あのひともこのひとも2008/11/03 12:20:59


かつて駆け出し時代に在籍した勤務先でかつて上司だった人がこれまたかつて上司だった人の奥さんとお嬢さんが経営するギャラリーで作品展をするというので鑑賞に出かけたらかつて人事課長だった人やかつて階下で事務やってた人とかかつての後輩とかにわんさかと会えた。

私は美大を出てすぐとあるメーカーの開発部署に入り、来る日も来る日もスケッチをし設計図を描き試作をした。社内プレゼンテーションに向けてひたすら、描く絵や図は日々違うけど、ある意味ルーティンワークだった。形の目処が立つと自分でモデリングし、それを素材にモデリングの職人さんにきれいに仕上げてもらうための詳細な設計図を描く。いっぽうで金型メーカーや樹脂ボトル成型屋や紙材印刷会社に見積もりを依頼する。プレゼン通過しても高くつく企画はボツられるし、高くついても生産難しくても社長のお気に召したら製品化へ一気に進む。開発の波は天気みたいなもので、晴れ時々曇り一時雨、それすら順繰りに巡っているようだった。

どなたかがおっしゃったように、なにものにも、なにごとにも、頓着しないたちなので、「私の渾身のこのデザイン」なんてものにこだわる気概はなく、自分の作品が採用されたらラッキー、程度にしか考えていなかった。同じ部署の同僚たちは、自分の表現したい形状や色に製品化されるぎりぎりまでこだわり続けた。そういう人たちは、会社を辞めてからも、働きざまは異なれどものづくりの現場にいる。

私の一年下に、とても頼りなくて何を創りたいのか傍目にはさっぱりわからないのに、いつも何か絶対譲れん一線というものを持って仕事をしていた子がいた。私などから見れば、君、そこはこだわるところじゃないだろ、てなもんだった。5年足らずで私が辞めたあと、遠からず彼女も辞めるだろうと諸先輩方は見ていたらしいが、彼女はみるみるとしっかりしていき、結婚・出産後も勤務を続け、勤続10年を超えたのだった。
その彼女と約20年ぶりに、件のギャラリーで会った。

昔話に花が咲き、お互いトンデモネエ若手社員だったことを述懐した。その場には元上司や元先輩が来ていたので、「今だから話せるホニャララ」みたいなこともさんざんいわれた。

当時世話になった、社内はもちろん取引先のオジサマ方やイケスカナイ営業マンたちはどうしているのかいろいろ訊ねると、ある人は辞めて起業した、ある人はどこどこに引き抜かれた、またある人はホニャララ社の最高顧問に座ってる、と華々しいお話を聴くいっぽうで、あの先輩は人が変わったように出世の鬼になって今勝ち誇ったような顔で役員の座にいる、またあの方は退職後孤独死していたのが見つかった、また別の人は○○なんてやくざな仕事について勤務中に発作を起こして死んだ、とかやりきれない話も出てくる出てくる。

ひとそれぞれに、容易でない時間をいくつも過ごしている。彼も彼女も、私もそうだ。夢中で歳月を生きてきたが、こんなとき必死で夢中なのは自分だけだと人は思いがちだが、あのひともこのひとも、そのありさまはちがっても、崖っぷちをいくつも通過してきているのだ。そうしたひとりひとりの過ぎた時間の積もった山がいとおしく感じられてならなかった。

とはいえ、とりあえずその場所に来ていた人たちはみな、少なくとも私よりは裕福であることがヒシヒシと伝わってきて、くっそー悔しいぞ私、という気分でもあった。暮らしが豊かかどうかは着ている物や持ち物でわかるし、会話の中身でもわかる。さりげなく入っているブランドロゴや、手土産の品物のヴァリュー、車が何台あるとか庭に別棟をひとつ建てたとかの話、などなど。
またあるいは、元上司や元先輩の多くが何度も過労でぶっ倒れたり幾度もの手術を経たりしている。が、私の場合、自分の入院代は出ないので簡単に病院にお世話になるわけにいかない。どんな仕事の仕方をしたら、あるいはどんな食生活を続けたらそんな大ごとになってしまうのか、私は根掘り葉掘り聞いた。するとやはり煙草と酒が害毒になっていることがわかる。そして極端な、若い頃から続く偏食。好きなものを吸って飲んで食べていたら幸せだろうけれど、それで死んでも本望だろうけれど、当面死ぬわけにはいかない私はやはり、たとえボンビーでも健康第一に生きていかなくてはとあらためて思ったのだった。

と、なんだか説教くさいフィニッシュになろうとしているが、最近市民健診で胃がん肺がん大腸がんの検査を受けたこともあったりして、思考回路が健康系なのである。結果はまだだけど、異常なしといわれることにはかなり自信がある。

私は今、使い捨ての売文屋である以外にとりえはないし、月々の家賃や光熱費の支払いでキューキューゆっているが、健康で働いていればとりあえず次世代の育成はできる、てことを証明しなくてはならない。世のボンビーサラリーマン、ともに前を向いて歩こうぜ。

と、今日も休日出勤で原稿書きの合間にぐだぐだと綴ってみたのである。

ウチよりいいもの食べてるかも2008/11/06 18:22:42

『TOKYO 0円ハウス 0円生活』
坂口恭平著
大和書房(2008年)


9月になってようやく私に回ってきた本書。誰かが、あまりの面白さに返却しないで止めてたのか、よくわからないがずいぶん時間がかかったものである。この本を待っていることについては5月に書いた。
http://midi.asablo.jp/blog/2008/05/28/3547303

『ホームレス中学生』は小池くんが主演で映画化されて、ウチの娘はそっちも観たくてウズウズしていたが、いっときのことで、ぱたりと言わなくなった。
この本には、主人公の父親がその後どうしているのかの記述がまったくなく、娘にはそれが腑に落ちないのである。娘の友達たち(←こういう表現って変だと思いつつ、「友人たち」と表現するにはやつらはまだ子ども過ぎる)は主人公が母親を想起するところで泣けたと言ってたというし、中学の先生の一人は人の温かさに泣けるだろうと嬉しそうに言ったという。

「泣くような話とちゃうで」
という娘の言に賛成である。

ウチの娘は圧倒的に読書量が足りないので、行間を読むとか背景を推理するとかそんな芸当はできない。書かれたものを額面どおりに受けとめるだけで精一杯だ。とすると、その程度の読解力の人間にとっては『ホームレス中学生』の文章は大変に表現力に欠け、深みが足りない。はしばしに、下手な芸人の笑えないネタそっくりの、話の流れとは関係のない落ちないオチが散見され、目障りである。(泣くような話ではないが、同時に笑える話でもないのが辛い、というのも娘の言)
著者の体験記であって小説ではないのであまり多くを求めてはいけないが、それを差し引いても読み応えがなさすぎる。
ただそれでも編集者の苦労は偲ばれ、工夫のあとは垣間見える。ご苦労さまである。こんなにヒットしたんだからおめでとうございます、である。

「泣くような話」ではない。その理由について私はそれを文章のクオリティに一因ありと思うが、娘がいいたかったのは実はそこではないだろう。
幼くして母を亡くした主人公の欠乏感、心を占めていた愛情が抜けて空いた穴の大きさ。近親者で亡くした人間は祖父のみという娘にとって、母親を亡くした場合の事態は想像できないのだ。可哀想だろうけれど感情移入まではできない。泣くにはもっと経験が要る。
もうひとつ、周囲が家をなくした彼らを支えるという親切な行為については、逆に自分の住む地域なら容易に想像ができるので、べつに失われた美習でもなんでもないだろうと思うから、そこに引っかかって泣くようなことはないわけである。

さて、『ホームレス中学生』の「罪」は、「ホームレス」という言葉に対し、何の問題提起もしなかったことである。「家」とは何なのか。家のない状態とはどういうことなのか。この国にはこの名称で十把一絡げに扱われる人々が山のようにいるはずで、行政はそういう人々を巨大ほうきで一掃することしか能がないが、そうした事実について、一度でも、『ホームレス中学生』をはやしたてるメディアが語ったことがあったのか。
ない。
この本の背景では、育ち盛りの子ども三人を抱えた父親が袋小路に追い詰められて家族を解散しなくてはならなかったのだ。日本の社会が抱える病理を、議論したり、してないだろ。

……そういうことにカリカリしている時に、本書『TOKYO 0円ハウス 0円生活』はバサッと冷水を浴びせてくれる。
前置きが長くなったが、本書は「達人ホームレスの暮らしの知恵」とか「驚きのエコアイデア、驚きの省エネ裏技紹介」、とでもキャッチをつけたくなる内容だ。
著者は、住所を持たない人々すなわちホームレスの「家」を訪ね、観察し、その優れた構造と工夫に舌を巻き、彼らの生活力に喝采を送る。
大半を占めるのは鈴木さんとみーちゃんの「家」の話である。なんと彼らは隅田川沿いに「カップルで」住んでいる。廃棄バッテリで動く廃棄家電の数々。アルミ缶収集で得た収入で、新鮮な食材と良質の調味料を調達する、銭湯にも行く。花火大会前など一斉掃射が行われるときは「家」は解体され、畳まれる。私より稼ぎはずっと少ないけれど可処分所得はずっと多いような気がするし、ずっといい食事をしているような気がする(泣)。やっぱ基本は食である。彼らは元気である。

著者は、ただただその「移動式簡易住宅」への畏敬の念が先にたっているので、取材相手のこれまでの人生や現在の状況を哀れむという視点がまったくない。そのことが、本書を読みやすくしている。この問題には社会的な数多くの懸案がてんこ盛りのはずだけど、そういうことはさておき、「家」のアイデアの素晴しさを称賛する。
建築を学んだ彼は、建てるにも壊すにも膨大な資金と労力を必要とする建築物ばかりを造るのはもういい加減に止めようよ、といっている。本当にそうだなあと思う。家は必要だが、家の在りかたを考え直してもいいんじゃないか。どんなに頑丈に建てても、贅を尽くしても、核爆弾降ってきたらひとたまりもないんだし。

ダンボールとブルーシートと建築現場からもらってきた角材だけで、自分に日常生活を営める住宅を誂えることができるかと問われれば、もちろん答えはノンだ。今、我が家はいよいよ雨漏りがひどくなり、床を踏み込むと、私の体重のせいばかりでなくてズボッとへこむ箇所がある。そんな修理すら私にはできないし、天井や床をいったん開けたら要修理箇所がゴマンと出てくるかと思うと、そしてその修理費用がとてつもないものになるだろうと思うと、なんて私って生活力ないんだろうと自己嫌悪である。
なんてことを書いてると、職場の天井裏でネズミがごそごそがりがりやってるのが聞こえる。どこでも生きていけるって、偉大なことだ。

忙しい時に限ってどうでもいいことを書きたくなる2008/11/12 17:20:57

『人魚の島で』
シンシア・ライラント作
竹下文子訳 ささめやゆき絵
偕成社 (1999年)


寒くなった。曇って太陽が覗かないからよけいに寒い。でも、まだウチでは暖房を出していない。母が就寝前に寝室のヒーターをタイマーセットしているだけだ。温かいものをいただけば身体は温まり、お風呂に入ってすぐに寝れば冷えずに安眠熟睡、翌朝すっきりである。
でも職場では寒い寒いを連呼する経営陣が暖房器具のセッティングを命じ、ほどなく完了されると待ってましたとばかりにがんがん焚き、おかげでぽかぽかむんむん、ぬくいことはありがたいが、そんなにするほど寒くないだろと思う私は案の定、室温上昇過多のせいで頭痛に見舞われる始末である。
いまならひざ掛けがあればいい。贅沢なひざ掛けでなく古いジャージでよい。しばらく開けなかった衣装箱から古いセーターが幾枚か出てきたので、切ってつないでひざ掛けにしようか。

『人魚の島で』に描かれる島は、寂しい。絵を描いているささめやゆきさんの絵がお洒落で可愛らしいので、少女向けの可愛らしいファンタジックな童話だと思って読んだら、うーん、なんかちょっとちがった。
島は、なかなか住環境としては厳しいのである。風の強い日、おおしけの日。
住民は、それぞれが島のように、互いにつながらず関わりを持たずに暮らしている。
幼い頃両親を亡くしている「ぼく」は祖父と暮らす。

物語に横たわる空気は、どちらかというとマンガレリ作品のもつそれに近いなという印象をもった。主人公は寡黙で、家族は少なく、友人はなく、暮らしは楽でない。

ただ、本書では主人公が成長していき、過ぎゆく歳月の描かれるところが、マンガレリの2作品『おわりの雪』『しずかに流れるみどりの川』とは異なる。
これは、読み終えてみると大きな差異なのである。
本書の読後感には、主人公の現在の充実や未来に待つより大きな幸福、そうしたものを最終的にすくいとれるような、安心感に近い感覚が大きい。一方、マンガレリの作品はどちらも、主人公の行く末に大きな不安を抱かずにはおれない。この子、大丈夫なんかなあ、的な読後感。(とはいうものの、マンガレリ作品の主人公たちのほうが格段に強くたくましく生きていくように思えるのは単に私の好みの問題か。そうであろう、きっと)

『人魚の島で』のダニエル少年は、物語のはじめのほうで人魚に会う。人魚は少女の姿で、彼の名を呼んだあと尾びれを返して海に消えていった。それ以降、少年のなかで何かが変わり、そのことが彼の生きることへの自信の源となっていく。
気難しい祖父しか家族のいない少年が、その祖父の息子だった亡き父や、子どもの頃に亡くなったという祖父の姉といった、目には見えないけれどたしかに生きていた、いくつかの存在を、自分なりのしかたで心に確かなものとしてゆく。島の浜に散らばる貝殻のひとつのようにしか思えなかった自分自身にもルーツがあるということを、そうははっきり書いてはいないけれど、確信することで自信を得て成長していくのである。

物語を大まかに捉えると「やっぱりね」感が大きくてつまらないので、細部にこだわって読むことをおすすめする。人魚の櫛って何でできてるのかなあ、そもそもなんで人魚に櫛が要るのかなあとか、鍵って持つとこ丸いのかな四角いのかな、などなど、揚げ足取りや重箱隅なんかしながら読むとけっこう楽しい。お話はちゃんと辻褄が合い、あ、そうなのね、とすとんと落ちるようにできている。

訳者の竹下文子さんはおびただしい数の絵本や童話を出版されている児童書界のベテランである。幼い子どもたちに向けた優しい語り口のなかにある確かさには信頼が置ける。はずである。しかし、本書に関してのみいえば、もう少し、なんというのか、重厚感のある文章のほうが、物語の背景の寂寥感や、ダニエルを貫く孤独感を出せたと思うのだが……。ファンタジーだからあまりどっしりしちゃうと「なんとかXの魔宮の棺 未知の物体を追え」みたいなわけわからんホラーミステリーまがいのものになってしまうだろうけれど。そうなってはだめだから子どもにも読めるように可愛いめの体裁にしたのだろうけれど。一貫して「おじいちゃん」でなく「祖父」といわせているのは、ダニエルに聡明さや芯の強さをもたせたかったからか、祖父、孫ともに質実なところをにじませたかったのか、どうなのか……。最初から最後までどことなく文体がちぐはぐで、そのせいで、原書から抜け落ちたものがあるんじゃないかという疑いをぬぐいきれないのだ。

ライラントの本は「小石通りのいとこたち」シリーズが知られていると思うが、このシリーズ、とてもつまらなかった(ごめんなさい)。娘がちっちゃな頃に読み聞かせたけど、ヤツは全然興味をもたなかった(同上)。

もしかしたら、訳者がどんなに頑張っても、ちぐはぐなのかも。

「小石通り――」のみならずライラントの訳書は数多いが、とりあえず、同じささめやゆきさんのお洒落なイラストを着せられた『ヴァンゴッホ・カフェ』は読もうと思う。そちらは中村妙子訳なので、ぶれない文体と原書以上の言葉の豊かさを期待できる(かもしれないかなあ)と思う。

忙しい時に限って頼まれもしないことをついやりたくなる2008/11/14 19:26:06

読むとやっぱり訳したくなる、というのはその言語がやはり自分のものになっていないことの表れじゃないかと思うのである。だって、その言語のままですいすいと読み進むことに、体が待ったをかけるのだから。しかもまるで哀願するかのように。お願い、待って、ついていけないわ、てな感じ。
前に取り上げた『マグヌス』のペーパーバックを最近手に入れた。
http://midi.asablo.jp/blog/2008/08/27/3713448
辻由美さん訳の日本版を何回も借りて貪るように何度も読んだのに、原書を見るやいなや自分の言葉に置き換えようと躍起になっている、知らぬ間に。そんなふうにしている間に、嫌というほど読んだはずの和訳本の文章はどこかに消えて、いっこうに形にならない自分の言葉と原語が混じり合って右往左往して列を乱してまとまらない……。そんな読みかたをしている。

そんな読みかたをしてしまうので、そんな読みかたの結果を書きとめておこうと思った。
原書の、最初と、最後の、ほんの数行だけ。気の向いたときに、カテゴリ「こころみ」で。

第一弾は『マグヌス』。これ、マニュスって発音しないのかな?とひとりごとを言いながら。

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『マニュス』
シルヴィ・ジェルマン

幕開け

 宇宙はどのように始まったのだろう。小さな隕石の破片から、いくつか手がかりをつかめることがある。骨の断片ひとかけらから、太古の動物の骨格や外観を、植物の化石から、今は砂漠化した地域にかつて花が咲き誇っていたことを、人は推測することができる。気が遠くなるほど昔のことというのは、ごくごく微小ではあるけれど堅固で、くっきり痕跡を残す金属片の集まりだ。

(どーんと中略)

断片?

 今、ここに、ひとりの男の物語が始まる……。
 だがこれは、語られた逸話という逸話すべてに背を向け逃げてきた、物語。彼の手で引き裂かれたあらゆる言葉たちが、現実のうつわの底にぎゅっと凝縮された、人生の沈殿物。語るに十分な言葉たちが見つかったとしても、物語は、忘れた頃にやってきて、奇妙な作り話としてただ、通り過ぎていくだろう。


Sylvie German
Magnus
folio no. 4544 Gallimard 2007
Edition Albin Michel, 2005

お茶の色って、あんな、そんな、こんな、色なのに茶色って何よ2008/11/17 17:57:36

絵の具に「ちゃいろ」と書いてあるのだから、そのチューブから出てくる色が「ちゃいろ」なんだろう。子どもはそんなふうにして色とその名前を一致させて知識として積み上げていく。これってとっても危険なことだと思うんだけど、どう思う?
昔、民族学をかじっていたとき、アフリカのサバンナを駆ける民族がどのように色を認知しているかをフィールドワークした研究成果を聴いたことがある。彼ら彼女らは、美術の授業もなければ絵の具も色鉛筆も持たないが、どんな色についても何の色であるかをいうことができたという内容だった。
研究者は何百という色彩カードを彼らに見せ、これはなにいろ? と訊ねた。すると必ず、○○の色という答えが返ってきた。彼らは、すべての色に彼らなりの名前をつける、あるいはその色がどのような色かを説明することができた。たとえばこんなふうである。

○○という草の葉の裏の色
昨日しとめた獣のはらわたの色
△△という動物の皮の色
歯茎の色
足指の爪の色
指の腹の色
……

というぐあいである。
人は自分で見聞したことをもとにして、考えて、組み立てて、ある事柄を説明することができる。それは人間のもつ特権能力とでもいおうか。与えられた情報がなければ、持ち駒だけで何とかすることができる。
太陽の生み出す色。それは見る人によって、その色が映る瞳によって、感じられ方が異なるに違いない。けれど悲しいかな、それをどのようにうけとめ表現するか、という感性が研ぎ澄まされる前に、たった12色程度に集約された名前のついた色という貧しい情報を幼い脳は刷り込まれてしまう。そして、人間は知的生物であるがゆえに、文字情報を得たら最後それに支配されることをよしとするのだ。文字を読めるようになると他のいろいろなことが見えなくなるのだ、じつは。

ウチは上等なお茶は飲まないが、茶葉によって淹れたお茶の色に違いのあることを子どもにわかってもらおうと思って、昔から、番茶、麦茶、緑茶、紅茶、いろいろつくって見せてきた。それは、私自身の「ちゃいろ」という言葉への違和感からきている。お茶の色、というと渋めの緑色を思い浮かべるのに、絵の具には茶色と書いてある。でも、ウチの番茶はどっちかいうと「こげちゃいろ」のほうだぞ……。

brun という語を辞書で引くと「褐色」とある。この語は髪や眼の色、あるいは日焼けした肌の色の表現によく使われる。日本語としては「茶色」のほうがなじむし、想像し易いので、本書の邦訳タイトルが『茶色の朝』であることに異論はない。

ただ、私はもっと黒々した、鍋の底にこびりついてとれないお焦げのようなディープなブラウンを思いながら、「Matin brun」を読んだ。物の名前や言葉尻にやたらと「brun」をつけなくてはならなくなったというくだりでは、「バカいうなよ、くそっ」の代わりに「バカいうなよ、焦げっ」って感じかなあ、なんて笑いつつ。


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『焦げた朝』
フランク・パヴロフ

陽だまりにどてっと両脚を伸ばして、ぼくとシャルリーは、たがいのいうことに耳を傾けるでもなく、ただ思いついたことを口にしながら、会話にならない会話をしていた。コーヒーをちびちびすすりながら、過ぎゆく時間を見送るだけの、気持ちのいいひとときだ。シャルリーが愛犬を安楽死させたといったので、ぼくはいささか驚いたが、それもそうだろうと思った。犬ころが歳とってよぼよぼになるのは悲しいもんだし、それでも十五年も生きたんだから、いずれ死ぬってことは受け容れざるをえないもんだ。
「つまりさ、おれはやつを焦げ茶になんかしたくなかったんだよ」
「まあな、ラブラドールの色じゃないよな。それにしてもやつの病気は何だったんだい?」
「だからそうじゃねえって。焦げ茶の犬じゃないからってだけだよ」
「マジかよ、猫とおんなじってわけか?」
「ああ、おんなじだよ」
猫についてはよく知っている。先月、ぼくは自分の猫を処分した。白と黒のブチに生まれた雑種だった。

(どーんと中略)

誰かがドアを叩く。嘘だろ、こんな朝っぱらから、ありえねえよ。怖え。夜明け前だぞ、外はまだ……「焦げて」いる。ったく、そんなに強く叩かねえでくれよ、今開けるよ。


Matin brun
Franck Pavloff
Editions Cheyne (decembre, 1998)

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ヴァッキーノさんブログでも記憶に新しいこの本は、タイトルページから奥付までがわずか12ページ、1998年に1ユーロで販売され、ミリオンセラーとなった。朗読CDになったり、ドラマ化されたりなどして話題を呼んだ。パヴロフはその後も次々と作品を発表している。

どうしてこんなことになってしまったんだろう、と考える時間は長いほどよい2008/11/18 18:41:15

『ぬすまれた宝物』
ウィリアム・スタイグ作・挿画 金子メロン訳
評論社(1977年)


中耳炎の治療のため、娘を連れひっきりなしに通っていた耳鼻科には、なぜだかスタイグの絵本が多かった。小児科ではないので待合室の図書に絵本はさほど多くはなかったが、その多くない絵本の中にスタイグの絵本が何冊もあった。私はスタイグという作家に無縁の人生だったのだが、そこでめでたくファーストコンタクトとあいなったのである。

そこにあった絵本はたしか、『ねずみの歯いしゃさんアフリカへいく』『いやだいやだのスピンキー』『ジークの魔法のハーモニカ』などなどであった。私はとりわけ『ジーク――』が気に入って、必ずまずそれを探し、待つあいだに読み聞かせるのであった。しかし娘は、あまり気に入らないようであった。たいてい私の読むものはおとなしく黙って聴くのだが、何度も繰り返し読んでとせがまない場合は興味を惹いていないということである。スタイグの絵本を、娘が自分から読んでとねだることはついぞなかった。待合室には他にも美しい絵本、楽しい絵本も置いてあったので、そっちのほうがよかったということだからしかたないが。
そんなわけで、私はスタイグの絵本を自分のために取り、読んで、娘をつき合わせていたのであった。それ、もう読んだよ、とヤツに何度いわれようが、まずスタイグの絵本を読んだ。

なぜかというと、浅はかな私は、スタイグの絵本の登場人物たちが実に深く考えることに圧倒されるのである。
絵本のストーリーはすぐに完結するし、幼児に読み聞かせる際に、登場人物の苦悩の深さや長さをわからせるのは難しいし、無駄だ。起承転結が伝わるように読めばいい。
だが私は私で、それとはべつに、スタイグの登場人物たちと一緒に考えたくなるのである。どうしてこんなことになってしまったんだろう? 今なぜこんな辛い思いをしているのだろう? いったいどうしたら、前のように幸せになれるんだろう、家族の笑顔を取り戻せるんだろう?

登場人物の苦悩の長さ。スタイグの絵本や物語ではこれがけっこう長いと思うのは私だけだろうか。人物が自問するさまが、たっぷりと描かれる。『ジーク――』では、家出をしたジークはあちこちさまよいながら痛い目に遭ったりしながら、やはり家族のもとへ帰るんだけど、面白おかしいドタバタふうに描きながらも、思いつめたジークの心から、行き場のない怒りやどうしようもない寂しさがにじみ出てくるのを感じるのである。
ジークは豚で、だから家族も豚だし、一見これは豚さんの滑稽なお話絵本なんだけど、それだけで済ませてはいけないのだ、大人なら。

私は花粉症の、娘は副鼻腔炎の治療で、今も同じ耳鼻科に時々足を運ぶが、いつのまにかスタイグの絵本は姿を消していた。傷んで捨てられたのかもしれない。

『ぬすまれた宝物』は、だからって、スタイグが読みたくなって借りたわけではなかった。それこそ適当に児童書架から引っ張り出した一冊だった。でも、表紙に描かれた憲兵姿のガチョウの絵を見て、ああ、これはきっと、このガチョウが苦悩する話だな、と思ったら、やはりそうだった(笑)。
ガチョウは、永年仕えた城を追われるように離れて、傷心の放浪を続ける。どうしてこんなことになってしまったんだろう? と自問しながら。でも、苦悩するのはガチョウだけではない。もうひとりいる。何しろ本書の原題は「ほんとうのどろぼう」なので、「ぬすまれた宝物」に関する容疑者と真犯人、それぞれが思い悩むのである。というわけで、長く深い苦悩の時間をダブルで味わえる(笑)。

スタイグは風刺漫画家出身なので、キャラクター設定は動物が多いけどその表情は、第一の読み手として想定される子どもたちに媚びるところが一切ない。ストーリーも然り。とってつけたような華やかさや盛り上がりは、ない。ところどころに痛快な風刺が効く。最後は、ああよかったね、と安心できるところへ笑いとともに落ちる。
でも、読み終えて、これでいいのか? という漠然とした疑問を払拭できないこともある。(それこそが作家の狙いなのかもしれないが)
ちっちゃな子どもの想像力を膨らますには、親の少しの工夫が必要かもしれない。が、かといって、親が入れ込んで味わいすぎて同じような読み取りを子どもに求めてあれこれ解説してしまうと、子どもにとっての面白味は半減するであろう。

本書も、「盗む」という行為は悪いことなんだ、ということを子どもにわからせるには、あまり説得力がない。いろいろあったけど、またもとのように仲良くなれてよかったな。幼な子にはそれだけが伝われば、まずはよし。
こんなことはしちゃいけないぞ、悪いと思ってなくても結果的によくなかったこともあるんだぞ。少し大きな子には、そこまで伝えたい。

でも、悪いことをしても、償えば許される?

本書が問いかけているのは、友達がもし悪いことをしたとき、その友達がどうすれば君は許してやれるのか、あるいは、身に覚えのない行為の犯人として糾弾されたら、君を犯人と名指しした奴らを、疑いが晴れたとき君は許せるのか、ということだ。
償いさえすればいいのか? そんな疑問が浮かぶくらい大きくなった子にも読んでほしい。
本書は明快に答えは示さない。だから考えないといけない。すぐに結論を出せと、職場でも学校でもいわれるご時世、どうしてこんなことになったんだろう、どうすればもっとよくなるんだろう、ほんとうにこれでいいんだろうかと考える時間はもっともっと長くていい。子どもたちには考える時間をいっぱい与えてほしい。

昨年はスタイグの生誕100年だったそうだ。とっても素敵な彼の写真は公式サイトで見られます。うふ、好み。
http://www.williamsteig.com/williamsteig.htm

家に青大将が住んでるかもって話はもう済んだけど2008/11/20 20:11:40

『蛇を踏む』
川上弘美著
文藝春秋(文春文庫 1999年)


ある夜、娘が文庫本を開いていた。
視線は本の中身をさしている。
「何してんの」
「本、読んでんの」
あ、読んでいるんだ。眺めてるんじゃないんだ。コミック文庫とか写真文庫じゃないんだ。
「何読んでんの」
「これ」
うるさいなあ、といわんばかりに娘は表紙をかかげて見せた。
「どれどれ」
と、近寄って目を凝らす私(最近また視力が落ちた。老眼か?)。
「へびをふむ……かわかみひろみ……(沈黙。しばし。けっこう長く)……えーっえーっ」
「なんやねん」
「しょうせつっ」
「そやで」
「大人が読む普通の小説やん!!!」
「ミチル先生が面白いよって勧めてくれた」

ミチル先生というのは中学校の国語科教諭の名である。ほんとうはウエハラミチルさんだが、ほかにウエハラマサユキ先生もおられるので苗字でなくお名前で呼んでいる。ちなみにマサユキさんのほうはマサ先生と呼ばれているそうだが、娘は教わっていないので担当教科は知らない。なお、部活の顧問のヤマダカンジ先生のことはカン爺と呼んでいる。けっして爺さんではないが、ほかにヤマダケンタロウさんというフレッシュな若手教員がいるからで、こちらはケンタ君と呼ばれているらしい。

子どもというのは、まったく、親の言うことは聞かないが、好きな先生のいうことはまるで盲目的に聞くのである。担任は若い英語科教諭だが、生徒に自分のことをサリーと呼ばせるこの先生のことを娘は大好きで、「サリーが貸してくれた」などといって『ホームレス中学生』も『恋空』も、あとはなんだったか、やたら流行っていたいくつかのライトな本を借りて読んでいた。私が良かれと思って図書館で借りてきた本は10冊に1冊くらいしか娘にはヒットしないのである。
ミチル先生は、娘が言うには「いっつもシャツ・インで、めっちゃ昭和モード」のおばちゃん先生らしいが、とても生徒に慕われているらしい。娘はよくミチル先生と本の話をするそうだ。そういうわけで『蛇を踏む』。

知らない漢字も出てくるし(笑)、意味のわからないところもあるが、とても楽しんで読んでいた。まだ彼女が3ページくらいで止まっている時に、横からとってザーッと読んでしまったが、うーん。これを深く深く読んでヒワ子ちゃん(主人公)の深層心理にくらいつくには娘は若すぎるし、私は歳をとりすぎていると思う。こんなのわけわかんない、というつもりは全然ないんだけど、つまりは、あまり面白くない。こういうものを楽しむココロやアタマに育ってこなかったので、これは如何ともし難い。歳とりすぎてるからというより、たぶん若い頃にもピンとこなかったであろう、そんなタイプの物語だ。私にとっては「初」の川上さんだったが、文章の柔らかさは大変好感がもてた。かどばっていないので、ウチの子なんかにも読み進むことができたんだ。

読み終えた娘は、最後はどうしてああなるのかわかんない、といっていた。あと十年くらい歳をとったら、ヒワ子ちゃんの気持ちに近づけるかもしれないが、さらにそのあと五年くらい経ったら、蛇の意味するものが何か見えるかもしれないが、いまは物語の設定の滑稽さを楽しむのが精一杯。ま、それでよかよか。とりあえず挫折しないで読破してくれてよかった。読破っつーほど長くないんだけど(笑)ミチル先生に感謝である。

※文中の先生方のお名前はあだ名も含めてすべて仮名。

絵のある本っていいときもよくないときもあるんだけど創る側には判断が難しい2008/11/26 16:32:03

『パレード』
川上弘美著 吉富貴子挿画
新潮社(新潮文庫 2007年)


『蛇を踏む』よりもウチの子にはわかり易いんじゃないかと、みためも薄っぺらいし可愛いし、つっかえるような難読漢字も出てこないし、と思って借りてきた『パレード』。ところがヤツは、定期テスト前一週間に突入してしまって、いつもは何につけてもどこまでもお気楽なんだが、いちおう真面目に勉強しているのでヤツより先に私が読む。

私は『センセイの鞄』を読んでいないので、「センセイ」と「ツキコさん」の関係や距離感、二人でつくってる世界というものがわからないのだが、これは『センセイの鞄』とは関係なく読めると思った。むしろ『センセイの鞄』との関係性なしに、「ツキコさん」という人物の幼少の記憶ではなしに、一人の少女の、独立した物語として、児童書書架で勝負できる物語だと思った。「センセイ」と「ツキコさん」がいるばかりに、この世界を子どもたちに読ませることができないとしたら、それはたいへんに残念なことじゃないかと、私は思うのである。

「わたし」についてまわるようになる、赤やうすい赤の奇異なものたち。「わたし」は驚くが、母親はまるで気にならないようだった。おまけに、そういうものたちがクラスメートの数人にはすでにもうついていて、皆が自然に受け入れている。

「ゆう子ちゃん」が仲間はずれにされる。クラスで起こるよくないことに、「奇異なものたち」は敏感なようだ。「わたし」のうすい赤は元気をなくしている。「西田さん」の「ババア」も教室で寝そべっている……。

川上さんの描く「不思議」はまるで「不思議さ」をもたない。それは不思議でもなんでもなくごく日常的に見ているじゃないか、触れているものじゃないかという気持ちにさせられる。ああ、そういえば、あれがそうかな、と、「蛇」にしろ「うすい赤」にしろ、色や形や種類は異なれど人は「そういうもの」を小脇に抱えていたり、かかとに引きずっていたり、腰に巻いていたり、背負っていたりするものなのだ。可視化したらこんな感じじゃないの、ということを川上さんは絵でなく言葉で上手に書いてしまうのだろう。

吉冨さんの絵は好感がもてる。物語に立ち入ってくるずうずうしさはまったくない。しかしそれでも、挿画があれば読み手は、「わたし」の「赤」や「うすい赤」を頭の中で挿画に重ねてしまう。
絵のもつ力は、作り手が思っている以上に読み手にとっては大きいものだ。
その文章と絵に初めてぶつかる読み手にとって、二つの要素の相乗効果で、本の世界を広げも狭めもする。心の余白がまだまだある素直な読み手ほど、字面や絵に気持ちを左右されやすい。

文章だけで十分に勝負できる作家の作品になぜ絵をつけたのか。あまりに短編だから、付加価値がないと価格をつけられないとでも考えたのだろうか。
私にはよくわからないが、川上ワールドはすでに確立していて、どんなヴィジュアルが来ようとも文章世界はびくともしないという確信のもとに制作された本なのだろうか。

児童書架で勝負できると書いたが、それは実は条件付きである。吉冨さんの挿画から、「表情」を除くこと。無表情という表情は、けっこう大きくモノをいう。

とはいっても、ウチの子のようにあまり細かいことにひっかからないヤツは、すーすーと、絵があろうがなかろうか、どんな絵だろうが写真だろうが、面白いと思えば読み進むであろう。
私はけっきょく15分くらいで読んでしまったので、ぽいと居間のテーブル(娘の勉強机と化しているローテーブル)に置いてあるが、さて、テストが終わったら読む気になるかな? きっと気に入ると思うんだけど。