姑息で愚かでノータリンな文部科学省 ― 2010/08/01 23:54:49
「幼稚園は定員割れしてましてね。幼稚園によっては、事態は深刻なんです。もっと幼稚園という選択肢が検討されれば、待機児童数も変わってくるんですがね。現状では無理ですねえ」
朝ゆっくり始まって昼過ぎにはもう終わる幼稚園なんて、フルタイムで働く人々には、そんなの検討どころか俎上にも載りはしない。延長保育や、あるいはユニークな教育内容とかで付加価値を高めて、なんとか子どもを集める努力をしている幼稚園もあるだろう。しかし、いずれにしてもフルタイムで働く人の場合、通常会社に最短でも8時間拘束される。通勤時間等を加味すると、合計で10時間くらい子どもを預けられる保証がないと日々回っていかない。保育所はそれを可能にしてくれるが、幼稚園では無理である。よほど、「ここでなければ私の子どもを託すことはできない」と思わせてくれるほど、保育あるいは教育環境が整っていなければ、幼稚園の存在価値は、少なくとも私みたいな人間には、ゼロである。
私は幸運なことに家から近い場所に夜間部も併設している民間保育園があり、申し込みをしたときは定員オーバーと言われたが、年度末に空きが出て入所が叶った。よかった。助かった。私の父母はまだ現役で染めの仕事をしていたし、寝てばかりいる赤子のときはよかったが、ちょこまか歩き始めた子を常時見張ることは無理だった。
こうして、まだ1歳の娘を午前中から夜まで10〜12時間預けていた。保育士さんには、ちゃんと見ててくれること、しっかり遊んでくれること、食事について報告してくれること、これ以外に何も求めるつもりはなかった。日本の場合、どこへ預けても、この三つがしっかりされてれば御の字だと思っていた。
フランスに滞在していた頃、フランスの教育機関で最も優れているのは幼稚園である、と聞いた。間借りしていたアパートの若い夫婦もそう言ったし、大学の教員たちもそう言った。幼稚園は仏語でエコール・マテルネルといい、日本の小学校にあたるエコール・プリメールに入学する前の3年間を過ごす。なぜエコール・マテルネルが素晴しいと言われるかというと、エコール・マテルネルの職員は保育・幼児教育のプロ中のプロだからだ。私は日本の保育士資格、幼稚園教諭資格について取得条件等何も知らないが、私が学生の頃は、たいして意欲も志もない女子が「短大行って保母さんでもちょこっとやってお嫁にいくわ」などと発言することは何ら珍しくなく、また許されたものだったので、保母さんてそういうふうになれるもんだと思っていたもんである。現在はどうか知りません、ごめんなさい。
しかしフランスでは高卒後2年程度では保育の現場に行くことは許されない。エコール・マテルネルの教員であるということは児童心理学、児童教育学の学位を持っていることを意味すると聞いた(と記憶しているけどもう定かじゃないです。ごめんなさい)。また、教員の他に、保育を担う職員が担任としてつく。彼らの場合は保育士資格と同時に看護師資格も求められると聞いた(と記憶しているけどもう定かじゃないです。ごめんなさい)。ひとつのクラスに少なくとも二人以上の担任がつき、それぞれが磨き上げた自分の専門性を発揮して職務を遂行するということになっている。こうした制度はもう伝統的なもので、国全体が支持しているものなのだ。だからフランスでは幼稚園はいつもどこでも定員満杯である。公教育なので食事以外は無料だし。
幼稚園は4時半まで授業を行い、その後は6時か7時までの託児施設となり、保育が必要な幼児たちだけが残る、というしくみ。もちろん、職員は交代。
そんな話を聞いていたこともあって、理想的なそのフランスの幼児教育はうらやましかったが、といってそれと同じクオリティを日本の幼児教育機関に求める気持ちはさらさらなかった。実践している私立はあっても公立はないだろうし、近いところの私立をざっと見回しても、英語を導入したり、識字教育をしたりと、ちょっと違うというのか小手先の「売り」でしかないような、母親の気を惹くキャッチで特徴をアピールする幼稚園くらいしかなかった。何度か書いたことがあるが乳幼児にそんなもんは不要というのが私の信念だし、どのみち幼稚園は眼中になかったけど。
話が逸れてしまった。何が言いたいかというと、このままでは幼稚園に未来はないかもよ、ということなのである。だって、幼稚園の「お上」は文部科学省である。最近の彼らの言動、関心のあるかたは報道でご存じだと思うけど、小学生と中学生に実施される学力テストの正答率を分析して、こんな公式見解を出したのだ。ご丁寧にグラフ付きで。
「幼稚園出身の児童生徒のほうが保育所その他の出身の児童生徒に比べて正答率が高い」
世の中のお父さん、お母さん、子どもは文科省管轄の幼稚園に入園させましょうね。厚労省管轄の保育所やモグリの託児所では、子どもがアホになりますよ。お勉強のできるいい子にするためにも、幼児期には幼稚園っきゃないですよ、そこんとこドーゾよろしく!
……と言っているようにしか読めない公式見解だった。
「幼稚園出身の児童生徒のほうが保育所その他の出身の児童生徒に比べて正答率が高い」
いま、小中学校の現場の教員が児童生徒の学力定着と向上のために試行錯誤しながら日夜努力して(いない学校もあるかもしれないけど、幸い私のかかわるところは先生方みなさん必死で頑張って)いるというのに。全国学力テストはその成果や課題発見の材料であるだろうに。
「幼稚園出身の児童生徒のほうが保育所その他の出身の児童生徒に比べて正答率が高い」
そんな分析をして、いったい何の役に立てようというのだろう? いや、分析は多方面からどんどんなさればよいであろう、家庭環境や親の収入や、通学時間などあらゆる側面から学力を測っておられるようなので、その一環として、就学前どこにいたかということは重要な要素であるやもしれぬからのう。
でも、これって、学テの結果報道と同時に大々的に発表するような項目か?
ほーらご覧ください。統計が証明してるでしょ、賢い子は幼稚園でないと育ちませんよ、幼稚園に入れましょう。聞いてますか、お父さん、お母さん! さ、幼稚園入園願書を用意して! 厚労省管轄の保育所では、だ・め・で・す・よ!
どうしてどいつもこいつも相手をけなして優位に立とうとするのだろう? この参院選の街頭演説の内容もほとんどそうだった。
どうして、相手のよさを認めた上で、それでも負けない自分とこの優れた利点を主張しようとしないのだろう?
文科省がすべきは、もう何年も前に幼児期を終えた小中学生の正答率を云々して幼稚園に行ったほうが賢いやんと見せびらかすことではなくて、現在、子どもが集まらずに困惑・困窮している幼稚園に適切な支援や指導をすることだろう。
北欧のモデルを真似っこするのが流行っているようだけど、四季の変化に乏しい北の果てで生活する人間と同じ理屈で温帯モンスーン気候に住む人間を教育できるはずがないではないか。フランスの例を引いといていうのもなんだが、かの国とでさえ、日本は子どものしつけと教育にかんする考えかたは大きく異なるし、社会体制もその歴史も異なる。だから真似するのは無理である。
そうじゃなくて、子どもを持った親に、ちゃんと幼稚園に入れなくちゃ、そういわせるような幼稚園を、日本人の知恵で創ること。文科省がすべきはそういうことじゃないのか。
英語がナンなのさ。ふんっ ― 2010/08/04 06:49:13
選択出版『選択』Vol.36 No.8(2010年8月号)
27ページ
〈連載〉Book Reviewing Globe(本から見る地球 連載315回)
『世界共通語としての英語』by J.T.Y
Globish How the English Language Became the World's Language
Robert McCrum
《楽天とファーストリテイリングがともに二〇一二年から英語を社内公用語にすることを決めた。(……)日常会話でもメールでも英語が浸透していくだろう。ここから英語リテラシーをモノにしたグローバル企業戦士が続々と生まれてくるに違いない。》(一段落め)
「グローバル企業戦士」……やだあ。ぜったいそんなもんになりたくないじゃない?
というか、なんと気持ち悪い響きなのだろう、この語。
続いて書評子はこういう。
《十年前、小渕首相の諮問機関だった「21世紀日本の構想」懇談会が「英語を日本の第二公用語とするべきだ』と提言した。恐ろしいほどの先見性だったが、(……)日本は世界の波に完全に乗り遅れた。指導者も経営者も官僚も学者も英語を使いこなせないことがどれほど日本の国益を損なっていることか。》(二段落め)
日本の国益が損なわれているとしたら、それは、指導者や経営者や官僚や学者の、本質的なレベルでの指導力やセンス、実直さや探究心などが不足していたりあらぬ方向へ向かっているためであって、けっして彼らの「英語能力の欠如」が原因となって「日本の国益を損なう」結果を呼ぶわけではない。断じてない。みんなもそう思うでしょ?
《もっとも徹底した社内英語公用語の成功例はドイツのシーメンスである。いま、同社は売り上げも従業員も非ドイツ人が圧倒的多数である。》(五段落め)
え。それ、自慢してるの? ドイツの会社なんでしょ?
ドイツのみなさんは、それでよかったの?
《企業だけではない。国づくりの一環として英語を公用語にしたケースとしてインドとシンガポールが有名だ。最近ではルワンダが公用語をフランス語から英語に切り替えた。(……)英語でないとグローバル経済競争で不利になるとの理由で転換した。》(六段落め)
ぐ……ちょっとルワンダっ 裏切ったわねっっ(笑)
《ゲーテ・インスティテュートは、ドイツ文化を世界に普及させるのにドイツ語を用いず、英語を使っている。そのほうがはるかに効率的だからである。》(七段落め)
「英語を使っている」ってどういう意味なんだろう。私の町にあるゲーテ・インスティテュート(ドイツ文化センター)はドイツ語学校でもあるし……たしかにいろいろなことが英語併記の場合もあったように記憶しているが……
自国の文化を異文化圏に普及させる、というのなら、まずはやはり自国語の習得を促すことから入らねばけっきょくは遠回りである。ある国の文化は、その文化から見て異文化圏にいる者にとっては絵に描いた餅でしかない。その餅を食べるには、つまり知りたいのならば、その国の地に足を下ろして生活するか、その国の言語を身につけそのことばで交感しなければならない。
日本にどんどん来てね、いいとこよ、と宣伝して外国人観光客を増やすのが目的なら、その観光旅行パンフは日本語よりも英語で創られて世界にばらまかれるべきであろう。
しかし、日本文化をほんとうの意味でわかってもらいたいとき、日本の風土や慣習になじんですっかり日本に溶け込んでもらいたいとき、違和感なく日本で生活を続けてほしいとき、その人に対して英語を使い続けることはほんとうに「効率的」なのか?
文化を語るときに効率を云々するのは、お兄さん、野暮ですよ。
書評子が批評の対象としている本は、《英語が世界共通語となっていった過程をグローバル化の流れを踏まえて活写している。》そうである。
英語が世界共通語となったことを称賛する内容なのかな。世界共通語になったからホラホラみんな英語習得せんでどうすんの、といっているのかな。
つまんねー。
きもちわるー。
私は日本人とは日本語で話したいです。
それからどうなった?シリーズ その3。雨漏り ― 2010/08/06 00:10:52
ご心配くださった多方面の皆様、ありがとうございます。
いつ再び漏れてきちゃうかわからないんですが、とりあえず天井は乾いとります、いまのとこ。
……って相変わらず同じ書き出し(笑)
ずっとずっと降り続いた雨がやんで、先日嵐のような夕立があったじゃないですか(突風で私がよろけそうになったやつ。冷蔵庫壊れる前兆ねってゆってたヤツ)。そのときも、もう雨漏りしなかったんです。よかったー。
涼しげな瞳をした少年が私の前に舞い降りた。
あなたは?
僕は、ジェイ。
ジェイ、私に何か?
君の部屋に滴る水を止めにきたのさ。
ジェイ、あなたには無理よ。
君は僕を知らない。
ジェイはしゅっと、私の前から姿を消した……と思ったが、重力に逆らって垂直に跳び上がっただけだった。ジェイは屋根の上にいた。屋根づたいに、物干し場へ滑り込んだ。
雨が漏って困っていた部屋は、物干し場のちょうど下にあるのだった。
私はしゅっと垂直に跳べないので、いつもしているように裏庭の階段を駆け上がり、ジェイのいる物干しまでたどり着いた。
ジェイは物干し場のデッキをずらして、デッキの下に溜まっていた落ち葉や土ぼこりを取り去っていた。
あったよ。
何があったの、ジェイ。
君の部屋への水の通り道。
まあ、そんな通り道があるなんて。誰が創ったというの?
さあ。君の眠りを妨げたいと思う誰か、だよ。
ジェイは笑った。
涼しい瞳がいっそう涼しくなる。
その通り道は、どこ? 見せて頂戴。
もちろんさ。ほら、ここだよ。
ジェイが指し示した場所に、穴があいていた。二つ、並んで。
この穴が、水の通り道?
そうだよ。小さいけれど、どんな小さな穴からでも水は通れるからね。ここを通って、天井に沁みわたって、やがて雫になったのさ。
なんてこと……この穴たちは、いつからこうして水を通していたのかしら。
ずいぶん昔からのように、僕には見えるよ。
まあ、ジェイ。では今のようにとてつもない雨漏りでなく、ずううっと昔に経験したちょっとした雨漏りも、みんなこの穴たちのせい?
そうさ。穴も少しずつ大きくなっていたようだよ。でも……
でも……、なあに、ジェイ。
この通り道をふさげば、二度と君の部屋に、水は滴り落ちることがない。それでもいいかい?
……いいわよ、ジェイ。
ジェイは大きなチューブをどこからかすっと取り出し、そのチューブを目一杯絞って、チューブの中身で穴をふさいでいく。
それを終えるとジェイは、涼しい瞳をさらに涼しげに細めた。
さあ、終わった。
ジェイ……。
ジェイは、来たときのようにしゅっと、いなくなった。私の前から。
無印良品がイスラエルに出店 ― 2010/08/07 14:21:09
Date: Fri, 6 Aug 2010 21:54:03
From: "チェチェンニュース編集室"
Subject: チェチェンニュース #346
■無印良品のイスラエル出店について。
飾らない愛とはなにか?
出店が実現すれば、アパルトヘイトを無視して、同じように出店する企業が次々に出てきても、おかしくありません。まるで、南アフリカで「名誉白人」などとおだてられて投資してきた、かつての日本のようになってしまいます。
無印良品にはかつて、「愛は飾らない。」という、印象的なコピーがありました。気取りのないシンプルな製品を、過剰な包装をせずに提供してきた、無印良品。今回の出店計画は、このクリーンなイメージを、差別主義を土台とするイスラエル経済の中で、パレスチナ人の犠牲の上に利益を確保する企業という、ダーティーなものに変えてしまいます。
グローバル化と、国家による暴力が続くこの世界での「愛」とは、何なのでしょうか。少なくとも、アパルトヘイトを無視して商行為にいそしむことは、愛からはもっとも遠いはずです。
多くの人が、無印の製品を買ったり、使っています。これは、無印良品で買い物をしているみなさんすべてに関係することだと思います。ぜひ、この計画に反対する意思表示をしてください。次のサイトに、その具体的な方法が書かれています。
アパルトヘイト国家イスラエルへの出店に反対します。
_______________________
……とあったので、さっそくサイトへ行ってみた。

つねづね、イスラエルめ許さん!と憤慨している私だが、無印良品の出店は、いいんじゃないのと思えてしまうんだがそんな私はおかしいのだろうか。このサイトがいうように、無印良品が出店したら日本の小売業に道を拓いてしまい、次から次へと出店企業が後続する、そうなったら、イスラエルの町には日本の小売店満開状態になり、ひいては、日本はイスラエル国家を支持するよという政治的態度の表明に等しくなる、というような状況を産んでしまう……って、そんなの、日本はもうイスラエル国家支持派じゃないのさ。

イスラエルはパレスチナを弾圧している。これまで再三起こってきたように、被弾圧者サイドからの抵抗運動(レジスタンス)が当然ある。それが一般に自爆テロと呼ばれる行為だ。自身の体に爆弾をくくりつけて爆破対象に自ら飛び込んで道連れにするという行為を私は絶対に容認しないが、これを自爆「テロ」と呼ぶことに、いつだってとてもためらうのである。国語辞典で「テロル」「テロリズム」などを引いてもらうとわかるが、そもそも政治目的を達成するための暴力的破壊行為のことをテロという。だからどちらかというとイスラエル国家によるパレスチナ人居住地域に対する行為がテロルなのだ。パレスチナ人の自爆行為は弾圧への抵抗である。だからといって絶対に許容されてはならないが、そもそも、どっちが先に仕掛けたのか、をたまには冷静に考えよう、ということがいいたいのである。
したがって、引用したような、「気取りのないシンプルな製品を、過剰な包装をせずに提供してきた」のは事実であっても、それがことさら「クリーンなイメージ」だとは、私だけでなく、もはや誰も思っていないんじゃないかな。無印良品にクリーンなイメージ、もってます? んで、それがダーティーに変わるというのも、あまり説得力ない。
無印良品だから問題なのではなく、どこが店を出そうが、日本の製品(メイドインチャイナやタイランドだったりするけど)を買って買ってー♪と嬉しそうに陳列する商行為に出ることは、こと差別主義政策をとっている国ではまずいだろうな。「あんなことやってる国で店出すなんて」とためらう人が企業内にまったくいなかったわけでもないだろう。しかし「まずいかもだけど、それでも儲けたい」のが企業である。利潤追求の前には「そんなこと」どうでもいいんだから、そんな人々は、もうほうっておくしかないのである。

イスラエルは、パレスチナの抵抗行為があるたびに、パレスチナ人居住区域への銃撃やライフライン断絶などの制裁を行って報復してきた。近年は何もなくてもしたい放題である。日本では「自爆テロ」ばかりが報道されて、イスラエルによる対パレスチナ人迫害行為はまったく報道されない。それはしかたがない。私たちは米国の核の傘の下にいるので、米国がしかめ面をするようなニュースは伝わらないのである。
ならいっそ、イスラエル人がもういやよジャパニーズには辟易するわと嫌がるほど、日本の小売店で埋め尽くしてしまったらどうであろうか。日本の小売店がいっぱいある国なら安全ねと日本からの旅行客もきっと増えるであろう。その地に足を下ろしてみないとわからないことはいっぱいある。結果として、イスラエルびいきの日本人が増えるだけかもしれないし、パレスチナへの無理解は度を深めるばかりかもしれないが、何もしないよりはましである。イスラエル行ってきたのよーとってもよかったわ!日本語も通じるのよー♪という人もいれば、もしかして、パレスチナ居住区方面には近寄れないように有刺鉄線が張ってある、とか実際に見てくる人もいるかもしれないし。
ぜひ、ざっとでもお目通しください。「よくある質問」だけでも。
パレスチナ人の居住区に出店する計画はないのかな?

旧暦で ― 2010/08/08 22:37:31






わたしとあなたと彼と彼女と もうひとりの「私」 ― 2010/08/10 21:12:45
外山滋比古 著
みすず書房(2010年)
第一人称 わたし
第二人称 あなた
第三人称 彼、彼女 あるいは わたしとあなた以外のすべて
ある文章世界がある。
そのなかに第一人称「わたし」と第二人称「あなた」がいる。会話は第一人称と第二人称の間で起こり、その話題は第三人称についてである。こうして文章世界は第一人称と第二人称と第三人称とでつくられていることがわかる。
ではその文章世界を外から眺める、あるいは読むこの「私」は。
本書では、こうした場合の「私」を第四人称と名づけ、ケースバイケースの考察を試みている。第四人称である「私」は、書物を外から読む者に限らない。人の噂を又聞きする人も第四人称的性格をもつ。映画や芝居の鑑賞、スポーツ観戦もしかりである。伝記、評伝の書き手や、または読み手。翻訳者。見知らぬ土地を訪れる旅行者。かつて異人と呼ばれた、日本人とのコミュニケーションのすべを持たなかった外国人。裁判の傍聴者。
裁判員という制度ができて、第四人称に甘んじていられた「当事者でない市民」は、第三者として判定を下す立場を与えられたために裁判において「第三人称」として振舞わなければならなくなった。裁判は原告と被告、検察と被告、弁護人と原告、検察と弁護人、また裁判長と被告といういくつもの第一人称と第二人称の組み合わせが錯綜するスペクタクルである。第一・第二人称に目撃者や関係者が第三人称として絡みつくように振舞う。第一人称、第二人称から最も遠い第三人称が裁判員であろう。
裁判員は傍観者や観客ではいられない。精神的・思想的にコミットしなければならない。しかし第一人称や第二人称の個別領域にまでは足を踏み入れることはない。そればかりか、第一人称や第二人称が、第三人称として裁判員を語ることもない。裁判員は、ときに第一人称である被告や原告にとって第二人称へとせり出すことがある。しかしそれは一時的なことで、あっという間にまた第三人称へと後退する。裁判長という大きな第二人称が第一人称たちの前に立ちはだかるからだ。裁判員はこうして、半歩足を踏み外せば第四人称へと転落しそうな、突き出されて第二人称にされたかと思えばはじき返される、あやふやであいまいな彼我のあわいに立ち、毅然と前を向いて職務を遂行せねばならない。
この、中途半端で微妙な立ち位置の裁判員という在りかたを、よくも創造したなと思う。これって、すごく余計なことだったんじゃないのか。裁判員制度は、「とっとと裁判を終えられる」こと以外に何かメリットを生んでいるのか。第四人称である傍観者からは、まるで判断がつかないのである。
外山のおじさまは「翻訳」について一章割いてくださっている。
《独立翻訳は訳者の理解し得た限りのことを材料にして新しい作品、書物をつくるくらいの覚悟をもたなくてはならない。いちいち原著者の顔色を伺っているようではいくら原文忠実であっても翻訳の資格を欠くことになる。訳者の全責任において新しい作品、著述を創出する気概と決意が求められる。》(71~72ページ)
そうよね、おじさま。
とても勇気づけられましたわ。
わたしの歩んできた道は間違いなかったのね。
おじさま、わたし、おじさまの教えをけっして忘れないことよ。
みかんづくし ― 2010/08/16 09:06:32








それからどうなった?シリーズ その4。金魚 ― 2010/08/16 22:49:31



供養供養の夏だが私はただ寝たい ― 2010/08/24 22:40:18

京都の晩夏の風物詩「千灯供養」が23日夜、京都市右京区嵯峨鳥居本の化野念仏寺で営まれた。約8000体の石仏や石塔に参拝者が思いを託してろうそくをささげ、秋の気配をしのばせた夜風に揺れるともしびに静かに手を合わせた。
千灯供養は、古く葬送の地だった化野の無数の無縁仏を、明治時代に集めて供養するようになったのが始まりという。
僧侶の読経が響くなか、こけむした石仏が並ぶ境内の「西院(さい)の河原」に参拝者が次々と訪れ、思い思いの石仏に、ろうそくを供えた。」(地元紙サイトより。写真も)
*
日曜日は地蔵盆だった。今年は主催担当だったので先月から何かと用事が多くて忙しかった。例年どおり夏祭りの屋台もやるし、もう勘弁してよねって感じだ。「京乃七夕」を観に行ったあたりから、まともな時間に帰宅していない。さすがに日付の変わる1時間前くらいには帰るようにしているが、風呂に入ってふうーっと深呼吸して、午前1時頃からまたこりこり原稿書いたり指示書を作ったりする……といいたいが、たいてい1時半頃にもう眠くて眠くてたまらなくなり、途中で止めて寝にいき、翌朝決死の思いで早起きして4時から6時くらいまで頑張って準備した材料を、出社したらすぐ制作サイドに渡す。……とこれが毎日できればものすごく進行するのだが、そうそう毎日4時には起きられないので十分な準備をけっきょくできないまま出社する。制作サイドの作業も遅れる。提出刻限が迫るとクライアントがぎゃんぎゃんと電話してくる。アンタねー、早くブツが欲しいならアタシたちをそっとして仕事させてよっと電話口で怒鳴りたいのをこらえて「申し訳ありません。今全速力でやっております」などという。それで電話を切りたいのにクライアントはああだこうだナンでだ遅いぞ困るぞとぐだぐだねちねちと受話器を離さないのである。おまけにお盆前には「悪いけどお盆休みに出張取材に行ってくれる?」としゃあしゃあと仕事を発注する。アタシはアンタの部下でもアンタんちの社員でもないんだぞっっそれになあお盆には伊予柑の里へ行くんだよ仕事よりスケジュールタイトな旅行だけどな何年ぶりかで娘と旅行するんだよキャンセルせんぞ絶対———とこのときだけは絶対行かないと言い張った甲斐あって、というよりは、クライアントの担当者が取材実施日を勘違いしていただけでお盆休みには実際には何もなかったのである。ほんまに人騒がせである。そんなこんなで寝る間もないのに地蔵盆の準備なんかできないっつーの。要領を得ない私が目を血走らせてあれこれするより年季の入ったオッサンオバハンらに任せたほうがいいと思って、母にうまいこと頼んでよおーというと、母ははいはいと引き受けてくれたが、近所のオッサンオバハンらは私が開いた会合の席では何も言わなかったくせに母が各戸へお願い回りに行ったらここぞとばかりにああしたほうがいいこうしたほうがいい、いやせないかんでと洪水のように「ご意見」の雨を降らせ母を立ち往生させるのである。アタシの顔見て言えばいいのになあ、と、ある晩も夜中に帰ってから母の報告と愚痴が終わってそう言うと、アンタにいうたら10倍くらい言い返されると思たはんのやわ。そらまあ、そうかもな。
それでもなんとか終了した。地蔵盆は、町内会ごとに行う町内会の一大イベントである。お地蔵様飾りは近年新調されたものも多いがいったいいつなのかわからん年号の染め抜かれたものもある。200年くらい前からこの地域は今の姿をしていた。町内会の面々はみなそれをよく知っている。誰もが地蔵様に深々と頭を下げて拝んでいる。たいしたもんだと思う。信仰心がこのイベントを支えている。あれこれ口の減らんオバハンは多いが、それでも仲良くやっているのは地蔵様が見守ってくれているからかも、と思う。アタシみたいにええかげんな人間を大事にしてくれるのは、アタシの父も祖母も、地蔵盆という一大イベントに惜しみなく力を注いで町内会を盛り上げていたことをまだ覚えてくれている人がいて、口承されているからである。
*
五山送り火のときに金魚のことに触れたが、あのあとまたリュウキンが1匹、天に召された。今年の夏ほど供養ばかりしている夏はないであろう。キンスキーも調子が悪いので薬浴中である。
風が少し秋めいてきたが、酷暑はまだ続きそうだ。
私の体感からだけ言うと、このとんでもない仕事量さえなければ、しのげない夏ではない。不調の原因はやはり睡眠不足に尽きる。私は毎日8時間寝ないといけないカラダなのに、ずっとその半分程度が続いている。酷暑のさなかだが、冬眠していいと言われたら即刻しそうだ。冬眠だけでなく春眠夏眠秋眠とえんえんと眠りそうだ。寝たい。