たんぽぽ ― 2007/01/25 19:57:10
――ちっ……暑いな……。
男は空を一瞥して舌打ちをした。三月だというのにこの陽射しは何だ、真夏じゃねえか……。男は革ジャンを着ていた。着古して、すっかりくたびれてはいたが、今の男には冬の一張羅だった。もっとも、そんななりをしていたせいで、シャツの下はもう汗だくだったが。
男は立ち尽くしたまま、来場者を見ていた。男と女と子ども。男と女と老人と子ども。あるいは男と女と複数の子ども、複数の老人。男のうつろな瞳に名もない人々のはしゃぐ姿が映っては過ぎる。
――糞っ……。
白い帽子の小さな後ろ姿が、両手をそれぞれ男と女につながれて目の前を通り過ぎる。両手は時々ぐいっと上に引っ張られ、そのたびに白い帽子の向こうからキャハハと可愛い歓声が聞こえる。
――萠。
男の唇は「も」をかたちづくったが、何も発音しなかった。
男は中規模のメーカーで営業マンとしてがむしゃらに働き、定収を得るようになって職場結婚をした。妻とのあいだに女の子が生まれ、ささやかながら庭付きのマイホームも手に入れた。気まぐれに出かけた住宅展示場で「こんなのがいい」と妻がゆびさした家。あのモデルハウスの縮小コピーのような家で、たしかに幸せを育んでいたはずだった。
妻はあるとき、書き置きと離婚届をテーブルに残して、幼稚園に入ったばかりの娘の萠とともに家から消えた。申し合わせたように、勤める会社が倒産した。営業しか経験のなかった男はつぶしが利かず、救済措置であてがわれた就職先では事務に就いたが、収入は半減し、家は、ローンが払えなくなったので手離した。男の生活にはめりはりがなくなり、服装はだらしなくなる一方で、その顔からは生気が薄れていた。
新しい住宅展示場のオープン広告を見た。家族揃って出かけよう、あなたの欲しい住まいがきっと見つかります。男はいらいらした。幸せという字を顔に書いたようなファミリーが、ソファでくつろぎ、芝生で犬と戯れる。むかつく。あの日以来、喉の奥につっかえたままの何かが膨張する。吐きそうになりながら、吐けない。
日曜日、男は革ジャンの内ポケットに、手ぬぐいにくるんだ果物ナイフを忍ばせて、住宅展示場に向かった。
白い帽子の少女の姿を遠くに見送って、男は内ポケットのナイフに手をやりながら、ようやく一歩を踏み出した。
「あーっおじさん、だめえーっ」
何だと? 不意をつかれ、心底びくっとして男は声のほうに振り向いた。――萠?
「おじさん、ほら、足!」
男の片足を男児がゆびさしている。「たんぽぽだよ、たんぽぽ!」
舗装ブロックの隙間から茎を伸ばしていたたんぽぽの花を、男の足が踏みつけていた。
「たんぽぽ……」
パパ、黄色いお花がいっぱい!
たんぽぽだよ、萠。
たんぽぽの種も蒔いたの?
いいや、パパは蒔かないよ。どこからか、飛んできたんだ。
たんぽぽの種は、お空を飛べるの?
そうだよ。どこまでも飛んで、生きていけそうな場所を見つけたら降りて、根を出すんだ。このたんぽぽも、きっとこの庭が居心地よさそうだから、来たんだよ。
パパもママも萠も知らなかったのに、咲いたんだ。強いお花なんだね。
そうだな。たんぽぽみたいに綺麗で強くなくちゃなあ……。
生き別れたままの娘の姿をありありと思い出して、男の目から涙がこぼれた。男児が駆け寄って男の顔を覗き込む。
「大丈夫だよ、おじさん。たんぽぽは強いんだって。パパが言ってた。また来年、咲くよ、きっと。だから泣かないで」
「そうか、そうだな、おじさん、馬鹿だな……」
「ホントだよ、踏んづけちゃうなんて。でもほら、見て、こっちにつぼみがいっぱいあるよ。これから咲くつぼみだよ」
「これから、咲くかな……萠」
「え、何?」
「ごめん、俺はいったい何を……すまない、すまない萠」
困惑しきった表情の母親らしき女が男児の手を引っ張った。男はその場にうずくまって嗚咽を漏らした。会場のスタッフらしい青年が近づいて声をかける。遠巻きに、幾組もの家族がその様子を眺めていた。やがて男は立ち上がり、青年にひとつ会釈をしたあと、さっき踏みつけたたんぽぽに目を落とし、立ち去った。