天に召されるものたち ― 2007/06/25 07:13:56

『ほおずきの夜』
砂岸あろ著
白馬社(2007年)
6年生の七緒(なお)は、同級生の涼太(りょうた)と地蔵盆の縁日へ出かける。新しくあつらえた、紺地にひまわり柄の浴衣が、少し大人びて感じられて嬉しいような恥ずかしいような。下駄を履くと少し七緒のほうが背が高くなる。
人混みの中、二人で歩いていると、級友の女の子たちに会う。懸命に涼太を隠す七緒。級友たちが口々に言う。「涼太くん、七緒のこと、好きやったんよ」――
夏の終わりの、子どもたちの最後の楽しみ地蔵盆。各地でその地域に伝わるやり方でお祭りが行われるが、本書の舞台は京都の山科(やましな)。なんでも、旧街道沿いにたくさんの屋台が並ぶにぎやかな縁日らしい。私の住む地域では子どもが少なくて、地蔵盆は寂れる一方だ。なんだかうらやましい。
山科では、ほおずきを地蔵に祀ってお参りするらしい。物語の中で七緒も、実が七つついたほおずきの一枝をもって歩く。
七緒も涼太が好きだった。七緒はついにその気持ちを涼太にぶつけるけれど、涼太は……。
ほおずきが涼太そのものなのか、七緒の涼太への想いがほおずきの色に表れているのか、タイトルに使われているにもかかわらず、物語の途中まではさほど印象的ではないほおずきが、最後のほうで情念の炎を燃やすかのように俄然あかあかと色めきたつ。
子どもを主人公にした他愛ない恋心を描きながら、しかしその想いの強さに読む大人ははっとして胸を締めつけられる。
手をつなぐのも恥ずかしかった幼い頃の恋の思い出を振り返りたい人なら、切ない蜜をいまいちど味わえるだろう。
「こども」カテゴリに入れたけど、本書は児童書のコーナーには置いてなくて、「女性現代文学」の書架にあった。
著者の手になる縁日の写真がたくさん収められていて、読む者を夏祭りの喧騒の中に誘い込む。けっして凝ったつくりではないのだが、写真とストーリーのバランスは、子どもよりもむしろ大人を惹きつけると思われる。
けれどそれでも私は、小学校の高学年くらいなら、読める物語だと思った。読んで人物の心に思いを馳せてほしい。人物が交わしたであろう会話を、教室や校庭での風景をイメージしながら、夏休みを思いながら。
ところで、6月半ば、我が家には金魚の赤ちゃんが生まれた。話が長くなるので詳細は省くが、透明なぷつぷつが黒くなり、やがて稚魚になったときは感動した。タニシの赤ん坊を発見したときに勝る感動だった。
しかし、わずか数日しか経っていないのに、稚魚はどんどん天に召されていく。一匹も生き残れないかもしれない勢いだ。
幼くして天に召されてしまうのは、運命なのか。
当事者はそうは思いたくないのに、そう思おうとして無理に自身を納得させようとする。運命ではない、私に非があったのだと自身を責める。
お前たちが死んでいくのは、きっと私の世話のしかたが悪いのねっ。
泳ぐのを止めていく金魚の子どもたちを見て、『ほおずきの夜』を読んで、天に召された小さな魂の数々について、少し考えた。
さて。
著者がこの物語を執筆したのは1991年のことだそうだ。
多くの人たちの励ましと支えを得て、何より本人のこの物語への思いが実を結んで、単行本として日の目を見たのである。その書くことへの、自身の作品への愛とエネルギーに喝采を送りたい。
【ここで自慢】
著者の砂岸あろさんはお友達だもんねー。ね、あろさん♪ え、違う? ひいいいんん、あたしの思い込み?
コメント
_ ヴァッキーノ ― 2007/06/25 19:38:56
_ コマンタ ― 2007/06/25 21:27:13
_ midi ― 2007/06/25 23:59:58
言いたい言いたい言いたいよー!
「自慢:著者のヴァッキーノさんとはお友達デース」
言わせてくださいよ、いつか、必ず!
言わせてもらえるって信じているからね!
コマンタさん
フラメンコ世代って(^^;)
お友達っていうか、いつも彼女の書くものや活動から勉強させてもらっています。
京都に引っ越してきてくださったら、毎日ナントカ談義に花を咲かせましょう♪
でも、それがなんだったのか、何かの小説だったのかもしれません。
「春の道標」とか。
そんなわけで、ボクもちょーこさんに言われてみたいもんですよ。
著者のヴァッキーノさんとは友達なんですよ。なんて。
逆か……。