Soyez sage, soyez intelligent...!2011/09/17 15:05:35


娘を6時に送り出してからがーがー寝てしまった。
洗濯、掃除、半分終わり。



愛読している3サイトから適当なつまみ載せ。
勝手にはしょったり詰めたりしてごめんなさい。

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2011/09/10(Sat)
(記事タイトル)
草食系記者の女々しい報道がまた日本をダメにしている。

(前略)
「死の町のようだった」という鉢呂経済産業大臣の発言。
この言葉のどこがおかしい。
ありのままだ。
死という言葉が福島県民の神経をさかなでするという、差別用語過敏症の時代が当たり前の言葉も排除するということだろう。
それから「防護服をなすりつけた」という報道は一体どこから出たのか。
あまりにいい加減な報道である。
確かに放射能がうつるぞ、というのは冗談にならないが、そういった記者との瑣末なやり取りに聞き耳を立てていちいち重箱の隅をつつくように記事にする記者の神経は尋常ではない。
最近草食系といわれる若い者が記者にも大変増えていて、神経過敏症のようにくだらないことを針小棒大に扱う傾向にある。
まるで小学校の反省会で「あの人はこういいました」と言いつけるようなものである。

松本元復興相のケースと非常によく似ている。
宮城取材では地元では松本元復興相の評判は大変よく、はじめて真剣に立ち向かう人が中央からやって来たという話をよく聞いた。
南相馬市役所の役員もそう言っていた。
三春町の僧侶作家玄侑宗久さんも松本元復興相のことを大変評価していた。

くだらない揚げ足取りで有能な人材が消え、次にやって来る人が可もなく不可もなくというケースが良くあるが、今回の鉢呂さんが能力のある人かどうかはわからないが、こういった小学校の反省会のような報道で未知数の者がたちどころに消えるというのは末期症状以外のなにものでもない。
(Shinya talk)

2011.09.16
(記事タイトル)
情報リテラシーについて

朝日新聞の「紙面批評」に書いたものを再録する。
長すぎたので、本紙では数行削られているが、これがオリジナル。

「情報格差社会」

 情報格差が拡大している。一方に良質の情報を選択的に豊かに享受している「情報貴族」階層がおり、他方に良質な情報とジャンクな情報が区別できない「情報難民」階層がいる。その格差は急速に拡大しつつあり、悪くするとある種の「情報の無政府状態」が出現しかねないという予感がする。このような事態が出来した理由について考えたい。
(中略)
「情報平等主義」がいま崩れようとしている。理由の一つはインターネットの出現による「情報のビッグバン」であり、一つは新聞情報の相対的な劣化である。人々はもう「情報のプラットホーム」を共有していない。私はそれを危険なことだと思っている。
私が小学生の頃、親は朝日新聞と週刊朝日と文藝春秋を定期購読していた。私は(暇だったので)寝転んでそれらを熟読した。それだけの情報摂取で、世の中で起きていることについて(政治経済からファッションや芸能まで)小学生でさえ「市民として知っておくべきこと」はだいたいカバーできた。
(中略)
インターネット・ユーザーとして実感することは、「クオリティの高い情報の発信者」や「情報価値を適切に判定できる人」のところに良質な情報が排他的に集積する傾向があるということである。そのようなユーザーは情報の「ハブ」になる。そこに良質の情報を求める人々がリンクを張る。逆に、情報の良否を判断できないユーザーのところには、ジャンク情報が排他的に蓄積される傾向がある。
「情報の良否が判断できないユーザー」の特徴は、話を単純にしたがること、それゆえ最も知的負荷の少ない世界解釈法である「陰謀史観」に飛びつくことである。ネット上には、世の中のすべての不幸は「それによって受益している悪の張本人(マニピュレイター)」のしわざであるという「インサイダー情報」が溢れかえっている。「陰謀史観」は、この解釈を採用する人々に「私は他の人たちが知らない世の中の成り立ちについての“秘密”を知っている」という全能感を与えてしまう。そして、ひとたびこの全能感になじんだ人々はもう以後それ以外の解釈可能性を認めなくなる。彼らは朝から晩までディスプレイにしがみついている自分を「例外的な情報通」だと信じているので、マスメディアからの情報を世論を操作するための「嘘」だと退ける。こうやって「情報難民」が発生する。彼らの不幸は自分が「難民」だということを知らないという点にある。
情報の二極化がいま進行している。この格差はそのまま権力・財貨・文化資本の分配比率に反映するだろう。私は階層社会の出現を望まない。もう一度「情報平等社会」に航路を戻さなければならないと思っている。そして、その責務は新聞が担う他ない。
その具体策について述べる紙数が尽きた。

というのが原稿。
その続きを書き足しておく。
本稿では「情報の階層化」について書いたが、実際に起きているのは、「階層化」というよりはむしろ「原子化」である。
人々は今では個人単位で情報を収集し、「自分が知っている情報の価値、自分が知らない情報の価値」についての中立的なメタ認知能力を失いつつある。
「自分が知っている情報の価値、自分が知らない情報の価値についての中立的なメタ認知能力」のことをここでとりあえず「情報リテラシー」を名付けることにする。
情報リテラシーとは一言で言えば「情報についての情報」である。
「自分が知っていることについて、何を知っているか」というメタレベルの情報のことである。
例えば、「この情報をあるメディアは伝えているが、違うメディアは伝えていない」という情報の「分布」についての情報。
「この情報には信頼性の高いデータによる裏付けが示されているか、いないか」という情報の「信頼性」についての情報。
「この情報はこれまで何度も意匠を変えて登場してきたある種のデマゴギーと構造的に同一か、先例の見いだしがたい特異性を示しているか」という情報の「回帰性」についての情報。
などなど。
私たちは一般的傾向として、自分が知っている情報の価値を過大評価し、自分が知らない情報の価値を過小評価する。
「私が知っていること」は「誰でもが当然知らなければならないこと」であり、「私が知らないこと」は「知るに値しないこと」である。
そういうふうに考える人間がいれば(アカデミズムの世界にもけっこうたくさんいるが)、その人の情報リテラシーは低いと判断してよい。
情報リテラシーが高いというのは、自分がどういう情報に優先的な関心を向け、どういう情報から組織的に目を逸らしているのかをとりあえず意識化できる知性のことである。
(中略)
「私の眼に世界はこのように見える」という言明と、「私の世界経験には主観的なバイアスがかかっており、かつ限定的であるので、私の見ているものが『世界そのもの』であり、『世界の全容』であるということは私にはできない」という言明はレベルが違う。
「レベルが違う」ということは「問題なく共存できる」ということである。
私たちの世界経験はつねに限定的である。
フッサールの「他我」の例で繰り返し引用したが、私が一軒の家の前に立っているとき、私にはその前面しか見えない。家の側面や裏面や屋根の上や床下はさしあたり非主題的なものにとどまっている。
しかし、今、家の前面を見ている私は、この家に側面や裏面があることを「知っている」。
知っていなければ、そもそも私は自分の見ているものが「一軒の家の前面である」と言うことさえできないはずだからである。
私は家の前から横に回り込めば側面が見え、さらに進めば裏面が見えることを確信している。
そう確信できるのは、「家の側面を見ている想像上の私」「家の裏面を見ている想像上の私」たちが「家の前面を見ている現実の私」の経験の真正性を担保してくれているからである。
この「今、ここにいる、この私」の経験の真正性を担保してくれている「想像上の私」たちのことをフッサールは「他我」と呼んだ。
「今、ここ、私」という直接性は、これら無数の「他我」たちとの協働作業抜きには存立し得ない。
それゆえ、「主観性とはそのつどすでに間主観性である」と現象学は教えるのである。
情報リテラシーというのは、自分が受信している情報をつねに「疑え」ということではない。
どのような情報も(嘘もデマゴギーもプロパガンダも妄想も夢も)、紛う方なくこの世界の真正な一部であり、その限りでは、世界と人間の成り立ちについて程度の差はあれ有益な知見を含んでいる。
情報リテラシーとは、それらがどのような間主観的構造によって「私の世界経験」に関与しているかを知ろうとすることである。
私たちはある種の情報の組織的な欠如や歪曲からも「ほんとうは何が起きているのか」を推理することができる。
嘘をついている人間についても「この人は嘘をつくことによって、何を達成しようとしているのか?」を問うことができる。
情報リテラシーとは、一般に信じられているように、「精度の高い情報と、そうでない情報を見分ける力」のことではない。
それはリテラシーのほんの第一歩というにすぎない。
精度の低い情報や、虚偽の情報からでさえ、私たちは「精度の低い情報を発信せざるを得ない必然性」や「虚偽の情報を宣布することで達成しようとしている功利的目標」を確定することができる。
「主観的な情報操作や歪曲はそのつど間主観的に構造化されている」がゆえに、それらもまた「きわめて重要な情報」であることに変わりはない。
そして、私自身による情報の選好や操作もまたまたそのつど間主観的に構造化されているがゆえに、その検討を通じて、私たちは「私自身の知がどのように構造化されているか」を知ることができるのである。
情報リテラシーとはそのことである。
「情報についての情報」とは「おのれの知についての知」のことである。

というところまでは「よくある話」である。
問題はこの先。
では、この「おのれの知についての知」を私たちは単独で構成しうるか?
できない、と私は思う。
メタ認知とは、コンテンツの問題ではなく、主体の問題だからである。
メタ認知の認知主体は集合的であり、単独ではない。
(中略)
情報リテラシーとは個人の知的能力のことではない。「公共的な言論の場」を立ち上げ、そこに理非の判定能力を託すことである。
情報の階層化とは、そのことである。
私が「情報貴族」と呼んだのは、「自分たちが所有している情報についての情報」を集合的なかたちで形成できる集団のことである。
「情報難民」と呼んだのは、原子化されたせいで、自分が所有している情報を吟味する「公共的な言論の場」から切り離されてしまった人々のことである。
もちろん、「情報難民」たちもネット上に「広場」のようなものをつくって、そこに情報を集約することはできる。けれども、彼らがそこに集まるのは、「自分に同調する人間がたくさんいることを確認するため」であって、「自分の情報の不正確さや欠落について吟味を請うため」ではない。
情報リテラシー問題は実は「情報の精度」にかかわる知力のレベルの問題ではなく、「情報についての情報を生み出す『集団知』に帰属しているか、していないか」というすぐれて「政治的な問題」なのである。
政治的な問題である以上、それは政治的なしかたで解決するしかない。
具体策について書く前にまた紙数が尽きてしまった。
続きはまた今度。
(内田樹の研究室)


(記事タイトル)
巨悪は問われず??・・・判断力のないのは日本社会かマスコミ報道か?

鉢呂前経産大臣が記者会見とオフレコの場で新聞記者に不適切な発言があったとして辞任した。確かに大臣としては不適切な発言といえないわけでもないが、問題となった「死の町」という表現は地元の人が「ゴーストタウン」と言ったことを私も聞いていて、それを日本語で言っただけという感じもする。
良い言葉でなかったかも知れないが、その発言によって国民が直接的に被害を受けたというものではなく、この時期にもう少し言葉を選べばという注意を促す程度の失言だったように思う。特に大臣が「死の町」と表現することによって、できるだけ早く改善したいと思っていればむしろ被災者にとっては良いことかも知れない。
それに比べると、鉢呂さんの代わりに経産大臣になった枝野さんは官房長官時代、記者会見などで繰り返し「(被曝しても)直ちに健康に影響はない」と繰り返したし、保安院が「基準値の3355倍でも直ちに健康に影響はない」と繰り返したことにも注意をしなかった。メルトダウンの件でも誠実ではなかった。
当時の内閣の説明の方は、ずいぶん多くの被害者を出した。政府が安全だというので、そのまま飼料をやって汚染された牛肉ができたり、野菜もそのまま放置して栽培したのでこれもかなり汚染された野菜が発生した。原発に近い地域の人たちに健康被害がでる可能性が高く、少なくとも法律や国際勧告に大きく違反した。
鉢呂さんと枝野さんの人事、それに対するマスコミ報道の態度を見ると、鉢呂さんの発言の原因を作った人が新任大臣になるのだから、日本社会が普通にものごとを考えることすらできなくなったように見える。
また、これは小さいことだが「放射能をつける」という発言があったとされるオフレコの場面では、もともと大臣が言った内容すらハッキリしない。発言の場所から遠くにいた記者は聞こえなかったのではないかとも言われている。

・・・・・・・・・
小さな食品会社が実質的には害を及ぼさない程度のヘマをしてもマスコミ報道は徹底的に叩き、時にはつぶれてしまったり、一人の人生をダメにしてしまう。それに比べて、原発事故ではマスコミ報道が極端に東電に甘い。
「なにが不適切か?」という判断でも、「弱い者の発言は不適切」、「広告などでお金を貰ったら不適切でも問題にしない」というのでは、存在価値そのものがないのではないか。残念なことだが、もし日本がこれまでの文化「誠実、清貧、正直、判官贔屓」などを捨てざるを得ないとしたら、ギスギスした「契約社会」に屈服しなければならないだろう。
(平成23年9月17日)
武田邦彦

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ほんとにさ、東電の幹部とか原発担当者って、今何やってんの?
地元紙には毎日「被災地の今日」を伝える誌面が1ページ以上ある。世界の原発事情を伝える連載もしていた。京都に避難している家族や子どもたちの日常もレポートされる。しかし、東京電力さまの本日のご様子については(大きな動きがなければ)なにも伝えない。いや、別に社長が誰と会ったとか何時にコーヒー飲んだとか、そういうことを知りたいのではない。おそらく東電には何万という抗議の電話やメールが殺到していることと思う。それらへの対応は、実際に対応している人たちのご苦労は想像はするが、いったいどのように対応しているのか、「いったいどうしてくれるのよ私たちの暮らしを」「私の仕事を、農場を、家畜を返せ」「こんなにひどい結果を招いてまだ原発を稼働させたいの」(以上すべて私の想像ですけど)といったような罪のない人々の声に対して東電はどう答えているのか、その一言一句を知りたいと思ったりするのだ。
「いや、わたくしにおっしゃられましても……すみません」
「返せとおっしゃってもわたくしが盗ったわけでもありませんし……すみません」
「そうおっしゃられましてもわたくしたち社員も食べていかなければいけないので……すみません」

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想像たくましくばかりしてないで情報リテラシーを鍛えることにしよう(笑)。

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