だって、つまんないし。2007/12/03 18:10:42

ふだん何を読んでいるかというと、圧倒的に批評とか評論とか論文集とかが多数派である。エッセイも好きである。
我が家のスペース上の問題および構造上の問題(古い木造家屋のため床が抜けそうなの。そんなに蔵書数はないのに)および経済的な問題があって、もっぱら図書館を利用しているが、行きつけの図書館で純粋に文学を探すのは、児童書のフロアだけである。
そうだ、冒頭で「圧倒的に批評とか評論とか論文集とかが多数派である。」と書いたばかりだが、それを超えて児童書が多い。すぐ読み終えることができるので消化冊数は「批評とか評論とか論文集とか」をもちろん凌駕している。

子どもに読ませたい本を探すというのが大義名分だが、ウチの子は長いこと本を読まない子どもだったので、ひたすら自分が読むものを児童書の書架で探していた。最近は娘がよく読むようになったので、ヤツにも「読める」本を探しているが、結局は自分も読むので、自分が読んでも面白い本を探す。

児童文学は大変よくできている。
子どもは大人よりも数千倍も感受性が豊かで、数万倍も想像力が大きいから、ちょっとこれどやねん(共通語訳:いささかこれはいかがなものか)、みたいな陳腐な一文(児童文学作家の方ごめんなさい)から遥か彼方へ夢や空想を膨らませてくれる。そういうのにつき合っていると、大人でいながらそういうふうに読めるようになる。すると、児童文学のほうが、大人向けの小説よりずっとずっと面白いのである。

しかし、大人としてはそれではイカンのである。

だから私は、このブログを始めたのだった(今、思い出した!)。
こんなもんを作ってしまったら、いやでも大人向けの文学を読んでいるところを見せなくちゃと自分で自分を追い立てるに違いないと思ったのだった(今、思い出した!)。

一年近く経つけど、読んだ本を全部報告してるわけじゃないけど、やっぱ、あんまり読んでない。

読まないわけじゃない、好きな小説もたくさんある。
横溝正史や西村寿行は全部好きである。しかし、これらは映像と相乗りで読んだようなものだから、横に置かなくてはならない。
自分で選んで読んで心底感動したのは現代のものなら『限りなく透明に近いブルー』(村上龍)といつか書いた『カムバック』(高橋三千綱)くらいである。時代ものなら『風林火山』(井上靖)。でも、いずれも何年も前に読んだものだ。
ブログで時たま書いてるように、今も、ぽつぽつとつまみ食いのように読んでは「面白いじゃん!」とカンドーしている。しかしけっきょく、日本の小説を読んで味わう、ということが習慣化していないのである。仕事で作家紹介とかしなくちゃならないとき以外に、文学の書架に足はけっして向かない。図書館でも本屋(立ち読み)でも。

かつて、(私が中高生だったの頃の)国語の教科書にでてきた作家陣はひととおり読んだ。それは楽しむためではなくて、かといって受験対策用に読んだわけでもない、なんとゆーか、読んどかなあかんのちゃうん?(共通語訳:読んでおくべきなのではないか?)というノリで読んだに過ぎず、カミュもカフカもスタンダールもパール・バックもトルストイもそのノリで読んだ、たしか。結果、外国文学の和訳のほうが面白かったのである、たぶん。

今は、小説を読むなら日本のものを、と心がけている。
それはさっき、「大人としてはそれではイカンのである。」と書いた理由でもあるのだが。

現代社会人としての自分の役目は、私は、「次世代育成」に尽きると思っている。
日本にしろどこにしろ、ほぼ社会システムは整っている。ほころびはあるだろうし、改善点はいくらでも見つかるだろうし、国によっては付け焼き刃で効かないくらい崩れているかもしれないが、とりあえず、人類は長い歴史を重ねてここまできている。私たちはそのほんの百年足らずを担うだけである。その短い間に前人未到の大仕事を成し遂げる人々もいる。しかしほとんどすべての人間は、ただその生を生きるだけである。私も、人類の遺産として博物館に入れてもらえるような軌跡を残すことはない。だとすればできることは何かといえば次世代育成しかないのである。
だから私は子どもを産んだ。
学生時代から社会人のある時期まで、つねに「後輩」というものがいたうちは彼らとの接触のうちに私の知ってること、彼らが知りたいことを伝えていればよかったが、ある時期から後輩とか部下というもののない環境に身を置くようになった。そしてまもなく、子どもを授かった。私は子どもを持つことで子どもとその周辺の世代とかかわろうとした。そうすることが、どのような形であろうと、反面教師の形であろうと、次世代育成につながるとの信念からである(とゆーとカッコいいが、ほんとうは親になりたいというエゴイズムからである)。
でも、そうして子育てにいそしむ過程で、自分に不足しているものが「日本という国について日本人がどう思っているか」に関する知識であると、つくづく感じたのであった。

幕末、維新、幾度もの戦争。劇的に変わったこの国で、それぞれの時代に生きていた人たちが共有していた思いについて、私はあまりに知らなさ過ぎる。もちろん知らなくても生きていける。でも、自分の役目がもはや次世代育成しかないとき、自分の中の土台というか基盤というか、思考の核に、そうした日本人史のようなものが必要だと感じたのである。

だから頑張って日本人が書いたものを読まなくちゃ!と、ここ数年来努力しているのである。
しかし、やはり読むのは批評の類になってしまう。だって、そのほうがわかりやすいし。
戦時をモチーフにした小説などは、なかなか辛くて読み進めないし。
でなければ、つまんないし。

そう、つまんなかったんだ。
たぶん選ぶ本が間違っていたのだろうが、もうだいぶ前だけど、手を出した本が立て続けにハズレだったことがある。
出す本全部ベストセラーになるワタナベさんとか、熱烈なファンが多いと聞くコイケさんとか、とってもつまんなかった。
つまんなかった!!!


えー、ここからは余談。
フランス文学の場合、原文を推測しようとしてアタマが要らぬほうへ働いて楽しめないことがある。
他の国の文学の場合は、これまた国家の事情がちらついて純粋にストーリーを楽しめない(各国の事情に通じているわけではないのだが)。
私は英米文学をまるで読まない。児童書の場合は英米ものの古典に良書が多いので、現代ものも読むことがある。そしてやはりやめときゃよかった、子どもには教えないでおこう、などと思う。
なぜなら、自分の中に「日本人史の核」のないことを忘れて、文章の表面をとらえて何かとつい批判的になることがあるからだ。人のことはいえないのである。

余談その2。
コマンタさんお訊ねのグリッサンは、カリブの作家・批評家である。『Tout-monde』を読んで(全部理解したわけではない、もちろん)、「おおおっあなたこそわが師!」と思って生涯かけて全著作を原書で読んでやるーと誓ったが、数年経って翻訳『全世界論』が出て、すごすごと買った(泣)。それでも何とかいずれ原書を読破したいと思っている。なんといっても彼は、セゼールの次に私を今に導いた師なのである。読み切っていないのに、理解に達していないのに師と呼ぶか? 呼ぶのだ。それは正しい。……とウチダも言っている。

わからないフォーエヴァー♪(2)2007/12/05 16:40:47

あっちで紅葉し、こっちで実をつける我が家のイチゴ。わからない♪


『「わからない」という方法』 (橋本治著)の続き。

わからないまま終わる、と書いたが、途中で「そうか、なるほど」的なくだりは多々ある。この本の冷たいところは、せっかく「なるほど」と思わせてくれたのに、その読者をほったらかして次の話題にとっとと行ってしまうことである。そうしたいくつもの「なるほど」は、その何倍も繰り返される「え?何?」「それで」「だから?」「ふんふん」「へ?」というような反応の中にまぎれてしまうので、けっきょく読後感は「わからないまま終わった」のようになっちゃうのだが、用心して読めば(どんな読み方だ)この本は腑に落ちることだらけ、おいしい話満載なのである。この本が有効だと思われる方々の例を先のエントリで挙げたら、はーい全部にあてはまるよーとコメントをくださった方がおられたが、一人で全部にあてはまる人も、一つしかあてはまらない人も、みんな合わせれば、たぶん日本人ほぼ全員だと思われる。

腑に落ちることすべてを書いていくと、本を丸写ししなくちゃならないから、少しだけ。

「母親の呪縛から逃れたい女性へ」と書いたけど。
私の母親の世代はだいたい現在70代であるが、これより上のお母さんたちって、のちに世間が「良妻賢母」を推奨する時代よりも先を生きているはずなんだが、どうだろうか。そのあたりの社会史風俗史的知識がないんだけど、この世代の母親たちは、明治大正生まれの立派な日本の母をモデルにしていればよくて、その生き方をなぞろうとしたと思う。でもそれより少しあとの世代の女性が母親になろうとしたとき、時代はどこかよその国から輸入したか、あるいはエライ人たちが声高に叫んだかの「良妻賢母」像をまつりあげていて、その女性たちはその像を追った。
橋本治にはお姉さんがいる。母親は自分(橋本)に編み物を教えるときは丁寧で優しい(でもわかりにくい)し、自分がテキトーなものを編んでもほうっておいたが、姉には完璧にマスターするまできっちりと教えようとした。なぜこんなことができないの、あなたは女のくせに、というようなノリで。それを嫌った姉は母親にはもう訊かず、編み物の通信教育を受けてマスターしたという。
母親が姉に、当時の女性のたしなみとしては当たり前の編み物を伝授するとき、そこには母親自身の「私の生き方」をも押しつけることになる。姉の世代は、女性としてそれがたまらなかった世代になるのだろう。あんたのやり方はもうけっこうよ、私はあんたみたいにはなりたくないのよ、私は私が納得する方法で編み物を習得してちゃんとした女になるわよっ……という感じだろうか。
世代が下がって、現在70代以上のお母さんたちの娘たちの代、つまり私たちになると、世間に流布する「良妻賢母」像にすら反発する。自分の母親はもとより、そこいらにいる良き母良き妻なんてまっぴら。私は私だけにしかできない生き方をするわっ……といって、猫も杓子も働き出したのが「私たち」だった。
その結果、どうなったか。

私たちは(というか、少なくとも私は)けっきょく母親の呪縛から逃れることはできていない。私は母親の生きかたをつぶさに見てきて、その苦労も見ているが、「生き下手」さも見てきた。あるいは怠慢も逃避も見てきた。総合的に見てとても彼女の生きかたを踏襲する気にはなれない。見習えない。こうはなりたくないと思うばかりである。しかしそれでも、ただ自分よりも二十数年よけいに生きているということだけで、かなわないと思う。彼女の持っているある種のものについては、彼女が生きた時間を生きた人間でなければ会得しようのないものであるからだ。それは言葉遣いや立ち居振る舞いのような生得的なことから、料理をはじめとする家事や近所(社会)とのかかわり方、距離のとり方など、さまざまな、彼女が方法として会得しているものどもである。
私の母は口癖のように「私のようになってはいけない」と私に言うし、それは至極もっともなのだが、それでも私は、いくつかについては中途半端であっても母から引き継がなければいけないと、そしてそれを母も望んでいるのだという考えにとらわれ続けている。これを呪縛と呼ばずしてなんという。
いきいきと活躍する女性が増える一方で、そうでなく閉塞感に苛まれる人も少なくないと思われるが、誰もに母がいる。たぶん、日本の女性のなかで、母親とのかかわりにまったく悩まなかった女性は皆無だろう。呪縛という言葉は大げさだしよくないかもしれないが、女性にとって母親に自分を照らしてみるということは、知らずに頻繁にやっている癖だったり、歯磨きのような日課であったりするわけで、見方によっては呪縛なのである。

橋本治は何年か前にセーターの編み方の本を書いていて、本書でそのなりたちについて述べている。その過程で母親と姉の話が出てきたのである。私自身は、この「姉」が「通信教育で編み物を習得した」ことに、非常に共感したのであった。あ、私みたいな人、発見~という感じ。

橋本はこの編み物の話に関連して(というか、全編にわたって各トピック、互いが互いに関連しているのだが)、教育の崩壊に触れている。
《「学ぶ」とは、教える側の持つ「生き方」の強制なのである。「その生き方がいやだ」と思われてしまったら、その教育は崩壊する。》(130ページ)
先の話に当てはめれば、娘に「その生きかた、嫌」と思われてしまったら、母親による躾は成立しなくなる、というようなことである。ま、それだけで事は終わらないから母と娘は複雑なのだが。
それはさておき、我が最愛のウチダが口を酸っぱくして(実際に発声されているのを聞いたことはないのだけれど)繰り返し述べていることに「初等教育の教師たちに大切なことは元気でいることである、楽しく仕事をすることである」というのがある。
子どもの頃、不機嫌だったり、すぐ怒ったりする先生は嫌いだった。子どものうちはティーチングテクニックなんてわからない。いつも元気でニコニコしてて、はきはき話をしてくれて笑わせてくれる先生が好きなのである。先生を好きになるとその教科は好きになる。学ぼう、わかりたいという意欲が湧く。
高校生になると話は変わる。ニコニコ元気な先生に「へらへらしてんじゃねーよ」なんて逆らいたくなるからだ。たぶん、中学2年生後半あたりからこういうムズカシイ年頃へと突入する。もっと早い子もたぶんいる。ま、とりあえず、大多数の子どもたちは、まだ小学生のうち、そして中1くらいまでは、ゴキゲン満開の先生には好感を持つ。
しかしおそらく、先生方はゴキゲン満開でなんて、いられないのであろう。制度をいじくりまわす文部科学省、そこに媚びへつらうことしかできない教育委員会、実績を上げたい校長という「ろくでもない上司三段構え」の重圧のしたで、授業以外に消化すべき事務雑務課外業務てんこもり、いつもニコニコなんて無理というもんだ。
でも、そんな教師の「ユ・ウ・ウ・ツ」は確実に子どもたちに伝播するのである。子どもがじっとしていない「小1プロブレム」は親の躾の怠慢のせいかもしれないが、学年が上がっても落ち着かなかったり、学習が進みにくかったりするのは、教師のムードメイキング力に因することが多いはずだ。「教える技術・能力」ではない。教室が楽しい、学校が好きだと子どもが自然に思ってくれるように仕向けるムードメーカーとしての力。
それは別に、これこれの努力や修業を積み重ねて習得する力ではない。ただ、いつも心身ともに元気で楽しく仕事をしてもらえばいいのである。前にいる子どもの中には好かん奴もいるかもしれないが、とりあえず「先生は、みんなが大好きだ!」と嘘でもいいから声に出していってもらえばいいのである。先生がまず学校を好きになればいいのである。

このように、とかく現代人はろくでもない上司を持つものである。
《この日本に、「優秀な上司」というものはごく稀にしか存在しない。》(40ページ)
《企画書とは、上司に「わかった」といわせるためのものであり、次いでは、その上司がさらに上の上司に対して説明できるようなわかりやすさをもっていることが必要なものである》(42ページ)
《企画書に必要なものは、上司を驚かせる意外性と、上司を納得させる確実性である。意外性がなかったら(……)上司はその企画書を捨ててしまう。と同時に、上司というものは(……)幼児のようなものだから、驚かせた後には、「こわくない、こわくない」とあやすことも必要になる。その「こわくない、こわくない」が確実性なのである》(43ページ)
上司は自分の理解力不足を棚に上げ「俺にわかるように書け(言え)」といい、自分の説明の仕方の拙さを棚に上げ「お前はまったく頭が悪いな」というものである。理不尽である。理不尽なものは理不尽なものからしか生まれない。この日本にはびこる理不尽の代名詞のような「上司」たちも、理不尽な上司に苦しめられたあげくに生まれたのである。いったいいつからこの理不尽の連鎖は始まったのか。

橋本治は、人間の体と脳の関係を「無能な部下とエリートの上司」といっている。
《人はあまりにも多くのことを脳味噌に決めさせている。脳は、身体の各部に命令を下し、身体はその命令に従う。(中略)脳は、「この部署を率いるのは俺で、その能力があるのも俺だけで、お前らに俺のような能力はない」と。》(106ページ)
《しかし、部下は部下なりに働いているのである。「この部署を率いる」のは脳かもしれないが、(中略)「わかる」は、その部下たちが、自分の仕事を自分なりに自覚し、働き始めることである。》(107ページ)
《脳というものは、「哀れな中間管理職」である。(中略)「世間」という上司に振り回されてばかりいる。》(107ページ)
《「部下を活用できない上司は上司として失格」ということを知らないでいるのが、脳という自分の昇進ばかり考えている最悪の上司なのである。》
そして、バカな部下を持て余した上司は、こんな部下要らない、俺ひとりで十分だと思い始める。それが仮想現実(ヴァーチャルリアリティ)への逃避だと橋本はいう。仮想現実とは「わかる」「わからない」とは別次元の「知っている(つもりだ)けどできない」状態である。ひとり遊びを始めた脳を、部下である身体は《「わかっちゃいねーな」と嗤(わら)うのである。》(109ページ)

つまり、人類が脳味噌で考え始めるようになってから、理不尽の連鎖は始まったわけだな。

けっきょく、本当に賢くあるべきは「身体」なのである。
あとがきに代えて橋本は「知性する身体」と題した一章を起こしその中でこう述べている。
《自分の頭がいいのかどうか、よくわからない。(……)その代わり、「自分の身体は頭がいい」と思っている。(……)すべての経験と記憶のストックは、私の身体にキープされているからである。(……)私に重要なものは、身体と経験と友人で、それがなければ脳味噌の出番なんかないのである。身体とは「思考の基盤」で、経験とは「たくわえられた思考のデータ」で、友人とは「思考の結果を検証するものである。》(250~251ページ)
「わからない」は身体に宿リ、それを呼び覚ますときこそ、脳の出番だ。そう橋本はいっている。部下がいなければ人は上司とは呼称されない。身体なき脳なんかホラーだ。要は身体を使え、身体の声を聴けということである。身体はあちこちから「わからない」を発しているはずなのである、生きている限り。


さて、付け足しになってしまうが。

「変なやつだなといわれる人へ」と書いたのは、著者自身「変なやつ」とよく言われる経験を下に、「へん」とはどういうことかを論じているくだりがあるので、あまりに「変なやつ」といわれて気に病んでいる人には慰めになるかもしれないと思ったのであった。逆に「自分のことを変だと思う」人たちにも有効だ。あなたはあなたが思うほど変じゃない。普通なのだ。

また、「古典とか歴史とか嫌いやねん」という人には、橋本が自身の著作『桃尻語訳枕草子』に触れて間接的に古典の面白さを紹介しているところが有効だ。彼によれば、『枕草子』は、思いっきり「話し言葉」で書かれているので、高尚な敷居の高いものと思わなくてもいいという話である。
私は彼の『桃尻娘』も読んでいないし清少納言の『枕草子』も冒頭しか知らないので何も言えた義理ではないが、古典は興味をもって読み進むと面白い。若い人たちが古文漢文に触れる機会が増えるならきっかけは何でもいい。古文漢文は自分の日本語を耕すのにとても役立つのである。(英語という苗を植えるのはその後なんだよっ)

さてさて。
本書の半ばあたりで、橋本治は志賀直哉の『城之崎にて』を例に挙げ、この徹底した「写生文」こそ作家の基礎たるものだといっている。『城之崎にて』は退屈だという印象を読み手に与えるが、こうした写生文を書けない者に作家の道はないと断言している。目の前の対象を文章で説明もできないのに心象風景が描けるかよ、という話である。
作家志望の皆さん、頑張りたまえ。


※書籍からの引用中、途中を省略するしるしに「(……)」と、「(中略)」の二種類用いたけど、どっちが読みやすいんだろう? とりあえずこのブログ上では?

さなぎが新聞に載るのよ♪(という話ではない)2007/12/12 19:10:49

芦屋浜。貝殻を拾いました。


ある夜、娘の担任の先生から電話がかかってきた。
学校からの電話って、ろくなことがない。

 *

昼間携帯を鳴らされたら、たいていは「さなぎちゃんが怪我をしました」。
夜、自宅にかかってきたら、何かよくない事件があったサインである。

幸いこれまで大怪我はしていないけれど、転んだ落ちた突いたと、とにかく娘はじっとしていないどころかよけいな動きが多すぎるので、毎日そこらじゅう怪我して帰ってくる。打ち身、擦り傷、切り傷と絶え間なし。頭を打ったり、腫れがひどかったり、Go to お医者さん、って騒ぎになった場合に携帯が鳴る。6年生になってからだけで10回近くある。陸上やバスケの練習で、というのはない。全部、休み時間に遊んでいて、友達と絡まっての怪我である。最近の例は今月、教室横のプレイスペースで暴れてて、床に座ってトランプしていた他の男児に、後ろ向きに足を引っ掛けて背中からひっくり返った。腰をしこたま打って、数秒動けなかったそうだ。ったく、お転婆に限界なしだ。

「僕は目撃してなかったんで、実はよく状況がわからないんですが、頭は打っていないようですし、歩けるようですが……」
担任は「迎えに来ていただいたほうがいいんじゃないかなあ」といいたげだが私の返事を予測しているらしく、いわないのである。
「今日はバレエのお稽古なんで、バレエ教室に行けといってください」
「はあ、そうおっしゃるのではないかと」
「痛かったら見学してるでしょうから。お稽古の終わる時間には、私も迎えに行けますので」
「よろしくお願いします。方角の同じ児童と一緒に下校させます」

というような「たぶん大事に至っていませんが念のためご報告しました」的な電話。先生も大変だ(ある有名私立の講師をしていた友人の話だが、その学校ではとにかく何か起こったら事の大小を問わずまず救急車!が基本マニュアルだったそうだ)。

夜、自宅にかかってくる場合は、なにか事件やもめごとである。今年度の例は「図工作品が壊された」が記憶に新しい。
そこそこ出来の良かった二人の女子児童の作品が何者かによって壊されていた。先生いわく「過って落として壊れちゃった、というような壊れ方でなく、故意に引き裂いた痕跡がある」「たぶん、さなぎちゃんとやよいちゃんの作品はきれいだったので、作品の出来に対する妬みだと思うんですが……」

こういう事件の処理は学校側もほとほと困るだろうな、と思う。ほうっておいても(つまり「誰だっこんなことするのはっ」と全員に一喝して終わらせるだけでも)いいんだろうが、近年は親が承知しないから何らかの手は打たないといけないという意識が高まっているみたいだ(ある有名私立の講師をしていた友人の話だが、その学校ではこういう場合はとにかく校長・教頭・主任・担任が自宅へ赴いて陳謝!が基本マニュアル。「これは犯罪ですっ警察に届けますっ」とすぐにわめく親を制止するためだそうだ)。

ウチの子は担任に「もういいよ、慣れてるから」と無表情でいったそうだ。担任は、起こった事よりもその言葉がいたくショックだったらしい。このときの電話の声は「沈痛」以外のなにものでもなかった。

 *

なもので、夜に先生から電話がかかるといやーな数々の経験が走馬灯のようにアタマを駆けめぐる。
「先生っ! な、なにかっ???」
「こんな時間に申し訳ありません」(といいながら声はとっても晴れやか)
数日前に学校に有名人が来て講演をしたが、その講演内容や子どもたちの様子が大きく詳しく新聞に特集掲載されることになり、花束贈呈役を仰せつかったさなぎも写真にくっきり写っているという。あ、そうか、なるほどね。
「掲載許可ですね」
「そうなんです」
「写っている子の家全部に電話してるんですか?」
「そうなんです」(心なしか情けなさそうに聞こえる)
「ウチのさなぎだけ拡大して載せてくれって(笑)新聞屋にいってくださいよ」
「ありがとうございます(笑)」
「ダメだ許さんっていう人、います?」
「いるんです……」(いっそう情けなさそうである)
「困った世の中ですねえ」
「はあ……」(まったくおっしゃるとおりですよね、個人情報保護とかと何の関係もありませんよね、いったいなんでこんなことになってんですかね、なんでこれが僕の仕事なんでしょうかねっていいたいけど立場上いえないんですよね、というココロが受話器からヒシヒシと伝わる)

こういう「写真掲載許可確認」は頻繁にある。私はいちおう、インターネットサイトへの掲載は顔が識別できる写真はダメ、印刷物の場合はイメージ扱いでなく掲載意図のはっきりした使途ならオッケーの原則を伝えてある。だから我が家への電話は心が軽かったことだろう。なかには写真なんてとんでもない、とヒステリックに拒絶する保護者もいるらしいから、嫌な気分もさんざん味わってるんだろうなとお気の毒になるのである。

その講演会の主催はSK新聞(全国紙)だそうだ。
なら、新聞に掲載されることは最初からわかっている。新聞社の取材にともなって写真撮影もあり、子どもたちが写り込む可能性がある――と事前通達しておくという手はないのかなあ。子どもが写るのを嫌がる人は、その時点で拒否という意思表示ができる。少なくとも「そんなこと聞いてませんよっ」という反応はまず避けられる。講堂の長椅子に子どもを座らせるときに「写っちゃダメな子エリア」を作っておいてカメラマンに念押ししておくとか。……でも、想像しただけでも面倒そうだな。

それと。
児童とその保護者と、学校との連絡は、担任に集約されている。
どんな場合も担任が窓口だ。
でもこれ、絶対そうでないといけないことか?
もちろん担任には子どものことを把握しておいてほしいけれど、場合によっては末端の事務処理は誰か別の職員がやってもいいんじゃないかと、私は思うんだけど。
もちろん、いくら「○○小の▲▲です」といわれても、全然知らない教員や職員から家に電話がかかってくるのはなんとなく嫌だ。だから「保護者に全然知られていない」という事態を避けるために、学校は日頃から「スタッフ紹介」みたいな形で教員職員関係者についての情報を発信すればいい。従来のような「学校だより」のノリだと親は見向きもしないから、発信方法には工夫が必要だろうけど(だからこういうこともアウトソーシングすればいいのだ)。
学校内で子どもたちは保健室、クラブ顧問はじめ担任以外のいろんな先生がたや職員さんとかかわっている。でも、よほど密接なかかわりでもなければ親は担任以外、ほとんど知らずに過ごしてしまうのである。
業務の量が今のように多量で多岐で(っても、私は学校の先生の業務について今も昔も全然知らないけど)なければ担任ひとりで済んだだろうが、世の中、変わったのである。
学校の現場がビジネスライクになるのは絶対によくないが、先生がたには本来の職務に時間を割いてもらいたいので、ごくごく事務的な部分の業務はきっぱり切り離して、きわめて効率的にビジネスライクに処理してもらいたいと思うのである。どなたか別のかたに。

去年は部活の試合の出場申込みを忘れた教員がいたし、今年は陸上大会のリレー選手名を間違って記載して提出した教員がいた。そういう、集中力の欠如や再確認の怠慢によるうっかりチョンボが、どれほど子どもたちを傷つけ、士気を低下させることか。教師の威信を失墜させることか。
「そんなこと、誰か事務に長けた人が一括して担ってくれよ……」と私たち保護者は一様に思ったものだが、これって、ごくノーマルな反応だと思う。

エクセルを駆使してきれいな時間割表作ってなんか、くれなくてもいい。怪我したから、喧嘩したからって逐一連絡してくれなくてもいい。
でも、いつ、どんなときでも子どもの心のフォローをしていてほしい。子どもがわかったというまで、納得するまで教えてほしい。先生がたにお願いしたいのはそういうことだ。
きれいな学校だよりや連絡文書の類は、事務能力に優れ、まともな日本語の文章を書ける(これが肝腎!笑)事務員が作成してくれればいい。他機関や地域・保護者との連携や対応などのやり取りも、はきはきと話せて抜けのない確認のできる(これが重要!怒)セクレタリーがこなしてくれれば、それでいいのだ。

わからないフォーエヴァー♪(3)2007/12/14 17:22:56

まぁずぅぅしさにぃまけたぁあああ♪ 私は負けませんよっ(by midi)


しつこく『「わからない」という方法』。

橋本治はイラストレーターだった。
彼が活躍していた頃、私はまだ子どもだったから、リアルタイムでそれと意識して見ていたわけではない。
彼の絵はポスター、雑誌や本の表紙、新聞広告用のイラストなどにもよく使われていた。実は大変器用な画家で、さまざまな技法を使い分けて表現している。切り絵にも長けていた。また、中原淳一ふうの少女画なんかも描いていた。彼のいろいろな絵と「橋本治」という名前が結びついたのは、少しあとである。記憶が朦朧としているけれど、ちょうど私が美大生の頃に重なって、原田治というイラストレーターが一世を風靡していた。特徴のあるキャラクターを創り、「OSAMU GOODS」などと称して商品化も盛んだった。私は「このオサムって、あのオサム?」と、橋本治と原田治を頭の中でごっちゃにしていた時期がある。私の中ではイラストレーターの二人のオサムが一人になっており、『桃尻娘』を書いた作家は別のオサムなのだった。
そして、バカな私は原田治の絵を見ながら、「オサムはもうこういう絵しか描かなくなったのかな」などと思いながら、横尾忠則がポスターデザイナーから画家に転身したように、橋本治もキャラクター商品を創るのをやめて、またどろどろコテコテした絵を描いてくれるはずだ、なんて、的外れにもほどがある期待をしていたのだ。

橋本治はイラストレーターだった……というよりも、今も私の中ではイラストレーターである。
このような「オサム」の取り違えから、私の中に作家や批評家の橋本治は存在のかけらもなかった。まったく、「作家・橋本治」はゼロだった。
いや、それは正確ではない。たぶん、私は知っていたのだ。イラストレーターのオサムが『桃尻娘』を書いたオサムその人だということを。そして、原田治と橋本治が別人だったということも何がきっかけだったかは覚えていないがいつのまにか知っていた。ただ、認めたくなかったのである、橋本治の正体を。「あ、これは、あれとは別のオサム」。書物のさまざまなところに橋本治の名を見つけるたびに、私の頭はそう思うように命じていたような気がする。

橋本治はよく引用される人である。橋本治の文章は、だからまったく知らないわけではなかった。ここ何年か読みふけってきた内田樹の本にもほんとによく出てくる。だが、引用者は、橋本を引いても彼にイラストレーターだった過去のあることには言及しない(当然だ)。私は、書物の中に彼の名を見るたび、かつていつも目につくところにあった彼の絵をおぼろげに思い浮かべながら、「あ、これは、あれとは別のオサム」と、半ば自分に言い聞かせるように、二つの「オサム」を結びつけようとはしなかった。

というわけで本書は、まったく初めて手にした橋本治の著書だった。
おくづけにある彼のプロフィールを見て、触れられたくない過去を暴かれたような(なんでだ)、そんな気分になった。
やっぱり、このオサムはあのオサムだった。
知っていたはずだけど、あらためて知って落ち込んだ。
だって「東大生ごとき」のくせに。(お、おい! いっていいのか「ごとき」だなんて!)
だって「たかが東大卒」のくせに。(お、おい! いっていいのか「たかが」だなんて!)
彼はイラストレーターとして成功したのである。のちに、やめちゃったにしても。
なんか、悔しい。

本書、『「わからない」という方法』を読んで、私がいちばん堪えたことは彼の「天才」を目の当たりにしたことだった。
「エコール・ド・パリをドラマにする」という章がある。
彼はドラマの脚本を書くための取材でパリへ行き、ルーブルはじめ美術館を見学して絵をあれこれ見る。エコール・ド・パリの画家たちの足跡をたどるため、そしてそこから何がしかのストーリーを編み出すためである。
彼はボッティチェルリの絵を見てモジリアニを想起し、ユトリロを見てその孤独を、その母シュザンヌの罪深さを思いやる。
私たち(三流)美大生は、退屈な講義に居眠りしながら作家論や美術史にしがみつき、どうにかこうにかやっとこさ、絵の鑑賞眼など養う余裕もないままに、理屈先行の知識を覚えこむ。レポートを書かなきゃいけないし、卒業するのに単位が必要だからだ。しかしそんな知識はレポートを終えたら捨てられる。卒業して美術から離れれば二度と呼び起こされることはない。
しかし、本物の絵の前に立った橋本治は、それらを見つめているうちに、かつて学んだ知識以上のものを体内から喚起し、パリ派の画家たちの作品と生涯について、「わかる」に近いところまで達するのである。

東大生ごとき、なんていったけれども、彼はその東大で美術史を学んでいる。おそらく三流美大生なんかより、ずっと美術には通じているのである、学識も、技巧も。そして生来のクリエイティヴィティ。おそらく「本物の絵」は、そのような天才性をもった鋭敏なひとには強い力で何かを示唆するものなのだ。

橋本治はなるべくしてイラストレーターになって、時代に呼応した絵を描きまくることができたのであり、小説家としてのデビューも、来るべくして来た転機であり、その後の作家としての成功も、必然だった。ご本人がどう思ってらっしゃるか知らないが。ご本人はただ「わからない」を追求されただけなのかもしれないが。
あのオサムはこのオサムだった。ほんとうに、オサムはひとりだった。
本書を読んで、いちばん書き留めておきたかったことは、実はこのことなのであった。
なんか、悔しい。

冒頭の画像は昭和49年発売のシングル盤レコード『昭和枯れすすき』(さくらと一郎)のジャケット。イラストは(たぶん題字も)橋本治。

流行っているもの2007/12/17 18:32:14

千鳥格子の「ふとん」とウチの猫。


娘は「ウインドーショッピング」が好きである。
いわゆる「冷やかし」である(笑)。

こないだ思いもかけず繁華街で使える割引券をゲットしたので、久しぶりに外食に出かけた。
道ゆく人が服装に上手に千鳥格子を取り入れているのに出会う。
「千鳥格子、やっぱり流行ってるんだねえ」
「チドリゴーシ? 何それ」
「千鳥は鳥のこと。格子はチェックのこと」
そう言ってから、説明しようと思って大柄な千鳥格子を着た人を探したが、探すといないものである。
レストランに行く前に百貨店の婦人服売場へ寄って、「ほら、これこれ」と千鳥格子の説明をする。千鳥が飛ぶ姿に似てるからだといっても想像できないようだ。文様の知識がないからそれはしかたがないなあ。
とはいえ、婦人服売場はけっして千鳥格子だらけではなかったので、「ほんとに流行ってんの?」と娘は疑いの目を向ける。「うーん、そうらしいよ」「じゃ、数えよう」
というわけで、帰りのバス待ちの間に、バス停の前を行きすぎる人を観察した。20分弱の間に千鳥格子を身につけた人、25人。うち18人がマフラー。白と黒の千鳥はほぼ全員。ベージュ×白(コート下から覗いたスカート)、赤×黒(ワンピース)がそれぞれ一人いた。
「流行ってるでしょーが」
「ほんと。ウチにある?」
「うん、あるよ。おばあちゃんのジャケットと、ひいばあちゃんが着てたコート」
「今流行ってんのに、なんでおばあちゃんたちばかりなの?」
「昔からある柄なのよ。千鳥って着物の柄からきた名前だし」
「お母さんは嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど、どうも似合わないような気が……」

前にも、ウインドーショッピングに街へ出かけたとき、ショート丈パンツが流行っているよという話をして数えたらものすごい数になった。
こういうふうに数の当てっこをするのが、私たち母娘の街でのささやかな楽しみである。
近い数値を予測するのは私のほうだが、人を観察することの面白さをより堪能しているのは娘のほうである。「似合ってない」だの「膝が曲がってる」だの「色のバランスがイマイチ」だのかなり偏見に満ちたファッション評を展開する。「あの人美人」「彼氏ダサー」(おいおい)。
でもけなすばかりでなく必ず「ああいう格好ならしてみたい」と羨望の眼差しを向けるケースがひとつふたつ、ある。向けられた女性がどこから見てもお洒落だとは限らないところが我が娘ならでは、なんだけど。

ウチへ帰ると、よく目につくところに千鳥格子を発見した。猫のふとんにして食器棚の上に敷いてあるのは、私の母の古いニットスカートである。これを着用した母の姿を私は思い出せない。高校時代の冬の夜、試験勉強するときにひざ掛けとして譲り受けたものだ。とうの昔にスカートとしての使命を終えた千鳥格子。
「いいなあ、おまえ、流行の最先端だよ」と、私たちは猫を見て笑った。

revenant2007/12/20 18:20:45


 しばらく帰国しますヨロシク、とジャン青年が町内会長宅へ挨拶に訪れた。一か月後にはまた日本へ来るというから、ほんの一時帰国である。ジャンに好感を持っていた町内会長は、帰ってきてな、居らんと寂しいよと笑顔で見送りつつ、今後このようにたびたび帰国するのだろうか、それだと町内の役員は頼めないなあと、頭の隅で別の心配をした。
 ジャンが住んでいる路地奥の三軒長屋のうち二軒は空き家になっている。富ばあさん亡きあと、その家は借り手がない。もう一軒はかれこれ二年以上前から空き家である。この長屋の持ち主は以前町内の住人だったが、今は隣町に住んでいる。引っ越すときに町内のほかの土地は売ったが、この路地奥は買い手がつかず、古い家のまま残しておいたら、そのうちに物好きな借り手がぽつぽつ現れた。他県から来た学生や芸術家、また外国人留学生などが入居しては出ていったが、やがて富ばあさんが住み着き、しばらくしてジャンが来た。ジャンは、来日当初は他都市の大学の留学生だったらしいが、学業修了後、住みたかったこの町で仕事を見つけることができたので日本に居ついている、と町内の者は皆聞いていた。
 長屋の持ち主が久しぶりにやってきて町内会長宅で話したところによれば、富ばあさんがいた家の家賃を、ジャンが払い続けているという。「連絡はいつも電話なんで、はっきり聴けてないんやが、トミサンデブナンときどき来る、とかなんとかいいよるんや。必要やから借りておきたいって。なんやわからんが、家賃きっちり払うてもうたらそれでええ、というたんやが」
 ジャンの発言には時折不思議な言葉が混じる。だがそれはいつものことだから町内の住人はその意味を推測したり、わかれば該当する日本語を教えてやったりできるので、意思の疎通に困ったことはほとんどないのだが、富ばあさんの絡む話だと全然見当がつかないことがしばしばである。とはいっても、それで困ることもやはりなかった。町内会長は家主の話を聞き流していた。
 一か月経って、ジャンは予告どおり再び長屋へ帰ってきた。そして町内会長宅に挨拶に訪れ、一冊の本を差し出した。
「トミサンの、ショセツ。翻訳しました。ドゾ」
「しょ、しょせつ? 小説? 富ばあさんの? 翻訳だって?」
 町内会長はわけがわからずただ驚き、そのフランス語の書物を縦にし横にし、裏返したりめくったりして眺めた。タイトルらしき大きな字の下に「Tomi Yamanaka」と、たしかにある。何枚かめくると再び題名と著者名があり、下のほうに、ジャンの名前らしきものが記されていた。ほう、ほうと、わけがわからないままただ頷く会長にジャンは照れくさそうな笑みを見せていった。
「やっとできた。わからないとき、トミサンの家でじっと考える。トミサンのレヴナン来て、教えてくれる。トミサンのおかげ」
 トミサンのレヴナン。町内会長はいつかの家主の来訪を思い出し、合点がいったというように「富ばあさんの幽霊が来たのか」と確かめるようにジャンに問いかけた。
 ジャンは、そう、そのことだよと言うように目を見開いて、ウイと答えた。

「いいなあ、こんな恋してみたい」と素直に思えた若さよいずこへ2007/12/25 10:29:53

『恋文物語』
池内紀著
新潮社(1990年)


昨夜はクリスマスイヴであった。
したがって今日はクリスマスである。
そこで。



Joyeux Noel...
decembre 1989

この世でいちばん大切な慎吾様
80年代最後のX'masを
こうして慎吾と過ごせるなんてとってもとっても不思議
それから最高に最高に幸せです。
16歳から26歳までの(まだ25だけど)僕の80年代はまさしく青春そのもの
ではあったのですが、自分で云うと変だけど
自分が 生き生きと のびのびと 活動している、楽しんでいる、輝いている
という実感は20歳を過ぎてからやっとあったのです。それ以前は
心の中でいつもミケンにしわ寄せ 顔は世間に合わせてとりつくろう
という技を若いくせに持っていたのでした。20歳を過ぎて
やっと人間が大好きになりました。見ること、聞くこと、
歩くこと、食べることが大好きになりました。自分に似合うものが
わかるようになりました。僕の遅咲きの青春がここにあります。
慎吾も、僕の側に居ます。
そんな80年代を見送るのはとってもさびしい…
だから慎吾にも僕の80年代をおすそわけして
想い出にひたるのにつき合ってもらお!
と、上手におぜんだてしたところで 今年のプレゼントは
♪ガラクタ・バザール!!

1)えんぴつ 鉛筆に凝っていた僕のコレクションの中から1本。
2)絵本 絵本作家になりたかった頃買い集めた中の
いっとうお気に入りの“zebby”シリーズから1冊。
3)アロマキャンドル いつか煙草のにおい消しをあげたよね。
あれと似ているよ。森の香り。でも買ったのはだいぶ前だけどね。

何年も何年も持っていたものや、大切に大切にしまっておいたものたちです。僕だと思ってご存分に…

100年分のkissをこめて 蝶子

Je t'aime,
et toi?



なんと、これはラヴレターだっっっ(赤面)
しかし、何でここにあるんだ(苦悩)。
いきなり出てきたのである。だからって公開するなよ(アホォォッ)
差出人は僕だ。僕って、おい。何で一人称を「僕」にしてるんだ(謎謎謎)。

とにかく古いものが片づかない我が家。私はもう何年も、曽祖父の代からのガラクタの整理に追われている。何で私がやんなくちゃいけないんだよ、これ、どうすんだよ、こんなもん、置いとくのかよ、先行世代が責任持って処分しろよな、などとぶつくさいいながらおびただしい遺品廃品を両親の前にでんと置いたりしたけど、彼らはへえ、ほお、なんていいつつ懐かしがって作業が全然進まないから、ええいわかった、とにかくまとめとくからいつか必ず片づけてよっ……と私は言い放ったが、そうこうするうち父が亡くなり、また要処分品が増えたのだった。そんなモノどもも、どうにかこうにか、容積を減らしつつあり、昨今は自分の持ち物の処分にシフトしている。私は物を捨てない性質(たち)だ。何でも残っている。自分でも驚くが、えっこんなもの、うっそんなもの、みたいなモノまで残っている。70年代の生徒手帳とか(笑)。

それらの古いモノどもとは扱いが異なるが、人とやり取りした手紙の類も、とくに美しいカードだったりすると取っておくほうである。自分も素敵なカードで人に手紙を出したくて、少しずつ買いためて保管している。そういう新旧のカードを放り込んでいる引き出しがある。で、久しぶりに整理しようと底のほうから掘り出すようにしたら出てきた。それが上の手紙である。



本書、『恋文物語』は、ここにある慎吾(仮名)との関係を「これからどうしようかな……」と考えあぐねていたときに買って読んだような気がする。洋の東西、架空も含めて著名な人物のラヴレターを取り上げて、著者が「推論」している。
本書を読んで、さまざまな人のさまざまな恋文のありようにいたく感動し、我がことのように胸ときめかせその奥を熱くしたものだった。だが、今読むとなんとつまらないことだろう(笑)。文学的素養のない人間には、作家や文人の書簡の重要性というものがまずピンと来ないのだが、何よりも、恋愛をしていない状態というものはこれほどに人間を、他人の色恋沙汰に対して無関心にするものかと、我ながら感心した。

買った当時は「神父ガリアーニ」や「プラハの殺人者」などがしたためた恋文とやらを、おおおふむふむじーん……とわかりもしないくせに、とはいえどこかで恋する者たちの気持ちが腑に落ちたのであろう、そうよねそうよねと感動しながら読んだ覚えが微かにある。

今、あらためて読み返してみて、唯一関心を惹くのが「岡倉天心」の項である。池内紀が取り上げている人物の中で日本人はこの岡倉天心だけで、しかも相手はインドの詩人。天心は亡くなる最後の一年足らずの期間、詩人と長い手紙をやり取りしている。恋情がどの程度だったかはわからない。だが、どれほど熱に浮かされても、母語でならこの時代の日本人男性がけっして書かないであろう文章が、遠く海を越えた異国の女には向けられた。たとえば書き出しに「水の中の月なる人へ」。ロマンチックだなあ。天心は余命あとわずかというときになって幾通も書いており、そして詩人からは彼が亡くなった後も幾通も届いたという。
天心と詩人の間には、男女の愛情がかよっていたのだろうか。



さて。
慎吾には申し訳ない(ことは別にないと思う)が、この手紙をしたためたときの自分の心情はもう思い出せない。私は91年の夏に渡仏したが、それを機会に慎吾とは切れた。というよりも、切れるために渡仏を決めたのだったと思う。もう、そろそろやめちゃおう。だけど慎吾には切り出せない。切り出せないけど自分の中では感情が収束に向かう。留学先の選定、留学資金の見積り、仏語習得レベルの現状確認などなど、準備しなくてはならないことはいっぱいあった。だから、たぶん、私は89年後半から身辺整理も心の整理も始めていた。渡仏を口実に。そしてそんなわけで、89年の慎吾へのクリスマスプレゼントは、新たに買い求めたりせずにウチにあるガラクタを処分しちゃえということにしたのであろう。なんとまあ。我ながら、●▽■!!。

手紙の中で言及している絵本「Zebby」のシリーズは、洋書絵本展で3冊セットで買ったものだ。シマウマが主人公の、言葉のない絵だけの幼児向け絵本。何年ものちに娘が生まれて、私はこの本を見せようと家中探したが2冊しか出てこないのだ。そりゃそうである。残る1冊を慎吾にあげたんだった……と思い出したとき、どれほど大きな後悔が私を襲ったか、ご想像いただけるであろうか。乳幼児が小さな絵本からどれほど無限のストーリーや空想世界を広げることができるか、その可能性の大きさに鑑みて、あのキュートな絵本を、そうしたものの鑑賞ゴコロなどとっくに失ったおっさんに与えてしまったことの罪深さ。あがががが……と本気で数日悔しがったことを思い出す。アホだけど。

さらに最初の問いに戻るが、なぜ、この手紙がここにあるのだ?
下書きではない。けっこう高そうなカードにちゃんと書いている。ガラクタプレゼントに添付されるはずの手紙。
ラッピングし忘れて……当日相手が包みを開けてから気がついて……私は上記の内容を口頭で説明したのであろうか。マヌケだ……。で、入れ忘れた手紙を後生大事に捨てずにとっておいたってか。アホだ……。
そしてなぜ、一人称が「僕」なのだ? なぜっ???

それにしても、なんと、ときめかない手紙であろうか。だからなんなんだよ、何がいいてえんだよ、と、受取人が自分なら毒づいたことであろう。慎吾は優しかった(ほんとだよ)。
あ、でもこれ、受け取ってないのか。ああ、もう、バカッ。

娘の母の、ものがたり2007/12/26 18:56:00

『〈現代家族〉の誕生  幻想系家族論の死』
岩村暢子 著
勁草書房(2005年)


本書を「有意義に」読める人は限られる。
常連さんなら、おさかさん、ぎんなんさん、ろくこさん限定。

あるいは1960年以降生まれ(で、厳密には1968年生まれまで。私見だが)の女性のみなさん限定。(先のお三方でこの生まれ年にあてはまらない方がいらしたら、ごめんなさい)

なぜ上記の人々なら「有意義に」読めるかというと、本書は、1960年以降生まれの女たちの《母親》たちについてつぶさに書かれた本だからだ。
あなたのお母さんが、どのような時代にどのようなものを食べて生き、どのように結婚生活を送り子育てをして、あなたが成長したあとどのようにあなたとかかわっているか、が書かれている本だからだ。



たとえば私の母。
母は、自分では気づいていないが、「新しいもの信奉者」である。とにかく「新しいもの」は他の何にも勝る、という考えが無意識に彼女の行動を規定する。古いものや手づくりのものは「もっさい」(今の全国区ワードでいう「ダサい」)。木箱や和綴じ本、職人が手彫りした人形、などは「古くさい昔のもの」としてどんどん彼女の周囲から消えていく。彼女にとってはスーパーで売っているプラスチックの事務用小引き出しや百円均一ショップのノートのほうが「新しくて便利で価値がある」。薄汚れてみすぼらしくなリ、実用価値がなくなったら速攻で捨てる。そのこと自体けっして悪いことだとは思わない。しかし、それはしばしば家族のほかの者にとってはかけがえのない品だったり、もうそれと同じものを作れる人間はこの世に存在しないといっていいほど稀少な品だったりするのである。
(……といったが、では母の部屋とか母の暮らしぶりがすっきりしていて無駄なものの何もないシンプルライフかというとけっしてそうではなく、百貨店などでもらった紙袋、包装紙、レジ袋など絶対に捨てることなくとっておくのである。←この癖は私にもある。娘にもある。我が家に伝わるDNA。)

たとえば私。
私は、古いもの、薄汚れたもの、見知らぬ人がその手で使い込んだもの(古本)あるいは手づくりしたもの(手芸・工芸品)などに惹かれるほうである。布や木の製品はプラスチック製品より気軽さや簡便さに劣る。古いものは、モノによっては使い途がない(レコード)。けれどそうしたものほど愛着が増す。というわけで私の好きなものは更新も廃棄もされずたまる運命にありがちだ。私は、昔愛読した本や雑誌のバックナンバーを読み、今は聴く術のないレコードのジャケットを眺めて、時代の空気の匂いを思い出すのが好きである。また、旧仮名遣いで書かれた童話の本などを古書店で見つけたら買わずにいられない。さらに、ウチには曽祖父の代に使用していたと思われる(今となっては用途不明の)道具などなどが残っているが、そんなの、ゴミに出すなんて論外!なんて思っちゃうほうである。

これらは我が家における私たち母と娘の例だと思っていたが、どうやらそうでもないらしいのである。

戦前または戦中に生まれ、戦中と敗戦直後を幼少期に過ごし、戦後民主主義の洗礼を受け、パンと脱脂粉乳の学校給食で育ち、サラリーマンの妻となり、「団地」に引っ越し、1960年代に娘を産み、卓袱台を捨て、「三種の神器」続いて「3C」を購入し、娘にはピアノやバレエなど「洋物」のお稽古事をさせ、その娘を少なくとも短大以上に進学させた。

私たちの母親世代は、個別に細かな差異はあるものの、おおよそ ↑ このような人生を歩んできた。農家に生まれて染め屋に嫁いだ私の母親の場合、上の【サラリーマンの妻となり、「団地」に引っ越し】と【娘にはピアノやバレエなど「洋物」のお稽古事をさせ】のところが違うだけである。

180度価値観の変わった世の中に生き、怒涛のように押し寄せる新情報新製品新生活様式を全身に浴びた。母親たちは先を争うように新しいものを試し、気に入り、取り入れた。その一方で彼女らは、生家の親から受け継いだはずのさまざまな事どもを、きっぱりさっぱりすっきり、捨て去ってきた。古いものに固執しないというのは、彼女らの世代に大なり小なり見られる傾向であり、その頭には、「みんながやっているからウチもそうした」「みなと同じほうがいい」という考え方と、「ウチはウチ、よそはよそ」「それぞれの考え方があるからそれぞれが好きな方法を採ればいい」という考え方が同居する。

このような母親に育てられた私たち60年代以降生まれの女は、強い自己主張をもち、そのときどきで行きたいほうへ進み好きなものを選び、バブルに乗じて金と時間と精神を浪費した。親にいっさい文句を言わせなかった。そして自立した(はずの)、家庭をもった(はずの)今も、親を頼りにしている。

私たちは60年代後半から70年代にかけて少年時代、青春時代を送った。そのノスタルジーは強烈で、急速なテクノロジーの発達のためにもう同じ方法では再現不可能になった数々の「文化」を、「デジタル」で残していこうと躍起になっている。三丁目の夕日だとかなんとかっていう映画をつくったり、仮面ライダーやその他もろもろかつてのヒーローを復刻させたり、懐メロコンピアルバムをつくったりしているのは私たちである。

本書には、こうした世代の娘をもつ母親たちの物語が浮き彫りになっている。調査結果をまとめたものなので、誰もが対象読者であるし、誰にでもわかりやすい。だが。

私は思った。「男にはわからない。わかってたまるか」

母たちの生き様は、娘の人生のありように光も影も与えるが、その与え方は、けっして「父と娘」または「父と息子」「母と息子」には起こり得ない、与えられ方になる。そのことはおそらく、「母と娘」にしか自明でない。母と娘の関わりは、ほかの誰にもわからないのである。



この著者の名は最愛の内田樹のブログで見知った。アサツー・ディ・ケイ社の「200X年ファミリーデザイン室」という部署の室長さんらしい。本書以前に『変わる家族 変わる食卓』という本を2003年に出しており、本書はその続編という位置づけである。
『変わる家族 変わる食卓』は、アサツーが始めた1998年からの調査をまとめたものである。調査対象は、1960年以降生まれの主婦が作る家庭の食卓。
《1998年から始まったこの調査は、2005年6月現在で、総計151世帯、3171の食卓日記と五千数百枚の食卓写真、そして151人の現代主婦たちへの詳細な個別面接データを収集し分析》(1ページ)した結果をまとめたものである。
その「食の崩壊」の実態への反響は大きかったが、誰もが一様に示したのが「この本の主婦たちは特殊な成育環境にあったのではないか」という反応であったという。そして「この主婦たちの母親世代はきちんとした昔ながらの食事を作っていた人たちなのに」、なぜその娘たちはこんな食卓しか作れないのかという疑問。
著者はその疑問を解明せんと母親世代への調査を行ったのである。



著者の「食」に関する調査は、とにかく食生活が危ないという危機感に立ったものであった。自分の娘の食事を同居の母に任せっきりの私など何も言う権利はないが、朝全然起きない、食事を作らないお母さんがいるということは、別の教育関係の本などで知っている。いちおう私は「朝食担当」なので、大人は後回し or 抜きでも、娘にだけは何でもいいから食っていけとばかりに、とにかく食べさせている。以前は朝に「ご飯」を食べたがったが、最近学校給食がご飯メインなので朝はパンを好むようになった。ワンパターンだが食パンやバゲットに卵やハムなどのおかずを組み合わせるローテーションで凌いでいる。むかしむかし、女優の秋吉久美子が出ていたCMに、赤ん坊にカップ麺を食べさせるシーンがあった。大好きな女優だが、そのシーンには激しい拒絶と嫌悪を感じたものだ。



《幼稚園に行く娘(6歳)の朝食はカップ麺とプチトマト。「朝は起きられないし忙しいから食事の支度にかけられる時間は1~2分」》、7歳と6歳の子どもの昼食は《手作りカステラとカップ麺(……)「料理は手を抜こうと思えば抜けるから、できるだけ手をかけないのがポリシー。私がちゃんと手作りするのはケーキだけ」》(本書8、9ページ)



古いものを捨て去ってきた母と、古いものの郷愁にいつまでも浸る娘。
それぞれが、程度は異なれど激動の時代を生きた。母と娘が対照的であること自体は罪がない。だが、本書で問題視されているのは、この二つの世代の間に、「食」の継承がいっさいなされなかったことなのである。
なぜ、そんなことになったのか。
本書を読めば、それがわかる。
母ちゃん、そうだったんだね、と、涙するもよし、そーだよ母ちゃんのせいなんだよ、と責任転嫁の上塗りをするもよし。
とくに、おせち料理に関する考察が面白い。あなたの母は、どんなおせちを作りましたか? そしてあなたは、どんなおせちを用意しますか? あなたは、どんなおせちが「伝統的」だと思っている?

崩壊した、と思っているモノの実体は、最初から幻想だったのである。

男にわかってたまるか。男たちよ、「食の崩壊」を嘆きたきゃ、嘆くがいいさ。私たちは「食の崩壊」の原因を「フロメシネルしかいわない夫」や「子どもの寝顔しか見ないお父さん」に求めようとは思っていないさ。
とりあえず今のところ、これは女に特有の物語だ。いつか同じネタで、男たちが「女にわかってたまるか」という日が来るかもしれないが(意外と早いかも)。

時代は少しも変わらないと思う。2007/12/30 16:22:15

『十二月八日』
太宰治 著
筑摩書房〈ちくま日本文学全集「太宰治」1991年刊所収〉


過日、パキスタンの元首相ベナジール・ブット女史が暗殺された。それを伝えるフランスのラジオ放送(RFI)がしきりに「カミカーズ」という言葉を用いている。「カミカーズ」はアルファベットで「kamikaze」、語源は日本の「神風」である。よく知られたことだけれど。

昭和16年12月8日は、日本海軍が太平洋のハワイ島に停泊していた米国の戦艦を攻撃した、俗にいう「真珠湾攻撃」の日である。太宰のこの短編は、ひとりの主婦のこの日の日記である。

《昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。》
《私の主人は、小説を書いて生活しているのです。なまけてばかりいるので収入も心細く、その日暮しの有様です。》

太宰(らしき作家)の妻(=美知子)の視点、一人称で書かれている。太宰の作品はとても私小説的であったり限りなくエッセイみたいであったりするのだが、本書巻末のあとがきを書いた長部日出雄によればそれらはすべて紛れもないフィクションであるらしい。だから『十二月八日』も、妻に取材をして妻の見解を綴ったものでもなんでもなく、近所のラジオから聴こえる開戦の報、朝の支度に追われながら赤子に乳をやる妻、隣家と交わす他愛ない会話を材料にして仕立てた「ある家庭の一日を描いた小説」なのである。

《(……)帝国陸海軍は今八日未明西太平洋おいて米英軍と戦闘状態に入れり。」(……)それをじっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。(……)日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。》

暖冬が恒例となった現在では想像もつかないが、12月8日はとても寒いようである。

《いいお天気。けれども寒さは、とてもきびしく感ぜられる。昨夜、軒端に干しておいたおむつも凍り、庭には霜が降りている。山茶花が凛と咲いている。静かだ。太平洋でいま戦争がはじまっているのに、と不思議な気がした。》

いつもと同じ一日が始まって、いつもと同じように朝餉昼餉の用意をし、子の世話を、夫の世話をする。それでも、洋上で攻撃を仕掛けた帝国軍のニュースに身を震わせる。隣の夫人にこれから大変になりますわねと声をかけると、《つい先日から隣組長になられたので、その事かとお思いになったらしく、「いいえ、何も出来ませんのでねえ。」と恥ずかしそうにおっしゃったから、私はちょっと具合がわるかった。》

あることを念頭に話しているのに相手は違うことを考えている、だけど会話はきれいに成り立ってしまって、相手と自分の関係を損なわないが、「私はちょっと具合がわる」い、なんてことはいつだってどこにだってよくあることである。

12月8日、のちに軍神といわれる9人の特攻隊員が米戦艦に突っ込んで果てた。坂口安吾は彼らへの畏怖を『真珠』という一編にこう書いている。

《十二月八日以来の三ヶ月のあいだ、日本で最も話題になり、人々の知りたがっていたことの一つは、あなた方のことであった。
 あなた方は九人であった。あなた方は命令を受けたのではなかった。》

私はどちらかというと太宰よりも安吾が好きで、とはいえどちらも同程度にしか読んでいないけれども、そこそこ大人になってから読み返したときも、安吾の文章が鈍器でぐりぐりとお腹を押される感じがするのに対して太宰の文章は「ただそこにある」という感じがして、やっぱり安吾が好きだなと思ったものだった。この感じ、これらの作家をよく読んでらっしゃる方にもわかってもらえる感覚ではないかと思う。昔、ある場所に安吾評を書いたことがあって、彼の文章を「鈍い鉱物的な重い光沢を放つ」などと表現した覚えがあるのだが、今、さらに歳を重ねた大人になって、もう一度安吾を読み返しても、それはやはり変わらない。
ところが、安吾の鉱物的な重い光沢に対し、太宰の、「そこらにある乾いた石ころ」のような文章が、文字どおりそこらにあるだけのようにしか感じられなかったのに、今は、だからなおさらなのだろうか、とても、心地いいのだ。どうだ、そうだろ?と問いかけ考えさせる安吾に対し、じゃ、そういうことだから、と読み手を置き去りにしていってしまう太宰。

「半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。」で始まる安吾の『堕落論』は、今も色褪せずに読み手を引き込む魅力をたたえている。しかし、太宰は、『堕落論』の二か月後に『苦悩の年鑑』と題した一文を、こう書き始めるのだ。

《時代は少しも変らないと思う。一種のあほらしい感じである。》

第二次大戦を境に多くのことが激変したと語り継がれている。だが、いちばん変わったのは人間自身の「ものを見る目」であった。誰もが戦前と戦後をまるで何かの特効薬の使用前使用後のように語るのを、太宰は「ばーか」とつぶやいてやり過ごしていたのだろう。
現代社会も激動している、たしかに。私たちは、よくまあこんなにいろんなことがあるよなあと呆れるほど事件事故の多い時代を生きている。もういちいち、出来事に振り回されてはいられないよという気分に、とっくになっている。
同列に考えてはいけないと思いつつ、「あーあほらし」とつい感じる私たちの気分は、「当時の」太宰に近い、たぶん。だから、彼を今読むのは心地いいのだろう。

『十二月八日』では、「私」の背中には一歳に満たない園子という名の赤ん坊がいる。隣家にも五歳くらいの小さな女児がいる。子らは無邪気で、屈託ない。ああ、この子たちなんだな、のちに私たちの母親世代となるのは、と、私は前エントリで取り上げた岩村さんの著作を思った。

Je vous souhaite...2007/12/31 19:38:21

暮れも押し迫ったギリギリになってようやく冬になりましたね。
高村光太郎の「冬が来た」(でしたっけ?)の一節が思い浮かびますが、あの冬はもっと早くに来ていた冬だろうなあ。

《きっぱりと冬が来た。》

2007年、当ブログを訪れてくださったみなさま、ありがとうございました。
どうしようかと(少しだけ)考えましたが、同じノリで、来年も続けるつもりでおります。どうぞ、またおこしくださいまし。

でも、一月は少し遅めの再開の予定です。

たくさんの思い出であふれそうになった水瓶を抱えて、今年が過ぎていきます。おーい、落とすなよー(笑)

きたる歳が平穏で幸せな一年となりますように。

これから「をけら詣り」へいってきまーす♪