では、死んだものは……?2008/10/20 15:38:05

『イリーナとふしぎな木馬』
マグダレン・ナブ著 立石めぐみ訳 酒井信義絵
福音館書店 世界傑作童話シリーズ(1995年)


短めの童話を立て続けに読んでいる。
つくづく、わたしにはこのくらいの読み物がいちばん肌にしっくり来るなあと思うのである。小難しい本や理屈っぽい本は基本、脳を鍛えるため(だけ)に読んでいる。その類の本で皮膚感覚に逆らわない「しっくりくる感じ」を味わえるのは愛するウチダの本だけである。またまたもう、という人がいるかもしれないが、わたしの場合、ホントなの。

ふつうは小学校高学年くらいを意識した小説や童話などが、自分の脈拍の速度にも合い、狭小な視野にもぴったりはまり、粗い思考回路にも潤沢に流れてくれるのである。たぶん、わたし自身がその年頃にあまり童話や小説などの本を読んでいなかったので、身体の中のどこかにある、「そういうもの」で「満たされるべき部分」が長いあいだ枯渇していて、ほしがっていたところに、今、大人になってからとはいえ、こうしてやたら注ぎ込んでやるから喜んでいるのであろう。
たいへん心地よいのである。

イリーナはクリスマスが好きではない。
イリーナの家は忙しい農家。学校からも遠いので、一緒に帰る友達も遊ぶ約束をする友達もいない。いたとしてもそれはイリーナには許されないこと。帰れば両親の手伝いが山のように待っている。
町には家庭で必要なものだけを買いに来る。飾りつけた店の前であれがほしい、これがほしいとねだるよその子を見ても、けっして同じ振る舞いは見せないイリーナ。
親にほしいものをいえない、というよりは、自分にとってほしいものがなんなのか、それすら見つからない、イリーナ。
ところが、薄暗い古道具屋に、ほこりだらけの木馬が見える。他の古道具に押し潰されそうになっている木馬……生まれて初めてイリーナは「ほしい」と感じ、両親に「買って」とねだる。
まるで本物の馬の世話をするように納屋に藁を敷き、木馬の居場所を作り、毛並みを整えてやるように、ほこりを払ってみがいていく。するとある夜……。

古道具屋の主人である「おじいちゃん」はイリーナにこういう。
「この世に生きているものはすべて、おまえのものなんかじゃない。そんなことを信じていたら、いつかつらい涙を流すことになるよ」

生きているものには、それ自身の生きる「生」があり、それは「誰か」や「どこか」に属するものではけっしてない、という意味だ。木馬がイリーナの「もの」ではないように、イリーナも両親のものではない。だからイリーナは、ただ言いつけだけを守って親に従って心を開かずにいるのをやめて、自己主張を始める。木馬がそうして見せたように。

先日出奔したイモリのヒデヨシに思いを馳せた(あ、話はそこへ行きますか、といわずに聴いてくれ。笑)。
わたしが世話をしているものはわたしのもの、と人は何でも思いがちだが、そうではないことをヒデヨシは身をもって教えてくれたのである。
娘はもちろん、猫だって、カエルだって。
あるいはこれから世話をすることになるやもしれぬ老親だって、支配権や所有権は、わたしにあるわけはない。

だが死んだらどうなのだろう?
死んでしまったものたちについては、「わたしのもの」と思ってもよくないか?
せめて記憶の中でだけでも、わたしだけのものであってほしい。
そう思うのは罪作りだろうか、罰当たりだろうか。
死んでしまったものたちの魂はそれこそなにものにも束縛されず自由であるだろうから、それらの記憶を「わたしのもの」として留める事を許してほしい。

(だから緒方拳も峰岸徹もフィリップ・ノワレもわたしのものと思いたい。あ、そこへ行きますか、と軽蔑しないでください)

本書では、濃度の低い水彩絵の具をたっぷり筆に含ませてぽとぽと落としただけのような絵が、読者の想像を邪魔することなく、冬の朝日のように控えめな光を、物語に射している。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2008/10/20 18:20:01

 言いたい事がよく分かる。それが人間であり、聖俗含めた「生きて」いることであると思う。
 実際、私の思う蝶子と実体の蝶子が同じはずでないと承知していながらも、抱くことの夢が広がり、きらきら星となって、星空のひとつになっていると信じたい。

 自由とは夢であり、希望であるとともに、現実と触れ合う、愛の肌触りかもしれない。
 所有・独占とは、宇宙がバラバラに分断されたジグゾーパズルの、「ひとつ」或いは「一体」への絵作りの努力。或いは還元への愛しき夢。たとえそれが叶わなくても、プロセスの夢は偉大である。

 記憶とは唯一の贈り物。他から触れることも眺めることもできない、それは永遠からの、「あなた」自身への。
 忘れることは、永遠との合一である。恍惚の人は、唯一の幸せを独占しているとも言える。

 世の常識の儚さは、知らない世界の、余りにも広大なことを思い知らされる。

 あなただけ。わたしだけ。でも、だからこそ、私は知りたい、あなたを。
 都へと。

_ midi ― 2008/10/21 17:03:59

預言者さま
毎度ありがとうございます。
>忘れることは、永遠との合一である。
深いですね。永遠の愛を手に入れるには、忘れてしまわなくちゃいけないのね。
上洛をお待ちしておりますわ。

_ おさか ― 2008/10/22 16:49:57

あ、やはり峰岸さんもストライクゾーンでしたか(そこに突っ込むかっ

自分の記憶の中身は、自分のものとしていいんじゃないでしょうか
誰にもそれをどうこういう権利はないのでは
ご家族の持つ記憶と、ファンの持つ記憶はまた別のものでしょうし
同じファンでもまたそれぞれに違うものを持っているんでしょう

それにしても本当に、カッコイイおじさまがいなくなっていくのは
寂しいことですね
今の若い俳優が、年取ってからもかっこよくなるという保障はまだないですからね(とオバサンくさいことをいってみる)

_ midi ― 2008/10/22 18:34:19

おさかさん
エエ、そうざますのよ、峰岸さん。よよよ、早すぎるぢゃないのー

あとは根津甚八とか、小林薫とか、小林稔侍とか、菅原文太とか、大滝秀治とか、津川雅彦とか、竜雷太とか、北大路欣也とか、三國連太郎とか、渡辺謙とか、山崎努とか、長生きしてほしいっっ(以上、誰も死んでないよね?)

_ 鹿王院 ― 2008/10/23 16:54:05

自分のものかー

意識せずして
おのれが気に入ったものはすでにおのれのものなり
というのが私の心にあるんですが
自分のものじゃないってわかったときはショックですね

_ midi ― 2008/10/24 11:24:42

>自分のものじゃないってわかったときはショックですね

あははははは
勘違いに気づいたとき、ですね。
あれ? あたしのもんじゃなかったっけ、君? あいたたー!! ……って感じかな(笑)
気づかない人がストーカーになります。注意注意。

_ コマンタ ― 2008/10/27 21:33:58

所有というのはレヴィナスのテーマのひとつだと思いました。
ちょーこさんが敬愛する内田先生の本がうちにもあったはずですが、いまは前後不覚で見つかりません。マルセルなんていうフランス人も所有について書いているのを知って、中公バックスを手に入れたはずですが、それもいまは前後不覚で見つかりません。

愛するもの(の記憶)は自分のものと思いたい。むしろ自分、と思いたい、秋の夜でした。

_ midi ― 2008/10/28 05:57:24

株価の暴落が朝刊の一面を飾っていますが、「株」の「所有」のようなある種の「幻想」に比べ、愛したものの記憶の「所有」はなんとたしかなものであることでしょうね。

コマンタさんは「寝ながら学べる構造主義」を読んだことがある、とおっしゃってましたし、「他者と死者」を買った、ともおっしゃってましたよ。とくに後者については読後の印象をいずれ伺いたいと思っていました。私にとってはウチダのベストワンです。

_ コマンタ ― 2008/10/29 15:24:38

蝶子さんは鈍感なようでいろんなことよく覚えているから油断できません(笑)。『他者と死者』を手にとってみると、158ページのところにスピンがはさんであります。

 3 疚しさ

まず目にとびこんできたので、笑っちゃいました。ぼくのいまの気持ちです。のこり120ページをなぜ読んでいないのか、謎です。今週中には読みおわると思いますが、じつはびっくりしたのだったと思います。

こんなに歯切れのいいレヴィナス。こんなに歯切れのいいラカン。そしていつも歯切れのいい蝶子さん。ぼくは蝶子さんが愛しているという理由だけで内田樹にたいして素直な気持ちになれませんが(笑)、「ベストワン」であれば、四条……じゃなかった私情をはさまず虚心にのこりのページを読みおわらねばなりません。

しかし読みおわるとはどういうことか? すでに読んだページで教えられたことです。すくなくともヒントはあたえられた気がします。それにしても歯切れがいい。良すぎるといっても過言ではない、内田先生。

_ midi ― 2008/10/30 17:34:27

あ、読んでる途中だったんですね。
『他者と死者』の「他者」「死者」は周囲の誰に当てはめてもいいと思います。
子育て世代は、親と子のコミュニケーション論だと思えばするする(とはいかないかもしれないけど)読めます。
子どもはいないが伴侶はいる大人なら、結婚論もしくは夫婦間の愛情論として読めますよ、きっと。

_ コマンタ ― 2008/10/30 23:21:42

199ページに「なんから」ってあったけど、これ「なんらか」の間違いでしょうね(笑)。
ぼくの読解力の現状では、コミュニケーション論や結婚論として読むのはむずかしいですが、これまでよくわからなかったことがわかったり、フッサールとレヴィナスの「志向性」の違いを教えられたり、御利益のおおい読書でした。
とくに心に残ったのは、死んだものについて、生きているものは語る権利を持たないというところ。ぼくも昔からそう思っていたので、亡くなった友達の裁判に出ることを拒否したのでしたが、それが間違いでなかったといってくれそうな有名人を見つけた気がしました。

_ midi ― 2008/10/31 17:09:50

私は哲学には縁遠いので、レヴィナスもラカンもわかりません。この先も、きっとわからないまま時間は過ぎていくと思います。わからないものがわからないままある、ということはそんなに珍しいことではありませんが、わからないまま放置して平気なものと、わからないから放置できないでまた取りすがるように読んでみる、掘り下げてみる、描いてみる、というものとに分かれるように思います。ウチダの書くものは後者で、ウチダが媒介にしている知識人たちや多くの言説はある場合には後者で、ある場合には前者です。レヴィナスやラカンはいつかわかりたいと私の心に引っ掛かっていそうなので後者、でもハイデガーはアーレント経由でちらと見えればそれでいいかな、と思うので前者。橋本治は後者、でも村上春樹は前者。そんな感じです。

『他者と死者』については日を改めて書きたいと考えていますが、ながーくながーくなっちゃいそうで、躊躇しています。あと3回くらい読み直したら、てきぱき書けるかも。

_ midi ― 2008/10/31 18:36:24

いまふとコメント遡って読み直していたら

>蝶子さんは鈍感なようで

え、あたし鈍感?(笑)
どういうことに鈍感かなあ……例えば?
うーんうーんなんだろー(半泣)
「星の数ほども人を不幸にしてきた」のは、もしかして、自虐的に自分でゆってただけでなく、本当の真実なのか?(爆)
どーゆーとこがドンカンですかあーーー

と、こういうふうに今頃慌てているようなところなんでしょうか(号泣)

_ コマンタ ― 2008/10/31 23:23:13

ボロメオの輪ってご存じですか? 三つのワッカが結ばれあって一体になっているのです。そしてどれかひとつでも離れると、他のふたつもバラバラになって一体感は失われてしまう。
三つの輪は、ぼくのみる蝶子さんでいうと、1判断が早い、2意志が強い、3欲望をあきらめない、になり、その三つの輪の重なった部分に「鈍感」という語があてはまる気がしたのです。いま訂正すると、鈍感よりは、無頓着ですかね(笑)。ほめことばに聞こえないかもしれませんが、これはほめことばです。ほめことばに聞こえないということがその証拠です。

_ midi ― 2008/11/02 23:11:36

ボメオロの環、知りません。え、あ、ちがうって?
すみません、でも昔数学でならった集合の図みたいなやつですね。
>1判断が早い、2意志が強い、3欲望をあきらめない、になり、その三つの輪の重なった部分に「鈍感」
でも数学では↑こういう図は習わなかったね(笑)

自分でわかっていることがあります。
私は他人事(ひとごと)に無頓着です。よそはよそ。
そしてかつて人に指摘されたことがあります。
私は他人(ひと)の気持ちに鈍感だそうです。とくに異性。
そんなことないって思っているんですが、それこそがその証拠らしい。

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