Donc, c'est pour ça...2014/04/10 09:03:25

『遊覧日記』
武田百合子 著 武田花 写真
ちくま文庫(1993年)


娘の友達の進学祝いに、ノートやらペンやらを揃えながら、ふと、小さな本はどうだろうと思って考えた。小さな本、というのはサイズのことではなく、もらったほうがべつに重く感じないで済む、という意味だ。その子はいずれ海外留学も計画しているので、なんか「世界に羽ばたく」感全開!の本がいいのかなと思ったけど、ではなくて武田百合子のエッセイの文庫にした。

武田泰淳のある小説が気に入って、その流れで武田百合子のことを知った。読みたい読みたいと思いながら後回しにしていて、いまさらながらなんだがようやく去年、2冊の文庫を入手し、しみじみ読んだ。『ことばの食卓』と『遊覧日記』だ。


私は、文章書きの例に漏れず須賀敦子の文章が好きで(みんな好きだよね?)、こんなふうにしっとり書けたらいいなあと読んでは溜め息をついている。
ある時、装幀のたたずまいがいたく気に入ったある随筆集を衝動買いした。外国暮らしの長い日本女性の、その滞在先でのあれこれを綴ったものだった。きれいな文章なんだけど、「須賀敦子さん意識しまくり」が見事に透けて見えてしまう。いや、これは私が須賀ファンなのでそのように読んでしまうのかもしれない。すぐれたエッセイに与えられるそれなりの文学賞を受賞されている人なので、私ごときが難癖つけるなんておこがましいけど、そしてなによりご本人は須賀敦子に似せてる気なんて微塵もないかもしれないのだけど、でも、この本には須賀敦子の文章にあるような「かの地の空気」はなくて、須賀敦子っぽい文体と構成は、ある。とそんなわけで、衝動買いしたけど、期待はずれでがっかりした本の巻、だった。

武田百合子のエッセイは、とても、いい。
文法や、文章を書く上でのルールとか、細かいことで突っ込める箇所は、実はたくさんあるけれども、とてもきれいな日本語である。須賀敦子のように異国の空気をそのまま目の前に運んでくれるようなことはないけれど、武田百合子の描写はストレートで、ふだんどうでもいいような、見逃してしまいそうな、日常の断片を読者の代わりに観察してつぶさに綴りあげる。それを読んで読者は、まるで対象を武田と同じように見ている気持ちになる、のではない。むしろ、そんなふうに見て書いてしまう武田百合子というご婦人の、ものを見る目に感心してしまう。人って怖いな、と思うのだ。

娘の友達には、手元にある2冊のエッセイ集を読み比べて、『ことばの食卓』のほうを贈ることにした。いや、自分が読んだやつじゃなくて、新たに買いましたけど。『ことばの食卓』のほうが、話題がより平坦で、だからこそひとつひとつの言葉がきらめいて見える。ぞんざいな言葉遣いをしがちな若者には、また、英語至上主義に踊らされて、目が外ばかりに向きがちな若者にはこちらのほうがいいと思った。

で、『遊覧日記』である。
「遊覧」つまり物見遊山日記である。いいなあ。羨ましー。
《夫が他界し、娘は成人し、独りものに戻った私は、会社づとめをしないつれづれに、ゴム底の靴を履き、行きたい場所へ出かけて行く。》(10ページ)
羨ましいでしょ?(笑)
浅草がお気に入りだったそうで、浅草へのおでかけ記が冒頭から3編続く。私には浅草へは若い頃一度、半日ほど歩いた経験しかない。その記憶の浅草も相当古いが、武田百合子の描く当時の浅草も、また昔のものだ。だが、浅草という土地のイメージが醸し出す何かが、エッセイを極端にノスタルジックなものにはしていない。武田の、風景や人物を描写する筆致におかしみがあって、対象はなんであれ、自分もこんなふうに描き出したいと思うのだ。
《女はワニ皮の大きなハンドバッグを、しわ深い膨らんだ指で大切そうにいじりながら、池を見ている。紫色の光るブラウスと豹の模様のビロードのスーツに、肥り返った体を押しこみ、ひすい色の耳輪をぶら下げている。厚く塗った白粉と口紅の横向きの顔は、六十を過ぎていそうだ。それでも元気そうだ。立派だ。年季の入ったストリッパーかもしれない。》(16ページ)
《いやに彫りが深くて色白の、元美貌、そのため却って、お金のなさそうな人にみえる老紳士》(34ページ)

上野や富士山麓の章があり、京都の章もある。いろいろなところヘ行って、こんなふうに旅や散策を綴れるっていいよなと思う。しかし、最後の章「あの頃」を読み、深く反省する。
武田百合子が晩年どのように、好きに、気ままに生きたとしても、誰に何を言われる筋合いはないというものだ。「あの頃」を生きた人であるからには、「あの頃」以降に生まれた者は一生逆立ちしてもかなわない。
「あの頃」とは終戦間もない頃。焼け出されて弟とその日暮らしをしていた頃。進駐軍のいいなりになるしか生きる術のなかった日本と日本人の頃。
だが、「あの頃」の章ですら、おかしみに満ちていて、人間、こうでなくちゃ、物書き、こうでなくちゃ、とやはりしみじみ読むのである。

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