「コラボ」って、余所ではあまり言わないでね2010/07/04 13:28:50

『ボッシュの子
 ナチス・ドイツ兵とフランス人との間に生まれて』
ジョジアーヌ・クリュゲール著 小沢君江訳
祥伝社(2007年)


痛そうなタイトル……。
毎日蒸し暑くて、じめじめしてて、何するにしても意気上がらない日々にこんな本を読むとますます気が滅入る。といっても内容にケチをつけているわけではない。
漠然と承知していたはずの事柄だったけど、今さらな感じで事細かな明細書を突きつけられ、その悲惨項目を一つずつ確認してチェックマークつける、というか認印を捺印させられるみたいな、暗澹たる思いのまま読み終えねばならない。文章は淡々と、ああだったこうだったと事実を述べている。「あまりに淡々としていて却ってそら恐ろしい気分になる」といった類の文章ではない。淡々と書き綴ることに何の効果も求めていない。むしろ、著者はありったけの感情を込めてもいる。しかし、そこはおそらく書き手としては素人なので、表現にあまり工夫がなく、肩透かしを食らうというのか、へ、それだけ?みたいに盛り上がりに欠けたり、読者を欲求不満の溜まりに置き去りにしてさっさと次のトピックに移ってくれたりする。
この本は、読者をある種の世界に誘(いざな)うとか、読者に何がしかの分野に関心をもってほしいとか、何も要求していない。ただ、今まで黙っていたけれど語る気持ちになったから語ります。そういう姿勢だ。ナチス・ドイツ兵とフランス女性の間に生まれた「禁じられた愛の結晶」たちはフランスに20万人いるそうだ。周囲から白眼視されたまま悶々と生きていた彼らに、ようやく、戦後60年という時間が、ようやく語りたいという気持ちにさせた。著者ジョジアーヌ・クリュゲールはそのひとりなのである。

ちょっとワタクシゴトに逸れるが、留学時代、間借りしていた家はユダヤ系フランス人とドイツ人のカップルだった(破局したけど)。そのユダヤ系フランス人のジュディットは、自分の両親がパートナーのことを良く思ってくれないのは「彼がドイツ人だからというのが大前提にあるのよ……彼の責任じゃないのに」とため息をついていた。
現代の、《戦争を知らない子どもたち》の恋愛にさえ「かつてナチスが存在したこと」は暗い影を落とす。
ドイツ人であることは彼の責任じゃない。それ以上に、仏独カップルの間に生まれた子どもに、その出自に関する責任はない。子どもには出生地も親も選べない。しかし出生地や「親が何者であるか」によってその処遇が理不尽にも左右されることの、どれほど多いことだろう。そんな例は私たちの身近にも嫌というほどある。

本書は、好んでそんな境遇に生まれたわけではないのにそんな境遇のせいで人生の歯車が老いるまで噛み合わなかったある女性の半生の記録である。

著者はとかく男性とうまくいかない(誰かさんみたいだよ)。
著者の母親は戦時にドイツ兵を愛した。そのことをけっして恥じてはいない(と著者は思っている)のだが、自分の口からそのドイツ人のことはついぞ語ったことがなかった。娘にも隠し通し(隠しきれてなかったのだが)、後ろ指をさされても陰口を叩かれても、知らぬ存ぜぬを通してある意味毅然と振る舞った。そのこと自体は悪くはなかっただろうが、娘は母がどのように人を愛したか、なぜ、どんなふうに父と出会って愛するようになったかひと言も聞かされることはなかった。母親はただ黙って働き続けた。そして、ある日突然フランス人男性が現れて家に居座るようになり、あっという間にぼこぼこと、著者にとっての異父兄弟たちが生まれた。母親は、お母さんに恋人ができたのよ、とか赤ちゃんが生まれるのよとか何もいってはくれなかった。ただ事実が目の前で説明されないまま展開されていき、著者にとって非常に居心地の悪い家庭が形成されていく。
著者は14歳で家を出て働き始める。
母親が、あなたのパパは素敵だったわとか、新しいお父さんはこういう人なのとか、あるいは青春時代の異性との出会いとかについて少しでも娘に語っていれば、著者はもう少し器用に恋愛できたんじゃないかと思わなくもない。当然、著者にも恋が訪れるが、不器用すぎてどうすればよいのかわからないのである。

また、新しい伴侶との間の子どもたちと著者との関係は非常に険悪なのだが、そこは当人たちにはあまり理由も責任もなく、母親が仲介役をまったく果たさなかったせいなのだ。

帰る家もないに等しい。
著者は、アレックスという男性と出会って結婚する。だがそれも、彼が生涯の伴侶だと思ったというよりは、自分だけの家庭をもちたいという気持ちが先行したのだ。アレックスとの間に男の子が生まれるが、アレックスとは離婚に至る。そののち、マイクと出会って暮らしを共にするが、最初から負け戦、つまりいつ破局してもおかしくないような暮らしかたではあった。しかしそのマイクが力を尽くしてくれたおかげで、ドイツ兵だった父の、在ドイツの家族と連絡がとれるようになり、彼らとのかかわりが思いのほか幸福な方向へ進むのである。このことはジョジアーヌにとっては奇跡に近い福音だった。なのに、そのきっかけをつくってくれたのはマイクなのに、彼との間には子どもも生まれるのに、不幸な破局を迎えて終わってしまう。

著者は、近隣の住民から、学校の教員から、クラスメートから、ドイツ人の血を引くというだけで罵倒され蔑視される。温かい目を向ける人もいなくはないが、十分ではない。学校で一番の成績をとることができたから、それまで暴言を投げていた教師も黙るようになったりするが、とにかくいつも著者は孤独だ。
子どもに「K」で始まるカールという名前をつけたとき、看護師や周囲から名前の由来を聞かれて「私の父はドイツ人ですから」ときっぱり答えたとき、相手の目の色顔色態度が大なり小なり変わるのを目の当たりにしたが、もうその頃には、ドイツ兵が父であることのハンディキャップを自虐的に楽しむようになっていた。

著者の母親はドイツ兵と愛しあった2年間を封印し、開示することなく闇に葬り去ると同時に、自分自身も目を外へ向けようとはしなかった。戦後、長い長い時間をかけて、世の中の「常識」が変移していき、かつての偏見も少しずつ影を潜めていく。しかし、母親にとって禁じられた愛は永遠に禁じられたままであり、その結果としての娘(おそらく父親似である)の存在は、たぶん疎ましいばかりだったのであろう。彼女は何もいわないまま亡くなった。

著者のような人々にようやく光が当たるようになり、語る人々が出始め、テレビが取り上げるようになると、にわかに世界が動く。20万人の「生まれるべきではなかった」子どもたちにようやく、自身のルーツを求めてドイツを訪問したり、父親の墓参をしたりということが許されるようになった。

本書は小説ではない。事実と著者の気持ちが時系列で綴られているに過ぎない。実に正直に、飾り立てることなく語られている。物語性は考慮されていないので、物語と思って読むとつまらない。第二次大戦が仏独に遺したいくつもの大きな傷跡の、ひとつの形の、一例である。



街を歩いていると、「コラボ」という名のカフェがあった。「COLLABO」と綴られていた。それを見てフランス人が仰天した。日本人の私たちは長たらしい外来語をよく略したり縮めたりして用いる。コラボレーションのことをコラボというのもそのひとつだ。
「それはもちろん、わかるよ。フランス語だって同じさ。でも、ことこの言葉に関していうとさ、collabo、とだけいうと、それはナチ占領下の対独協力者の意味にしかならないんだよ。僕らのような戦後の世代だってcollaboという語を見るとぎょっとする」

「コラボ」という語は「ボッシュ」(ドイツ野郎=ナチ野郎)という語と同じく、強い敵意を含んでいるのである。

みなさん、だから、協力するという意味の言葉を外国で発言するときには略さずにcollaborationとはっきり言ってくださいね。