可哀想な人たちに思いを馳せて自分を励ますという構図の功罪2010/07/21 21:05:58



『ラティファの告白 アフガニスタン少女の手記』
ラティファ著 松本百合子訳
角川書店(2001年)


タイトルが示しているように、本書は小説ではなくラティファというアフガニスタンの女性のアフガニスタンでの生活を綴ったものである。ラティファは二十歳になって、半ば亡命に近いかたちで渡仏した。フランスのジャーナリズムにアフガニスタンで起きていることを、とくに女性に起きていることを語るためである。本書はラティファが語った内容が仏訳されてまずフランスで出版され、それが日本でも翻訳出版されたものだ。フランスでは現在、アフガニスタン救済を呼びかけるNPO等の活動がけっこう活発なので、当時ラティファの本はかなり売れて読まれた結果ということなのだろう。

小説ではないから、過日とりあげた『ボッシュの子』と同様、物語的な盛り上がりや起伏がない。惨い現実が次々と語られていく。ひとつひとつのトピックは、あまりに惨たらしくあまりにひど過ぎて、穏やかに可もなく不可もなくのお気楽人生をすでに半世紀近く送る私にはとうてい想像つかないことばかりである。もちろん、それは著者のラティファにとっても惨たらしく耐え切れない事実なのであるが、彼女の語り口がそうなのか、仏語訳のせいなのかあるいは仏語からの和訳のせいなのか、どうもとりとめのない作文を、いや作文として読めばすこぶる優秀作品なんだけど、読まされている感じが否めない。しかし、それは言いっこなしだな。

イスラム原理主義というやつは、どうしてこれほどまでに生あるものに対し残酷になれるのだろうか。私にとって関心のあるイスラム国家といえばマグレブ三国とパレスチナで、残念ながらそれ以外の国に関する知識は非常に寒いのであるが、たとえば、アルジェリアにおける武装イスラム集団のテロは一時非常に活発だったのでいつも報道にかじりついていたが、奴らはただ殺すだけでは気が済まないようなのである。とくに女性に対してとことん残酷である。90年代によく読んだルポの内容はいまうろ覚えだが、殴りつけて息の根を止めた妊婦の腹を切り裂いて胎児を引っ張り出し切り刻んで捨て置くとか、首を絞めながら輪姦した挙句股間から真っ二つに裂いて吊るしておくとか、身体のパーツ(腕や脚はもちろん眼球とか乳房とか性器とか)をご丁寧にも全部ばらばらにして並べておくとか、とにかく、その行為にどういう意味があるんだよ20字以内で説明せよ、とか、女性性へのその憎悪の根拠は何なんだよお前たちは誰の腹から生まれてきたんだよこれについて思うところを50字程度で書け、と詰問したくなるような、えげつないにもほどがあるのだ、惨殺ぶりに。

本書にも、似たような記述は出てくる。タリバンがカブールを制圧して以来、まったく被らなくてもよかったチャドリ(顔をすっぽり覆う黒いヴェール)の着用が強要され、仕事をする自由、外出する自由を奪われるのは女性たちである。ちょっと近所へ行くだけだからと何も着けずに外へ出た7、8歳の女児たちが「強姦され、殺されて性器を引きちぎられてゴミ捨て場に捨てられていた」とか、タリバンが召集した場所で学生たちが見たものは、「観音開きの扉に全裸の女性の死体が真っ二つに裂かれて一片ずつ左右の扉に貼りつけてあった」などなど。それは見せしめであり、俺たちタリバンに逆らう者はこうなるぞと主張しているのだと著者は言う。タリバンはもちろん男性も殺す。しかし死体を弄ったりはしないのだ。女性がいなければ男性だって世に存在できないのに、女性をこの世から壊滅しようとしているようだと著者は言う。女性から自由を奪い、希望を奪い、意思を奪い、心を奪う。女性は生まれながらにして男性の奴隷でありその庇護なしには一歩も行動してはならないのだ。14、5歳で結婚させられ、子どもを生めば用無し扱いされてとっとと捨てられる(=殺される)。

地球上で最も愚かな生物は人間のオスだというのが私の持論だ。オスだけでは繁栄できないのにオスがいちばん偉いといわんばかりに振舞う。この愚かさはイスラム原理主義者だけでなくあらゆる場所に生息する人間のオスに大なり小なり共通である。
メスだってメスだけでは繁栄できない。しかしメスはそのことを自覚している(いた)。

フランツ・ファノンの本を読んだのがイスラム教のなんたるかを知った最初だったのだが、女子割礼(性器切除)の風習や、チャドリやブルカを纏うことの意味について勉強するにつれ、やっぱしオスはアホやなあ、と何につけ結論づけるのが癖になってしまったいけない私がいる。そんなアホなオスが大好きな私もここにいる。

ところで、私は昔から小説よりもノンフィクションが好きだが、ジャンルは社会的弱者のおかれている惨状をレポートしたものというのが多い。お母さんの借りてくる本って絶対ナチスとかパレスチナとかチェチェンとかチェルノブイリって書いてある、とこれはあるとき娘にいわれたことなんだけど(笑)、根性なしの私はすぐにああもうダメだ立ち直れないという精神状態にしょっちゅう陥り、そのたびに、そうした気の毒な立場にいる人たちのことを読み、その苦しみに思いを馳せ、自分のプチ逆境など逆境のうちには入らないのだわと奮い立ち持ち直す、ということを繰り返してきた。とにもかくにもこの私が、まともに生きてこれたのは、世界中で迫害され虐待され無残に殺されていった幾多の悲しい人々のおかげなのである。といえなくもないと思うとまた、私って何たるエゴイストかとずんと落ち込むのである。んでもってまた、プーチンの悪行三昧暴露本などを読んで許さん!などと独り言を言い立ち直っている(私もたいがいアホである)。この思考パターン、どうよ。あんまりよくないよね。前向きなようで、かなり後ろ向きだよね。

さてさて、本書が出版された当時、著者のラティファは21歳。だからいまはもう30歳になっている。どこでどう暮らしているのだろうか。フランスで愛する人と一緒に生きているのか。本書によればラティファと母親がパリへ着いたとほぼ同時くらいに、タリバンは彼女の生家に押し入り略奪した挙句火をつけたという。子ども時代の思い出の詰まった家がなくなり、家族は離散してしまった。それでも、ラティファは全アフガニスタン女性を代表して声を挙げるために、フランスへ来てよかったと思っているのだろうか。

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