若いっていいなあ(マジ)2007/06/26 00:45:04

とんでとんでとんでとんでとんでとんでとんでとんでとんで、まわってまわってまわってまわるーーー♪♪♪って勢いのウチの時計草。今年はよく咲く♪


『駱駝はまだ眠っている』
砂岸あろ著
かもがわ出版(2005年)


70年代って、どんな時代だったのだろう。熱かったのか? 私には、そういう印象がない。70年から79年、私は6歳から15歳で、流行歌や身近な出来事や学校生活の記憶は鮮明だが、社会がどんな様相だったかまでは実感としての記憶がない。自分の目の前にある、ほんの少し先の未来に向かって歩くだけが人生のすべてだった。とんで、まわるだけで精一杯(笑)。

70年代の真っ只中を、中学3年生から高校生として過ごした少女、ろまん。そう、主人公の少女の名前は「ろまん」なのだ。なんてキュート。なんて萌え~なの。……って、そういう物語ではない。断じて。

本書は、ろまんの一人称で語られる人間模様。ろまんの母親・都(みやこ)が経営する喫茶店「駱駝館」を中心に、実にさまざまな人々が描かれる。店員、客、常連、友人、出たり入ったり、現れたり消えたり。
かなり気合を入れて読まないと、登場人物の名を覚えきれない(苦笑)。
また各人物がきっちりと丁寧に描かれる。ぼーっと読んでいると、物語を見失う(再度苦笑)。

こういうティーンエイジャーが主人公の物語って、どれも比較的登場人物が多くて人間関係が煩雑だ。いや、私が知っているものだけがそうなのかもしれないが。
十代は、ものごとに優先順位なんかつけられない。大人は取捨選択ができる。自分にとっての必須事項を優先順位3位くらいまで決めたらあと残りは捨てられる。しかし十代はそうはいかない。あれもこれも、全部手を抜けない。見落とせない。すべて見届けたい。
その一方で、すべてどうでもよくなる。何もかも、関係ないもん、あたしには。
ティーンエイジャーを主人公にすると、「関係者」が増えるのは仕方がないのだ。彼らは全員「無関係者」と紙一重。

しかし、この物語は、ろまんと都、娘と母のこころのあやとり――もつれて糸がとれなくなりそうに見えながら、どうにかこうにか続いている――を軸に、成長するろまんの恋が危なげなく組み合わさった太い骨格を持っている。
だから、骨格の隙間をするすると縫うように現れる人々に気を留めなくても、じゅうぶん青春と恋を味わえる。
でも、もっと、人生の悲哀や必ずしも成就しない恋愛にも思いを馳せるなら、二読目、三読目で脇役たちにじっくり注目すると面白い。
それぞれの大人の、人生の処し方を見つめる十代の気持ちになって読む。そろそろそういう時期にさしかかった子どもを持つ親なら、我が子の気持ちになって読む。

京都を舞台にしているので、私は記憶のはしばしに残るかつての街の姿を引っ張り出しながら読んでみた。描かれている界隈を知るようになった頃、私はもう大学生で、それは80年代だ。わずかな年数のズレなのに、その場所を十代のうちには知らなかったという事実は、まるでひと世代ぶん、時代が異なるかのように感じられる。しかしその違和感は、あくまで自分とろまんの視線を合わせようとするから生じるのであって、母親・都に合わせるといきなり同時代性を帯びる。そして我が娘とろまんを重ねてみて、その類似性につい、苦笑する。

「駱駝館」は本当にあった喫茶店の名で、著者はその店でアルバイトしていたそうだ。その頃出会ったたくさんの人たちと出来事をずっと書き続けて、本にした。この世のすべての母と娘に贈りたいという気持ちを込めて。

素晴しい贈り物に、感謝している。

コメント

_ よっぱ ― 2007/06/26 19:05:23

ぼくは79年にセブンティーンでした。
おバカだったので、どーでもよくなったことばかりで、自分にとって大事な事は二つ三つくらいで、大事な人は4~5人くらいのものでした。
それから、30年近くが経って、大事な事はもっと少なくなり、大事な人は子供以外、ほとんど居なくなりました。

_ midi ― 2007/06/26 19:34:00

>大事な人は子供以外、ほとんど居なくなりました。

うううう、同感!
ほんとに、そうですよね。でもそれでいいんですよ、きっと。

_ 儚い預言者 ― 2007/06/26 22:12:22

 時計草いいですねーー。昔を思い出しました。そうです、私はパッションです。あなたの為に咲いています。毎朝あなたの微笑が私のいのちの力になっているのです。わたしはあなたに感謝しているのです。いつも私を見るあなたの笑顔に。

 年?、わたしのような10049歳にもなれば、人生の夢と初めは同じになって、あなたの恋しさが私のいのちの力になっています。あなたにありがとう。そう大事な人はあなたとあなたの世界です。

 あっひーー私は時計草、でしたか忘れました。ごめんなさい。

_ きのめ ― 2007/06/27 08:05:36

70年代というのはわたしにとっては中学高校大学と過ごした時期です。確かに、あの当時のことは出会った人たちなんかを日記とか雑記帳にいっぱい書いてあるなぁ。今の原点ではあります。あの時代を青春として過ごした人たちの特徴は、希薄感でしょうかねぇ。団塊の世代と新人類の間の世代ですから仕方がないっちゃぁ、仕方ないんですけど・・・

_ ヴァッキーノ ― 2007/06/27 12:32:32

70年代に産まれ、小学校の低学年を過ごしたトゥーサ・ヴァッキーノです。
ボクの家も当時は喫茶店でした。

_ おさか ― 2007/06/27 14:39:23

七十年代かあ・・・・ひたすら遊んで漫画読んで絵描いてましたねー。社会まで目がいかない、まだ自分の世界だけだったような。私その頃はかなりな「イモケ」(福井弁で引っ込み思案とかぶあいそとかそういうニュアンス)だったので特にそうだったかも。でも自意識だけは過剰にあったような。危ない子ども(笑)
だからオウムにはまった人の気持ちも、わからなくはなかった。そういうのはもっと幼いうちに解決しとけ、と思いましたが。

_ midi ― 2007/06/27 15:21:03

おおお、それそれの70年代が……(^0^)

預言者さま
時計草、よく咲きますが、やはりパッションフルーツは実らないみたいです。

きのめさん
希薄感、ですか。
私たちは新人類というレッテルを貼られて、なんか特別にけったいな行動をとらなければならないような強迫観念がありましたね。

ヴァッキーノさん
おや、喫茶店生まれですか。
小学校のとき、クラスメートに「サンレモ」という喫茶店の娘がいて、その子もその子の母も垢抜けていて素敵だった記憶があります。お店屋さんの子に生まれたかったという羨望を少しだけ持ったかな。

おさかさん
イモケだったんですかー(って、その言葉、初耳ですが)
私もそんな感じだったと思います。こもってた、内に。
でも、私は、オウム(に限らず)なんかにハマる人の気持ちは、絶対にわからない。宗教アレルギー(笑)。

_ コマンタ ― 2007/06/27 15:41:56

70年代はやはり青春でしたが、すでに書いたことばかりです、すみません。ダイアナ。

_ おさか ― 2007/06/27 16:31:02

いや、宗教にハマる気持ちは、わからないですよ私も。

でも、「自分は他の人とは違うはず」というゴーマンな気持ちは、人間一度は持ったりするんだろうなあと。幼い頃にそう思って早いうちにごん!と頭を打たれると目が覚めるんですが、オウムの人たちはずっと「俺は違う」と思い続けていい大学に入り、実は自分がたいしたことない、井の中のかわず・・・・ということがわかりかけてきた、ところで「いや、あなたはスゴイんです。本当のあなたはこんな大学にいるような平凡な人ではない」といわれて、目が覚めないままイッテしまったんだと思うんです。
理系の旦那曰く、「あいつらはエリートじゃないよ。挫折組だよ。じゃないとあんな非科学的な教団にはハマるわけない」だそうです。わしもそう思う。

_ midi ― 2007/06/27 19:27:27

コマンタさん
あら、よくってよ。(ダイアナより)

おさかさん
エリートっても、この国のエリートなんてタカが知れてるしねえ(負け惜しみ)。どっちにしろ、新興宗教はゴミ。
あ、つとむューさん来た!
じゃまたね!(ここはチャットか)

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