Elle va partir, demain matin. aux Etats-Unis! ― 2012/03/08 19:13:39

疾風に勁草を知る。娘の座右の銘である。彼女はなぜこれを座右の銘にしているのかというと、中学生のときの陸上部の顧問が、彼女を評してこの言葉を使ったのがきっかけである。疾風に見舞われようとも逆風しか吹きつけなくとも、娘はこうべを上げて前を向き、自身の不調にへこたれないどころかむしろそんなときこそチームメイトを励ましまたは開いた穴を埋め、時に先導し時に縁の下の力持ちであったりした。過分な褒め言葉をもらって嬉しいと同時に、自分の人生、ずっとこうで在りたいと肝に銘じたのである。疾風に遭っても倒れず勁草で在れ。
娘が幼いとき、フランスを中心にヨーロッパ旅行へ何度も連れていったので、海外旅行は初めてではないのだが、自分の意志で行き先を選び、自分たちで行動計画を立てて、自分でトランクに荷物を詰めるという経験は初めてだ。最後のフランス滞在からもう9年経っている。長時間のフライトの退屈なことなど「覚えてへん」。
「先生は飛行機の中では寝てろっていうけど、そんなに寝られへんと思うしなあ。何してよかなあ。ipodの中身も変わりばえしいひんし、ずっと聴いてても飽きるしなあ」
「お嬢さん、そんなときこそ読書です」
「うん。文庫もっていくっていう友達多い」
「アンタもやたら本もってるやん。睡眠薬やと思ってもっていき」
「なんかさーアメリカ旅行に携帯する本、って感じがしいひんやん」
「確かにアメリカムード高まる本なんぞはウチにない」
「……」
「……あ、お母さんがこないだ誕生日にあげたやつにしー」
「あ、そうや。そうしよ」
「うんうん。2冊とももっていき」
「よし、これで着陸まではなんとかなりそうや」
2冊のうちの1冊は、過日取り上げた:
『16歳 親と子のあいだには』
平田オリザ編著
岩波ジュニア新書567(2007年)
である。つまらんと書いたが、著名人が「僕の私の“16歳”」を語っているので、当の16歳自身にとっては読みようによっては興味深いはずなのである。昔の16歳は、今みたいに必殺ワード「学力低下」「理数離れ」「国際競争」に教育現場が翻弄されたりしない中でのびのび育っていたので、高校時代に自転車で全国縦断したとか、海外ひとり旅に出たとか、肉親の誰かが死んだのを機に覚醒したとか、今だったら「そんな暇があったら英単語覚えなさい」と親が言い募りそうな、そんな行動を、自分の意志で、好きなようにとっていた。現代との乖離が現代の16歳には若干理解しづらいであろうと思うし、また、収録されている「16歳バナシ」は破天荒なケースばかりではないので、また文体もさまざまなので、たまにイラッとくるのだ。ま、それは私の感じかた。むしろ私がイラつくケースのほうが娘にはフィットするかも知れぬ。
もう1冊は、角田光代の『くまちゃん』。新潮文庫である。恋愛小説短編集なのだが、すべての短編はリンクしていて、第1編の準主役が第2編の主役になり、第2編の相手役が第3編の中心人物……とこういうぐあいにリングチェーンのように話が絡み合い、第1編の主人公、20代の恋愛下手な女の子は最終編で存在感のある脇を固める中年女として登場する、という具合。
手の込んだストーリーや、複雑な人間関係を理解しないと物語がわからないような、そういう読み物が大の苦手な娘にはよい手引きになると思ったのである。まだほんものの恋を知らない彼女だが、今恋愛経験のないことはべつにどうってこと全然ないんだよということを(すでに彼女の母親が身をもって示しているとはいえ)わかってほしい気持ちもある。
とにもかくにも、『くまちゃん』、大人の皆さんにももちろんオススメ。わざわざ立ち向かうような本じゃないけど、暇なら読んでたも。
といってる間に、明日の出発時間は刻々と迫るのだわ。
うううーーーー
めっさ心配やめっさ寂しいわめっさついていきたいわー後ろからこっそりぃーーー
あたし、もうアメリカ25年も行ってへんーーー(行きたいんかいな)
さ、頑張って荷造りしよう。
思い出とお土産のスペースはしっかり空けて。
La voici, elle est partie! Bon voyage!!! ― 2012/03/09 08:01:48
娘を見送ってきました。
旅行委員なので6時20分集合でしたの。あいにく雨がけっこう降っていましたので、傘をさしてやり校門まで送っていきました。
その後私はいったん戻って母と朝食を食べ、貸し切りバスに乗り込む頃合いを見計らって再び校門前へ。
7時40分。信号が青に変わっておもむろにバス3台が動き出し、窓の向こうから手を振る娘に私も手を振って。ついでに手を振る周囲の生徒たちにも手を振って。
行ってらっしゃい〜〜〜〜
腕時計を2個もって行った。両方ともアナログ。
ひとつは現地に着いたら現地時間に針を合わせ、もうひとつは日本時間のままにしておくために。
そしてあさって、3月11日日曜日の14時46分18秒になったら「黙祷しよっかなって、思て」。
その日、私たちのまちでは初のフルマラソン大会が行われる。
震災復興祈願の大会なのだ。
はっきりいうが、おかげで交通規制がたいへんだ。
長年ハーフマラソン大会や駅伝はしょっちゅう開催してきた京都だけど、フルマラソンは初めてだ。
しかも、基本は市民大会なので、やたら参加者が多いらしい。
私の知り合いだけで「出るよ」という人が片手以上いる(笑)。
みんなよくやるよ〜
ええことやけどー……
「お母さんの同級生も、キョーカのお父さんも出はるし、沿道の応援に行きたかったけどな。でもたぶん、アメリカで3月11日になったとき、京都マラソンのことは全然思い出さへんと思うわ、やっぱし」
そのとき、お母さんも祈るよ。
君の見上げる空が青いことも、祈ります。
Bon voyage!!!
もう一度、いくつかリンク貼ります。
http://dai.ly/ybsXau
http://youtu.be/_5NZDlJ2CBU
http://youtu.be/HpH4tNUsUSM
Un amour éternel. ― 2012/03/10 23:11:02






Vous savez, il y a pas mal de gens qui pensent beaucoup aux Japonais en cette période de commémoration. ― 2012/03/11 23:59:59
洗濯物を干しに、何度も階上へ上がって、降りて、止めていた映像をまた再生して、コーヒー入れてマグに注いで、みたいなことを繰り返す。昼過ぎまでは天気がよかった。乾き具合がもうひとつだった昨日の洗濯物を取り込み、今日の分をまた干していく。今日は8時30分に京都マラソンの号砲が鳴ったはず。私の友人諸氏も無事スタートを切ったはず。今頃どのへん走ってるんだろう、天気よくてよかったな。ゆるい陽射しに少し気分をよくしながら、久しぶりに洗ったぬいぐるみも干していく。
好きだからという理由で同じ映画を、くりかえし見る。かつてはビデオテープ、そしてDVD、今は動画配信なんつうもんが発達したおかげで、映画は衰退したと言われて久しいが、よい映画はそうした方法で生き残り、いつまでもわれわれのような映画大好き人間を楽しませてくれる。
昔むかし観た映画も、感動するシーンは昔とは微妙にずれてきて、若い時には何とも思わなかったシーンが、今観ると妙に切なくこころにしみたり。
『ニュー・シネマ・パラダイス』のラストシーンは有名だからもうここには書かないでおこう。
アルフレードの残してくれたフィルムを観るサルヴァトーレの何ともいえない感激した表情は、最初に観た時は単に亡きアルフレードとの約束や思い出が甦ってきての表情だと思ったけれど、私も青かったな、てことだな。中年になったサルヴァトーレの胸に去来するものはシチリア時代だけではなく、故郷を後にしてからの30年間でもあっただろう。いまだに初恋の人を忘れられずにいるサルヴァトーレだけど、長いローマ生活の間におびただしい数の恋愛を経たはずで、そのひとつひとつは、女の名前は思い出せないけど唇の感触は忘れていないとか、あるいはその逆というふうに、何らかの記憶を刻んでいたことだろう。
アルフレードの形見は、古傷もいいも悪いも思い出は何もかも、過ぎてしまえば走馬燈に描かれた絵に過ぎないということを、突きつけているようだ。
生きているうちは、生き抜くしかないのである。
生きて、生きて、命ある限りは、命あることを祝福する。私たちの道はそれしかないのである。
いつまで経っても、心のうしろのほうが疼く。
居合わせた以上はこの疼きから逃れて生を終えることはできない。
たくさんの人々が私たちのために祈ってくれている。
だから私たちも、世界のために祈ろう。
Je suis ennuyée... ― 2012/03/13 18:34:41
いろいろなことが起こるんだけど、退屈だ。カフェやりたいよぉウチもぉ~とつぶやいて今USAを謳歌しているあの娘がいないということがこんなにも退屈を呼ぶとは思わなかった。いや、本当は予測できたけど(笑)。ほんとに私って、ヤツがいないと三文の値打ちもない。私の人生における優先順位の第一位から最下位まで、娘が占めている。最下位のまだ下の、問題外ランキング(ごめんな)に扶養している母と猫と、肉親である弟一家や親族一同、そして、お世話になってる地域の面々が並ぶといったぐあいだ。もちろん、問題外ランキングの順位は事情によって上下するし、ときには最下位まで占める娘mattersの一角に割り込むこともある。それは臨機応変に捌くこのワタクシ。(あ、忘れていたが問題外ランキングのさらに下のほうには仕事も並ぶ)
しかし、先週の金曜日早朝、ヤツが旅立っていってから、優先順位第一位から最下位までのヌシが不在なのである。不在をいいことに金曜の晩は友人たちと飲み、土曜は美術鑑賞と久々のイタリアンディナー、震災から一年のあの日曜日には好きな映画を一日中観ていた。昨日の月曜日には水族館の内覧会に招かれイルカパフォーマンスに拍手もした。さらに明日は抜歯の予定である。いや、それは娘の不在とは関係ないが。
そんなにあれやこれやとあるのに、退屈極まりない。
アメリカでどうしてるんだろうと心配だが、とりあえずざっくりした行動報告は学校のブログがしてくれているので、それを見る限りほとんど変わったことはなく予定どおり旅程は進んでいると見える。個別に問題起きたら、またそれが命にかかわるなら、個別に連絡が来るだろうし。なーんもない。何もないことを喜ばねばならないのだが、退屈だ。親とはまこと勝手なもんである。親とはまこと子どもなしでは存在意義のないもんである。
そんなわけで、今、少し仕事もゆるいので、早く帰宅し、早く寝て、ギリギリまで寝ている。お弁当作らなくてもよいし。いや、べつに、自分だけにつくってもいいんだけど、近所によいお店がぽこぽこできているので、「偵察しといてよ」との命が下っているのだ。誰から? いわずと知れた「カフェをやりたがっている」娘である。なもので、おひるごはんはカフェ飯三昧しているこの頃。
だいたい、研修旅行委員をやればトラベルプランナーになりたいといい、和菓子屋へ体験学習へ行けば菓子職人になりたいといい、猫の具合が悪くなって獣医へ行けば動物看護師になりたいといい、接骨院で足を診てもらえば理学療法士になりたいという。こじゃれたカフェを訪れては、カフェを開きたいという。しかも、それは「お母さんやってよ」と私頼みである。自分でやりゃいいでしょうが。だってお母さんのほうがコーヒー好きやしよう知ってるやん。う。そのセリフ、けっこうツボを突いている(笑)。たしかに私の夢は、いつかクラシックなムーラン(コーヒーミルのこと)を買って、なじみの珈琲豆屋で好みの強さで煎ってもらった豆を挽き、ホーローのポットで沸かしたお湯をゆっくり注いで、私だけの一杯を淹れることなのだ。願わくばデロンギあたりの高級エスプレッソマシンも購入し、ときにはエスプレッソを淹れてフランスに思いを馳せたい。
婆さんになったら、カフェ、しよか。その頃には娘はすっかり自分の発言を忘れてどっかで羽を伸ばしているだろうから、一緒にカフェやってくれる人を募集しよう(笑)。
明日から、京都水族館がオープンします。
水と海の恐ろしさを思い知らされた私たちだけれど、海に棲むさまざまな生き物たちに罪はないから。なんだかんだ言っても、人間は水と共存するより道はないから。だから水を大切にしたい。(だから原発反対!)
退屈だけど、宣伝しておこう。
Bienvenue! A l'aquarium de Kyoto!
Salon du livre ― 2012/03/15 22:06:50
パリは中世、ぐるりと城壁に囲まれていたので、その名残で地名に「門」(ポルト)のつくところが多い。中心部からはかなり離れていて、門の外はいわゆる「郊外」(バンリユー)だ。中心部でないということは家があまり建て込んでいなかったりしたので、とっとと再開発の対象になり、大きな見本市会場とかスタジアムとか、会議場とか、巨大集合住宅なんぞが建てられたわけである。
日本でいうとたぶんインターナショナルブックフェア、みたいなタイトルがつく出版物見本市は、フランス全国各地で年に何回も開かれている。が、有名なものはやはりパリの、ポルト・ドゥ・なんとか、というまちで開かれるやつが多いような気がする。気がする、というのは、実はこういうことについてきちんと調べたこともなければ、足を運んだこともないからだ。
まだ娘が小さい頃だが、あれやこれやで精神的に追いつめられていた私は、ちきしょー外に出てやる、とフランス旅行を企てた。当時零細フランス系出版社にいたので、休暇は難なく取らせてくれたが、その理由が「アンタたちの顔見たくないからしばし脱出すんのよ」とは言いにくく(笑)、咄嗟に、時期を同じくして開催されると知っていたポルト・ドゥ・モントルイユ(だったっけ?)のサロン・ドゥ・リーヴルに行くのよと、さも仕事にもかかわるでしょ、みたいな口ぶりで言ったことを覚えている。言ってしまってから、そうだいい考えだ、せっかくだから本の展示会を見てこよう。可愛い絵本があるかもしれないし。そして娘を連れて渡仏したのだが、到着2日目か3日目にしてパリの地下鉄でスリに遭い、所持金すべてとクレジットカードを盗られてしまったのである。
そんなわけで、サロン・ドゥ・リーヴルと聞くと、忌まわしいスリ少年の白い顔に記憶が直結し、痛い経験が思い出されて苦々しいのである。
それはともかくサロン・ドゥ・リーヴルといえば、フランスでは必ずと言っていいほど「日本」のコーナーが設けられている。日本の「MANGA」はもはや国際語だが、漫画ばかりがもてはやされているわけではないのだ。現に私の友達の愛読書は桐野夏生と東野圭吾だ(仏訳されているのよ)。私だって読んでいないのに(原書をね。笑)。
Ils sont rentrés! Elle avait l'air un peu fatiguée mais très joyeuse! ― 2012/03/18 12:05:38
http://cms.edu.city.kyoto.jp/weblog/index.php?id=300605&type=1&column_id=221166&category_id=7620
どの子も皆、多少疲れが見えましたが、一様に満ち足りた顔をしていました。と、教員ライクなコメントをしてみた(笑)。
わが娘はフロリダで買ったキャスケットを被って、なんかまた背が伸びたような。気のせいだろうけど。
「お寿司屋さんの看板に鳥居が描いてあったよ」
「相変わらず、わかってへん国やな」
「でも、どれもおいしそうやった」
「インタビューはうまくいった?」
「うん、みんないい人でちゃんと答えてくれはった」
「そういうとこは、ええ国や」
「うん」
とりあえずスーツケース全部広げて、全部かき出して、お土産と洗濯物を分けて(笑)、旅の余韻に浸る間もなく、今日は朝からレッスンに行きました。
A voir! ― 2012/03/21 12:14:00
http://dai.ly/ybsXau
(前にリンク貼った記事内のURLも訂正しました)
ついでにこれもぜひご覧あれ。
http://dai.ly/xg2lcr
*
考えることはいろいろある。
大切なものを喪失した人々の悲しみや辛さ。それは、「悲しみや辛さ」とか「苦しみ」「心に開いた穴」のような、使い古された言葉で表現することいっさい拒む。災害は未曾有の出来事だった。前例がないのだ。したがって、貧困の一途を辿っていた国語の語彙で、彼らの心情を誰であろうと表現できるわけはない。
傍観者は、そのようなやりきれなさすら共有できない。祈るしかないのだろうと思うし、突然生を断たれた人々の冥福と残された人々の心の安寧を念じるしかないのだろうと思うのだけれど、そんなもの祈っても念じても思っても、何も生み出さないという厳然たる事実。
*
一部の教育機関で、学年度(新学期)を秋始まりにしようという動きがある。私も、自分が高校生、大学生のときから、日本の3月が年度末、4月が年度始め、というこよみに不合理を感じてきた。学年の真ん中に長い休暇(夏季)を置きながら大量の宿題を出しあるいはさまざまな活動をさせて実質休暇とはいえない状況であるとか、最も寒くなる時期に人生をも左右しかねない重要な入学試験を行うとか。
しかし、「3月11日」を経験してからはむしろ、現状維持がいいのではないかと考えるようになった。あの日、地域によっては卒業式や修了式の当日、あるいは前日、あるいは数日前や数日後だった。私たちはこの先ずっと、3月のこの日が近づくたびに身をただし、我が行いを振り返り、亡き人に黙祷し、被災者の未来を祈る。それが、従来の生活の節目とほぼ重なることで、思いは深まり、気持ちが高揚する。
あれほどの惨事を忘れるわけはないと思っていても、人の記憶力なんて残酷なほど脆いのである。梅が咲き、桃の蕾がふくらみ、桜の花芽が大きくなる頃、日本各地で卒業を祝い送る歌声が響く。そのつど、私たちは、いくつもの生活、風土、風景が無残に喪われたことを思い出さないわけにはいかないのだ。
J'ai mal aux yeux... sacré des pollens !!!!! ― 2012/03/30 19:42:44
私の周囲の花粉症持ちはみな目が痒いと言っている。もちろんマスクをして言う。鼻水・くしゃみの症状もあるわけだ。が、目の痒みは年々ひどくなる一方だという。思うに、花粉症の症状は、発症後数年間は主に鼻腔に症状が出るが、だんだんと眼に移行していくのであろうか。まるで足並みを揃えるように、周囲では眼の症状を訴える人が増えてきた。
「鼻と眼は顔の奥でつながってますから、点鼻薬は眼の症状にも効果がありますよ。もちろん、眼のほうからの点眼薬も必要だけどね」と私の耳鼻咽喉科医は言う。
噴霧された点鼻薬が眼球を覆う上下まぶたにまで届くというのなら(いや、医師はそうは言ってないんだけど)、花粉に反応する受容体も鼻腔から徐々に移動するんだろうか。いやあ、まさか、そりゃ違うだろうな。まぶたはまぶたで、受容体が発生してると考えるほうが自然だな。
私の場合、眼が何かに反応してアレルギー症状を起こすのは、花粉症という言葉がこんなに流通する以前にもあった。それは、ただ私の眼が人より虚弱で敏感な上にコンタクトを装着しているからだと思っていた。この眼の症状にかんする最後の記憶は、忘れもしない、ある秋のことだった。赤子の娘を預けている保育園で保育士と交わした会話。さなぎちゃんのお母さん、眼鏡ってかけておられましたっけ? いえ、いつもはコンタクトなんですが、目が痛痒くて、腫れと目やにがすごくてコンタクトレンズはしばらく止めなさいって医者に言われたんです、時々あるんですよね、こういうことが。そうですか、お大事に、それにしても眼鏡、お似合いですよとっても。
そう、季節を問わずその症状はいきなり訪れ、どうしようもない目の痒みとともに、とてつもなく大量の目やにだとか、止まらない涙だとか、そんなものに悩まされる日々が続き、コンタクトレンズを使えないので学生時代に使っていた古い眼鏡を引っ張り出して昭和な顔になったりしたものだ。当時、花粉症じたいはすでにあったと思われるが、まだポピュラーではなかった。
いわゆる「鼻水・くしゃみの花粉症」は、娘が3、4歳の頃だろうか、遊びに行った動物園で、突然始まった。猿を見てたか象を見てたか忘れたが、止まらないくしゃみと鼻水に、いきなり、襲われた。ゴールデンウイークのさなかだった。晴れていた。暑かった。風邪などひく理由がない。
仕事の関係者にその話をした。
「ちょーこさん、それは花粉症です」
「え? だって、スギやヒノキはもう終わったでしょ? 花粉って3月から4月までじゃないんですか」
彼はふっふっふと薄笑いを浮かべ、まるで最後通牒のようにこう告げたのだ。
「イネ科は今飛んでますよ」
その年から毎年、人より少し遅れてGW前後を皮切りに、私の花粉デイズが始まることとなった。春のその症状が出始めてから、例の原因不明の眼の突発性アレルギー症状がぴたりと出なくなった。あれはいったいなんだったのだろう。起こった理由もなくなった理由も追求せずじまいである。
GWを発症時期の目安にしていたが、それをヒノキのピークである4月初めに修正するのにそう年数はかからなかった。そして、かつてとは異なる痒みや異物感を目に発症するのも、まもなくのことだった。4月・5月・6月と続く花粉デイズは、やがてスギ・ヒノキ・イネの3本立てで3月・4月・5月・6月にまたがることとなる。これってさ、1年の約3分の1だぞ。大きくないかい。
薬を飲み始めるとどうしても体がだるくなり疲労感が増すので、飲み始める時期を後ろへずらそうとつい思う。医師はそれがよくないという。早めに飲み始めるのが結局は楽に過ごすための道なんですよ。ちきしょーめ製薬会社と国の陰謀には加担しないぞ。いや、だからというわけではなく、単に時間がなかったので今年も3月下旬になってようやくかかりつけの耳鼻科へ行った。飛散量の多寡や天候は、あまり関係がないと私は思っている。わずかでも飛んでれば反応する。雨の日は、その日の花粉は水滴が落としてくれるかもしれないが、家も職場も取引先も、昨日おとといの花粉が室内に残ったままである。取り込んだ洗濯物や、同僚のコートが花粉を室内に持ち込む。昨日や今日のようによく晴れて気温も高いと当然よく開花して大量の花粉が飛散するが、明日あさってが雨だからって、インドアライフの私のまわりは花粉だらけに違いはないのである。
そして多数派のスギさんヒノキさんが終わったら、世の中は花粉シーズンも終わったよかったよかったと一気に夏のイベント宣伝へと舵を切る。ったくバカヤローだよ。私の戦いはまだまだ続くというのに。
そんなわけで、例年お岩状態と表現する私の顔だが、今年はどちらかというと、殴り合いの喧嘩をして負けたやんちゃ坊主みたいである。目の周りに丸く痣をつくった顔、あれである。
つい手で目をこすったりしないように自制するつもりで、アイメイクをしっかり施すように心がけているのだが、過剰な瞬きのせいか、夕方になるとメイクが滲んでパンダ目である。
思うに、眼の症状を訴える人が増えているから、「夕方パンダ族」はこっそり増えているはずだ。仕事の後のお出かけには入念なメイク直しが必要なことであろう。
私はといえば花粉症の薬を服用中は禁酒してるんだけど、毎夕ひどい顔になるし化粧直しのパワーもないので、どのみち飲み会なんぞへは足が向かない。まったくゼロってわけにもいかないにしても、約4か月近く外出も晩酌もしない私。これが10年以上続いていることが恐ろしい。何ゆえ私は耐えているのか。ああ、黒ビール飲みたい。