ニット帽をかぶりたい!2007/01/11 17:53:04

さて、今は自分用にニット帽を編んでいる。
昔むかし、弟にセーターを編んだときの茶色の極太毛糸が2玉残っていたので、それを採用。

ゴム編みになわ編みをプラスしただけのシンプルなやつ。
メンズニットのページに載っていたやつなんだが、こんなんしか似合わないと思われる。私には。

20代の頃、ニット帽が大好きで、いろいろと、とっかえひっかえしてかぶったものだ。髪が極端なショートカットだったり、長くしていても小さくまとめていることが多かったのでニット帽は自分にぴったりハマっていると思っていた。しかし、ある頃からかぶらなくなった。
仕事を変えたため、服装にエレガントさが求められるようになった時期。
また仕事を変え、以前の反動で服装にこだわらなくなった分、髪型に凝るようになった時期。
いずれの時期もニット帽はかぶらなかった。
そうこうしているうちに、数年前からニット帽がブームである。
かわいいのがたくさん出回っている。

私は帽子屋さんで立ち止まり、手にとって、ためつすがめつ、どう編んであるのか観察した。で、いざ編むぞと意気込むのだが、まるで時間がない。取りかかれない。
で、もうこの際買うぞと決めた。あちこちの帽子屋さんで、いくつもかぶってみた。げ。似合わない。
いつの間にこんなにニット帽の似合わない顔になったんだ?

どれをかぶっても、横で娘がコメントする。
「イマイチ」
「イマイチ」
「ビミョー」

おしゃれな流行のものは諦めて、私は、数年前の編み物の本から簡単そうなモデルを選んだ。「これを編むぞ!」

娘のショールを編んでいると、彼女が横からエールを送ってくれた。
早く編み終えないと、自分の帽子、夏になっちゃうよ!
まったくだ。短い正月休みに一気に加速しましたよっ。肩はパンパンだよっ。

ショールが無事にでき上がって、娘は大喜び。
ようやく帽子のための4本針に持ち替えられて、私も大喜び。

コトバはハハ2007/01/11 18:27:17

『祖国とは国語』
藤原正彦 著
講談社(2003年)


私が持っているこの本には、著者の自署が入っている。
ちょっと自慢だ。
別に藤原さんのファンでもなんでもないが、「国語教育を論ずる数学者として教育関係者のあいだで有名な人」だったのが、『国家の品格』があんなに大ヒットして、すっかり全国的全世代的有名人になった。
だから、サイン入り本を持っているというと、やたらとうらやましがる人が結構いて、自慢げに見せびらかしてやったりしている。

著者の講演会を取材して記事にする、という仕事があって、その会場で新刊として売り出されていた本書を買い求めたら、サインが入っていたのである。
講演の内容は、この本に書いてあることそのまんまだった。私としては原稿をまとめるのに非常に有用で、助かった。

祖国とは国語、というフレーズは聞き覚えがある。
アルベール・カミュが「私の祖国はフランス語だ」と言ったという話だったか。
あるいはフランス旧植民地出身の作家がフランス語で発表し続けることに言及してそのように述べた、ということだったか。
忘れた。

以前、フランス語圏におけるフランス語のありようについて高い関心を持ち、いろいろと本を読み漁った。フランス共和国とは離れた独立国家に在りながらフランス語で創作する、といった人々が書いた本や関連書籍をよく読んだ。
学校教育をフランス語で受けた世代の場合、彼らは母語として民族語を持っているけれども、思考も表現も手段はフランス語にならざるを得ないのだ。
思考と表現によってモノ・コトが創作され、その織り重なりが文化の姿であるとしたら、そして郷土がその文化を育んでいるとしたら、やはり彼らにとって「祖国はフランス語」ということになるのだろう。

かあちゃん、はらへった  と母語で言い、
私は空腹を覚えた  とは旧宗主国の言語で書く。

フランスは英国同様、実にあちこちに植民地を作った。またフランスの進めた「同化政策」は原住民を「フランス人化」することだったが、この方面での度合いは英国の政策を凌いでいたという。
「同化された」人々の数は半端でなく、またその言語状況は千差万別。それについて述べる知識は持たないが、ただはっきりいえることは、

これは日本人は経験しなかった状況だ

ということと、

こうした多言語の状況にあれば、おのずと人は「ことば」を大切にしようとするであろう

ということ。家族コミュニケーション用の母語も、記述表現手段用の言語も。どちらが衰えても、多方面に支障をきたす。

自分の言語が危機に陥った経験を歴史上持たなかった日本人にとっては理解を超える状況であるし、持ち得ない感覚だ。
今、ようやく日本語が危ないと発言する人が目につくようになった。いつの時代もいたのだが、年寄りの戯言みたいな扱いをされて、聞く耳を持たない人が多かった。今は、若い世代にも声高にそのように述べる人が増えている。
相変わらずカタカナ語の氾濫はなくならず、放送、報道における日本語のずさんさはちっとも修正されないが、少しは真面目に日本語を考える風潮にはなっている。
一過性のブームに終わらなければいいけれど。

コトバはイキモノだ。
人はこの世に生まれたら、育ててくれる人の声を音声情報としてどんどん脳に取り込んでいく。その声は温かみと愛しみ、怒りや苛立ちといった抑揚を含む、厚くも薄くもある音である。
その音は言葉でできている。
人の喉の奥から発せられる音は生き物としての命を持つ言葉なのだ。
それを最初に語りかけるのは、母である。

そういう意味で、コトバはイキモノ、コトバはあなたのハハである。
そういう意味で、母なる言葉はふるさと、郷土であるという意見には賛成だ。
そういう意味でなら、祖国とは国語というフレーズを、われわれ日本人にあてはめてもいい。

最近かまびすしい国語力向上のスローガンが、愛国心をあおる道具になってはならない。
そうですよね、藤原さん。