L'Analphabète ― 2011/08/15 02:47:57

アゴタ・クリストフ著 堀茂樹訳
白水社(2006年)
ずっと『悪童日記』三部作を読みたいと思いながらけっきょく、作家の存命中には叶わなかった。アゴタ・クリストフの訃報を目にしたその日かあるいは翌日か、別の用事で出かけた図書館で『文盲』を見かけたので借りた。
「自伝」というサブタイトルがついているけれど、エッセイ集といったほうがよい程度の内容である。軽いという意味ではない。たぶん、アゴタ・クリストフの自伝というならよほど『悪童日記』そのもののほうが近いはずだ。自伝、だろうと、他伝、だろうと、伝記というものに対して読者はもっと詳らかな内容をふつうは求めるものだと思うので、エッセイといったほうがいいんじゃないかと思ったのだ。本書は、彼女が郷土を離れ、やがてフランス語で書かざるをえなくなるまでの彼女の人生を「つぶさに」書いているわけではないから。
だが、敵語の習得を強いられ、家族は離散し、スイスへ脱出し、腹をいためたわが子とは母語ではもはや話せない……という、およそアイデンティティをもぎ取られびりびりと裂かれるような半生を送りながら、それらをなんでもなかったように綴る作家の筆致は、どんなに詳細な伝記が語ってみせるよりも、アゴタ・クリストフという名に代表されるすべてのディアスポラ※たちが負った傷と覚悟と祖国愛を行間ににじませて、読者に動悸を覚えさせる——それが本書である。
※ここでは「パレスチナ人」の意味ではなく、一般的な「離散移住者」の意味で使っている。
《私が九歳のとき、家族で引っ越しをした。引っ越し先は国境に接する町で、その町では、住民の少なくとも四分の一がドイツ語を話していた。ハンガリー人であるわたしたちにとって、ドイツ語は敵語だった。なぜならそれは、オーストリアによるかつての支配を思い起こさせたし、しかも、当時わたしたちの国を占領していた外国の軍人たちの言語でもあったからだ。
一年後、わたしたちの国を占領したのは、また別の外国の軍人たちだった。ロシア語が学校で義務化され、他の外国語は禁止された。
ロシア語に通じている者など一人もいない。それまでドイツ語、フランス語、イギリス語といった外国語を教えていた教師たちが、数カ月間、ロシア語速修のための授業を受ける。しかし、彼らはそれでほんとうにロシア語に習熟したわけではなく、しかもその言語を教えたいという気持ちなどまったく持ち合わせていない。そして、いずれにせよ、生徒たちの側にもロシア語を学びたいという気持ちがまったくない。
そこに生まれたのは、国を挙げての知的サボタージュ、申し合わせもなく、当然のことのように始まった自ずからの消極的レジスタンスであった。
ソビエト連邦の地理、歴史、文学も、同じように熱意の欠けた雰囲気の中で教師たちが教え、生徒たちが学んだ。無知なる世代が一つ、多くの学校から巣立っていった。
そんなわけで、二十一歳にしてスイスに、そしてただただ偶然に導かれてフランス語圏の町に辿り着いた私は、まったく未知の言語に直面させられた。そして、まさにそのとき、私の闘いが始まった。その言語を征服するための闘い、長期にわたる、この懸命の闘いは、この先も一生、続くことだろう。
私はフランス語を三十年以上前から話している。二十年前から書いている。けれども、未だにこの言語に習熟してはいない。話せば語法を間違えるし、書くためにはどうしても辞書をたびたび参照しなければならない。
そんな理由から、私はフランス語をもまた、敵語と呼ぶ。別の理由もある。こちらの理由のほうが深刻だ。すなわち、この言語が、私の中の母語をじわじわと殺しつつあるという事実である。》(40〜43ページ、「母語と敵語」より)
と、このようなくだりを読むと、ゆとりとか何とかいって教える量を減らし学べる子らにみすみす学ばせないという愚策を弄したどっかの国とか、入学式には国歌を絶対歌え、起立して斉唱しなければ罰するだのなんだのいっているどっかの国とか、ほんまにアホやんな、としみじみ思うのである。
《まず、当たり前のことだが、ものを書かなければならない。それから、ものを書き続けていかなければならない。たとえ、自分の書いたものに興味を持ってくれる人が一人もいなくても。たとえ、自分の書いたものに興味を持ってくれる人などこの先一人も現われないだろうという気がしても。たとえ、書き上げた原稿が引き出しの中にたまるばかりで、別の原稿を書いてるうちに前の原稿のことを忘れてしまうというふうであっても。》(75ページ、「人はどのようにして作家になるか?」より)
《さて、人はどのようにして作家になるかという問いに、わたしはこう答える。自分の書いているものへの信念をけっして失うことなく、辛抱強く、執拗に書き続けることによってである。》(83ページ、同)
作家という職業人は、やはりすごいのである。最近YA小説づいていて、けっこう片っ端からいろいろな作品を読んだのだが、ヤングアダルト書いてても、書き手ご本人がけっしてもうヤングアダルト世代でなく成熟した大人である場合、作品は安心して読まれる仕上りである。だがご本人がまだヤングであると、用字用語に破綻が見られたり、ストーリーの軸がぶれたり冗長になったりと、よほどの物語好き本好きでなければとてもページをめくり続けられないぞと思うようなシロモノだったりする。それでも本にしたのだから、出版社も編集者もこの子を一人前に育てる覚悟と気概があるんだろうなとついドアを蹴り破って凄みに行きたくなってしまう(笑)。
1935年生まれのアゴタ・クリストフがフランスのスイユ社から『悪童日記』を出版したのは1986年のことである。50歳を過ぎてのデビューである。4歳にして新聞をスラスラ読めた聡明な少女は、時代に翻弄され、母語ではない言語で書いた小説を世に問うまで数十年を要した。彼女の成功は、本人の言を借りれば、信念を失わず執拗に書き続けたことにある。つまりしつこくこだわって書き続けろってことだ。作家は自由である。何からも束縛されず、何によっても拘束されない。自分をシメるものがあるとすればほかならぬ自分自身だろう。すなわち自由であるとは簡単なことではない。ないが、自由でなければたぶん、信念を失わずになどいられない。
アゴタ・クリストフは、学ぶ機会と言語を奪われ、生き延びるために郷土を捨てた。父と母と兄弟と離散し、祖国を列強に占領され続けながら、彼女はけっして心の自由を捨てなかった。自由とは崇高な概念であり状態である。生きる時代と場所が異なっても、作家というからには、この「自由」をもたなければ、自由であり続けなければ、作家ではありえない。
*
数日前、エリュアールの詩、「自由」を試訳した。
前からこのリベルテという語について思っていたことがある。
リベルテというフランス語は、他の何ものにも侵蝕されない。
このことは、言語の違いからくる要素もあるのだが、だからしょうがないのだが、かなり大切なことである。
日本語の「自由」は他の語と連結したとたん陳腐になる。
自由党 自由主義 自由大学 自由人 ……などなど、どれも胡散臭くて嘘臭い。何かと繋がるとそんな怪しい語になりさがる。
「liberté」は名詞だからこの形のままの場合、修飾されることはあっても他の語を修飾することはない。
自由党はparti libéral
自由主義はlibéralisme
自由貿易はlibre-échange
自由市場はmarché libre
※自由大学とか自由人なんつう意味不明な語は存在しない。
熟語を自在に形成できるのは漢語の良さだが、言葉ばかりが立派になって実をともなわない「造語」に甘んじている語も多い。
日本語の自由という語は、そもそも生まれが翻訳であるせいか、翻弄されて勝手な用法を許してきた。そんな芸当ができるのも日本語の良さとはいえ、この「liberté」のように崇高な意味を保ったまま敢然と他の語を圧倒してヴォキャブラリーの海上にすっくと佇むのを見ると、連結自在の漢語の駆使にも節操が求められるよな、それにやっぱ日本語の「自由」って虐げられてきてるよなと思う。
ああ、8月15日だ。敗戦記念日だ。敗れてあの戦争を終えたことに、日本人が誇りを持てるようになるのはいつのことなのか、と問い続けて、60年以上経って、その議論も少しずつ実をともなうものになろうとしていた矢先に、未曾有の大震災と、ポンコツ原発の故障が起きてしまった。独裁と独占と癒着の末に綻び穴だらけになっていた原発は、たとえ大打撃を受けても地震と津波によるものだけだったら何とか立ち直れたかもしれない美し国東北をずたずたにした。非を認めてもう一度やり直す、そのための、なにものにも依らない迎合しない「自由」を、わたしたちは持ち合わせているのか。