一年の計は元旦にあり。こういう仕事がしたいっ!と強く思いました。 ― 2010/01/06 20:46:26
ジークフリート・レンツ著 松永美穂訳
新潮クレスト・ブックス(2003年)
2010年が明けました。
おめでとうございます。
本年も当ブログをご贔屓に、よろしくお願い申し上げます。
新年早々「遺品」だなんて縁起でもない。
そう思われてもしかたないのだが、暮れに、読みたい本が山のようにあったので、しかも高価なので、図書館に予約リクエストを大量にかけに行ったのだったが、そのときいつもの癖で外国文学の書架をぶらついていて、タイトルが目について引っ張り出した本がこれなのである。「遺品」が目についたのではなく「アルネ」が目についたのである。アルネって男の子? 女の子? ただそんな疑問が浮かび、勢いだけで手に取ったのである。うーむ自分にフィットするよい本との出会いはこんなもんなんだなあ、と読み始めて唸ってしまった。私好みのしっとり小説。マンガレリの「おわりの雪」と印象が似ている。
アルネは男の子である。12歳のとき、父親が一家無理心中を図ったが、アルネだけ蘇生術を施され生き残った。父親の友人宅に引き取られ新しい生活を始める。しかし。
《両親はぼくに、アルネの遺品を箱に詰めてくれないかと頼んだ。》
物語はこの一文で始まる。
つまり、冒頭からアルネはもう死んだことがわかっているのだ。
本を手に取り、裏表紙や見返しを眺めれば、アルネが一家心中の生き残りであるという「予習」はできるのだが、読者はこの冒頭で「え、生き残ったんじゃなかったの?」と戸惑うことになる。
物語の書き出しをもう一度。
《両親はぼくに、アルネの遺品を箱に詰めてくれないかと頼んだ。両親はまるまる一か月、何もしないでいた。困惑と、打ち砕かれた希望の一か月。そしてついにある夜、そろそろ彼の遺品を集めて箱に入れてもいいときなんじゃないかとぼくに尋ねたのだが、その口調は、ぼくへの依頼と理解せざるをえなかった。》
謎だらけ。穏やかな文体は、しかし読者の好奇心を喚起し、「ぼく」の妙に落ち着いた様子にときにいらだちも感じさせながら、最後まで、つまり「ぼく」の語りの最後まで、ぐいぐいと引っ張ってゆく。
「ぼく」は、アルネが引き取られた家の長男ハンス。アルネ12歳に対して当時17歳だった。アルネはこのハンスと部屋を共有する。辛い経験をしたアルネをハンスは当然温かく迎えようとする。それは最初は同情からだが、やがてアルネの聡明さや透徹な精神性に尊敬を覚えるようになる。十代の頃の五歳違いは大きい。アルネもハンスを兄のように慕い、信頼する。飛び級を推奨されるほどの、アルネの類い稀な明晰な頭脳にも、またガラスのように脆そうな精神にも、ハンスは寛容になれる。しかしハンスの弟、妹たちは、アルネと歳が近いだけにアルネをやすやすと受け容れることはできなかった。死の淵から蘇ったアルネには、どこか現実離れした言動がある。ちょっぴり不良ぶりっ子の弟、妹たちは「アイツとは話が合わない」で済ませてしまい、アルネを仲間に入れようとはしなかった。ハンス、ハンスたちの両親、両親が雇う警備員、港の人々、学校の教師たち。大人は皆アルネを評価し、優しいまなざしを向けるのだが、アルネは、歳の近いこの弟、妹たちともっと親密になりたかったのだ。ただ、それが願いだったのだが。
引用したように、物語は「ぼく」ハンスがアルネと過ごした三年間を回想するかたちで進む。部屋に残された遺品をひとつずつ手に取り、その品にまつわる思い出を語る。ときおり、「ああ、アルネ、きみは……」と亡き人に呼びかけながら。遺品を整理するハンスの部屋には、父や弟、妹たちが訪れて、しばしアルネについて語り、そうしてまた部屋を出てゆく。最後にもういちど弟がやってきて、兄が片付けかけていた品をひとつずつまた取り出して、もとの位置に戻していく。外された古い海図をまたピンで壁に留め、埃をかぶっていた読みかけの本は埃をぬぐってまたベッドサイドに置く。部屋はまたアルネがいたときのようになった。兄と弟はそのとき初めてアルネへの愛情を共有する。アルネに本当に戻ってきてほしいという気持ちを分かち合う。しかし、それはもう叶わない。叶わないとわかっているし、それは悲しすぎるのだけれども、ただその場所の美しさだけが読む者の心に沁みてゆく。
そう、読後感は「美しかった」に尽きる。悲しいけれど穏やかな語り口調に温かな気持ちになるとか、少年の孤独な魂に心を揺さぶられるとか、いろいろ評価のしかたがあるようなのだが、どれも100%賛同しかねる。ハンスはある意味、できすぎのお兄さんで、弟や妹はありがちな不良。アルネは勉強もできて心優しく、そしてか弱い天使のよう。突拍子でもなんでもない人物設定ながら、美しいと感じさせるのは、ひとえに構成と文体の力だろう。私は港町には縁がないし、船舶用語もぴんと来ない。であっても、北ドイツのその場景とハンスとアルネの部屋の様子を自分なりに想像し、絵のように思い浮かべながら、筋を追うことができる。ときどき、それは難しい。ときどき、船の構造や港のあらましがわかっていないと何が起こっているのか理解に苦しむことがある。ときどき、なぜアルネが顔を歪めたのか、アルネはなぜそんな行動に出るのか、なぜ、ハンスはそんなに何もかもわかっているのか、あるいはわかった振りして受けとめているだけなのか、読み取れなくて苦々しい気持ちになる。
しかし小説は、それぐらいわかりにくさを伴うほうが、いい。昨今わかりやすいものが多すぎるので、なおそう思う。
年頭早々にこの本を読み終えて、ああ、こんな仕事がしたいと思った。訳者の松永さんに喝采である。もうすでに著名な翻訳家さんだが、これまで不思議と読んだことがなかった。もう一度訳書を読みたいと思わせる、数少ない訳者さんにまた出会えたという気持ちである。何が素晴しいといって、12歳で一家心中の生き残りという目に遭い、15歳でその生涯を終えてしまうというアルネのことを、可哀想だとは思えないのが素晴しいのである。可哀想なのではなく、ハンスたち一家のそれぞれの心に風穴を空け、そこに、いずれは融ける氷を嵌めていったかのような、アルネのいた三年間はそんなふうにして過ぎ去った、ただそれだけなのである。氷が解ければハンスたちはアルネのことを美しい思い出として語り合うのだろう。読み終えた読者がたった今、美しかったと感じているように。そして、余計なことを加えれば、そのときハンス一家の絆はさらに強まっているのだろう、ということも示唆している(が、それはどうでもよい)。
私の拙い文章では、この小説の何がそんなにいいのかご理解いただけないと思うが、実をいうと絶賛しているのである。ぜひ読んでほしい一冊である。
***
暮れは21日でブログを休んじゃったので、その後の経過をざっと。
12/22 冬至だったので柚子風呂を楽しみました。といっても本物の柚子はもったいないので「柚子風呂入浴剤」なるものを母が買ってきました。香りはイマイチでした(笑)
12/23 一足早くクリスマス。今年はババ母娘ともに余裕がなく、ケーキは市販のシンプルなロールケーキに生クリームを飾り苺を乗せただけ。娘へのクリスマスプレゼントを渡しました(2010年のスケジュール手帳。そんなものをほしがるようになったんですな)
12/24 娘の中学校はインフル休校が祟って25日まで授業。我が社はインフルに祟られてないけどゴリゴリ仕事。だけど娘のセーターが編みあがる!(2年越し!)
12/25 クリスマスの朝。サンタクロースはついに来ませんでした。娘は足を痛めているのでコーチ兄さんに連れられて、夜、医者へ。翌日から合宿なので帰宅後荷物の用意。私は連日の遠方日帰り取材で疲労がピーク。
12/26 娘、2泊3日の合宿へ出発。年内ギリまで営業なのでこの土日で少しでも掃除を進めなきゃと思うがしんどくて、無理。
12/27 上賀茂の手づくり市へ出かけるが、おめあての昆布屋さんや柚子を売ってるお店がなく、ちょっとしょんぼり。でもひいきのタルト屋さんは出てたので木の実のタルトをひとつ買い、ダリ本を持って弟宅へ。
12/28 昨冬パリに帰ってしまった友達のクロディーヌからもらった手袋(おさがり)を愛用していたのだが指先が破れてしまう。ので、手袋編むぞ、と決心する。娘、合宿から帰る。非常に楽しかったようである(笑)
12/29 仕事納め。最後に経営陣から来年度はもっと悪くなるから覚悟しといてねなんて話を聞かされる。冗談でしょう。娘も部活納め。
12/30 愛媛の友達めぐちゃんから今年もまたミカンが届く。わーい! さて大掃除。正月飾りなどの買出し。こたつを出して、ミカンを置いて(笑)家の中が冬の風景に。そのこたつで13年ぶり(!)に年賀状を書く。
12/31 娘はばあちゃんを手伝って重詰め。私は掃除終了(途中だけどやめた。笑)。クロディーヌが十日間の日本旅行に来ているのでカフェで談笑。帰宅して、また商店街へ出かけ葉牡丹を買い、寄せ植えして千代紙と水引で作った飾りを鉢に指す(by娘)。これを、玄関に置いた金屏風の前にセッティング。夜は恒例のおけら詣りに八坂神社へ。少し早かったので火入れから観ることができた。これも恒例の甘納豆を買って帰る。納豆は食べられないけど甘納豆は好きな私。さらに恒例のロンドン焼を母へのお土産に買う。ビデオ録画しておいた紅白を観る。
1/1 町内会の互礼会へ。町内のおっさんたちが集まって飲む元旦恒例の行事。新年の挨拶を一気にやってしまうわけである。今年は役員なので呼ばれちゃいました。いちおう紅一点。午後、初詣にいく。今年は(毎年行き先を変えているのである)娘たち陸上部員がよくトレーニングをしている吉田神社へ。全国大会へいけますように、と彼女は絵馬に書きました。
1/2 届く年賀状を眺めてにやついたり、ミカンを食べて寝転んだり。娘は書き初めに奮闘。夜は大学時代のダチどもと新年会。娘を連れていくがダチどもはR指定お構いなしの大爆走(笑)
1/3 弟一家が来て墓参り。おせちをたらふく食べ、カードゲームボードゲーム百人一首と興じて解散。
1/4 娘は部活始め。私は彼女の帰りを待って、一緒に梅田へ。娘のポワントをいつもとは違う店で試し買い。地下街で娘と何年ぶりかでプリクラ。失敗(爆)
1/5 正月気分もおしまい。数か月前から痛むヒジを診てもらう。また不治の病が増えた。「テニス肘」(爆)。注射をしてもらったが、神経が覚醒したようでなお痛い。慢性化しているのでストレッチして徐々に緩和するしかしょうがないとのこと。
で、今日から娘もガッコ、あたしもカイシャ。いい年になりますように!!!
年の始めから食べまくっている私たち。身体測定、どうだったかな? ― 2010/01/07 19:02:28
有吉与志恵著
ベースボール・マガジン社(2006年)
今朝は七草粥をいただきました。毎年のことながら美味しい~~~(^0^)v
人につくってもらうからよけいに美味しいんだね。そう、御節、七草粥、小豆粥とお正月の郷土料理は母任せである。母がいよいよつくれなくなった時にはどういうことになるか。もちろん私にはこの味を再現する力はない。今のうちに教えてもらっておくんだぞ、さなぎ。と娘にいう私。オイオイ(笑)。でもそのほうが現実味が濃いのである、マジ。
そういったいわゆる「おばあちゃんの味」「お袋の味」みたいなモンは、料理の苦手な私には縁がないし、かといってそれらとは違うオリジナリティあふれる私の味など持ち合わせてはいない。しかし、ただただ食べまくるウチのお嬢さんの体にできるだけ寄与するものをと思って、上等の食材は使えないけど、「超・野菜偏重型」(笑)の献立に「ひたすら炭水化物」(笑。実はぎんなんさんのアドバイス)という組み合わせの工夫(工夫か?)でなんとか、大病もなく健康なコドモに成長させることができている。
ただ、お嬢さんが普通に歩いてるだけで十分という人ならよいのだが、このお嬢さんときたら走るわ踊るわと忙しい。走るほうは中距離という瞬発力も持久力も両方必要な種目で、踊るほうは柔軟性にしなやかさに跳躍力や耐久力も要求されるというシロモノである。
パワーも要るけど太らしたらイカンし、根気や図太さ、集中力といった精神力を養うのも食と関係あるにきまっているし、たくもう、今さら栄養学なんか勉強していられないのでとにかくそれっぽいレシピ本を漁ってなんとかやっている状態である。おかげさんでわが町の図書館はそういう類いの本はずらりと揃えてあって片っ端から試したのであった。
・勝つためのDr.平石のスポーツ栄養BOOK――カラダをつくる食事と栄養がわかる!!
・10代スポーツ選手の栄養と食事――勝てるカラダをつくる!
・スポーツ選手の完全食事メニュー――プロも実践400レシピ
・戦う身体をつくる アスリートの食事と栄養
・イラストでよくわかる スポーツ選手必読! 勝つための食事と栄養
他にタイトル忘れたのも入れると参照したものは軽く十冊を超える。チラ見しただけのをあわせると倍にもなろうか。このなかで購入したのは三番めの400レシピというヤツだけで、ま、やはり掲載レシピの数がモノを言いました(笑)。応用の利かない私。でも読んで面白かったのはDr.平石の本だったような気がする。平石ドクター推奨のアセロラドリンクをヒントにしたマイオリジナルスポド(スポーツドリンク)は、毎夏、愛飲してくれている。
練習が激しくなるにしたがい、ケガや痛みが多くなる。なんとか未然に防ぎたいけど残念ながらいつだって傷めてからあたふたケアする、という後手にまわっている。
・スポーツ傷害とテーピング
・コンディショニング・スポーツ傷害予防のための スポーツマッサージ
ストレッチとマッサージに関する本はそれこそ山のように借り、わかりやすいイラストになっているものは拡大コピーして壁に貼るなどいろいろしている。が、当方、腱鞘炎手首とテニス肘(笑)という病気持ちなのでマッサージは満足にしてやれない。ましてや昨今進化したテーピングテープなんぞは扱いがわからないので、本人用のガイドブックとして「スポーツ傷害とテーピング」を一冊手許に置いている。
もちろん、「スポーツ選手」以前の、健康な子どもの体力づくりや基礎トレーニングに関するものは、昔から闇雲に読み漁った。駅伝大会を目指すと決めた小5のときか、バレエ教室でポワントを履くようになった小4の終わりだったか、きっかけは忘れたけれども、残念ながら、専門家でもコーチでもないただの母親が読むに耐える書物にはなかなか出会えなかった。それらはともすれば小学校教員用、養護教諭用、体育教師用、スポーツコーチ・インストラクター用、トレーナー用、はては、プレイヤー本人用、なのであった。また、ウチのお嬢さんの環境はある意味けっして悪くなく、そうした本の面白そうなページを見せて「こんなんやってる?」と聞くとたいてい答えはイエスであった。周囲の大人たちは十分に検討してエビデンスのあるトレーニング法を用いて指導してくれているのである。
それでも何かがうまくいかなくなったときには、べつの視点からちょっかいを出して気分を紛らすことも必要だ。もはや私の役目はそのへんにしかない。たとえば手当たり次第に読んだ本のうちのどれかに「ナンバ」歩行がよいというのがあった。確か末続選手がそれでタイムを伸ばしたと書いてあった。また重力を味方にして地を這うように走るのだ、というくだりもどこかにあった。そう書いてあるからといって、だからそうしろというのではなく、そんな考え方もあるということをときどき入れ知恵することで、気持ちの切り替えの助けになったり、打開のきっかけになったりするかもしれない、と母親は自己満足するしかないのだが、それでいいんじゃないかと思っている。
個人的にたいへん面白かったのは、『最強ランナーの法則』。短距離の伊東浩司と世界マラソン金メダリストの鈴木博美夫妻の共著である。短距離・長距離の基礎トレーニング指南書だが、頂点に立った者だけが知る身体と精神の興奮が伝わってくるような、読後感のよい本であった。ウチのお嬢さんにいうと「その二人の子どもっていい《中距離》選手になるんちゃう」。足して2で割ったらそうなるな(笑)
で、暮れに読んで面白かったのが冒頭に掲げた『コアトレ』だ。著者は元短距離選手だった人で、経歴を見ると私とさほど歳は変わらない。とするとただただ練習量の大小がモノをいい、どのくらい「重い」ウエイトトレーニングをしたかで結果を問うような、そんな時代に選手だった人である。苦労や挫折のあったことだろうなあ。
「コア」とは中心軸のことなので、本書では脊柱に着目せよといっている。脊柱は人間の心棒といっていいが、ただの棒ではもちろんなく司令塔である。「体でわかる」なんていう曖昧な表現を私も好んで使うのだが、それはすなわち「掌から伝わってきたこと」「お腹にずしりと響いたこと」「胸をぐさぐさ刺されたこと」「背中がじんわり熱くなったこと」などが情報として脊柱まで達したことに他ならないのであろう。それらに対し脊柱が何らかのサインを発するのであろう。脊柱が守る脊髄は、糸のような神経を触手を伸ばすように送り出し、椎間板を通って内臓や筋肉に届かせる。実際には一方通行なのだろうが、双方向通信だと思いたい。頚椎、胸椎、腰椎、仙骨・尾骨からなる脊柱は、司令塔どうしの一大通信網をなし、身体機能を司っているのである。
これに基づいて本書では、体に不具合が起きるとき、つまり、ケガや故障にならないまでもなんだか体が硬いとか、近頃妙に張りを感じるとか、そうした場合はこの通信網がどこかで停滞していると考える。必要なのは湿布を貼ったりやたらマッサージしたり、ましてや練習を増やしたりすることではなく、脱力し脊柱をリラックスさせることである。まずは脊柱を解放し、情報の通りをよくしてやることである。抽象的な表現に終始して申し訳ないが、誌面ではそのためのエクササイズが写真つき解説で100種類紹介されている。いろいろと道具が必要だが、幸い我が家には、数年前、なぜかばあちゃんが買ったストレッチポール(円筒形ウレタン)はある。さっそく試してみよう。
……とこのように、どういうわけか、お嬢さんのためと力んで読み漁るスポーツ系の書籍は、なんだかんだいってメタボ予備軍の私の参考書と化してしまうのであった。私は別にタイムや飛距離を伸ばしたり、アラベスクを美しく決める必要はないのだが(笑)。でも、いま、かなりカラダはやばいところへ来ている(笑)と思う。
さてさて本日身体測定だったウチのお嬢さん、体重はどれだけ増えてたかな? 昨日、10時半頃にレッスンから帰ってきて、海老餅パクパク食べてたぞ~~。
三羽の白鳥 ― 2010/01/08 23:14:05
http://www.youtube.com/watch?v=ftv7hb25jIs&feature=related
同じ曲で、四羽のヴァージョンもあるざます。
http://www.youtube.com/watch?v=56RICXtJTow&feature=related
ずいぶん違うもんですね。娘が通う教室でも年によって、またメンバーによって三羽、四羽、二羽といろいろなヴァージョンで踊らせています。前回「白鳥の湖」全幕を演ったのは3年前ですが、そのときもこのパートは三羽でしたね。ですので、娘は目下、前回時のVTRを見てうなっております。上のユーチューブの三羽はボリショイバレエの舞台ですからまるでレベルが違うざます。違うんですけど、もっと平易な振付で踊るんですけど、それでも娘たちにとってはかなり難易度の高い振りのようです。音に追いつかないし、三人の動きが合わないよーと、毎回やはりうなっております(笑)。たしかに、上の動画見ても、音楽のわりに非常に忙しい振付やん、んで微妙に合うてへんやん、と思いますねえ(笑)
明日、その発表会のプログラムのための撮影会でして、撮影用の白鳥の衣装を持ち帰りました。
なんとまあ、これが白鳥かいと思うほど、黄ばんでしわくちゃ(笑)。使い込んでいると言えば聞こえはいいですが……。アイロンかけてくださいね、なんていわれましたけど、こんな大事なもんにアイロンがけなんて、チュールレースに触れたら溶けるやん、ちょっと油断したら黄ばみが茶ばみになるやん、と恐々です。でも、ま、いまそれをなんとか終えたとこです。
白のチュチュですから、最も出番の多い基本型衣装というんでしょうか、赤やら緑やらいろんな色の飾りをつけたらしき跡が、糸くずという形で残っておりまして、いろいろな役を担ってきた衣装なのだなということがわかります。
昔、オペラ座の舞台裏を撮った『エトワール』という映画の試写を観たことがありましたが、なぜか衣装係のマダムの姿が瞼に焼きついています。衣装の管理は私の仕事、ダンサーは衣装に触らないで! と毅然と言い放ったシーンがあったんですよ、たしか。……もうおぼろげですけどね。
つまりダンサーは衣装を着て、脱ぐだけなんです。サイズの調整やメンテ、各ダンサーへの割り当てや使用後の片づけや手入れは担当者の仕事。
ウチのお嬢さんたら、どうなんだろうね。そんなプロ意識の高い人たちのいる環境でダンサーとして生きていきたいと本当に思ってるんだろうか。毎日言うこと変わって困りますよ、たく。この春から中学3年生〜♪なんですが(笑)
トロカデロ・デ・モンテカルロ ― 2010/01/10 13:30:46
http://www.youtube.com/watch?v=MfKdC6SYcnM&feature=related
私たちは実はトロカデロのファンで過去に2、3回公演を観たことがあります。彼らは毎年日本縦断公演をします。前は地元にも来てくれましたが、いいホールがないもんで、関西では大阪、兵庫中心に計5〜6回あるかなあ。演目もヴァリエーションあって、なかなかファンサーヴィス精神旺盛です。
初めて観たのはさなぎがまだ小2か小3だった頃かな?
以来毎年チケット先行予約申込書が送られてきます。ここ2年ほどは行けてないんですけど。悲し。
http://www.youtube.com/watch?v=1giFy6ktVYE&feature=related
楽しいでしょ? コミカルに演ってますが、ステップは正確で軽快、見事だと思いませんか? 男性の重い体をトウで支えるのは至難の業ですもん。
公演後のサイン会(サインはしてもらわなかったけど)に並んだダンサーたちの顔をじかに見たら、やっぱしめっさゴツゴツした殿方のお顔(笑)でございましたけどね。
http://www.youtube.com/watch?v=wuaziVscEhg&feature=related
けれど、まじめに踊ると、いったいどちらのプリマドンナ?と思うほど素晴しいんです。女性の何倍も力があるってことは、高く跳べるし、長く高い位置でキープできるってことなんだよね。
下はソロのヴァリアシオン集。
http://www.youtube.com/watch?v=gsgACwdWCV0&feature=related
バレエがルイ十四世の宮廷遊びから始まったことを思えば、何の不思議もないかもしれないなあ。
ところで直近に観た2年前のトロカデロの公演では、日本人の男の子が団員として紹介されてたけど彼は元気かな?
ユーチューブばかりじゃなくて公式サイトも紹介しなくちゃいけませんね。みなさんトロカデロ・デ・モンテカルロをよろしく!
(……って、私べつに広報担当ではありませんケド)
http://www.trockadero.jp/
http://www.trockadero.org/
冬物語 ― 2010/01/12 19:09:56

パン作りは冬のほうがうまくいきます♪
1月11日に仏映画界の巨匠(という言いかたがあまりフィットしない人なんだけれども)エリック・ロメールが亡くなった。享年八十九。つい三年前にも新作を発表したが、ほんとに力尽きて動けなくなるまで映画を撮り続けた偉大な映画人だった、というような賛辞が各メディアでなされている。ほんとに今日はどこもかもロメール一色である。
彼の映画が大いに日本でもてはやされていたのは80年代後半からだったと思うが、夢見る少女御用達マガジン『オリーブ』でも『海辺のポーリーヌ』や『緑の光線』『友達の恋人』などを「お洒落で胸キュンなフランス映画」として紹介していたように、私は記憶している。エリック・ロメールの名は、その「ろぉめえ~~~る」というおふらんすな語感(そんなものがあればの話だが)も手伝ってか、お洒落で胸キュンな恋愛映画の作り手の代名詞のようにいわれていた。私はといえば、80年代後半はどちらかというとスペインやイタリア、タイやヴェトナムの映画をよく観ていたような気がする。覚えているのは『読書する女』を観て留学先を決めたことだ。この街をミュウ=ミュウのように歩きたい!とは思わなかったが、教室のフランス人講師いわく、モンペリエは勉強するにはもってこいの町だからおすすめだ、どんな街か知りたければ『La lectrice』(=読書する女)を観なさい、であったからだ。ほかにもあの頃の映画といえば『日曜日が待ち遠しい!』『ギャルソン!』『さよなら子供たち』『人生は長く静かな河』などが思い出される。監督の名前で惹かれたのを覚えているのはクロード・ソーテやコリーヌ・セロー、御大ルイ・マルやトリュフォー、またベネックスやパトリス・ルコントらで、エリック・ロメールは関心外だった。
90年代初頭、渡仏した私は現地で「えっロメール観たことないの? もしかして、いい人かもしれない、君って」などとフランス人学生に言われた。それって意味がわからない。そんな顔をしていると相手は「つまりさ、ロメールってすごくフランス的な映画を撮るってことだよ」という。だから留学生は観賞必須ってわけ? 「語学レッスンに最適じゃない? なのに観てないなんて、君って他の人とは違うっていいたかったんだよ」
おだてられたような馬鹿にされたような、やっぱりよくわからないまま、天邪鬼な私は当時ロメールの新作としてかかった『冬物語』を観にいった。ポスターはイラストで、暗い風景の中を子連れの女が歩いている。さぶそうな悲しそうな映画に思えた。
しかし、寒くも悲しくもなかった。ヒロインのフェリシー、彼氏のロイックの二人が喋る喋る喋る喋る喋る。機関銃のような言葉の応酬、しかも早口。発展途上の仏語学習者にはまるで聴き取れない。物語じたいは複雑でないので、それにその会話じたいは(結果的に)大筋と関係がなかったので筋はわかったけれど、もし、ああいう、長いインテリじみた台詞を登場人物がまくしたてるのがロメール映画の特色なら、もう観たくない、と正直思った。
フランス人は実によく喋るから、フランス的、というのはたしかだ。そもそも論理的に会話できるような構造をもつ言語なので、きちんと習得して発言すれば子どもでも論理的な会話ができるのである。成長にしたがって語彙が豊かになっていくと自然と駆使する言葉は増える。フェリシーとロイックの会話には(ロイックがインテリという設定のせいもあるけど)哲学や聖書の引用まで出てくるのだ。もっとも、それがわかったのは帰国して字幕つきで再度観てからだったのだが(涙)。
『冬物語』は四季の物語のシリーズの一つで、他の季節、『春のソナタ』や『夏物語』を観なければ意味がない、なんてロメールびいきのある日本の友人にいわれたこともあった。相互に関連づけられ、人物の台詞にも風景の描写にも、一つが他を示唆するような要素があるのだろう。機会があればまた観てみたいが、なんというか、『冬物語』を二度観て正直ロメールに関してはお腹いっぱいだ。
私にとって、この映画の最もフランス的な箇所は、フェリシーが想い続けたシャルルと再会するシーンだ。けっきょくまた以前のような生活に戻るんだわ……と半ば諦め顔でバスに乗るフェリシー。その顔が突然薔薇色に変わるわけではけっしてなく、劇的な効果音が鳴るでもなく、日常のひとコマとしてそのシーンは描かれて、一気にラストへ収束に向かう。とても気が利いていると思った記憶がある。こうした撮りかたが若い映画人に与えた影響はとても大きいのではないかと、昨今観た幾つかの映画をおさらいしてみると、そんなふうに思えるのである。
年の始めから食べまくってる私たち その2。ハイチが心配ですね ― 2010/01/15 12:26:51
恒川邦夫著
現代企画室(1999年)
今朝は小豆粥をいただきました。毎年のことながら美味しい~~~(^0^)v
人につくってもらうからよけいに美味しいんだね。……というようなことはつい一週間ほど前にも書いたような気がするが(笑)そういうわけで、小豆粥を祝いました。昔は今日は祝日だったですけどねえ。だから正月飾りの片づけなどもできたんですけどねえ。ったく日本政府のスカポンタン。
なんで小豆のことを大納言ていうの、中納言とか少納言とかいわへんなそういえば、とか、小豆粥の小豆は甘うないね、塩で加減するさかいな、とか、円町の伯母ちゃんはメイボできてんていうたらメイボできたんか、ほな小豆食べんならんなあってゆわはった、なんで? メイボが小豆に似てるしやろな、食べたら治るねんて、食べた? メイボできたからゆーて食べたことないなあけっきょく、ははは。……というような話をしながらたらふくいただいて、平和と安寧に感謝いたしました。
日本は寒いが平和である。けれども新年早々惨事が起きてしまった。
ハイチがえらいことになっている。ハイチに知り合いはひとりもいないけれど、フランス語をやってフランス史なんかを少しかじったり、あるいはカリブ海のクレオール文化に触れるとどうしても避けては通れない国だから基本必須事項は学んだし、多少学ぶとすごく面白い国だということがわかったので、以来、ずっと気に留めていた。まだ行ったことのない国でいちばん行きたい国はマダガスカル、二番めがブータン、三番めがハイチなのである。(※一定期間住んでみたい国はほかにある。何箇所もある。何年生きねばならないだろう)
ハイチは地球史上最初の黒人共和国である。カリブ海一帯はその昔コロンブスが「発見」したのをきっかけに西欧列強が取り合って、最終的にイスパニョーラ島の西半分、三分の一くらいかな、をフランスが植民地「フランス領サン・ドマング」として支配した。フランス本国で自由と平等を謳う大革命が起きたので、それに触発されるように、奴隷たちが蜂起してハイチ革命が勃発。このとき指揮を執ったトゥサン・ルヴェルテュールという人はなかなかオトコマエな肖像画が残っていて、私の密かなアイドルである(笑)。
ハイチはそんなわけで(って何も説明していませんね、すみません。ウイキとか見てね)1804年に独立を勝ち取り、人類史上初めて黒人が自ら樹立した共和国国家として名乗りを上げたのである。が、世界は冷淡で、どの国も「そんなの認めないよ~ん」て感じ。認めたら奴隷として黒人を使えなくなるからだ。ハイチ国内でも内乱は続くし、そのうえ、意地悪なフランスが「せっかく植民地経営がうまくいってたのにあんたたちのせいでそれを台無しにされたじゃないのどうしてくれるのよ」(なぜか女言葉になったが「La France」と書くように、フランスという名詞は女性名詞なのである)とハイチ共和国に対し賠償金を請求したのだ。国際社会から独立共和国として承認をもらえないハイチは、フランスからの「借金返せたら対等と認めてあげるわ」という無体な申し出を受けざるをえなかった。その金額はいくらか知らないけど膨大で、ハイチは世界最貧国の誉れ高いが、けっしてそのせいだけではないにしても、最貧の原因の大きなひとつはフランスの「いけず」にあるのだ。
フランケチエンヌは1936年生まれのハイチの画家、小説家である。首都ポール・オ・プランス(Port-au-Prince)在住なので、今回の地震で自宅兼アトリエには大きな被害が出ているのではないだろうか。小説は一度も読んだことがないし、絵画も本書に掲載されている写真で見ただけで、フランケチエンヌというアーチストの芸術作品に対して、私はあまり関心はもたなかった。ただフランケチエンヌその人の存在性に、ハイチという国の、終わりのなさそうな不完全さが象徴されているように思えるので興味深かったのである。
フランケチエンヌのお母さんは黒人と白人の混血だった。彼女を、米国で大金持ちになってハイチにやってきたドイツ人の富豪が気に入って囲った。彼女が妊娠すると追い払った。彼女は出産後ポール・オ・プランスで地元の男性と結婚し、たくさん子どもを産んだ。フランケチエンヌは白い肌に青い眼で生まれ、また実の父は不在であったので「ててなしご」と周囲からいじめられたが、「私が今日あるのはポール・オ・プランスの両親のおかげである」と述べている。見た目がまるで白人であることは、フランケチエンヌが自覚している以上に彼の性格形成に影響したであろう。彼の本名はフランク・エチエンヌで、それを一語にしてフランケチエンヌと名乗っている。これは彼自身による彼のアイデンティティ確立の手段であったという。その彼自身の理路は本書を読んでもよくわからないが、おそらく著作のひとつ『私を産んだ私』(Je suis mon propre pere/塚本昌則訳/国書刊行会発行『月光浴―ハイチ短篇集』所収、2003年)ならば少しはわかるかもしれない。
フランス語で教育を受けたが、彼は主な小説をハイチ語で書いている。ハイチ語はフランス語から派生したクレオール語で、マルティニークやグアドループ(ともにカリブ海に浮かぶ元フランス植民地で現フランス海外県)で話されているクレオール語と同系である。
しかしハイチ語で書いても、ハイチの庶民の識字率は著しく低く、ハイチの上層は本を読むという文化的な営みに縁がない。フランケチエンヌの著作に限らずハイチでは出版活動はきわめて鈍く、図書出版は外資系または海外に居住するハイチ人のコミュニティに頼っている。フランケチエンヌはこうした状況を憂い、自分で学校を開いて教えていたが、周囲の治安悪化にともなって学費の払える富裕層が来なくなり、貧困で学費は払えないけどそれでも学びたいという家庭の子女はごく少数なため、けっきょくほとんど生徒がいなくなって閉鎖したらしい。ハイチには学校という場所に敬意を持つとか尊重するとかそういう精神文化がない。
国は公用語としてハイチ語とフランス語を掲げてはいるものの、書き言葉が成立していないに等しいハイチ語で書いても読まれず、識字率が低いため、また読書文化が育っていないためいかなる言語で表現したところで、ハイチでは意味がないといっていい。フランケチエンヌはハイチ語をハイチ共和国民の母国語として誇れる言語にしたいと考えているに違いないのだが。彼もこれを母語として育ったのだから。
本書が刊行されて約10年、フランケチエンヌは見聞する限り健在だったが……今度の地震による被害が気になる。死亡者数すらはっきりしないから個々の消息が明らかになるのはいつのことやら。
ハイチの独立・建国から200年余り。世界中が彼らを無視し、あるものはちょっかいを出しあるものはいたぶってきたが、今こそ世界一致で彼らを救済してほしい。
ハイチについては研究者・浜忠雄さんや、フォトジャーナリスト・佐藤文則さんの著作を読まれたし。あなたもハイチを「行きたい国」のひとつに挙げたくなるでしょう。
断絶状態 ― 2010/01/16 21:12:52
佐藤文則著
凱風社(1999年)
RFI(ラジオフランスアンテルナショナル)によるとハイチはまったく世界から断絶された状態にあるらしい。昨今流行りのTwitterとかFacebookとかもまったく役立たずだそうだ。阪神淡路大震災の時は携帯電話と携帯ラジオが役立ったという話をけっこう耳にしたが、そういうものの基幹部分が壊滅しているようだから電波も飛ばないのだろう。ポール・オ・プランスの90%の建物が倒壊したという。なんといっても、最貧だろうが何だろうがポール・オ・プランスは首都だ。日本でいうと皇居や東京タワー、霞ヶ関や新宿の都庁、六本木ヒルズとか代名詞的ないろんなもんが瓦礫と化し、成田や羽田の滑走路が飛べない機体であふれ、港には損壊した船舶がなす術なく溜まっている、というところだ。
阪神淡路大震災のとき、嬉々としてやってきた多くの報道アナウンサーの中には高価で暖かでおっしゃれーなレザーやダウン、果ては毛皮のコートまで着ていたヤツがいたし(報道合戦でもあったからここぞとばかりめかし込みたい気持ちもわかるし、実際寒かったしなあ。毛皮着てきたんなら被災者の毛布代わりに置いてってくれたらよかったのに)、スタジオでしゃべっている女子アナには映像を観ながら「東京だと思うとぞっとしますね」と映画観賞後のコメントみたくほざいたヤツまでいた(「東京でなくて、神戸でよかったね」って言っているに等しい発言を報道を担うヤツから聴いたときから、私は本気で東京大地震が起こればいいと思うようになったよ)。テレビ局のヘリが火事場の上空を飛び、燃えさかる炎をあおるだけあおって「燃えてますー」と興奮しまくっていた(火を見て喜ぶのは類人猿までだと思っていたけどね)。
よかったな君たち、なかなか見られないもん見られてさ。
当時マスメディアだけでなく、私のごく身近にすら、被災地へおもしろ半分に見物に行くヤツがいた。
あれから15年。神戸の街は美しく復興したけれど、震災はまだ人々の心に爪痕を残したままだ。
私自身は何一つ被害はなかったけれど、地震を面白がっていたヤツらのことは一生許さないと心に決めているのである。
あの朝、地鳴りがしたかと思うと、家ごと上下に揺さぶられた。私の布団のそばには本棚があって、本だけでなく人形やがらくた置き場になっていた。大きく揺さぶられたひとつめの揺れで、そんなものが布団の上にどさどさと落ちてきた。
私は布団の中で丸くなり、掛け布団にくるまったまま本棚からできるだけ離れた。
揺れが続いた。それはすごく長く感じられたが、最初の揺れほど強くならないまま、収まった。
いろいろ落ちてきたけど、何も壊れなかったし、ぼろ家のわりには、というか最初からぼろすぎて壊れるところがもうなかったというのか、家には地震で壊れた箇所などはいっさいなかった。が、それまでに覚えのないほど大きな揺れだったことには違いない。
私は階下へ降りて両親の無事を確かめ(大きな箪笥のそばで寝ていたからね)、ラジオやテレビで震源などを伝える報道を探した……
神戸には大学時代の同窓生、仕事の関係者など、多くの友人・知人がいた。家を失った子、避難所生活が続いた子など辛い思いをした友人は多かったが、幸い犠牲者も怪我人もなかった。彼らの家族もほぼ無事であった。
地震から15時間くらい経過した頃からだろうか、国内外あちこちから電話をもらった。無事か、大丈夫かと尋ねてくれる電話だった。ニュースで見てすぐかけたのに全然つながらなかったと。
私は私で、神戸の友人知人に片っ端からかけていたので、つながらなかったのはそのせいかもしれなかったが。
あれからいろいろなものがいろいろな形に発展し、世界中コミュニケーションできないところなどなくなったかのようにいわれているけれど、地球が脇腹をちょっとかゆがった程度で、とたんに断絶されてしまう。人間のつくるものなど自然の力の前にはひとたまりもない。
佐藤さんのこの本は、ハイチの成り立ちや地理、歴史にも詳しいが、主にポール・オ・プランスのスラム街に通い詰めて撮った写真を軸にして書かれたものだ。1999年刊だが滞在はそれ以前だ。豊かな日本は大震災を経験し、官も民も何かしら学んだ(と思いたい)が、当時のハイチは無法状態で、毎日のように誰かが誰かに殺されていた。民主的に選ばれたというと聞こえはいいがあまり誰も声高にいわなかったことをわーわー叫んで人民の気持ちを高揚させただけで大統領になったアリスティドの頃である。
本書を読むと屈託ない子どもたちの黒い肌がきらきら美しいことに感動するいっぽう、いまにも崩れそうながたがたの家で頬寄せ合って暮らす子だくさん家族や、夫や親を何者かに殺されてしまい途方に暮れる家庭が密集するスラムのひどさに目を覆う。
神戸はひどい目に遭ったけれど、地球上にはとうてい回復不可能なほどに痛めつけられた生活が存在していた。痛みは慣れると無感覚になる。ハイチでは誰もが無法状態に慣れっこになっていた。
そんな街にも市は立ち、野菜や果物が並び、人は手を動かして暮らしの道具をつくる。なけなしのお金でなんとか子どもに文房具を揃えてやるのである。佐藤さんが惹かれたのは、ほんとうはけっして失われずに潜在するハイチ人の底抜けの明るさとパワー、またそれが顕著に見える音楽や信仰といった文化の底力であろう。それがある限りハイチは生き続けると。
本書は2007年に改訂新版が発行されている。その後の10年分のルポが追加されているのだろう。残念ながらハイチは何もよくなっていなかった。そして地震。佐藤さんが愛したシテソレイユ(スラム街)は跡かたもないほどに壊れてしまったのではないか。
佐藤さんは現地の誰かとの交信に成功しただろうか。
千都萬都または三都 ― 2010/01/17 17:22:26

『神谷美恵子の世界』
神谷美恵子 他 著
みすず書房(2004年)
今日は阪神淡路大震災が起こった日。地元紙では、正月気分が抜ける頃から毎年震災に関するコラム欄を設けて震災のその後を特集する。正直、そういったことでもなければ近隣市町村に住む者だってあの惨事を忘れてしまう。そりゃ、忘れたっていい人もいる。忘れたほうがいい人もいる。でも私は忘れずにいようと思う。
近しい友人が大病を患い昨年大きな手術を受けた。思いもしなかった事態に直面していろいろと考えることがあったようだ。私はといえば、彼女が震災の被災者であることをつい思って、かけるべき言葉が見つからずにいた。とてつもない体験をした人の前では、お気楽者は木偶(でく)人形かマリオネット、せいぜいからくり人形だ。言葉も気持ちも自分のまわりで空回りするだけである。
さて今日は、この季節の風物詩、全国都道府県対抗女子駅伝が行われた。娘はバレエのリハーサル途中で抜けて沿道へ駆けつけ、私はテレビで観戦した。
兵庫チームのメンバーは、選手によっては震災の日と重なったことに格別の思いをもった人もいただろう。この大会、毎年兵庫は上位に食い込む。沿道の声援も兵庫チームに対してはいっそう大きく、温かくなるのが常である。
今朝の地元紙には、元監督をしていた人の、いまの中高生に被災の事実や県民の思いを背負わせるのは酷だ、思う存分自分の走りをしてくれればいい、という談話が載っていた。そうだよね。
今年6連覇を期待された我が町のチームは苦戦。アンカーがやっと、ゴール直前にスパートをかけ3位に食い込み、兵庫の前へ出た。すごい追い込みだった。6連覇はならなかったがよく頑張ったぞ! 兵庫チーム、残念。(ちなみに優勝岡山、2位千葉)
海に縁のない暮らしをしていると、海辺や港の近い場所というのにはたいへん憧れるものである。ひとりで遠出を許されるようになったら真っ先に訪ねたいと思っていたのが神戸の異人館街であった。中学生のとき、夢見たとおりにその界隈を訪れ、うっとりした。どこにいても、気のせいかもしれないが潮の香りがして、海側を背にすれば山が眼前にせまり、道幅はゆったりしていて一軒一軒の家がゆったりと建てられていて、彼我の違いはいったいなんなのよって感じであった。いまでこそ自分の町のほうがずっといいと負け惜しみでなく思うんだけど、長いこと神戸移住が青春時代の私の目標だった。
神谷美恵子はハンセン病患者の治療に尽力した人として知られている。医師であったわけだが、文学を志したので、創作した詩や小説などの書き物が残っている。スイスのジュネーヴで小学校時代を過ごしたので思考回路がフランス語で形成された(うらやましい)。その小学校での成績もとても優秀だったことを物語る教師の手紙が残っている。ほとんど母語のように仏語を操る人は当時の日本には皆無に近かったろうから想像に難くないが、帰国後は通訳、翻訳、仏語教育と大車輪の活躍ぶりだったそうである。
本書はそうした神谷を知る人々が神谷について寄せた文章を編んだものである。錚々たる面々だが、神谷について何も知らない者が読んでも興味深く、また神谷の評価が高く揺るぎないことに納得できる文章は鶴見俊輔の「神谷美恵子管見」 だけであろう。親しみを感じ、身につまされる思いがするのは「思い出」、明石み代という元同窓生が寄せた一文だ。中井久夫の「精神科医としての神谷美恵子さんについて」はたいへん詳しいが、やや専門的でわかりにくい箇所がちょこちょこあるために、読者をちょっぴり萎えさせやしないだろうか。私だけかな?
本書については:
http://www.msz.co.jp/book/detail/08186.html
神谷美恵子はいわゆるお嬢さまであった。厳格かつ教養豊かな両親に愛情をいっぱい注がれて育ち、自身も良質の教育を受け高い教養を身につけ、自然に慈悲の心も育まれた。しかし、神谷の生きざまは、豊かな人が貧しい者病める者に手を差し伸べる、というレベルにとどまる類いのものではなかった。
「どこでも一寸切れば私の生血がほとばしり出すような文字、そんな文字で書きたい」
裏表紙に記されている彼女の言葉である。
早くに「癩者が呼んでいる」といって、医学への転向を志したが、父の反対に遭ってなかなか成らなかった。だが紆余曲折ののち(はしょってゴメンナサイ)晩年はハンセン病患者の療養所と、転居先の芦屋と、教鞭をとる東京を往復する生活を送るようになる。
素敵な人だなあ、と思える人の人生をたどると、そのある時期を芦屋とか神戸で送っていることが多い。それが京都であるケースと同じくらいに多い(なんかコイツ嫌だ、という人にも京都出身がすっごく多いけど。笑)。人を惹く力とか気とかいうものがその土地にあり、磁場を形成しているのだ。
本書の神谷美恵子の写真を見ていると、この人は「○○が欲しい」というような物欲を露にしたことなんかないのだろうなあ、と思う。浅ましいけれど、欲しいものは尽きないのが現代人だ。しかも、べつに要らないのに欲しいのである。ウチの娘は12月の初めに「欲しいものリスト」をつくって壁に貼っていた。そしてなんと、ほとんど入手するに至った! 書いて念じれば叶うといわんばかりに、お母さんも書いて貼っとけば? などという。よおし。
エクスワード ロベール大仏和所収
シャトルシェフ パンプキン
タジン鍋 本体が鋳鉄で蓋は陶器のもの
マイ足にぴったりフィットのウォーキングシューズ
折り畳み自転車
……
……
冒頭で、震災を「私は忘れずにいようと思う。」と書いたけど、忘れたくても忘れるわけはないのである。だって誕生日の前の日だもん(爆)。ああもう、また歳を一つとるんだなあ。ほげー。