C'est quelque chose pour la vie... ― 2013/01/10 18:38:51
『辰巳芳子 スープの手ほどき 和の部』
辰巳芳子著
文藝春秋(2011年1月)
料理の本である。でも、基本タテ組み、料理の手順を示す写真の横に時折ヨコ組みで説明が入る。書体は基本、明朝体。細明朝、太明朝、見出し明朝とヴァリエーションをフル活用しているが、ゴシック系のサンセリフ書体は皆無。アルファベットのあしらいも一切ない。アラビア数字は随所に使用されているけれど……材料の分量を表記する際くらいである。なんとも潔い、日本語の本。
料理本の多くはヨコ組み、左開きの体裁だ。人数分や、材料の分量、また1、2、3……と作りかたを箇条書きにする場合、ヨコ組みのほうが誌面が落ち着く。昨今の、レシピサイトや料理ブログ大流行りとあいまって、まるでウエブサイトをそのままもってきたような、ページを繰ると著者のブログをスクロールしているような、そんなつくりの料理本もはびこる。
そして多くの場合、料理本は写真にモノをいわせる。器、クロスなどとともに美しくあるいはセンスよくスタイリングされた料理写真満載の本は、レシピの記載が多少不親切だったり、料理じたいに新味なくありきたりであったりしても、よく売れる。
でも辰巳さんの本は、記憶する限り、すべてタテ組みだ。
タテ組みであっても、レシピが読みづらいとか、手順がわかりにくいといったことはまったくない。それは、辰巳さんの文章が必要十分であるからだ。余計なことを言わないけれど、辰巳さんの想像を超えて現代人は料理を、食を知らないので、そうした初心者の心をわしづかみにする「ツボ」を押さえるひと言がさりげなく添えられている。
「レシピ」なんて外来語は使わない。レシピってどこからきていつの間に料理の作りかたを指すようになったのか。語源の英単語はrecipe。調理法のほか、医療用語の処方箋の意味もある。日本では「処方箋」を指す外来語はドイツ語のRezeptを「レセプト」と読んで採用しているけれど。ちなみに仏語では調理法はrecette。recipeはラテン語由来のようだけど仏語にはない。いちばん綴りの近い語「recipient」は「容器」のことだ。
話が逸れたが、つまり今さら和訳不可能な用語をカタカナ表記する以外には(たとえば「スープ」ね)、氾濫し蔓延るけったいなカタカナ語は用いないのである。したがって、調理上注意を促す必要のあるプロセスについても、「ここがポイント!」なんて表現はしないのである。
なんと「かんどころ」である。ブラヴォ!
いつか辰巳さんのエッセイ本について書いたことがあるけど、とにかく現代人の食生活に危機感を覚え、日本人の食文化の衰退を憤っておられる。時の流れは残酷なほど人間に変化を強いる。人間は変化に抗ったり応じたり、一緒に変わってみたり頑固に変わらなかったりして、生き延びている。そのことを辰巳さんは否定しない。ただ、間違ってはいけないというのだ。
《文化のなかには手放してよいものと、
頼らなければならないものがある。
伝えなくてもよいものと、
伝えなければならないものがある。》(32ページ)
「わきまえ事」である。
人が人であるために、なによりもわきまえておかねばならないことがある。
ずっと昔、当時の男(仏産)に「人間は自然に生かされている」と言おうとしたことがある。それを、このままの日本語ニュアンスでどうしても言えなくて、文法的には「自然のおかげで生きることができている」というような言いかたになったと思う。するとその仏産の男は言下に否定した。「それは違うな。人間は自然を制御しなきゃな」。もう記憶が曖昧だが、その時彼はcontrolerという動詞を「支配する」「制圧する」という意味でなく、「管理監督する」「操る」「うまく利用する」という意味で用いたんだなと、その時の私はとっさに解釈したんだが、のちに、そいつとの月日に幕を引くと同時に、さまざまな発言や文献を見聞きして、やはりあの時彼は「人間が自然を支配する」と言ったのかもしれないと思った。私たちは、土にも石にも水にも樹木にも稲穂にも神が宿ると思っているが、奴らの神はイエス・キリストただ一人。地面とか海とか山とかは、人間が住みつき切り拓き、知恵を絞って有効に使い、支配下に置くものだと考えているのである。
フレンチもイタリアンもおいしいけど、その料理の根本にある姿勢に、「いのちをいただく」といった精神は全然ないように思う。「食べてやる」という気持ちのほうが強いと感じる。
そのことが悪いというつもりはない。人の心身は風土でつくられる。日本人には日本の風土において形成された心身が、西洋人には西洋のそれがある。それでよいと思う。
辰巳さんのスープづくりにおける信念は、「いのちをはぐくむ」ことだ。動植物の命をいただき、人の生命に活力を吹き込むための、かけがえのないひと口のためのスープ。愛する人の命を育み、はばたかせ、永らえて、やがて迎える終焉にも穏やかに寄り添うことのできる、スープ。
和食における料理のイロハ(だしの引きかたなど)をきちんと押さえてあるので、レシピ本としてとても応用の利く一冊。加えて、自身の、家族の、地域の、社会の食生活・食文化を見つめ直すにもよい本である。
本書は東日本大震災の起こる前に出版された。
もはや、日本の「食」は取り返しのつかないところまで退廃しているといっても過言ではないが、私たちが「健康に」「生き延びて」「時代へ伝える」ために、知っておかなくてはならないことの、いくつかが書かれている。
子どもたちのために、そして私たちの親世代のために、読みたい本である。
On se perd, sans le future! ― 2012/12/28 12:49:12
《暗い時代が始まる。脱原発派と護憲派、ジェンダー平等派にとって。教育現場にとってもだ。インフレ、借金、東アジアの緊張、貧困と格差、弱者切り捨て…亡国政権の始まりだ。
3・11以後、初の国政選挙で自民党が政権復帰。諸外国には、日本国民が原発継続を選んだ、と見えるだろう。東京電力福島原発事故に関しては、前政権の危機対応のつたなさがあげつらわれるが、もとはといえば、フクシマの事故を招く原因を長期にわたってつくったのは、元の自民党政権である。責任者をだれひとり追及せず、処罰せず、原因究明すらできていない状況で、いわば事故の「戦犯」ともいうべきひとびとを、有権者はふたたび政権の座に就けてしまった。》
昨日の地元紙の夕刊に掲載された、コラム「現代のことば」の冒頭である。この日の書き手は、ご存じ上野千鶴子。
上野はいつも正しい。いつだって正論だ。彼女の言い分が、つけ入る隙のないほど完璧に正しさの鎧をまとい、どんな尖った矢も鋭利な槍も硬い鉄砲玉も跳ね返すほど強靱であるとわかっていても、それに反論せずにいられぬ気持ちになる。というか、ちゃんと話し合うための語彙を当方持ち合わせないので、「反論せずにいられない」ったってまともに議論などとてもできやしないのである。したがってこの場合、「闇雲に逆らいたくなる」「難癖つけたくなる」「つつけるもんはないかと重箱の隅々を箸や楊枝でほじくる」(笑)とでもいったほうがよかろうか。
大学院に籍を置いていた時、社会学部の教授陣にフェミニストがちらほらいて、彼女たちの音頭取りによるジェンダー論関係の研究会や講演会がよく開催されていた。そのいくつかに出席を試みたことがある。しかし、どうにも居心地が悪かった。
必ず「非」フェミニスト系の研究者、学者(たいてい男性、そして一人だけ)が招かれて、その人による講演または報告があり、続いてフェミニストチームから同様に報告や発表が行われる。たいていは複数である。その後ディスカッションとなる。しかしディスカッションというよりも、まるで集団言論リンチ……といったら言い過ぎだろうけど、フェミニストチーム研究者がよってたかって、その招待し報告させた学者の発表内容にとどまらず(「本日のご報告内容はとうてい受け容れ難い内容でしたがこれについて問題点を列挙したいと思います」)、言葉の選びかた(「そもそもそういう言葉づかいに男尊女卑思想が表れているという自覚がないから困りますわ」)、果ては立居振舞までやり玉に挙げて(「その手の使いかた、女性をバカにしてません?」「わたくしこれ以上耐えられません」「同じ空気を吸いたくないわ」「退席します」)、一点集中の攻撃をしかけるといったぐあいだった。
私と同じように、居心地悪く感じた学生は少なくなかったと思う。男らしく・女らしくといって育てられた私たち。そのように育てられた親に育てられた世代。不平等を刷り込まれたとかそんな話ではなく、男として女として、纏う衣も違えば日々の慣わしも書く文字も異なるという文化が連綿と続く国に生まれたのである。そりゃ、誰だって、男尊女卑思想はまっぴら御免だ。しかし、オス・メスの生物学的身体能力は歴然としており、もって生まれた生殖能力の違いからくる役割分担も明快である。男女平等は当たり前だが、男女は同じ種類の生物ではない。
私は「女も学問する時代やねん」という祖母と、「ちゃんと花嫁修業しとかないかん」という母とともに暮らしてきたせいか、ずるがしこく育った。口では女性の権利や能力活用を言いながら、実際には、力仕事はもちろん重い役割やのちに責任を問われるような立場はひたすら男性に譲って生きてきた。しんどくて骨の折れそうな仕事は「わたくしでは力不足でございます」などといって逃げ、何かのプロジェクトリーダーなんぞに任命されようなものなら、そのプロジェクトの問題をあれはどうするこれはどうすると積み上げて、提案した上司に「わかったよ、なんか起きたら俺が責任をとるから」と言わせ、いかなる場合も無傷で逃げられるめどが立つまで粘った。私のこうした行動様式は一貫していて、子を産みひとりで育てている今でも変わらない。
シングルマザーをやっているのは私が選択した結果であって、なぜ選択したかというとこっちのほうが快適だと確信したからに他ならない。快適だと確信したのは、べつに殿方が嫌いだからでも(むしろ好きやん)、疎ましいからでもない。
子育てを誰にも邪魔されたくなかっただけである。私にとって子育ては、つねづね言うように、芸術作品制作に似ている。芸術は孤独な戦いだ、しかも通底する信念に基づいた。そのような創作活動と同じものを子育てに求めると、「共同制作者」だとか「コラボレーション」なんぞ不要になるのは自明である。
(ついでにいうと結婚しなかったのは姓を変えるのが嫌だったとかじゃなくて、単に縁がなかったのである。あ、聞いてないって?)
単に、プライベートにおいてそういう事情であるだけで、私はつねに殿方に助けられてきたし、殿方をおだてて木に登らせるのが得意であるし、また私と同世代の殿方は気前よく木に登ってくださるので(笑)、私はいつもズルく楽して生きてこれたのである。
中途半端なフェミニズムの風にあおられてそっちを向いてしまった若者たちは、たいへんな生きにくさを感じているであろう。この国は、まだまだ女性を虐げている。閣僚に女性を二人入れただけで「どうだ」といわんばかりに大騒ぎしている極右アベシンゾー内閣を恥ずかしいと思うのは上野千鶴子だけではない。私も恥ずかしいよ。
《今度の選挙にあたって複数の女性団体と個人(12月10日現在で賛同人24団体280人)が連携して、「ジェンダー平等政策」全政党アンケートを実施した。12政党注10政党から回答を得た結果は「市民と政治をつなぐ」P-WANサイト上にアップしてある(http://p-wan.jp/site/)。》
《各政党の回答を分析してみると脱原発を支持する政党ほど男女平等にも積極的であり、また「9条」を守る政党ほど男女平等度が高かった。おもしろいのは規制緩和と自由競争を支持する政党は、「女性の活用」には積極的なのに、「女性の権利」を守ることには積極的でない、という共通点が見られたことだ。》
「女性の活用」はしても「女性の権利」は尊重しない、それはまさに今の日本社会そのものであり、参戦と核開発にまっしぐらの新政権が是とするところに違いない。
上野が言うように、不戦と非核は男女平等の大前提だ。貧富格差のない公平な社会実現の大前提でもあるだろう。しかし、極右ジミントーは不戦や非核など「それ何ですか」とすっとぼけてうやむやにし曖昧にしたまま闇に葬り去るであろう。平等とか公平とか奴らにはどうでもよいのである。
というか、階級社会を再構築しようとしているのかもしれないわっ。くわばらくわばらっ
《「自助」の重視という名目で社会保障を抑制し、弱者切り捨て路線を採用する新政権に、女性や若者、高齢者らの社会的弱者は、自ら合意を与えたのだろうか?》
すでに論じられているように、今回の、大差のついた選挙結果は、小選挙区制という選挙制度のなせる業であって、国民の意思を正確に反映したものではない。数えれば、極右ジミントーに投じられた票数を、それ以外への投票数が上回るのであるから。しかし、いずれにせよ、そうした小選挙区制の怖さを知ることなく、投票所に足を運ばなかった人々が結果的には極右ジミントー支持に回ったのと同じことであるからして、「日本国民は、軍隊をもち積極的に戦争に加わり原子力を推進し核兵器開発に突き進むことを党是とする政党を政権に選んだ」と世界に見られても仕方ないのだ。
上野はいつも正しい。その正しさの完璧さに辟易する。正しさというのは主観が左右するから、どんな時もどこかで中庸をとり、妥協点を見出さなければ、いくら潔癖な正しさであろうと裏づけのない脆いガラスに終わってしまう。だが上野の議論はいつだって脆く砕けようとも雪の女王がカイの瞳に投げ入れた悪魔の鏡の破片のように、ともすれば人心を虜にするほどの力をもつ。正しさゆえである。その正しさゆえに、彼女の書くものを読むたび「とてもついていけんわ」感を覚えてきた。
けれども、この私が、だんだん彼女の論にそうした居心地の悪さや違和感を覚えなくなってきたのは、上野が丸くなったのか、私が上野のように尖りつつあるからなのか。後者のような気もする、だって前者はちょっと考えられないでしょ。あら、でもあたし、殿方みなさんと仲良くしたくってよ、怖がらないでこっちへいらして、ムッシュ。
《 》内は、京都新聞2012年(平成24年)12月27日木曜日付夕刊「現代のことば」上野千鶴子「女性にきびしい政権の誕生?」から部分引用。
Et le voilà, Père Nöel! ― 2012/12/07 01:52:59
リヨンって、もう20年前になるかな、最後に行ったのは。季節がいつだったか、覚えていない。
モンペリエに留学してたとき、間借りしていた家庭のヨメさんのほうの実家がリヨンだった。ヨメさんはユダヤ系で、音楽に才のある一家だった。妹はヴィオロンセルの奏者だった。大きなヴィオロンセルを抱えての演奏旅行の合間に、姉一家をよく訪ねた。……とここまで書いて、ヴィオロンセルは日本語ではチェロというのだ、ということをいきなり思い出した。訂正するのももう面倒なのでこのままにしておこう。
私の家主はピアノの調律師だが、ピアノを調律する仕事がそんなにわるわけはなく、どこかのオーケストラや劇場に常勤でなければ生活は成り立たない。だからパートタイムでピアノの講師をしていた。カルチャーセンターみたいなところにも登録していたし、友人のつて、幼稚園のつてなどで個人レッスンもいくつか抱えていた。本当に朝から晩まで働き詰めだった。私が朝起きてのんびりと大学ヘ行く用意を始める頃、彼女はばたばたと台所でバゲットにジャムを塗りつけそれをかじりながら出て行った。昼頃帰ってきて昼食をかきこんで、また、鞄の中身を換えて飛び出していった。彼女が時間に遅れることはない。彼女の夫が朝と昼の食事は絶妙のタイミングで用意するのだ。
ひとり息子のジェレミーは当時3歳だったが、よく私に「ママがお外、パパはおうち」と言った。別にそんな話題をこちらから出したわけではない。彼は、フランス語の下手な間借り人女など相手にせず、よくひとりでしゃべっていた。幼稚園の教員たちに聞かれるのあろうか。フランスも日本に負けず劣らず「女は家」観の根強い国だが、送迎はいつもパパだったこの家庭は珍しかったのだろう。
リヨンにいるヨメの両親はその点がとても気に入らなかったらしい。ユダヤ人だから、ドイツ人への憎悪をまったくゼロにすることはできなかったにしても、見たところ、リヨンの老夫婦は、娘の連れ合いがドイツ人であることに反発やこだわりはなかった。しかし、彼が外で働かずに子どもの世話と家事に明け暮れていることはかなり許せなかったようである。娘にばかり働かせてまったくあの男は!
あるとき、ささいなことからカップルが喧嘩をし、彼が彼女にこう言った。
たとえ何年かに一度でも、樅の木を買ってきてクリスマスツリーをデコレーションしようという気は起こらないのかい? 馬車馬みたいにそんなに働いて、だったら、わずかずつでも蓄えて、今年は樅の木、今年は御馳走、今年はジェレミーにプレゼント、というふうにさ、イベントはかわりばんこでもいいから、何か楽しいことにお金を使おうという発想はないの?
ヨーロッパでは、日本人が盆と正月を大事にするのよりもずっとずっと、クリスマスを大事にする。
樅の木は、本物が山のように出回る。
でも、ヨメさんはあまりそういうものに心が動かないようだった。彼女がユダヤ系だから、あるいは働きっぱなしでそれどころじゃなかったから、それとも、何だったのだろう? ヨメさんのほうと話していると、私は日本人のメンタリティと近いなと感じたことが少なからずあった。リヨンの彼女の両親にも同じ印象を持った。だからやっぱし、民族性なのかもしれない。余裕があればクリスマスを豪華にあるいは厳かに祝うのもいいけれど、忙しいのよお金がないのよまた来年あるじゃないのどうでもいいわよ生活することのほうが重要でしょ。
彼らの喧嘩はいよいよ派手になって、その後ドイツ語へと変貌したので、いくら聞き耳立ててもどこへ着地したかはわからずじまいだったんだけど。
フランスでは年末年始は宗教行事ではないので、大都市で花火を上げる程度のほかは、あまり祝うことはしない。大晦日は騒ぐけど、翌日から日常に戻る。
だから12月に入って町や家のあちこちを飾るクリスマスデコレーションは年が暮れても明けてもずっとある。
そして次の宗教行事(復活祭?)まで、デコレーションを片づけずにおいておく。
S'il n'a pas dit "Non"... ― 2012/11/16 18:18:22
『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸』
ベン・シャーン絵、アーサー・ビナード著
集英社(2006年)
アーサー・ビナードのトークを聴く機会があった。声を聴くのも、ご本人の姿を拝するのも、この時が初めてだった。流暢な日本語に、間合いの取りかたも絶妙で、ひとつひとつのトピックにちゃんとオチをつけるところなど、下手な芸人なんかよりずっと冴えている。その数日前に、「舌鋒鋭い人生幸朗」ばりの(といったら失礼かな。といったらどっちに失礼かな。笑)書家・石川九楊の講演を聴いたところだったが、いやいやどうして、扱いネタは違うし話術ももちろん違うけど、笑いの取りかたも本質の突きかたも説得力もいい勝負。
これほど完璧に日本語を操るビジネスマンが、「五部」を「ゴブ」といわずに「イツツブ」というなんて。
と、いうようなエピソードは、アーサー・ビナードと何の関係もないのだが、日本語のチョー上手なガイジンが話すのを聴くとき、例のハンサムヴォイス君みたいな可愛い間違いをしてくれないかとそればっかり期待して耳をハートに、じゃなくてダンボにしている自分に気づいて呆れている。
ビナードはすでに数多くの著作を日本で出しており、明快なその反核アティチュードはよく知られていると思うので、今さらその主張については述べない。先日のトークで彼が言っていたのは、絵を鑑賞するとき、その絵の向こう側、深淵を見つめなくてはいけないし、向こう側から何も語ってくるものがなければ、鑑賞者にとってその絵はただそれだけのものでしかなく、何かを語ってくるならその絵にはそうした力があるということであり、また語ってくるものを受けとめる器を観る側が持っているとき、その鑑賞者にとってその絵は生涯唯一無二の存在になりうるほど大きな意味をもつ、ということである。
ベン・シャーンはビナードの父親がたいへん愛した画家だったそうだ。家にあったベン・シャーンの画集は、アーサー少年の心を捉えて離さず、力強い筆致の奥から湧き上がってくるかのようなパワーめいたものの虜になった。この第五福竜丸の連作を日本で絵本にしなくてはならない、という思いを、実現させたのが本書である。
私が所有するたった1冊のビナードの本。
反核反原発にかんする彼のアプローチは、やはりアメリカ人ならではの視点が効いているといってよく、そんなのちょっと冷静に考えればあったりまえじゃないの、というようなことすら気づいてこなかった日本人のお気楽ぶり、ノー天気ぶりを思い知らされる。
「日本には毎年9月頃台風が上陸するからそれによって残留物質が海へ流されてしまうような土地が実験には適している」
「放射能が残らなければ、爆撃されたという記憶もすぐに風化する」
「……と考えたと思うんですよ。京都が美しい街だから、とかそんな子どもみたいなこと当時の米軍部が言うわけないでしょ」
理に適っている。
そうして計画どおり、終戦後すぐの9月に上陸した台風が、残留放射能をあらかた洗い流した。まじめに放射線量などを計測したのは台風後である。そしてその数値なら「大したことないじゃん、ね?」と日米で確認し合い、海沿いにさえ建てとけば、何かあっても毒は海へ流れ出るからオッケーよ、というわけで日本の場合、海岸線に原発がボコボコ建てられて、計画どおり?に甚大な地震と津波によって壊れた福島第一原発から噴き出た放射能は、今太平洋中を航海している。内陸側の汚染に関しては皆さんご存じのとおりである。
で、私もこんなブログなんざ、書いてない。
C'est le vrai art de vivre! ― 2012/09/06 20:09:05
『暮らしに生きる刺し子―鈴木満子コレクションから』
鈴木満子、林ことみ共著
文化出版局(2005年)
学生時代から駆け出し社会人の頃にかけて、何度も東北へ旅をしたが、とりわけ津軽がお気に入りだった。いつも同じ民宿に泊まって、そこを足場にある年は東へある年は西へ南へと、東北各県のあちこちを訪ねた。なぜそんなに津軽が好きだったかというと、大きな理由が三つある。(1)城下町の名残があって、古くさいまちの住民である私には大変落ち着く空気をまちが持っている。(2)有名なねぷた祭りは、弘前のそれは青森のねぶた祭りの勇壮さと対照的にたいへんエレガントで、これも私の土着的背景と一致して心地よい。(3)子どもの頃から手芸好きだったが、雑誌などで「こぎん刺し」なるものを発見して以来、その産地を訪ねることが当時の私の大目標であった。
記憶がもう曖昧だが、弘前にはこぎん刺し作品を展示販売しているような民俗館みたいな施設がたしか存在して、そういう場所で、むかしむかしのこぎん刺しの袢纏(はんてん)など防寒着、仕事着を見た。厳しい冬を越すために、また農作業をはじめ重労働にいそしむため、民は、貴重な布で仕立てた仕事着が一日でも長く保(も)つように、その身頃や肩やひじの部分を丁寧に刺して補強した。なおかつそれは意匠としても非常に優れていた。むかしのこと、誰かが起こした図案集があるわけではない。女たちは、布の織り目の規則正しい繰り返しに沿って運針した。昔の女たちには針と糸を持つことは特別なことでもなんでもない。針に糸を通し布に刺し始めたら、夫の働く背中を思い浮かべてどんな模様に刺していけばカッコいいか簡単に絵が浮かんだであろう。どこで糸を引っ張り、どこで緩めれば、刺した柄に緩急がついて表情豊かになるかとか、空気の層ができて防寒効果が上がるかとか、そんなことは幾針も幾針も刺し続けるうちに手と体が覚えていったに違いない。現代人はスマホのアプリの操作はわけなくマスターする。新しい技術、新しい機種が押し寄せてもものともせず使いこなしてゆく。しかし自分がゼロから何かを生み出せるかというと、それをする人間はたいへん少数の、ごく一部の突出して優れた能力を持つ人だけに許される特権的行為となってしまった。突出した一部の者たちによるテクノロジーの洪水をただ享受するだけの私たち。むかしむかし、刺し子の腕を磨くには何年もかかっただろうが、ひとたび刺し子を覚えた女たちは、自分だけの図案を生み自分にしか刺せない着物を刺して、愛する者たちに着せ、愛された者たちは世界でたったひとつの刺し子の仕事着を何年も何年も愛用した。男も女も、子どもも老人も皆が、モノをつくる人であると同時に使い続ける人であった。
私はこぎん刺しのふるさと津軽を幾度も訪れたが、ため息が出るような手仕事の素晴らしさを眺めるだけで、その作品を買うことはできなかった(当時の私には高価すぎた)。たったひとつだけ買ったのが名刺入れである。ようやく社会人となり、会社からもらった名刺を入れるためである。買ったばかりの頃は、名刺を出すたび名刺入れを誇示して、これ素敵でしょう、と、いちいち名刺交換した相手に念を押したものだった。誰もが社交辞令的に素敵ですねと言ってくれたが、まったく興味を喚起していないのは明快だった。こぎん刺しの美しさや、手仕事の重さを、だからって私は熱弁ふるって周囲に理解を求めようとはしなかった。それよりも、掌の中にこぎん刺しの名刺入れをすっぽり入れた時に感じる人の手の温もりに似た手触りの至福を、誰にも知られたくなかった。
本書は読み物ではなく実用書である。前半には著者が保管している古い時代の刺し子の衣料品の写真が並ぶ。見事な刺し子の、その正確を期した運針ぶりを見るにつけ、東北の女たちの根気よさ、辛抱強さ、器用さと、高い美意識に感嘆する。後半は、それら刺し子の図案と刺し方の解説が少し。小物に刺すことは、手芸に長けた人にはわけないだろうが、モチヴェーションの違いはあまりにも大きい。刺し子が刺し子であるゆえんを思えば現代人が刺し子作品を創作しようというのはある意味おこがましいというのか厚かましいというのか、身の程知らずというのかお気楽でいいわねというのか。いや、それでも、ひと針ひと針刺すことをしなくてはならないのかもしれない。本書を眺めながら、いつも古タオルを適当に縫い合わせていた雑巾を、今回はちょっと色糸でお洒落にステッチかけてみようかなどと思う私なんぞはたしかに「お気楽」のたぐいだが、ミシンがまともに動かなくなって以来、やむを得ないとはいえすっかり手縫い派になっているのである、実は。そのうち電気が足りなくなったら真っ先に駆逐されるであろう家庭用ミシン(だって、もはやプロ or セミプロ手芸家しか使わないでしょ)。何年も前から新しい上質のものが欲しくて物色していたが、ここ数年すっかり手で縫うことに慣れてしまって、へたくそだけど、この際だから手縫いに専念して腕を上げようと誓うのだ、本書のような本を見るたびに(そして喉元過ぎれば何とやら)。
著者の鈴木さんは福島市に古布の店を持っておられるらしいが、今も営んでおられるのだろうか。
A lire! ― 2012/07/21 10:24:08
マリア・ブルーメンクロン著
堀込-ゲッテ由子訳
小学館(2012年)
初めてヨーロッパを訪れた最初の一日をパリで過ごした後、私は夜行列車に乗ってミュンヘンへ向かった。その前年の中国旅行で知り合ったドイツ人を訪ねるのが目的だった。
そのドイツ人二人連れは、昆明から成都に向かう列車の中で通路に座っていた私と弟に「あっちに座席見つけたよ」と頼みもしないのに空席を確保してくれたのだった。そして弟に、「君ひとりならほっとくんだけど女の子を通路に座らせてはおけないからな」と、ラッキーだったな姉ちゃんと一緒でと言い捨てて行ったのだった。おかげで私と弟は長距離を座って過ごすことができ、また向かいの席に乗り合わせた愉快なおばちゃんたちとの会話も楽しめて(その話はまた次の機会に)、余裕を持って列車の旅を楽しんだのだった。
昆明のドミトリーで、私の弟はそのドイツ人二人にすでに会っていた。昆明に到着するやいなや弟は体調を崩して喉を腫らして熱を出してしまった。失意の弟に姉の私は「じゃ、あたしひとりで観光してくるね」と冷たくお気楽に言い放って彼をひとり宿に残してずっと出かけていたのである。ドミトリーの大部屋は男女の別なく放り込まれたのでそこには国籍はもちろん組み合わせの不明な男女がごちゃごちゃと、たしかベッド数は12だったが、泊まっていた。私たち二人も他者からみれば「不明な」男女だった。ようやく起き上がれて洗面所で顔を洗っていた弟に、くだんのドイツ人のひとりが「彼女はどこに行ったの」と声をかけた。弟はきょとんとして、ひと呼吸おいて「あ、マイシスターのこと?」と聞き返すとドイツ人はとても嬉しそうな顔で「妹さんなの?」と聞いた。「いや、姉だよ」「あ、そう!」
到着した成都に、まともなホテルは1軒しかなく、ツインを頼むと結構高い値段を吹っかけられた。昆明のドミトリーはよかったなあ、あんな宿はここにはないのだろうか。と思っていると、例のドイツ人二人がレセプションにやってきて、「僕たち友達だから一緒に泊まるよ。4人部屋はない?」と私たちに断りもせず交渉を始めた。内ひとりは片言ながら中国語を話していた。「ベッドが3つの部屋しか空き部屋は……」「そこでいいよ、ひとりは床で寝るから」「そんなわけには参りません、簡易ベッドを入れます」「俺、190cmあるけどそれに寝られるかい?」「いやその……小柄な方にお使いいただくほうが……」(と、私をチラ見するホテルマン)
なんていう会話を経て、ツインに泊まるよりはずっと割安な宿泊代が実現した。
そんなわけで、彼らとすっかり友達になり、住所の交換もした。成都からさらに西方の奥へ向かうという彼らとは成都で別れ、私たちは重慶へ向かった。その後、長い中国旅行を終えた彼らは、ひとりはドイツへ帰国し、ひとりは日本へ来た。そのとき、京都の私たちを訪ねてくれた。そしてヨーロッパへ来たらぜひミュンヘンの僕の家を訪ねてねと言い残して去ったのである。
私は翌年、東欧旅行を企てた。例外は、発着地に選んだパリと、ロートレックの故郷アルビ、憧れだったコペンハーゲン、そしてミュンヘン。西側で訪れるのはこれらの都市だけと決めて、まずはミュンヘンの例のドイツ人の家を訪ねようと、彼の書いたメモを頼りに住所を探した。そこは意外とすぐに見つかった。玄関に出てきた若い女性に、片言の英語で、そのドイツ人の名前を言った。しかし若い女性は首を傾げて、いったん引っ込んで、また出てきたと思ったらそれはさっきと背格好の全然違う若い日本人女性だった。
「日本の方? ここに何か用?」
「あ、あのー……この人、ここに住んでいますよね?」とドイツ人の手紙を見せる私。
「はーん……これはたしかにヤツの字だね。どうぞ、お入りください」
「この人、ここに住んでますよね?」
「住んでるけど、寮費も払わないで転がり込んでるだけなのよ」
「寮費?」
「ここ、大学の学生寮なの。私は学生だからここに住んでる。彼はね、私の部屋に転がり込んでいるだけなのよ」
案内されて入った部屋には、くだんのドイツ人がいた。
「ハーイ、チョーコ。やっぱり君だったんだ」
ハーイって……アンタまるで自分の持ち家の住所みたいに書いてたやんかー。そのお気楽な表情は何よ、私は旅の予定を全部書いて送っといたでしょうに。
と、思ったけどそんなことを言い募る英語力はなく。
「前にもね、旅先で彼がナンパした日本人の女の子がここまで来たのよ、彼の恋人気取りでさ。あたし、頭来ちゃって、お前誰だとっとと帰れって言って追い返したことがあるのよ。で、今日もまた日本人の女の子が来てるよって友達が知らせにくるから彼を今問い詰めてたところよ」(笑)
私がそのドイツ人彼氏となんでもないとわかると、彼女はとてもフレンドリーになり、私たちは時間を忘れて話し込んだ、ドイツ人をほったらかしにして。互いの出身や専攻のこと、ヨーロッパが好きなわけなど……。思いがけず、のちに生涯の友となる女性に出会った瞬間だった。
*
本書『ヒマラヤを越える子供たち』を、私はまだ読んでいない。だが中身を読まずともそのタイトルだけで、壮絶さが伝わろうというもんである。なぜ、越えなくてはならないのか。本書には、ヒマラヤ越えの苛酷さと、それでも越えなくてはならないほどかの地の理不尽な生活が、明らかにされている。
ぜひ、お買い求めください。そしてじっくりと、読んでください。私もこれから読みます。読んだらまた報告いたします。
Il ne faut pas abandonner...! ― 2012/06/19 20:58:26
(URL訂正しました)
猫屋さん(ブログ・ね式 世界の読み方。左サイドにリンクしてます)とこに貼ってあった番組動画。長いですが、わかりやすい内容です。見てください。英語や仏語に訳して世界中に配信してくれないかしら、どなたか。いや、まあ、見なくちゃならないのはまず日本人だけどね。
岩上さんが、河合弁護士から目を逸らさないまま、さささささーっとメモを取るところがかっこいい。私もインタビューするときはそうしようとするんだけど、後で見たら解読不可能なほどぐちゃぐちゃなメモ(笑)になっちゃうので、録音機材に頼るようになってしまった。聞き手が語り手から目を逸らさないのは鉄則。私は速記をマスターしなかったので、録音機材を持っていなかった頃は、ぐちゃぐちゃのメモと記憶だけが頼りだった。
遠方へ出張取材へ行ったとき、相手の話にうなずきながら、自分の手元には一度も目を落とさず、終始微笑み、深々と頭を下げてお礼をいい、その場を辞したとたん、VHSを巻き戻すように頭の中で時間を遡り、新幹線の中でががががーっとノートに書き起こした。もちろん、ビールとおつまみを手元に置いて。
たぶんあの頃のほうが、書くことに対して私は真摯だったのではないかと思う今日この頃。昔の文章はとても稚拙で見ちゃいられんけども、小手先でなく、全身の体力を使って、書いたこともあったと、今は思える。
はあ。
Loin de paname... ― 2012/05/25 03:50:24
一週間ほどパリにいた。
パリというまちに最初からさほど関心と愛着のない私にとっては、各美術館で好きな作家の、長年観ることのできなかった作品を観ることができた、というくらいしか「収穫」のない旅ではあった。というとなんだいそりゃ、と思われるであろうが、人に会うのが目的だったので、「どこで」会うかはどうでもよかったのである。しかしまあ、ほぼ12年ぶりのパリであった。
記憶をたどって当時との違いをさがすと、道に落ちている犬の糞がかなり減っていることと、舗道にゴミ箱が設置されているせいか、道に落ちているゴミも減っていた。
煙草の吸い殻はあいかわらずだったが。
大統領選挙直後だったが、まちは、もうそのほとぼりはとっくに冷めているように見えた。私の友人には左派しかいないので、みな一様に今回の結果を喜んでいるのだが、友人のひとりが「フランス人の約半分近くが、国をこんなにズタズタにされてもサルコジに投票するなんて、オレ、人間不信になっちまうよ」といったように、それでもニコラを支持した人はいたわけで、道ゆく地元の人々とすれ違うたび、アンタの頭はどっちなの?なんて心の中で問いかけてみたりしていたのであった。
が、観光スポットばかり行ってたせいもあるけど、外国人観光客で埋め尽くされているようにしか見えなかった。本当にすごい人だった〜。
たしかにトップシーズンではある。いちばんいい季節だ。
世界中から人が来る、いちばん観光的に魅力的なまちなのだ。
初めてパリに降り立ったのは22歳のときだから、まったく月日はなんとやら。
到着したその日のうちにミュンヘンに移動したので、半日観光しただけだった。
その半日のあいだに、たしか結婚したばかりの従妹へのプレゼントを買い、お店で梱包してもらってその足で郵便局に直行し日本へ郵送し、次にノートルダム大聖堂へ昇って、ガーゴイルの写真を撮ったのを覚えている。
飛行機で乗り合わせた京都大学の女子学生さんと半日一緒に行動していて、彼女が「旅行仏会話」みたいな豆本を頼りに郵便局などへも付き合ってくれたので、おぼえているのだ。
ウ・エ・ビューロー・ド・ポウスト?
豆本を開いて、そのページを「読む」ように、通りがかりのムッシューに道を尋ねてくれたが、そのムッシューが流暢な英語でタラタラタララと返事をしてくれると彼女もまたタラタラタラリラリと流暢に返して会話が成立し、私たちはすんなりと郵便局へたどり着けた。さすが京大生だなあ普通に英語しゃべるんだあと感心した。
ノートルダム大聖堂からパリのまちを見下ろした。
たしかにあの時の、パリの屋根の美しさには息を呑んだ。
真冬で、不機嫌そうな顔をした人々の服装にも色がない。小さな煙突の並んだアパルトマンの上に、どんよりとした曇り空が広がって、およそ光だの花だのの都という形容とはほど遠い。なのに、美しかった。
だれだったか、死ぬならパリで死にたいといっていたのを読んだおぼえがある。初めてパリを見た日は、その気持ち、わかるかもと思ったものだった。
このまちでなら、ゆきだおれて路上で息絶えても本望、みたいな気にさせる魅力がたしかにパリにはある(あった)。
しかし、人にも風景にも、慣れてしまうというのは残念なことだ。初めて訪れたときの、えも言われぬときめきは、その後新しい発見を幾度か繰り返しても、うすれてゆくばかりだ。
今度の旅で、けっこう自分自身に愕然としたのは、ほんまに感動しいひんようになった、ということだ(笑)。パリが見慣れた場所だからではない。ものごと達観しているわけじゃなく悟りも開いていない。ただ、これ、「歳とったんだよね」ってことなのだ。意外とこんなことに自分で傷ついていて、そんな自分にまた驚く(笑)。
そしてつまりは、エエ歳して、まだ迷っている自分に呆れているのである。
Renaissance... ― 2012/04/10 23:24:01
Lui aussi, a vrai dire, mon hero! ― 2011/10/14 21:17:44
小沢一郎著
1993年(講談社)
フランスを少しばかり知るということは、政治を少しばかり知るということである。私は、高校時代に確か大平首相が亡くなったが、彼が政治家として辣腕だったのか誠実だったのか、何も知らなかったけれど、その前任、前々任……は妖怪陳列棚さながらだったので、お年は召していたが上品なお爺さまだからよいではないかなどと思っていた。したがって、訃報にはいささかショックであった。しかしその後も妖怪陳列棚は続いた。日本の政治の現場には何もそそられるものがなかった。筑紫哲也や吉本隆明を読めというゼミの先生たちの勧めに逆らうつもりもなく読みはしたが、だからといって、政治に関心をもつなんて、ダサイ以外のなにものでもなかった。が、私は、ふとフランス留学を思いつく。好きな映画の舞台になった街を見たいと思う。面白い小説を原書で読みたいと思う。バカ高いシャトーのワインでなく、地元の小さな酒屋やスーパーで売ってる地ワインを二束三文で買って飲み「うまい」といいたいと思う。いろいろな希望が折り重なって渡仏してみると、かの国は、ティーンエイジャーが政治ネタでジョークを飛ばして会話する政治意識先進国なのだった。知り合った地元の若者たちと、マンガや禅やセレモニデュテやトリュフやフォアグラやムール貝の話に花を咲かせながら、彼らの言葉の端々に、尾ひれ背びれのように時の首相や大統領の物真似や、過去の政治家語録をもじった言い回しなどが出てくるたび、私は正直に戸惑って見せた。彼女にはそんなこと言ってもわかんないだろ、いやしばらくここに居ればさ、誰の真似してるかなんてすぐにわかるようになるさ、夜7時のXXXって番組で閣僚ネタの小噺やってるよ……。今でもフランスの若者が政治をよく知っているのかどうか知らない。知らないが、少なくとも20年前って、政治への関心の度合いにしろ有権者の投票率にしろ、日本とフランスあるいは日本と欧州って天と地ほども差があった。
フランスのメディアは政治を面白く書き立てることに長けていた。私は向こうでそんなに新聞を読めなかったけど、とにかく、各紙違うことを1面で言っている、同じことを言っていても表現がぜんぜん違う、ということは、よくわかった。だからって、意識をいきなり高めたわけでもないけれど、私は帰国してから購読紙の政治面をよく読むようになった。読むようになったからといって日本の政治が面白く感じられたわけでもなかったが、遅ればせながらこのままじゃいかんよねこの国、くらいの意識はもつようになっていた。ウチは、私の祖母がたいへんなやり手婦人だったらしく、あっちの代議士こっちの市会議員の応援演説に立ったらしくて、嫁に来たばかりの頃、そういうお客さんが頻繁に来ては深夜まで飲んでいかはったわと後年母は憎々しげに語ったものだ。いずれも所属政党は自●民●党だったし、昔はこのボケナス党以外の政党を支持するなんてただの変わり者か馬鹿だったから、みな長いものに巻かれてなびいていろいろばら撒いてももらってめでたしめでたしだったのである。
私自身はそこに批判的な目を向けるでももちろんなかったし、胡散臭い親父が何人来ようと関心外だった。祖母の葬式にはなんであんたが来るのよ、みたいなエライセンセイたちがいっぱい来たらしい。我が家はその後金回りが悪くなって、父は借金をやたらしていた。
なんとなく、祖母の晩年から死後の数年間を、ウチの家そして地元のまちを生きてきて、ものすごく嫌な空気の存在を感じ続けていて、あるとき我慢ならなくなった。けったいな議員と酒飲みに行くのやめてよ、あいつらウチになにもしてくれへんやん。泥酔して帰った父に私は一度だけそう怒鳴ったことがある。
とはいえ、大人になった私は家も親も先祖もどうでもよくなっていたので勝手に人生の歩み方を決め、フランスで若い男の子たちに政治の味を教えてもらって帰ってきた。帰国後しばらくして、出版されたのが本書だ。私はこの本を、このうえなく愛した。むさぼるように舐め尽くすように、読んだ。読後しばらく私の口からはこの本の受け売りしか出なかった。
**********************
小沢元代表 初公判の全発言
(NHKニュース 10/06 14:00)
裁判長のお許しをいただき、ただいまの指定弁護士の主張に対し、私の主張を申し上げます。
*************************
(リンクのリンクのリンクを辿って見つけたけど、引用元、忘れちゃった。ごめんなさい)
そんなわけで、いまごろ小沢シンパであることをここに暴露するのである(爆)
ふたごみたいな今朝のお弁当。
手前がさなぎ用、奥が私用。
ご飯の間には鶏そぼろがサンドしてあります。
私たちは幸せであることを認めなくてはいけないが、この幸せがなにものにも侵されないために考え続けなくてはいけないことが、山積している。