2007年になりました2007/01/05 10:29:56

『あなたが世界を変える日』
セヴァン・カリス=スズキ著、ナマケモノ倶楽部編・訳
学陽書房(2003年)


2007年も、もう5日目になった。
正月らしさのない新年。
気候のことである。ぬるいぬるい、生ぬるい冬。
と思えばいきなり冷え込んでドカ雪が降る。
しかし翌日にはまた熱い太陽が照りつける。

ここ20年ほどのうちに、冬の陽射しの強さが尋常でなくなっている。
冷気ではなく熱の照射で、皮膚が痛い。

春の穏やかさは長続きせず、5月頃から真夏の陽気だ。
夏は夏で、この地域では年に一度あるかないかの雷雨・豪雨が頻繁だ。
いつまでも中途半端な暑さが続き、日中と夜半の寒暖の差も中途半端で、葉の色はいつまでも中途半端なまま、冬になる。「錦秋」なんてどこの国の言葉か。

若かった頃、酷暑と極寒のあいだに桜と紅葉のある四季に一喜一憂した。体のリズムは四季とともにあり、他でもない自然によって保たれていることも知らずに、もうこんな気候耐えられない、とよく愚痴った。常夏の南国に憧れた。

一年を通じてぬああんのっぺり、と生暖かい大気につつまれるせいで、今、体がおかしい。リズムの崩れを、感じる。単に年をとったせいかもしれない。しかし体内から「それだけではない」と声がする。

カナダの少女セヴァンがこの本にあるメッセージを発したとき、おろかにも私は今日の体の変調を予期できなかった。
環境汚染・公害問題とはつねに隣り合わせで生きてきた世代だ。しかし、いやだからこそというべきか、これは「社会問題」であり、「自分自身の体の問題」ではなかった。

この本を入手したとき、当時8歳の娘に読み聞かせたら、彼女は自分でもう一度目を凝らして読み、「教室でみんなと一緒に読んで話し合う」といって学校に持っていった。
思えば彼女が生まれたときから、この地球は汚れていた。メディアの「カンキョー」「オンダンカ」の大合唱をいやでも耳にして、育ってきたのだった。
私が8歳の頃にも地球は汚れ始めていただろうが、私たちはそんなことに無頓着でいられた。手近なところに水と緑は生きていて、虫や鳥や小動物を観察して、無邪気に遊んでいられた。環境問題は大人の問題だった。

セヴァン少女も大人になった。事態はますます悪化している。

耳を、澄ます2007/01/05 12:18:15

『音さがしの本 ~リトル・サウンド・エデュケーション』
R・マリー・シェーファー、今田匡彦 共著
春秋社(1996年)


谷川俊太郎さんの「みみをすます」という詩がものすごく、好きである。
娘は「生きる」が好きで、この二つの詩が我が家のボロふすまにぺたぺたと貼られている。
頭がボーっとしている朝や、時刻を問わず退屈で手持ち無沙汰だなと思ったら、ふすまに貼った詩を読む。時には大声を張り上げて。
「みみをすます」はひらがなばかりだが、描かれる風景が少し時代を遡るので、娘は理解しにくいようだ。そのかわり(というと変だが)、「生きる」の一節の「それはヨハン・シュトラウス」のくだりに好き勝手な人名を入れては、けらけら笑っている。
アホ、それが詩を鑑賞する態度か! などと叱るどころか一緒になって名詞着せ替えごっこをしている私。

「みみをすます」は、そういうふうには遊べない。
この詩には、私たちが耳を塞いだまま、聞かずにほうっておいたまま、永遠に失くしてしまった音があまりに多く描かれていて、切なくなるのだ。
この詩を読み、記憶の中にある音を探す。記憶の中にある音を、今再び聞けないか、周囲に耳を澄まし、音を探す。

「ほんの少しのあいだ、すごく静かにすわってみよう。そして耳をすましてみよう」

『音さがしの本』の中の、一節である。小学生向けのこの本は、いかに私たちが多様な音に取り囲まれているか、そしていかに多くの音に気づかないでいるか、を気づかせてくれる。

「たぶん、ほんとうの静けさなんて、ありえないのだろう」
「なにが聞こえていて、なにを聞きたいのか? ほんとうに、だれもが考えてみなければいけないことだ」

この本の著者の名を教えてくれたのは、ピアノ教師をしながら音楽療法の勉強をしていたある友人である。音信が途絶えてしまったが、彼女への感謝の念は尽きない。

下記は、ある場所に提出した「耳を、澄ます」という拙稿の草稿(なぐりがき)である。とりあえず書きたいことをだだだっと書いた、体裁を整える前の、最初の文章。冗長で散漫だが、全文をここに貼りつけておく。
前述の友人、ならびにこの『音さがしの本』への感謝をこめて。


「耳を、澄ます」

 風邪を長引かせていた娘の耳に異変を発見。耳だれが出ている。
 「お耳、痛くない?」
 私の問いかけに、娘はきょとんとした顔でかぶりを振った。耳孔の周りにべっとりとついた膿のような液体は半ば乾いている。痛み、あるいは違和感があったとしても、もう数時間前だったのだろう。まだ二歳にもならない娘は、耳が痛くても気持ち悪くても、それを言い表す術をもたない。ましてや、睡眠中なら気づきもしないはずだ。膿が鼓膜を破り、耳の外へ流れ出て押し寄せる……などという具体的な夢を見てうなされる、などということが二歳の子どもに起こるとも思えない。
 「幼児にはよくある症状ですよ。細菌性でなければ心配はないし、風邪が治れば耳も治ります」
 かかりつけの小児科医の言葉に安堵して、私は娘の耳にせっせと点耳薬を落とした。幸い、耳だれはその日以降、もう出現しなかった。

 しかし、子どもはしょっちゅう風邪をひく。保育園に預けていると、病原菌は次々と現れては空中を伝播し、容赦なく、これでもかといわんばかりに幼児の体に入り込む。娘の耳に耳だれを再発見するのに、さほど時間はかからなかった。
 再び小児科医の診察を受け、前回と同様の処方をしてもらい、そして症状は治まった。

 ところがある日、私は娘の別の異変に気がついた。
 初めて耳だれを出した日から数か月は経過していた。二歳半の娘はよく話し、歌っていた。だがこの日、いつもかける童謡のCDに反応しない。
 「お歌、歌わないの?」
 私が声をかけると、意味がわからないといった様子でじっと私の目を見る。ラジカセの音量を一気に上げると、目が覚めたように音に合わせて歌い始めた。
 私は試しに後ろからそっと、名前を呼んでみた。応答しない。声を張り上げて呼びかける。「はーい」娘は、大きな音声しか聞こえないのだ。
 二度目の耳だれが出たと告げたとき、保育士のひとりに「耳鼻科専門医へ行ったほうがよい」と言われたことを思い出し、私は迷わず耳鼻科医院をたずね、娘を診てもらった。

 滲出性中耳炎。風邪や発熱で併発する急性中耳炎が完治しないと、鼓膜の内側に常に膿などの液が溜まった状態になる。鼓膜を突き破る勢いはないが、だがこのせいで鼓膜が振動しないので音が伝わらないのだ。
 「慢性化しやすい病気です。じっくり根気よく経過を見る必要があります」
 症状に改善が見られないと、鼓膜に通気孔を空ける、副鼻腔の膿を取るといった手術が避けられないという。しかし何より私の頭に響いたのは、医師の次のセリフだった。

 「聞こえが悪いと、発育期に必要な情報が脳まで伝わらない。正しく言葉を発音することや、周りの音を聞き分けるといった能力が育たないのです」

 自治体の発育健診。三歳になっていた娘は「きわめて発育良好」との結果だったが、耳の不安を話すと、保健婦は優しく娘のほうに向き直り、自分の口元を隠して話しかけた。声の大きさがある程度にならないと、近くからの声かけにも娘は返事ができなかった。

 「お母さんの表情、唇の形、お子さんはそれを見て、何を言われているか推察しているんです。聞こえの能力の判断が、お母さんには難しいゆえんです。ですから時々は口を隠して言葉の当てっこをしてみてください。耳元でのひそひそ話ゲームでもいいですよ」

 私はわが意を得たりといった気になって、それから毎日このゲームに興じた。二週に一度、耳鼻科へ定期検診に行き、一か月に一度の割合で聴力検査をした。
 音楽教師をしている友人に、耳が心配だから何か楽器を習わせたいと相談したら、興味深い答えが返ってきた。

 「耳の心配をしているなら、楽器を習わせるよりも、耳を澄ます習慣をつけてあげるといいよ。静かな部屋で、紙を丸めるクシャという音、蛇口から落ちる水滴の音に耳を澄ますの。早朝の小鳥の声や、夜の虫の音に耳を傾けて聴く楽しさを教えてあげて」

 目から鱗が落ちる思いだった。ピアノやバイオリンで耳が肥えても、日常のささやかな音を聞き逃しては不本意だ。そんなことだと、やがては人の心に立つさざ波の音にも気づかない人間になってしまうだろう。

 私と娘は、窓を揺する風の音、隣家の夕餉の支度の音、雨樋に響く小雨の音に耳を澄ました。紙や空き缶を使って音をたて、目隠しをして音の主を当てるなど他愛ない遊びを考えては試した。

 足掛け三年、就学前には娘の聴力は正常に戻った。鼓膜の内側にへばりついていた液はいつの間にか姿を消した。薬の投与も不要になった。
 今でも、風邪が長引いて鼻づまりがひどいと耳が心配になる。そのたび私は小さな音をたてて「今の、聞こえた?」などと尋ねる。
 「今のって……お箸でコップたたいた音のこと?」と、本から顔を上げずにぶっきらぼうに答える娘の声に、心底ほっとするのだった。

まちはこどもでできている2007/01/05 16:55:22

『となりのこども』
岩瀬成子 著
理論社(2004年)

7編の短編の主人公たちは、1編を除いてみな小学生だ。
そして7編はすべて同じ街を舞台に描かれている。

私も、大通りの向こう側の人たちのことはあまり知らない。
でも、行きつけのカフェやレンタルビデオ屋が同じだったり、子どもや親戚が、同じ塾に通っていたり、自転車ですれ違っていたり、するかもしれない。
街は、そういう意味で切れ目がない。
みな、となりのひとの、そのまたとなりのひと。
そしてそのつなぎめには、いつもこどもがいる(いるべき、というべきか)。

この本を子どもに読み聞かせたら、冒険やミステリーではない日常の物語に物足りなさを感じていたようだ。子どもの、細かい心のひだを丁寧に描いているけれど、これを味わうには小学校を卒業する必要があると思った。
3、4年生くらいの女の子たちの喧嘩。
高校生の兄を理解しきれない、6年生の弟。
なついてくる幼稚園児を疎ましく思う5年生の少女。
ああ、私もあの頃こんな気持ちになったっけ。
中高生ならもっと瑞々しい気持ちで読めるだろう。私はオバサンになりすぎたな。おまけに誤植を見つけてしまうし。

この本はおとどし、図書館の一般書書架にあった(児童書の書架にもあったが)のをふと手にして、ざっと読みで惚れこみ、速攻で買い込んだ。以来、岩瀬さんの世界にはまっている。