのに。

ところが、最近になってようやく、我が図書館の常連組がようやく手放す気になったのか(笑)、『ツ、イ、ラ、ク』が書架にあったのである!
実は他の作家の名前と作品を探して「作家名ハ行」の棚を見ていたのだが、なんとそこに、しれっと、本書が並んでいたのである。あ、あったあーーーついらくーーーーーーっと(小さくだけど)叫んでいた私。

ためらうことなく貸出し手続きを済ませて家に持ち帰り、ずいぶん分厚い本だから長編小説なんだけど、がーーーーっと一気に読んでしまった。これがこの人の書きかたなのかどうか知らないが、語りの主体がコロコロ変わって見えるし、ところどころノンフィクション系筆致になるし、記号など駆使して字面をややこしくするし、正直いって、読んでいて、あまり快適さを感じる文章ではない。そんな回りくどい言いかたしなくても。そこでその説明必要なのか? それは説明しているようで実はしてないぞ。……などなど、はしたないけど心中で「ちっ」と舌打ちしたくなる箇所があまりにも多い。ところが、ヒロインの隼子というキャラクターがあまりに凛と立っていて、この子をめぐるさまざまなことが、次の展開をいい意味で予測させいい意味で裏切らないので、次はどうなる、やっぱそうなる、なるほどそう来たか、思ったとおりだ、てな具合に非常にテンポよく読まされてしまう。

私はなぜ、この小説を読みたいと思ったのか、それはけっきょくわからずじまいであった。8年前、本書の新刊当時、私はまだギリギリ(笑)30代だったが、ヒロインとその同級生たちは物語の終わりで34歳になっている。同級生たちはそれぞれに中学校時代を振り返ったりする。あんなにどうでもいいことに必死だった、夢中だった、些細なことに感動し、些細なことが許せなかった。そんな中学生の頃。読者は同じように郷愁を覚え、胸キュンとなる。作家の狙いはそこか? もし私がすんなりと30代の終わりにこれを読んでいたとしても、中学校時代に思いを馳せ胸キュンなんて、絶対ありえなかったと思う。私はその頃忙しすぎて(今もだけど)目の前の雑多な事どもに追われて雑多な事どもを追いかけて(今もだけど)、転職したり失恋したり(もうしてないよ)、同級生なんて眼中になかったし(もうそんなことないよ)。
私の中学校時代には、教師と恋に落ちるやつもいなかった(いたかもしれないけど若い教師がいなかったし)。ひどい噂を立ててポルノの切り抜きを黒板に貼るような奴もいなかった。中途半端な都会の中学校は色恋沙汰も非行も喧嘩も勉強も、イマイチぱっとしない集団だった。だけど私たちには私たちの青春がたしかにそこにはあったわけで、この5月に何年ぶりかの同窓会を経験した私は、亡くなった雅彦や、ちょっとおかしくなったという噂の慶子のことを抜きにしても、『ツ、イ、ラ、ク』を読んで、ああ、そうだったよね中学時代……と懐かしい心地よさに満たされたことは白状する。

でも、この小説のツボはそこではない。登場人物たちの、実に小学校2年生から中学校卒業までのストーリーが長編のほとんどを占める小説でありながら、これは読者を郷愁に誘う物語ではない。読者が本気で人を愛した記憶があるなら、この小説によってその記憶は呼び覚まされ体の中で脈打つはずだ。幾つのときかは関係がない。『ツ、イ、ラ、ク』は女子中学生と大学出たての教師との恋が描かれているのだが、中学時代に恋に落ちた経験がなければ感動する資格がない、のではない。恋に落ちる瞬間はいつでも誰にでも訪れる。その意外なきっかけ、意外なシチュエーション、お決まりの展開、お決まりの睦みごと、それは百人百様の色彩であるいはモノクロームで記憶に残っているものだが、それを見事に甦らせてくれるのが本書だ。

あのとき、たしかに私は墜落した。そう、あれから始まったんだ。
そんなことをつい、読みながらつぶやくのである。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2011/09/16 13:40:14

愛は、人それぞれの人生には無頓着。失敗しようが成功しようが、お構いなし。というか、愛からは見えないのだ。
そして、ややこしくするのが、愛と人生の関わりを、愛は許している、ということ。
墜落も上昇も、人生の関わりに於いて、意味を成すけれども、愛に於いては、輝いているかどうかだけである。

して、私にいつツイラクしてくれるのか。

_ midi ― 2011/09/16 16:16:18

ずっと安全操縦の低空飛行ですけん、もう落ちませんですよ。

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