「書くということ」の崩壊(1) ― 2010/06/12 20:13:33
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『加速する日本語の崩壊
——「書く」教育で表現水準の再現を』
書家 石川九楊
京都新聞2010年6月11日(金)刊 11面
(冒頭一段落省略)
「書」という名詞は「書く」という動詞で裏打ちされている。作者が言葉を書くことと、その言葉の書きぶりを再現的に鑑賞すること—この関係に書の美学は成立する。文字の書きぶり(=スタイル)である書体は、文の書きぶりである文体と密接な関係にある。つまり書は、世で漠然と考えられているような美術、ましてや舞踊ではなく、文学に属するのである。
日本語では「キカイ」と発音しただけでは、言葉は伝わらない。「奇怪」か「機械」か「機会」か「鬼界」か、文字を思い浮かべて会話する。「文字を話し、文字を聞く」言語だからである。このような文字(=書字)中心言語においては、習字(「文字=語〈ことば〉」とその書法〈かきかた〉を習う)教育が重要かつ必須である。
英文は語を構成するアルファベットを横につづるが、漢字文では点画や部首を一個所にまといつけるように組み合わせて「文字=語」とする。語の構成法こそ異なるものの、このように漢字の点画は、アルファベットの一文字に相当する。アルファベットを知らずに英文はつづれない。同様に、漢字の点画とその数や長短、構成位置等の規範書法を知らなければ満足な漢字文は書けはしない。そして、活字体は印字用の俗体。書字の規範は、唐代初めの楷書〈かいしょ〉体を基盤とする筆記体にある。
たとえば、明朝体では、「口」と「日」の第二画は同じように直角にデザインされているが、「口」字では折釘〈せってい〉といって、横筆から転じた縦筆は左下へ進み、「日」では曲尺〈きょくしゃく〉とよんで垂直に下方に進むように書くのが歴史的な綴字〈ていじ〉規範である。
パソコンとそのネットワークの普及により、やがて書くことは終焉〈しゅうえん〉し、子供たちも画面上で漢字を学習するようになると空想する人もある。だが、筆記具の尖端〈せんたん〉が紙と接触・摩擦・離脱する筆触〈ひっしょく〉—その「手ざわり」「手ごたえ」「手順」—を伴って、意識が言葉へと変わる日常不断の行為なくして、漢字や漢語を身につけ、使いこなすことはできない。書くことが稀薄〈きはく〉になれば、政治、経済、思想、宗教等の表現を担う漢語から日本語は急速に崩壊する。
一九七〇年代半ばまで「書くことは大切」という社会的な暗黙の合意が広く存在し、家庭でも学校でも社会でも文字に対して口うるさかった。それが壊れた今、日本語の崩壊は加速している。
(一段落分 中略)
信じがたいという人は、子供の鉛筆の持ち方をのぞいてみるといい。そこに、書くことを忘れた世界最悪のぞっとするような光景を目撃することになるだろう。今必要なのは、のんきな「ダンス書道」や「漢字遊び」ではなく、鉛筆の持ち方、基本点画の書法に始まる抜本的な書字教育の再建なのだ。
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信じがたいという人は、ウチのさなぎの鉛筆の持ち方も見てやっておくれ(泣)世紀末生まれの子どもたちの、文字どおり世も末の恐るべき「書きかたの崩壊ぶり」。それでもヤツは鉛筆、しかも2Bのしか、使わないので許してやってくれ。手紙書きまくり、交換日記回しまくりの古風な中学生なので許してやってくれ。筆記用具を用いて字を書くということのほとんどできない子どもを私は知っている。
キーを叩いているだけにすぎないのに偉そうに「書く」ことを云々する傲慢を自戒する。するけど、続く(笑)。
新しいシネマアピエです ― 2010/05/23 00:46:02
縁あってずっと寄稿しているシネマアピエ。でも、正直言うと毎号の「お題」にかなり四苦八苦している。
私は本が大好きだけど小説を知らないし、三度の飯より映画じゃっなどと気合いが入っていた時期も、観る映画の偏りかたは今思うと凄かった。だから誰でも知っている映画や俳優とかをあんまり知らないのである。
今号、ミステリー特集である第6号の編集後記で編集長殿は「河原町二条でジュード・ロウを見た!」などと書いておられるのだが、読んだ私はええっほんとぉすごいなあいいないいな、とまずはミーハー面目躍如、しかし続いて「……でもジュード・ロウって誰?」というありさまである。
「お母さん、把瑠都って相撲界のなんとかって呼ばれたはんねん。えっと、誰やっけー? 名前ど忘れした。外国のイケメン俳優、知らん?」
「んんーと、相撲界のハリソン君?」
「それ誰?」
「何ゆーてんの、スターウォーズのハン・ソロやん」
「ああ……そんなんいたなあ。もう顔忘れた。でももうおっちゃんやろ、その人。そんなんと違う」
「……違うやろな。相撲界のシュワちゃん、なわけないなあ。相撲界の、嫌いやけどアランドロン、とか今出てくるわけないやんな。ジェラール・フィリップもありえへんし。相撲界のジェームス・ディーン。あかん、死んだ人しか出てきいひん」
「え、今出てきた名前の人、みんな死んでんの?」
「みんなとちゃう、生きてる人もいる」
「えっとぉー誰やったかなあ。アメリカの、誰でも知ってる人気のある人」
「さなぎもその俳優さん好きなん?」
「ウチは名前しか知らん。顔、わからへん」
「ほな把瑠都に似てるかどうかはわからへんねんな」
「似てるから、と違て、かっこええからそう言われてんねん」
「ジョニーデップ、ちゃうなあ」
「ジョニーデップやったら、ウチ顔知ってる」
「素顔は知らんやろ」
「たしかに」(笑)
「アメリカのチョー人気俳優かあ。キャメロンディアス、なわけないし」
「ああああああああおっもいだしたーーーっっっディカプリオっ」
「ああ、はいはい。ディカプリオ。なるほど。そやけど、どんな顔したはったっけ?」
「さあ。把瑠都みたいな顔なんちゃう?」
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ミステリー映画について原稿くださいね、と連絡をいただいて初めて、そのジャンルの映画をほとんど観ていないことに気がついた。そりゃ過去に、多少は観たことはある。でもヒッチコック映画と横溝正史の推理小説を映画化したもんくらいである。というか、何をもってミステリーというジャンルに分類されるのかがわからないので、もしかして、他に観ているものがあったとしても、それがミステリーなのかわかっていないのである。そういうことに改めて気がつき、近所のレンタルショップのミステリー&ホラー棚を眺めて、観た記憶のあるものを確認していくことから始まった。フランス映画を題材に書きたかったが、目にタコができるほど(などという表現はないけれど)観た『死刑台のエレベーター』くらいしか思いつかなくて、あまりに古典的なのでやめとこ、と思いながら、それでも果敢に(というのは嘘でかなり絶望的かつ面倒くさいよもうっという気分になりながら)探していて発見したのが『黙秘』のDVDケース。おおおおっあったじゃんあったじゃん。これはいいネタを見つけたぞ。
「隠しても罵っても、語り合っても、母と娘」という題で寄せた拙稿、ご関心あればぜひお読みください。
入手方法などはこちらで。
http://apied.srv7.biz/apiebook/shop.html
映画作品『黙秘』について。
原題:DOLORES CLAIBORNE
製作年度:1995年
監督:テイラー・ハックフォード
上映時間:131分
キャスト:
ドローレス:キャシー・ベイツ
セリーナ:ジェニファー・ジェイソン・リー
※スティーヴン・キングの原作は『ドロレス・クレイボーン』のタイトルで文春文庫から。これも超おすすめ!
四角い言葉と丸い言葉 ――水俣(3) ― 2010/05/04 19:47:21
美しい自然はいっぱいあるんだけどいちいち「入場料」が要るってのが困るよね。
藤原書店『環』Vol.2(2000年夏号)
42ページ
〈特集〉『日本の自然と美』より
対談『魂と「日本」の美ーー水俣から学ぶ』
鶴見和子(社会学者)
石牟礼道子(作家)
季刊誌『環』のこの号が、私と「水俣病」との再会であった。
とうの昔に風化した過去の事件のように、この三字熟語が想起させるある種の事実の上澄みは頭の片隅にはあったけれど、「それ」が「何」なのかはもちろん知らなかったし、わかろうという意思も持ち合わせていなかった。私はべつに、どのような事件であれ被害者救済の会といった類いの活動に関心はなかったし、公害病の研究者でもなければ環境破壊防止や動物愛護を訴える(胡散臭い)活動家とも縁がない。ただ、水俣病にかんして言えば幼少の頃にやたらと耳について離れないほど報道が盛んにされていた記憶があって、もっとのちにチェルノブイリとか世界ではいろいろと起こるわけだけれども、そうした、大人になってから見聞した「許せないいろいろな事ども」 とは少し異なった色を帯びて私の中にあったのは確かだった。
42ページから63ページまで、この対談は、いささか冗長に続く。正直に申し上げるが、この対談記事、何をくっちゃべってらっしゃるのか、最初は全然わからなかったのである。なんといっても憧れの鶴見和子なので、私はなんとか理解したかったのだが、対談記事なので言葉は非常に平易なのだが、ふたりの口にのぼる話題の要素(エレメンツ)にかんする知識がない。(※この号に限らず『環』が自宅に届くたび、そして記事を読むたび同じ思いをするんだけど)
ふたりは水俣について語り合っている。
石牟礼道子はその当の土地の人間であり、水俣病を題材に小説を書いている作家である。対して鶴見和子はまったくの外様であり、「東京からの研究者」として同僚とともに水俣入りした経験をもつ。その際に石牟礼に会った。石牟礼は、現地の被害者、患者たちと鶴見ら研究者一団の仲介役をした。そのときから25年程度経って、当時の経験を振り返り、水俣の過去と現在と未来について、「日本の美」という観点から思いつくままをあーだわねこーだわねそうよそうよそうだったわよきっとそうなるわよ、と語り合っておられる。
この中で、鶴見が柳田國男から助言を得たというエピソードを明かしている。この助言がなかったら、自分は、水俣だろうとどこだろうと社会学者として訪ねる資格をもち得なかっただろうという重要なアドバイスだ。
《柳田先生がこう言われたの。「外国からいろんな学者が来ます。だけど日本には二つの違う種類の人間がいるんですよ。一つは四角い言葉を使う人種、もう一つは丸い言葉を使う人種がいるんです。外国の学者はみんな四角い言葉を使う人にだけ話を聞いて帰るから、日本のことはさっぱりわからない。だからあなたはほんとに日本社会のことが知りたいなら、丸い言葉を使う人の話をお聞きなさい」って。もう私はそばで聞いててびっくりしたの。》(50ページ)
正確には鶴見へのアドバイスではなく、鶴見が柳田のもとへ案内した外国人研究者に対して柳田が発した言葉であったのだが、鶴見には、このとき以前に生活言語にかんするフィールドワークを通して得たある見解があったので、柳田の言葉が文字どおり腑に落ちたのである。それを経て、水俣へ行った。水俣へ行くと、丸い言葉はさらに輪をいくつも重ねた二重丸三重丸の言葉となる。ここではいわば四角い言葉の側の人間である自分は、石牟礼道子という四角と丸のあいだを行き来するシャーマンがいなければ、水俣の人々のどんな言葉も理解し得なかったであろう。と、そのようなことをおっしゃっている。
私は、その二重丸三重丸の言葉ってどんな言葉なのかと素直に疑問に思い、素直に水俣という土地に興味を惹かれたのであった。
※私はもともと方言の姿というものに関心があって、フランスにいるときもいわゆるパリジャンのフランス語には興味がなく、滞在していた南の方言(オック語やプロヴァンサル)や訛り(アクサン・ミディ)を真似しながら、カタルーニャ語やイタリア語との類似性はいかに、みたいなことを論ずる授業を受けたりしていた。
対談記事の次には、水俣病患者のひとりで旧水俣病認定申請協会長を務められた緒方正人さんの講演録が掲載されている。こちらは、チッソが垂れ流し続けた水銀に身も心も故郷も引き裂かれた当事者として、同様に平易な言葉ながら、ひと言ひと言がやたらと心に突き刺さる。ただし、それでも、知識のない者にはピンと来ない。水俣病の被害はあまりに大きすぎ、傷はあまりに深すぎて、その傷痕からはまだまだ膿みが出て尽きることがないようなのだが、その厳しい現実が私たち門外漢にはわからない。だから、この特集(は、水俣の特集ではない。日本の自然と美の特集である。このあとに自然美としては沖縄も瀬戸内海も出てくるし、生活や芸事における日本の美しさも論じられているのである)を、鶴見×石牟礼対談と緒方氏講演録をどちらを先にどう読んでも水俣のことも丸い言葉のありようもわからない。べつに、わからなくってもよかったんだけど、わからないままにしておくのは何となくキモチ悪かったので、読破できる自信はなかったが、その昔気まぐれに古書店で(たぶん)買った石牟礼の『苦海浄土』を読み始めたのだった。
購入当時の私の頭はこういった書き物をまったく受けつけなかったのか、叙情あふれ不知火海への愛に満ちた石牟礼の筆致を理解するキャパがなかったのか、とにかく私はほとんど読めた記憶がなかったのだが、歳はとるものである。何十年も生きているということが役に立つってこういうときだよね、としみじみ思う。『苦海浄土』についてはまた今度。
チェチェンニュースからのお知らせ再掲&追記 ― 2010/04/02 11:00:43
よろしくお願いします。
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Sun, 21 Mar 2010
チェチェンニュース #331(転送・転載歓迎)
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■『アンナへの手紙』上映会 in 練馬
チェチェンとロシアを巡り、静かな感動を呼ぶ映画、『アンナへの手紙』が、練馬区で再び上映されます。チェチェン音楽や、写真のパネル展示なども予定されており、練馬に「小さなチェチェン」が現れるとのことです。ぜひとも、足をお運びください。
日時 2010年4月2日(金)19:00~21:30(くらい?) 開場18:30
会場 大泉学園ゆめりあホール
http://www.neribun.or.jp/oizumi/
参加費 一般1,000円 高校生以下500円
主催 市民の声ねりま
(チケット申し込み、お問い合わせは)
練馬区東大泉5-6-9 池尻成二事務所 03-5933-0108
siminnokoe[at]nifty.com
ドキュメンタリー映画「アンナへの手紙」
2008年 スイス ドキュメンタリー 83分
監督:エリック・バークラウト
作品提供: Refugee Film Festival (難民映画祭)
日本語字幕:日本映像翻訳アカデミー
プーチン大統領が54歳の誕生日を迎えた2006年10月7日、ロシア政府をもっとも厳しく批判し続けたジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤは、モスクワにある自宅のエレベーター内で暗殺された。娘に子どもが生まれることを喜んでいた矢先の悲劇だった。
彼女は、一党独裁に近づくロシアの各地を歩き、格差の広がる地方の人々の声を拾い集めた。そして、世界から見捨てられた、チェチェン共和国への軍事侵攻の実態を暴き、弱者に常に寄り添ってきた。
一人の女性の人生を辿りながら、ロシアの闇に切り込むドキュメンタリー。彼女の死から3年。決して忘れられてはならない人が、ここにいる。
上映後、トークイベント開催!
鼎談
寺中 誠(アムネスティ・インターナショナル日本事務局長)
林 克明(ジャーナリスト)
大富 亮(チェチェンニュース)
●アンナ・ポリトコフスカヤとは
ロシアのジャーナリスト。1958年生まれ。1980年、国立モスクワ大学ジャーナリズム学科卒業。モスクワの新聞「ノーヴァヤガゼータ」紙評論員。1999年夏以来、チェチェンに通い、戦地に暮らす市民の声を伝えてきた。「ロシアの失われた良心」と評され、その活動に対して国際的な賞が数多く贈られている。2004年、北オセチアの学校占拠事件の際、現地に向かう機上で何者かに毒を盛られ、意識不明の重態に陥った。回復後、取材・執筆活動を再開する。
2006年10月7日、モスクワ市内の自宅アパートで凶弾に倒れた。著書に『チェチェンやめられない戦争』(NHK出版)など。
●チェチェン戦争とは
ロシア南部に位置するチェチェンは、19世紀にロシアが併合した地域で、先住民族のチェチェン人が人口のほとんどを占めている。1991年のソ連邦崩壊の際、チェチェンは独立を宣言したが、1994年、ロシア政府は武力侵攻を開始した。この戦争によって、人口100万人のうち、すでに20万人の民間人が犠牲になったと言われている。
●ロシア社会の状況
1991年にソ連邦が崩壊し、共産党による一党独裁の時代が終わり、ロシア社会は民主化に進むかに見えた。しかし、1994年の第一次チェチェン戦争を経て、軍や連邦保安局(FSB=新KGB)をはじめとする武力省庁が権力を拡大。その象徴が、1999年のプーチン大統領(FSB元長官)の就任と、第二次チェチェン戦争の泥沼だった。
以下は昨日届いたニュースからの抜粋です。
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Thu, 1 Apr 2010
チェチェンニュース #334
■モスクワ連続爆破事件に犯行声明
29日にモスクワで起こった連続爆破事件について、コーカサス首長国のドッカ・ウマーロフから犯行声明が出た。日本のメディアも国際面で報じている。
チェチェン独立派犯行声明 モスクワ連続爆破 東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2010040102000194.html
モスクワ地下鉄テロ「プーチン氏に報復」 武装勢力声明 朝日新聞
http://www.asahi.com/international/update/0401/TKY201004010143.html
モスクワ地下鉄爆破テロ:イスラム系武装組織が犯行声明 毎日新聞
http://mainichi.jp/select/today/news/m20100401k0000e030021000c.html
などなど。
マスメディアの情報には、重要なディティルが抜けていたので、カフカスセンターの元記事を読んでみた。
http://d.hatena.ne.jp/chechen/20100401/1270111904
『声明の中でドッカ・アブ・ウスマンは、地下鉄への攻撃が、2月11日に、イングーシのアルシュティ村で、貧しい住民たちが野生のガーリックを摘んでいた際に、ロシア侵略者が虐殺行為を行ったことに対する復讐であり、懲罰だと明らかにした』
こういう事件だった。
http://d.hatena.ne.jp/chechen/20100221/1266766192
ロシア特殊部隊が14人の市民を殺害した。ヘリによる空襲で、武装勢力20人だけでなく、ギョウジャニンニクを摘みに山に入った一般市民が殺害された。
今回の声明で、あのとき犠牲になった人々の「報復」なのだという主張はわかった。各紙がそれを見出しにしている。
しかし、やはり振り返りたいのは、チェチェンでどれだけひどい人権侵害が起こっていても無視するのに、モスクワで爆破事件が起こると一大キャンペーンが始まることだ。マスメディアというものが抱える、なにか構造的な欠陥があるのだろう。
チェチェンに対する戦争が低調になると、今度はダゲスタンやイングーシに拡大してきた。一見これは「テロリストがチェチェンから出てきた」ように見えるが、それは違う。
チェチェンでの弾圧の激しさもさることながら、コーカサスの他の地域でも大規模な人権侵害や虐殺が(今回のニンニク摘みの件のように)あるから、やはりそこでも抵抗の武装蜂起が起こっているのだ。「北コーカサスにテロリズムが広がっている」という最近の言い回しには、注意が必要だ。
復讐という言葉が出てくると、かならず訳知り顔に「復讐の連鎖を断て」とか、「テロに屈してはならない」と言い出す人がいる。はっきり言って、それは間違いだ。
独立を宣言したチェチェンに対する徹底した弾圧がなければ、こうまでこじれることはなかった。暴力は円環状に続いているのではなく、始点がある。それは、1991年に、ロシア内務省軍がチェチェンに進駐したときに始まっている。最初の間違いに誰かが責任をとらなければ、抵抗も、人々の憎しみも終わらないだろう。
一方で、ロシア側が、どんな謀略を使って「テロ」をおこさせるかということも、考えてみなくてはいけない。モスクワ劇場占拠事件を挑発したのは、ロシア側が送り込んだスパイだった。
2004年に、ベスラン学校占拠人質事件の裏面についてのエレーナ・ミラシナ記者の記事が翻訳された。ぜひ読んでほしい。(大富亮)
http://d.hatena.ne.jp/chechen/20100401/1270107514
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「和解」? 喜ぶべきことなのか 水俣(1) ― 2010/03/29 18:26:59
藤原書店の『環』という季刊誌を創刊からずっと購読してきたが、この冬号で40号に達した。つまり10年購読してきたことになる。これを機に、更新をやめた。理由は、ちまちまといろいろあるが、大きな理由の一つは、自分の中でひと通り水俣病に関するおさらいが済んだような気になったからである。『環』の購読はいわば、わたしにとっては水俣病との偶然の再会だった。『環』には創刊号から石牟礼道子の句が掲載されていて、忘れてしまっていたこの公害という名の社会犯罪についての再勉強へとわたしを駆り立てたのだ。ウチには石牟礼道子の文庫本『苦海浄土』があった。根気がなくて読まずに放置していたその本を再読し(とはいえ、ちっとも前に進めなかったが)、関連図書を少しずつ渉猟(図書館で、だけど)しながら、わずかずつでも水俣病にかんする知識をもう少し深めようと努めてきた。
わたしにとって水俣病は遠い地で起こった可哀想な出来事だった。自分の住む街は自然には乏しいが、その一方で公害とも無縁だった。幼少の頃は水俣病という言葉が連日ブラウン管や新聞紙上を賑わしてもいたし、小学校の社会科の授業にも用語として出てきたように記憶している。ただ、わたしたちは、事実の重大さは何もわかっていなかった。チッソという会社が毒を海に流したせいで奇形児がたくさん生まれた、という程度のもので、無遠慮で礼儀知らずで口の悪い小学生は、級友と悪口の応酬をする際に「チッソ」などという言葉を使って相手を罵ったりした。しかし、そんな「流行」はすぐに廃れる。報道されなければ、水俣病は、遠方にいる者にとっては、たんなる時事用語、歴史用語でしかなかった。
『環』における石牟礼道子の句はいつも水俣を詠んでいる。毎号、鶴見和子の短歌と石牟礼道子の句が掲載されたが、どちらかというと政治に斬り込むタイプの鶴見和子の歌のほうがわたしは好きであった。というよりも、石牟礼道子の句は、その5・7・5が背負わされているものが大き過ぎるように思えて、正視できなかったといっていい。
『環』を定期購読して五年くらい経った頃、水俣病認定50周年とやらで大特集が組まれた。この年、同様に50年を記念した多くの図書が刊行されたようだ。それらを一望して見えたのは「終わっていない」という事実だった。
水俣病は「問題」や「訴訟」といった熟語とくっつけて呼称される以前に、チッソという一企業が起こした犯罪であり、県や国はその共犯なのである。50年以上経ってしまって、このことを当事者も傍観者もみな、忘れてしまっている。
《水俣病問題への取り組みについて
水俣病問題は、当社が起こしました極めて残念な、不本意な事件であり、これにより認定患者の方々はもとより、地域社会に対しましても大変なご迷惑をおかけしており、衷心よりお詫び申し上げます。》
「お詫び」しているように見えて、実は、「認定患者」以外は患者とは認めないし、補償の対象でもないし、詫びる必要はないとの思惑が見える。
《当社は、これまで認定患者の方々に対しましては、1973年の協定により継続的に補償を実行しており、非認定者の方々(公的機関により水俣病患者ではないとされた方及び審査の結論が出ていない方)に対しましては、1996年の全面解決策による和解にて解決を図りました。しかし、その後2004年10月の関西訴訟最高裁判決の後、新たな訴訟や認定申請者が急増するなど水俣病紛争が再燃し、混迷の度を深めております。》
「水俣病紛争が再燃」だなんて、まるでよそごとみたいな口ぶりだ。誰かさんが責任をいつまで経っても認めてこなかったから水俣と社会が「混迷の度を深めて」いるのに、自分たちばかりが困っているような書きかたである。
《2007年には、この紛争の解決を図るため、与党水俣病問題に関するプロジェクトチームによる新たな救済案(以下PT案と称します)が示され、本年3月に到り、「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法案」が衆議院に提出され、7月8日に国会で成立しました。》
「紛争の解決」だなんて、……(以下同文!!!)
《当社といたしましては、これまでも自らその責任を重く受け止め、被害者の方への補償と地域貢献を会社の最重要課題として取組んでまいりました。今後もこの方針は変わりません。》
よくゆーよ。
《水俣病問題をご理解いただくために、これまで当社が、患者補償にいかに真剣に取組んで来たかについてのご説明をさせていただきます。》
だから「水俣病問題」じゃなくて「当社の犯罪」でしょ?
以上はチッソのウエブサイトからのコピペである。
このあと、補償協定の成立とか、融資の開始とか項目が並び、これみよがしな金額が並べられている。
それらは「あたしたちさあ、こんなに身銭切ってんのよ、ちょっとは憐れんでくれたらどうなのよ」みたいな、万引きや喫煙を見咎められ開き直った不良少女の言い訳じみたものを感じる。
《この頃には、認定患者は、出尽くした状勢となり、残された会社の責任は、生存者に対する継続補償と公的融資の返済に絞られる筈でした。しかしながら、当社には、第三次訴訟という大きな問題が残されていました。》
「出尽くした状勢」だなんて、言葉に気をつけなさいよアンタ。
このあと第三次訴訟について、まるで社会科の副読本のような第三者視点の記述が続く。
《水俣病に係わる紛争を将来に向かって全面的に解決しようという潮流が生まれました。》
チッソさん、お宅の犯罪なんだけど?
《当社としましては、因果関係が立証されていない、しかも、どれ程多数に上るかわからない対象者に対する支払いを約束することは、本来できるものではないと考えていましたが、もし、この機会に水俣病補償の問題が本当に全面的に解決するならば、それは何よりも有難いことであり、この機を逸しては再びチャンスが訪れるかどうかわからないと考え、思い切ってこの解決案を受入れる決断をしました。》
ほんとにえらかったね。なでなで。
と、こんなふうに一語一句噛みつくように読むなんてわたしくらいのもんだろうなと思っていたが、ウィキペディアにもこんな注釈が示されていた。
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チッソ株式会社は同社ウェブサイトの「水俣病問題への取り組みについて」と題するページにおいて、新救済策受入拒否の理由を説明していた。「1.これまでの経緯について 1)補償協定の成立」の項では、1973年7月に患者各派との間に締結された協定について「その成立過程においては、一部の派との間に極めて苛烈な交渉が行われました。それは、多数の暴力的支援者の座り込みによる会場封鎖の下で、威圧的言動や行動により応諾を迫られ、果ては社長以下の会社代表が88時間にわたり監禁状態に置かれるなど、交渉と言うにはほど遠いものでありました。そればかりか、多くの社員が警備中や出勤途上でしばしば暴行を受け、けが人が絶えない有様でした。」と述べるなど、これまでの補償すら同社にとっては不当あるいは過大なものであったかのような説明となっていた。なお上記の記述は、2010年3月現在「この補償協定の成立過程におきましては、大半の会派とは話し合いでの決着を図りましたが、一部の派との交渉は、多数の過激な支援者の座り込みのもとで、威圧的言動や行動により応諾を迫られ、一時は社長以下の会社代表が88時間にわたり監禁状態に置かれるなど、極めて苛烈なものとなり、さらには従業員が暴行を受けることもありました。」と変更されている。
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ハンナ・アーレントがナチスを「悪の陳腐さ」と形容したが、チッソの企業意識も思考回路も躯体構造にもこの言葉がぴったりだ。ナチスはそのトップに殺意と目的があったが、チッソにはなかった。だから「わざとじゃないもんね、だから悪くないもんね」といっている。相変わらずいっている。シラを切りとおして半世紀。ナチスより劣悪である。
「和解」は喜ぶべきことなのか?
チェチェンニュースからの転載 もう1件 ― 2010/03/25 10:55:34
お近くにお住まいの方、ぜひお運びくださいませ。
来週金曜日のイベントです。
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Sun, 21 Mar 2010
チェチェンニュース #331(転送・転載歓迎)
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■『アンナへの手紙』上映会 in 練馬
チェチェンとロシアを巡り、静かな感動を呼ぶ映画、『アンナへの手紙』が、練馬区で再び上映されます。チェチェン音楽や、写真のパネル展示なども予定されており、練馬に「小さなチェチェン」が現れるとのことです。ぜひとも、足をお運びください。
日時 2010年4月2日(金)19:00~21:30(くらい?) 開場18:30
会場 大泉学園ゆめりあホール
http://www.neribun.or.jp/oizumi/
参加費 一般1,000円 高校生以下500円
主催 市民の声ねりま
(チケット申し込み、お問い合わせは)
練馬区東大泉5-6-9 池尻成二事務所 03-5933-0108
siminnokoe[at]nifty.com
ドキュメンタリー映画「アンナへの手紙」
2008年 スイス ドキュメンタリー 83分
監督:エリック・バークラウト
作品提供: Refugee Film Festival (難民映画祭)
日本語字幕:日本映像翻訳アカデミー
プーチン大統領が54歳の誕生日を迎えた2006年10月7日、ロシア政府をもっとも厳しく批判し続けたジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤは、モスクワにある自宅のエレベーター内で暗殺された。娘に子どもが生まれることを喜んでいた矢先の悲劇だった。
彼女は、一党独裁に近づくロシアの各地を歩き、格差の広がる地方の人々の声を拾い集めた。そして、世界から見捨てられた、チェチェン共和国への軍事侵攻の実態を暴き、弱者に常に寄り添ってきた。
一人の女性の人生を辿りながら、ロシアの闇に切り込むドキュメンタリー。彼女の死から3年。決して忘れられてはならない人が、ここにいる。
上映後、トークイベント開催!
対談
寺中 誠(アムネスティインターナショナル日本事務局長)
大富 亮(チェチェンニュース)
●アンナ・ポリトコフスカヤとは
ロシアのジャーナリスト。1958年生まれ。1980年、国立モスクワ大学ジャーナリズム学科卒業。モスクワの新聞「ノーヴァヤガゼータ」紙評論員。1999年夏以来、チェチェンに通い、戦地に暮らす市民の声を伝えてきた。「ロシアの失われた良心」と評され、その活動に対して国際的な賞が数多く贈られている。2004年、北オセチアの学校占拠事件の際、現地に向かう機上で何者かに毒を盛られ、意識不明の重態に陥った。回復後、取材・執筆活動を再開する。
2006年10月7日、モスクワ市内の自宅アパートで凶弾に倒れた。著書に『チェチェンやめられない戦争』(NHK出版)など。
●チェチェン戦争とは
ロシア南部に位置するチェチェンは、19世紀にロシアが併合した地域で、先住民族のチェチェン人が人口のほとんどを占めている。1991年のソ連邦崩壊の際、チェチェンは独立を宣言したが、1994年、ロシア政府は武力侵攻を開始した。この戦争によって、人口100万人のうち、すでに20万人の民間人が犠牲になったと言われている。
●ロシア社会の状況
1991年にソ連邦が崩壊し、共産党による一党独裁の時代が終わり、ロシア社会は民主化に進むかに見えた。しかし、1994年の第一次チェチェン戦争を経て、軍や連邦保安局(FSB=新KGB)をはじめとする武力省庁が権力を拡大。その象徴が、1999年のプーチン大統領(FSB元長官)の就任と、第二次チェチェン戦争の泥沼だった。
現在、チェチェンでは親ロシア派のカディロフ大統領による傀儡政権が、民間人を誘拐・違法処刑するなど、チェチェン人同士が争い合うように仕向けられ、平和への見通しは立っていない。
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チェチェンニュースからの転載 ― 2010/03/25 10:45:05
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Tue, 23 Mar 2010
チェチェンニュース #332(転送・転載歓迎)
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チェチェンから来た二人の難民が、不認定を通告されました。
最新ニュースを兼ねて、声明文をお送りします。
大阪入管では、医療を求める難民たちのハンガーストライキが起こりました。成田では、強制送還途中のガーナ人が、機内で入管職員ともみあう中で死亡し、東京入管では、収容人数の上限に近い700人もの外国人が収容されています。
この日本で、人権侵害が進んでいます。どうか、関心を持ってください。FAXを使った要請や、カンパにご協力をいただけるとたいへんありがたいです。よろしくお願いします。
■【声明】
チェチェン人難民認定申請者の不認定に関する抗議声明
呼びかけ:チェチェン連絡会議
法務大臣 千葉景子 殿
東京入国管理局長 殿
私たちは、1994年から今まで続いている、ロシア連邦によるチェチェン共和国に対する軍事侵攻と人権侵害に反対し、平和的解決を求める運動を続けてきた日本の市民です。1991年にロシアからの独立を宣言したチェチェンに対して、ロシアは二度にわたる大規模な軍事侵攻を行い、人口100万人のチェチェンで、20万人以上もの一般市民を殺害してきました。
3月19日、法務省・入国管理局は、チェチェンから脱出し、日本で難民認定のための申請を行った2人のチェチェン人青年に対して、同時に不認定を通知しました。彼らは2年半にも及ぶ長い審査の間、最低限の生活費にも足りない支援費で食いつなぎ、健康も悪化させながら、ひたすら日本政府に難民として認定される日を待っていました。
難民の一人、シャルハン・ガカーエフさんはチェチェンのグローズヌイに生まれ、小学校5年生程度の教育を受けただけで、独立派レジスタンスとしてロシア軍との戦闘に身を投じました。チェチェン各地での戦いを続けたあと、グローズヌイでロシア軍に拘束され、虐待を受けましたが、幸いこの時は3日間で解放されました。この時ロシア治安機関の要注意人物リストに載ってしまったため、名前を変え、ロシア連邦からカザフスタン共和国に出て、さらに遠い国への脱出の可能性を探り、ついに日本にたどり着きました。
もう一人の難民、シャムハン・ウスタルハーノフさんは、同じようにチェチェン独立派の一員として抵抗に加わり、3度にわたってロシア治安機関に逮捕・投獄されたあと、日本に逃げました。難民認定を待つ間に、ウスタルハーノフさんはある百貨店でロシア人が起こした窃盗事件に巻き込まれ、それを「幇助」したとして、逮捕されてしまいました。
本人はこの事件について、最初から「まったく身に覚えのない冤罪」だと、強く否定しています。また、取り調べにあたって、本人の言い分はきちんと通訳されていませんでした。私たちの調べでも、調書にはずさんな通訳ぶりが反映した箇所が見られます。一例を挙げれば、〈「ヒロ」という支援組織から支援を受けている〉という記述がありますが、そのような組織はもともと存在せず、これは彼が支援を受けていた外務省外郭団体の難民事業本部(RHQ)が「広尾」に所在するということを、「ヒロ」という組織があると取り違えたものであり、調書を作成するにあたり、警察・検察当局が初歩的な確認さえしていないのは明らかです。
しかもこの間、RHQとの連絡は、本人からも、またRHQ側からも取ることを許されず、孤立無援を余儀なくされました。こうした、容疑者の権利を無視した裁判の結果、二審まで続けて敗訴し、本人によれば「さらに裁判を続けるなら費用は自己負担だ」と裁判関係者に言われたのを信じてしまい、まったく金を持っていなかったため、やむをえず上告を断念したといいます。これらが人権侵害でなくて、何なのでしょうか。
そしてウスタルハーノフさんは、1年半の実刑を大阪刑務所で受け、入管に移された後、すぐに難民不認定の通知を受けとったのです。難民として、生存するための一縷の望みを日本に求めた2人の若者に対して、政府が行ったのは、このような残酷な仕打ちでした。一方、ガカーエフさんに手渡された、千葉景子法務大臣名での「通知書」には、次のようにあります。
1、あなたは、本国において、チェチェン共和国の独立派メンバーとして活動した旨申し立てていますが、仮にあなたの供述を前提としても、身柄拘束されたものの3日間で釈放され、その後出国するまでの約4年間、本国に滞在していたことなどからすれば、本国政府があなたを難民の地位に関する条約(難民条約)上の迫害対象として関心を寄せていたとは認められません。
2、あなたは、チェチェン人であること及びイスラム教徒であることを理由に迫害を受けるおそれがある旨申し立てていますが、各種関係書類などから、ロシア連邦において、これらの事情のみをもって難民条約上の迫害を受ける状況にあるとは認められません。
その他のあなたの主張等をすべて併せ考慮しても、あなたが難民条約第1条A(2)及び難民の地位に関する議定書第1条2に規定する難民に該当するとは認められません。
私たちはこのような、わずか一枚の書類をもって、チェチェンで起こっている事実を無視し、そこから逃亡してきた人を再び追い返そうとする行為に、強い憤りを覚えます。
通知書は「約4年間、本国に滞在」としていますが、そのほとんどの期間は、ロシアではなく、カザフスタンで過ごしており、「本国」という表現は明白な間違いです。そして、これまでチェチェンでは、事実として、チェチェン人であるという理由だけで人口の二割にも及ぶ人々が殺されてきたのです。また、この通知書は、彼が独立派として戦闘に加わった以上、一般市民以上に危険な立場にいることを、まったく考慮していません。
難民認定のために、ガカーエフさんは長い時間をかけて、苦しかったチェチェンでの戦いや、自分が受けた虐待を見つめ直し、関係者の前ですべてを吐露することに耐えました。その間に肺気腫にかかり、ストレスから鬱病にもなりました。それでも提出された陳述書や、チェチェンで起こっている広範な人権侵害についての提出資料(注1など)も、ここではまったく無視されているのです。
不認定通知にある「各種関係書類」とは、いったい何を指すのでしょうか。日本語で刊行されている多数のチェチェン関連書籍のうち、一冊でも参照されているのか、私たちは強い不信を感じずにはいられません(注2)。
私たちは法務省・入国管理局の決定に抗議するとともに、不認定の具体的な根拠を提示することを求めます。そして何より、彼らを難民条約に則って難民認定し、必要な庇護を行うことを、強く求めます。
チェチェン連絡会議 2010年3月23日
署名者
青山正(ピースネット・市民平和基金)
稲垣収(ジャーナリスト・翻訳家)
岩間優希(ジャーナリズム研究者)
大富亮(チェチェン連絡会議)
岡田一男(映像作家・チェチェンの子どもたち日本委員会)
姜信子(作家)
中田考(同志社大学教授)
林克明(ジャーナリスト)
村山敦子(団体非正規職員、ロシア語通訳・翻訳業)
__________________
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■ファックス要請にご協力をお願いします!
法務省・入国管理局へのファックス要請シートを作りました。
下記のURLからPDFファイルをダウンロード&プリントアウトして、
2ページ目に記入されている番号に送ってください。
http://d.hatena.ne.jp/chechen/files/20100323_fax.pdf
■在日チェチェン難民支援カンパのお願い
在日チェチェン難民への、法律的支援費、生活支援費、その他の活動費として、カンパをお願いします。金額は指定しません。どうぞご協力をお願いします。
郵便振替加入者名:
チェチェン連絡会議 口座番号:00180-6-261048
(「難民支援」とご明記ください)
ゆうちょ銀行 019店
当座 0261048 チェチェンレンラクカイギ
注1:HRWリリース:
『ロシア:欧州裁判所に従い残虐行為の終焉を 北コーカサスでまん延する、人権活動家の殺害を含めた暴力の脅威』(2009.9)
チェチェンでの人権侵害に対して、欧州人権裁判所では115件に上る判決を下しており、ほぼすべてにおいて、ロシア政府に超法規的処刑、拷問、強制失踪の責任があるだけでなく、それらの犯罪の捜査もしてこなかったとしている。
http://www.hrw.org/ja/news/2009/09/28
注2:関連書籍:
『チェチェン廃墟に生きる戦争孤児たち』
オスネ・セイエルスタッド著/白水社(2009)
『チェチェンやめられない戦争』
アンナ・ポリトコフスカヤ著/NHK出版(2004)
『誓い チェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語』
ハッサン・バイエフ著/アスペクト(2004)
――など、チェチェン軍事侵攻と人権侵害の事実を克明に綴った書籍が日本でも多数刊行されている。
___________________
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ハイチ ――ちょっとそこの君、忘れてたでしょ。 ― 2010/03/11 00:45:15
いっときぬくぬくぬくと気持ち悪いくらい暖かくなって、ホラ来たぞって感じで花粉が飛び始めた。ら、目がしょぼしょぼしてったくもおおおお、何も飛ばなくても疲れ目だってのに、やめてよ。という日々が続いたが、ここ数日の寒波でさすがの杉も開花のタイミングが狂わされているのかそんなに花粉を飛ばしていないようである。一昨年あたりから私は花粉症の症状の出かたが劇的に変わっていて、とりあえず杉花粉に関しては、鼻から眼へと、まるで奴らが標的を変えたかのように、ダイナミックに移行している。檜のピークになるとまた事情は違うけど。
そんなわけで相変わらずしょぼしょぼしている目だけど、ちょっとかゆみや異物感や重みはましなのである。寒いせいである。寒さ万歳。
先日チリで地震があった。そのせいで津波が来る!というニュースが世界を駆け巡った。ちょうど例のダリ本の書評が新聞に載った日の前夜である。翌日の日曜、私は娘のバレエ教室のリハーサルを、夕方見に行った。ママフレンズたちと発表会当日の役割分担や段取りを話し合うためもあったので、リハが一段落したときに集まって立ち話をしつつメンバーが揃うのを待っていた。で、あ、そーだ朝日買わなくちゃと思い出し、近くのコンビニに走って朝日新聞を買いにいった。
教室に戻るとママフレンズのひとりが「津波、津波はどうなった?」と私の新聞を見て叫んだ。
へ? 津波?
そのとき時刻はもう5時か6時だったので、津波が予報された時刻はとっくに過ぎていたし、何のニュースも聞かなかったから、私はとっくに津波の危機は去ったと思っていた。が、そのママフレンドは「我が家の一大事」とでもいうように興奮して津波津波と繰り返す。
古来天災に悩まされた日本列島は、十数時間後に3メートルと予測された津波に対して打つ手がないほど、ナイーヴではないはずだ。30分後に10メートルといわれたらそりゃ慌てる。被害の大きかった過去の災害は予測不可能なほど突発的であったり、予想を遥かに超えて大規模だったりしたためにそのような事態を招いたが、この国では政治家も官僚もアホだが庶民は知恵者であるから備えは万全であっただろう、いくらなんでも。
と、思っていたので、また内陸住民の気楽さも手伝って、津波のことなんかすっかり頭から消えていた。親戚とか実家とか友人が沿岸部に住んでいたらまた意識のしかたも違ったであろう。例のママフレンドにもそんな事情があるのかもしれない。と思ったがスルーして、新聞の中面を開いてダリ書評をママフレンズに見せ、さんざん宣伝した私であった。

ヒラリー・クリントン&ルネ・ガルシア・プレヴァル
Le 16 janvier 2010 a Port-au-Prince. AFP/Nicholas Kamm
で、ちょっと、そこの君。忘れてたでしょう、ハイチを。
は、はい、先生。忘れてました。
実はチリ地震の前までは覚えていたのである。
購読しているあるメルマガからたいへん有意義な記事が配信されたということもあったし。
以前ハイチについてブログに書いたとき、さくららさんという方が、ハイチ情報を求めてたどり着いてくださった。あれ以降、さくららさんはハイチについて、私のぐだぐだくだまき文ではなく、まともで正しい情報を得られただろうか。ちょっと心配だった。
購読しているメルマガというのはル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子メール版というもので、もう10年くらい配信を受けている。ル・モンドとついているのでおわかりかな、と思うけれども、フランスの大新聞「Le Monde」(ルモンド)の外交ネタ版で月刊誌である。ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子メール版はその名のとおり、「Le Monde Diplomatique」から抜粋した記事を和訳して購読者に配信するものだ。非常に読み応えがあって、勉強にもアタマの体操にもなる。翻訳は有志による。訳文の完成度の高さはエヴェレスト。優れた仏日翻訳者を探すならここを覗けばよいのである。
それはともかく。
2月26日、配信された記事の中にあったのがこれ。
ハイチを的確に語ってあまりある。私が説明したかったのはこういうことなのである。こりゃあいいと思ってすぐブログで言及するつもりが、忘れてしまっていた。
(なぜ忘れちゃったかというと例の書評が嬉しかったり娘の発表会前でバタバタだったりしたからである)
ハイチを忘れてはいけないとあれほどいったじゃありませんか。
めっ
すっかり報道がなくなってしまったハイチ。ハイチを忘れないでください。
ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子メール版もどうぞよろしく。
世界はハイチを忘れてはいけない ― 2010/02/08 19:51:09
(2010年2月3日号)30ページ所収
Cover Story「史上最悪の人道危機 ハイチの悲劇」
(写真:チャールズ・オマニー)
ニューズウイークなんて、初めて手にしたよ。行きつけの図書館で雑誌「オレンジページ」を探していた(ホントです)のだが、どうやら置いていないみたいだ。銀行での待ち時間、備え付けの雑誌をめくって「おおおっこれはおいしそう」なんてレシピに出会ったと思ったとたん番号を呼ばれる。数知れずそんな目に遭うのだが、もう一度その雑誌を見ようと思っても別の人がしっかり読んでしまっていたり、手続きが済んだらとっとと雑誌のことを忘却してしまったりするので、ある日ふと台所であ、豚肉のおいしそうなレシピ、こないだどこで見たんだっけ? なんて脳内ヴィジュアル保管庫にライトを当てまくるのだが見つからない。そんなことを2秒間ほどやって我に返る。ないものを探してもしかたないから、諦めて手持ちの料理本や切り抜きを探したり、あるいは少ないレパートリーからついこないだやったのと同じ料理をま、いーかと繰り返す。思い出せないそれは、たいていオレンジページのいつかの号で、次に銀行にいった時にはとっくに店から撤去されている。銀行の斜め向かいに本屋があるので、いつぞやはその足で発売中のオレンジページを買ったこともあるが、そんな快挙は二回ほどだ。そもそもその手の雑誌に縁がないので、本屋に入った瞬間、別の本に気を取られ、当のオレンジページを忘却の彼方へ葬り去ったりする。そんなわけで、この時も私は万策尽きてなけなしの積み立てを解約して引き出す手続きをし、待つ間に読んだオレンジページを、今度は逃すまいと、奇跡のように持っていたペンと紙切れで号数をメモして、銀行を後にした。だがバッグに突っ込んだその紙切れの存在を思い出した頃にはその号はかなり古い号と化していたので本屋に行っても時すでに遅しで、図書館でバックナンバーを借りようと思いついたのだった。と、前置きが長くなったがオレンジページはまったく関係なく、雑誌の書架をぶらついていて目についたのが「ハイチ」の文字だった。書架から取り出すと、ニューズウイーク日本版だった。うわっ初めて触ったこんな雑誌。あたりまえだけど、縦書きのなのに、ものすごく英語臭い(笑)雑誌だ。
世界はハイチを忘れてはいけない。特集記事に写真を提供しているカメラマンがそう呟いている。今、先進諸国がわれ先に人道支援にいちばん熱心なのは自分たちだといわんばかりにハイチ合戦を繰り広げているけれど、そんなのを見ているとむしろ、たいへん乗り遅れた感のある日本の援助隊がとても謙虚かつ賢明に見えてくるので不思議なんだが(だいいちあんなところに一番乗りしたってクレオール語もフランス語もわからなきゃ被災民の声に耳を貸したって何もできやしないよね。体制整えて出発するがよろし)、それはともかく、とにかく、ずううっとこの国に対し知らん顔してきたくせに、いま世界は躍起になってこの国を救う振りをしている。振りであれなんであれ、実際に人命を救助しているのだから文句はつけまい。しかし、だ。しかし、現地で活動する人たちはとてもそれどころじゃないよっていうかもしれないけど、国家の再建という展望に立ったとき、本気でこの国の「再建」を力を貸そうという国が、人々が、どれほどあるだろうか? 瓦礫を取り除き、家を建て直し、道を作り直し、水道や電気を整備して、また暮らせるようにしてやればそれでいいと思っていないか?
《過去1世紀の間に、天災で同じように首都が壊滅的な打撃を受けたのは、東京だけだ。1923年の関東大震災は、人々がかまどで昼食を用意している時間に起きた。現在の東京都区部の大部分と横浜のほぼ全域が猛火にのみ込まれた。
その結果、10万人以上が死亡し、200万人が家を失った。(中略)歴史学者のジョン・ウィジントンによれば、「数日もすると、被災を免れた会社や店が商売を再開した」。
ハイチは違う。(中略)地震の前からハイチは破綻国家だったが、今は国家ですらない。
(中略)地震が起きるずっと前から、世界はハイチを諦めていた。》(32~33ページ)
本誌編集部執筆による記事は、だからハイチが本当に機能する国家として立ち直れるかどうか、ハイチが独立以来真の意味でもったことのない「首都」をもてるかもしれない、そのチャンスが到来しているのだと締めくくる。
たしかにそうかもしれない。一度シャッフルして配り直して最初から。トランプの七並べみたいに、一枚ずつ、ていねいに、並べ直してきれいにする。それさえ手伝ってやれば、後はカードの一枚一枚が自分の裁量で動き、考慮し判断して新たに道を切り開いていくのなら、それでいいのだ。
でも、ハイチにそれは望めないのである。世界中が無視していた、といったけれど、国家は無視していても人道支援機関はそれなりの活動を継続してきていた。もちろん今回多くの職員を失った国連も長期にわたってミッションを継続中だった。貧困に喘ぎ、衛生状態が悪く、医療もままならない国だからMSF(国境なき医師団)はじめ各国のNGOが詰めていた。だが当のハイチ人たちに「この国を何とかしよう」という気がまったくない。ハイチの公務員の半数は幽霊職員であり、賄賂なしで商売や就職が成り立つ例はない。いつかも書いたけど、上層部は無教養で金の亡者。稀に運良く教育を受けたハイチ人もいるけど国外在住。地震直後、フランスのニュース番組でハイチ出身のジャーナリストが悲痛な面持ちで「私もまったく家族と連絡が取れません」と、その時点でわかるだけの惨状をレポートしていた。とこのように、働けるハイチ人はみんな国の外なのだ。
おまけに、大量の孤児や、養育が不可能な親元を離れた子どもが、先進国に大量に養子縁組で引き取られていく。つい先頃も不法に子どもを連れ出そうとした米国人たちが捕まっていたが、合法か不法か、善意か悪意か、よりも(もちろんその点は大いに問題にすべきなんだけど根本的に)、ハイチの子どもたちをハイチから連れ出してよその国で何不自由なく生活させることが最良の方法なのか? 彼らは先進国で高等教育を受け、マナーと教養を身につけ、高い知性と明晰な頭脳で、あるいは芸術的才能で、あるいは身体能力で、で、どうするのだ? 成人を迎えたとき、たとえばフランスではフランス国籍取得の道が開けると予想される。この子たちはけっきょく、養子縁組で引き取られた国の国民として生きるのか、誇り高き共和国の一市民として? あるいは貧しき故国へ帰ってその再建と発展に力を尽くすのか? 後者の場合、そのような意識を持たせるにはそのように教育しなければならない。あなたは私たちの子どもとして暮らしているけれど、ほんとうは、故郷はハイチなのよ。地震で壊滅したハイチ、地震が起きる前から破綻していたハイチ。カリブ海のあの島が、あなたの生まれた国なのよ。
10歳以上の子どもなら、言わなくてもそうした意志をもちうるかもしれない。けれど、引き取られた子どもたちの多くは6歳未満だ。
私はとてもこれ以上子ども育てる力はないけれど、もしも万が一にもそんなふうにして子どもを引き取ったとしたら、その子の肌が黒かろうと赤かろうと、アナタは日本人なのよ、ほら、お箸とお椀のもちかたはこうよ、とかなんとか躍起になっちゃいそうである。荒城の月と浜辺の歌を懸命に教えそうである(笑)。親心とはそういうもんだ。でも、ハイチの子どもたちを引き取った皆さんはどうお考えなのだろうか。
ハイチを忘れないために例の歌をもう一回。
(ちょっと聞き飽きたけどね。笑)
「石炭はどこにあるのですか」「地の底」 ― 2009/11/17 18:18:02
248ページ
〈小特集〉『「森崎和江」を読む』
昨日、こんなイベントがあったのである。
【対談 姜尚中×森崎和江】
お二人とも大好きなので、近かったら仕事ほっぽり出して駆けつけるところだ。
いいよなあ、東京は何でもあって何でも開催されてさー。
つーても、どこにいようとそんな文化的生活、謳歌できないけどなあ、今のありさまじゃ。
あーあ。でも愚痴んのやめよ。
姜尚中って誰?とおっしゃるみなさんに。『悩む力』というベストセラー本の著者である。
森崎和江って誰?と問うかたがたに。『からゆきさん』というノンフィクションの書き手である。
イベントの告知ページはここ。
http://fujiwara-shoten.co.jp/main/news/archives/cat17/
私は、『悩む力』も『からゆきさん』も読んでいない。姜さんの本はその昔論文集として出された『オリエンタリズムの彼方へ』しか読んでいない。しかも読んだとはとてもいえない。小難しくて睡眠薬にしかならなかった。『オリエンタリズム』にノックアウトされていた後だったので、サイードつながりで読んだけど、姜さんの筆致はサイードの訳書とはぜんぜん違って難解だった。森崎さんの本は一冊だけ、『まっくら』を持っている。面白い本である。私にとって森崎さんはこの『まっくら』を書いた、女性ルポライターの魁(さきがけ)みたいな人であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。『まっくら』の初版は1960年だから、時代背景からも世代からしても(森崎さんは1927年生まれ)書くことを仕事とする女性の鑑なんである。『まっくら』はすごく面白い。身につまされる。男どもに腹が立つ。女を、しかし男をも、人間を、愛しく感じるようになる。
姜さんは、院生をしていた頃に顔を見た。大学が開催したシンポに講演者・パネラーとしてやってきた。それはクレオールやディアスポラに関するシンポだったように思うが、もう忘れた。忘れたが、永遠に忘れられないと観念するほど印象に残ったのが姜さんの声だった。ええ声だった。酔いしれてしまった。姜さんはあのとき何を喋っていたのだろう。声の響きだけが記憶の奥底にへばりついていて、言葉というかたちを成して立ち上がってこない。彼が心に残らない言葉しか発しなかったわけではもちろん、ない。私のほうに、器がなかったのだ。シンポのほかの出席者の顔ぶれも覚えていないのだから、姜さんの声を美しい記憶として留めているのは奇跡なのである。
森崎さんのことは、何も知らなかった。
今年の『環』で特集が組まれなければ、何も知らずにいたかもしれない。
藤原書店では『森崎和江コレクション』という全集を出版していて、それは去年あたりから『環』誌上で宣伝されていた。それを見て、うわ、そんなに偉大な文筆家だったのだわ、とおのれの無知を恥じるのはいいけど、それと同時にてっきり「森崎和江は故人」と思い込んでしまったあわてんぼな私。
森崎さんは朝鮮半島の生まれである。17歳までその地で生き、「内地留学」で九州の学校へ渡り、敗戦を迎える。植民者二世の彼女にとって、生まれ育った半島の自然や、民族服を纏ったおおらかな人々の記憶とは、大違いの日本。「なじめない」どころではなかった。こんなところでどうやって生きていこう。本気で生きる術を探した。
……といった生い立ちについてはこの特集の冒頭を読んで知ったのである。
冒頭はご本人の筆になる。それに続いて11人もの錚々たる書き手が森崎和江を語る。だが冒頭の、森崎さんの、『森崎和江コレクション 精神史の旅』刊行の「ご挨拶代わり」の全5巻のレジュメに、まるでかなわない。いろいろな切り口から、森崎和江に絡めて時代を、半島を、戦後を、女を、炭鉱を、語っているけれども、既視感をぬぐえない。森崎さんの冒頭の短文が、すべて語りつくしてしまったのだ。あとは、コレクション全巻を読むしかないといわんばかりに。
たったひとり、三砂ちづる氏の「森崎和江――愛される強さ」はまるでアプローチが異なっていたので、楽しく読むことができた。
『まっくら』は炭鉱の町で生きる女たちの語りのかたちをとったノンフィクションである。
なぜこの本を買う気になったかというと、誰かが「枕頭の書」「いつもこの本に立ち帰る」「こういう書き手でありたい」などと新聞で語っていたのだ。その誰かについては、もう何年も前のことなのでぜんぜん覚えていない。たぶん、ジャンルはなんであれ、もの書きさんだった。まだ若い女性だった。『まっくら』刊行当時森崎さんはまだ30代だから、それに自身を重ねることのできる年頃のかただったと思う。その記事はいわゆる書評ではなく、インタビューでもなく、日替わりのショート談話みたいなものだったと思う。ただそこに示された『まっくら』というタイトルと、「炭鉱の女」という言葉が、私を惹きつけたのだった。その記事を読んでまもなく、私は書店に取り寄せを依頼し、手に入れた。
その後私は炭鉱にまつわるノンフィクションや小説を読んだことはないけれども、たとえば映画『リトル・ダンサー』や『フラガール』などを観たとき、『まっくら』の女たちや森崎和江のつぶやきを聞くような気が、少しだけしたものであった。
