桜子 ― 2008/03/12 19:18:21
桜子は今夜も、百合さんのレッスンを見学している。百合さんは桜子よりも五歳年上だ。小学校一年のとき、このバレエ教室に入った。ここの六年生クラスに、百合さんはいた。自分たちよりずっと背も高く、スタイルもきれいなお姉さんたちのなかでも、群を抜いて上手な百合さんのことは、まもなく識別できるようになった。指先まで一寸残らず意識したしなやかな動き、優雅な微笑み。まっすぐな膝、美しく反った足の甲。百合さんは誰の目にも完璧だった。百合さんのプリエ、百合さんのシャッセ、百合さんのグラン・ジュテ。レッスンが佳境にさしかかると、百合さんの頬が、腕が、背中が紅潮してピンク色に染まる。桜子は、そんな百合さんを見ているとき、自分の頬も紅潮するのをはっきりと感じるのだ。
コンクールの予備選を通過した百合さんに、特別レッスンプログラムが組まれた。桜子は欠かさず見学したいと思ったが、本人の気が散るし夜遅くまでかかるから帰りなさい、と先生にいわれた。だけど、見学室から通路に出るわずかな空間に、スタジオからは見えない死角があるのを桜子は前から知っていて、そこに身体を小さく丸めてひそんでいた。
ある晩、フェッテを繰り返していた百合さんが突然倒れた。
倒れる直前、ばちん、という強い音を聴いたような気がした。
スタジオと見学室をさえぎるガラスは重厚で、遮音性が高い。
だけど、百合さんの歪んだ表情からこぼれる苦しそうな呻き声が、はっきり聴こえる。百合さん。桜子の心は恐怖に震えた。心臓が破裂するかと思うほど激しく打った。まもなく救急車が来て、百合さんは担架で運ばれた。隠れていたのが見つかったけれど、先生は桜子を一瞥しただけで救急車に乗り込み、ドアが閉まる寸前、人差し指を立てて唇にあて、桜子を睨みつけた。怖い、怖い目だった。
この夜以来、百合さんがレッスンに来ることは二度となかった。いま桜子は、先生の自分に対する指導がなんだか厳しく熱心になったような気がしている。見学室はいつも、桜子のクラスレッスンを見つめる小さな女の子でいっぱいだ。桜子は十二歳。桜子が初めて百合さんを見たときの、百合さんの年齢になっていた。桜子の心が、奮い立つ。