5 years2010/12/02 22:18:09

もう昨日のことになってしまったけれど、12月1日はウチのねこさまの誕生日である。
5歳におなりになった。
光陰矢の如し。
月日は百代の過客にしてなんとやら。
年明けて2月には父の七回忌をとりおこなうので、そりゃ5年経つのも至極当然なのである。
めっきり少なくなったが、我が家にはネズミさんたちが棲みついており、調子に乗って居間やダイドコまで出てくること頻繁であった。天井裏を駆け回るくらいはご愛嬌だが、籠に盛った果物や、三角コーナーに捨てたままになっていた生ゴミを食べ散らかされるのは困る。いつぞやは娘がつくったハロウィンかぼちゃが無惨な姿で発見された。「ネズミがいたずらしてるとこ見てみたいなー」なんて、いわむらかずおの「14ひきシリーズ」の世界を思い描いて余裕のあるところを見せていた娘も、ぼろぼろになったミニかぼちゃを見てさすがに青ざめた。
「ネズミ、許さへん」(わなわな)
私は笑いをこらえるのに苦労したが、この出来事は猫を飼う大きなきっかけの一つであった。
もう一つは、やはり喪失感である。欠乏感である。父が2月に亡くなって悲しみに浸る間もなく、葬儀や七夜であっという間に月日が過ぎ、父の不在に慣れたようでいながら、ふと狭い家の中にできた空隙の思わぬ大きさに唖然とする。それでも、毎日捌ききれないほどの私用公用雑事茶飯事を抱えてばたばたしている私や娘はそもそもなにがしかの思いにふける時間がなかった。が、母はやはりぼうっとしていることが極端に多くなった。ぼうっとして何もせず座っているだけの父を見てはしょっちゅう話しかけたりおやつを差し出したりちょっとした手遊びをしてみたりと何かと構っていたが、相手がいなくなり今度は自分がぼうっとするばかりになった。無趣味な人なので時間つぶしの方法を知らない。ぼうっとしているからといって四六時中そばで話しかけてやるわけにはいかない。母がどれだけ空虚感を自覚していたかは知らないが、このままではこの人は遠からずぼけてしまうであろう。その危機感から私はそれ以前にもまして彼女に家事を頼むようにした。世話を焼く相手がひとりいなくなったので、おのずと孫がターゲットになり、以前にもましてさなぎにかまうようになったのだが、さなぎはさなぎで日々成長する小学生女子だったので、だんだんとばあちゃんの干渉を鬱陶しがるようになっていた。
「さなぎのことはいいから、自分の部屋とかダイドコの掃除とかさ、乾いたタオルきれいに畳んで仕舞うとかしてくれへん?」
実は母は料理も掃除も得意ではない。衣類等を畳んで引き出しなどに片付けるのも不得手である。彼女が畳んだものは私に言わせれば丸めて突っ込んだに等しい。寝室はいろいろなものが山積みになって、とても当人以外にはものを探し出せない(それは、ま、アタシも同じだが)。なのにさなぎには宿題はあるのか、宿題しなさい、宿題すんだのか、時間割したのか、忘れ物ないか点検しなさい、と彼女が家にいる間に各10回くらい言うのである。
要は、自分のことは棚に上げて人の世話を焼きたい、構いたいタイプなのである。
父は、母がかまって何もかもするので、自分の服や下着、靴下がどこにしまわれているのか何も知らなかった。
度が過ぎた世話焼きは迷惑である。
「ばあちゃん、今日一日はさなぎに宿題したか、って言わないこと。ゆうたらおやつのおまんじゅうはなし」
とかそんなことで釣って、あなたの世話焼きは人をダメにするのよということを伝えようと何度も試みたが、現在に至るまでまったく矯正はされていない(笑)
ともあれ、世話を焼く対象がさなぎひとりでは危険だと考えたことが、猫を飼うことのさらに大きなきっかけとなった。
母は動物嫌いである。
しかも猫だけはこの世に存在することが許せないというほど嫌っていた。さなぎが赤子の頃、よく公園に連れていってくれたが、公園の野良猫がどうしたこうしたと、帰宅した私に憎々しげに語ったものだ。ほっといたらええやん。手出ししいひんかったら何もしいひんやろ、猫なんか。しかし母は、視界に入ってくるだけで悪寒を感じるらしい。一方、犬に対しては、自分が嫁にきた頃から近隣に飼っている家庭が多かったせいもあってか、まったく抵抗感がない。だから犬を飼うという発想をしないでもなかったが、犬は散歩に連れて出なければならない。犬好きの父がまだ健在だった時から、我が家では、犬は飼いたいと思えども散歩の担い手がいなかった。誰もが三日坊主に終わると確信していたのである。
そんなわけで、ほとんどムリヤリ猫に決定した。
猫を飼おう!
わーいわーい。
ええええっ。嫌や嫌や絶対嫌や。
ある日、地域紙の三行広告「あげます」欄に「猫もらってください。アメショーMIX6匹います」という告知を見つけた。これだ。
速攻で電話する。あからさまに嫌な顔をする母に、これ、もらいに行くからねと宣言。土曜の朝だった。広告主によれば、すでにもう何人かから引き合いがあるとのこと。「今日の午後、いきますから」と念を押して当時まだ持っていた軽を駆り、午前中の用事を済ますやいなや広告主の住む団地へすっ飛んでいった。
子猫はもう2匹になっていた。
「雄と雌、一匹ずつです」
籠に入った小さな猫は、互いに寄り添いくっつき合って、にゃーにゃー啼いている。少し毛の色が違う。私も娘も直感で、よりブラウンがかった毛色の雌を選んだ。雄よりおとなしそうに見えた。あとから思えば雄のほうがアメリカンショートヘアっぽい毛並みをしていたのだったが、猫の種類などにはとんと興味も知識もなかったので、この子が好き♪と感じたほうにしたのだった。
持参した籠に入れてもらって、まず、いったん帰った。
「おばあちゃん、おばあちゃん、見て見てーねこちゃんー」
あまりに嬉しそうな孫娘の様子に、見てやらんわけにはイカンと思ってかどうか知らないが、籠から出した猫をまじまじと見た母。
「ひゃあ、可愛らしいなあ!」(※「かえらしい」、と読みます)
さなぎが子猫をばあちゃんの膝に乗せる。ちっちゃいわあ。よう来たなあ。
よっしゃクリアしたぞ。瞬時に確信し、さ、ペットショップ行くぞと娘と養女(笑)を連れてトイレとトイレ砂と当面の餌を買いに行った。5年前の2月4日。

「この子、生まれてどのくらいなんですか?」
「いやあ、それが正確には……11月の終わりか12月の初めかなあ。いつの間にか生まれてたし、ちょっと僕も記憶がはっきりしなくて」

わからないものをいくら考え巡らしても結論は出ない。
したがって、12月1日という、ウチのねこさまの誕生日は、実は私たちが当人(当猫?)の意思も希望も事実も脇へ置いて決めた記念日であった。

ねこさまはすくすくとお育ちになり、膀胱炎になったりもしたが、ここ2年ほどはその症状もすっかり影をひそめて、すっかり健康で元気である。猫嫌いだった母は、いまでは愛猫なしでは一日も生きていけないくらい、麗しのねこさまと一心同体化している。5歳といえばいったいいくつなんだろう。けっこうエエ歳のはずである。相変わらず猫に赤ちゃん言葉を使う私たちだが、あんまり悪さをして、叱ってもいうこときかずにいたずらを繰り返す時など私はつい、
「こらっオバハン! ええかげんにせーよっ」
などという(笑)。
「にゃー!」
あんたにオバハンていわれとないわっ。とゆっているように聞こえる(笑)。
今年の誕生日プレゼントは和柄の首輪。ちりめん風プリント地でつくったカラーに梅の花をかたどった鈴がついている。
「品が良うて、よろしおす。よう似合うたはりますえ」
などといってみる(笑)。
「にゃにゃんにゃー」(へえ、おおきに。うれしおす)
というふうに聞こえて喜ぶのは飼い主ばかりである。

ハッピーバースデー。
Bon anniversaire!
5歳の誕生日おめでとう、りーちゃん。

76 days2010/12/01 02:43:46

夕方、携帯が鳴った。
「お母さん、今日、数学のテスト返ってきた」
「ふうん」
「何点やと思う?」
そんなことを訊ねるくらいだからきっと思いのほかよかったに違いない。
「うーん、100点」
「んなわけないやろ」
「そやな、いくらなんでも。ほな72点」
「あんなあ。もうちょい、良う考えてよ」
「そっか(笑)98点」
「行き過ぎ」
「89点」
「下がり過ぎ」
「ええっ(驚愕)下がり過ぎっ? 89点で?」
「ふっふっふ」
「94点」
「上がり過ぎっ」
「んもう。わからん。つーか1点ずつゆーてったら当たるやん。降参」
「91点」
「うっそ」
「ほんまほんま。すっごいやろー史上初の90点台」
「80点台かてなかったやん」
「そんなことないでえー1回あったで」
「記憶にないなあ」
「とにかく今回はよっしゃあ、やねん」
「ほんまやなあ。よかったなあ。できたって手応え、あったん?」
「まあな」
「ま、あとからやったらなんとでも言えるわな」
「ほんまやって。よっしゃできたでえ、って思たし、もしこれで70点台やったら終わりやと思てててん」
何が終わるのかは知らないが(笑)いつも平均点の前後をうろちょろしていたさなぎにとって、初めての、数学における会心の出来の巻、であった。
志望校は数学の出来重視なので、今回の成果は大きいのである。非常に大きいのである。ところが。
「理科は最悪」
「なに」
「もう、ひどい出来やと思てたけど、ほんまに史上最悪」
「数学よくても理科でこけてたらプラマイゼロやん」
「そやねん……」
「範囲は何やったん」
「天体」
「毎晩夜空を見上げてたくせに」
「眺めてただけやし。それに、星、はっきり見えへんもん」
「街の空は天体の勉強にはならんな、たしかに」
「あああ、まずいー理科はマズいいいい」
昨年度の入試から理科も入試科目に加わったという志望校。余計なことを。だが、さなぎは理科はなんとか中の上を維持していたのであまり心配はしていなかったんだけど……何より本人がけっこう好きな科目だし。

だがまあ、結果はなるようにしかならないんだし、全力尽くすっきゃないなあ。

んなわけで、しのごのごにょごにょぶうたれていたが、けっきょく、高校受験することになったわが娘である。しかも志望校は結構な難関である。なぜそこに決めたかというと、周囲の大人がよってたかって彼女にその高校への進学を勧めたからである。
とにかく家からいちばん近いし(母親、つまり私)
目標は高いほうがいい。ガッツでベストを尽くせば結果はついてくるはずだし(学級担任、つまり嶋先生)
著名なダンサーとして活躍中の息子もその高校へ行ったし(その「息子」の母親、つまりバレエの先生)
OBも全面的にバックアップするし(その高校の卒業生たち、つまり近所のおっちゃんたち)
などという本人の意思とはまったく関係のない理由の蓄積が大きな力となって彼女に第一志望欄にその高校の名を書かせてしまったのであった。
で、ある日、その高校の過去問集を購入。
「絶対無理……」(さなぎ)
難しい。
たしかに難しい。しかし、努力だけはしてみようじゃないの。中学に入ってこれまで、本気で勉強したことがあったか? 走ってばっかで、踊ってばっかで、真面目に何もしてこなかったではないのさ。最後の3か月あまりくらい、死ぬ気で勉強してみろ。
と、言ったのがひと月前。
さなぎは、ひとつ答えを出した。数学。
しわ寄せもきてしまった。理科。
さあ、ヤツは頑張り通すことができるのか?
高校入試まで、あと、76日。

千都萬都または三都2010/01/17 17:22:26

せんとまんと
「せんとくん」と「まんとくん」。昨日、奈良へ行きました。


『神谷美恵子の世界』
神谷美恵子 他 著
みすず書房(2004年)

今日は阪神淡路大震災が起こった日。地元紙では、正月気分が抜ける頃から毎年震災に関するコラム欄を設けて震災のその後を特集する。正直、そういったことでもなければ近隣市町村に住む者だってあの惨事を忘れてしまう。そりゃ、忘れたっていい人もいる。忘れたほうがいい人もいる。でも私は忘れずにいようと思う。

近しい友人が大病を患い昨年大きな手術を受けた。思いもしなかった事態に直面していろいろと考えることがあったようだ。私はといえば、彼女が震災の被災者であることをつい思って、かけるべき言葉が見つからずにいた。とてつもない体験をした人の前では、お気楽者は木偶(でく)人形かマリオネット、せいぜいからくり人形だ。言葉も気持ちも自分のまわりで空回りするだけである。

さて今日は、この季節の風物詩、全国都道府県対抗女子駅伝が行われた。娘はバレエのリハーサル途中で抜けて沿道へ駆けつけ、私はテレビで観戦した。
兵庫チームのメンバーは、選手によっては震災の日と重なったことに格別の思いをもった人もいただろう。この大会、毎年兵庫は上位に食い込む。沿道の声援も兵庫チームに対してはいっそう大きく、温かくなるのが常である。
今朝の地元紙には、元監督をしていた人の、いまの中高生に被災の事実や県民の思いを背負わせるのは酷だ、思う存分自分の走りをしてくれればいい、という談話が載っていた。そうだよね。
今年6連覇を期待された我が町のチームは苦戦。アンカーがやっと、ゴール直前にスパートをかけ3位に食い込み、兵庫の前へ出た。すごい追い込みだった。6連覇はならなかったがよく頑張ったぞ! 兵庫チーム、残念。(ちなみに優勝岡山、2位千葉)

海に縁のない暮らしをしていると、海辺や港の近い場所というのにはたいへん憧れるものである。ひとりで遠出を許されるようになったら真っ先に訪ねたいと思っていたのが神戸の異人館街であった。中学生のとき、夢見たとおりにその界隈を訪れ、うっとりした。どこにいても、気のせいかもしれないが潮の香りがして、海側を背にすれば山が眼前にせまり、道幅はゆったりしていて一軒一軒の家がゆったりと建てられていて、彼我の違いはいったいなんなのよって感じであった。いまでこそ自分の町のほうがずっといいと負け惜しみでなく思うんだけど、長いこと神戸移住が青春時代の私の目標だった。

神谷美恵子はハンセン病患者の治療に尽力した人として知られている。医師であったわけだが、文学を志したので、創作した詩や小説などの書き物が残っている。スイスのジュネーヴで小学校時代を過ごしたので思考回路がフランス語で形成された(うらやましい)。その小学校での成績もとても優秀だったことを物語る教師の手紙が残っている。ほとんど母語のように仏語を操る人は当時の日本には皆無に近かったろうから想像に難くないが、帰国後は通訳、翻訳、仏語教育と大車輪の活躍ぶりだったそうである。

本書はそうした神谷を知る人々が神谷について寄せた文章を編んだものである。錚々たる面々だが、神谷について何も知らない者が読んでも興味深く、また神谷の評価が高く揺るぎないことに納得できる文章は鶴見俊輔の「神谷美恵子管見」 だけであろう。親しみを感じ、身につまされる思いがするのは「思い出」、明石み代という元同窓生が寄せた一文だ。中井久夫の「精神科医としての神谷美恵子さんについて」はたいへん詳しいが、やや専門的でわかりにくい箇所がちょこちょこあるために、読者をちょっぴり萎えさせやしないだろうか。私だけかな?

本書については:
http://www.msz.co.jp/book/detail/08186.html

神谷美恵子はいわゆるお嬢さまであった。厳格かつ教養豊かな両親に愛情をいっぱい注がれて育ち、自身も良質の教育を受け高い教養を身につけ、自然に慈悲の心も育まれた。しかし、神谷の生きざまは、豊かな人が貧しい者病める者に手を差し伸べる、というレベルにとどまる類いのものではなかった。

「どこでも一寸切れば私の生血がほとばしり出すような文字、そんな文字で書きたい」

裏表紙に記されている彼女の言葉である。
早くに「癩者が呼んでいる」といって、医学への転向を志したが、父の反対に遭ってなかなか成らなかった。だが紆余曲折ののち(はしょってゴメンナサイ)晩年はハンセン病患者の療養所と、転居先の芦屋と、教鞭をとる東京を往復する生活を送るようになる。

素敵な人だなあ、と思える人の人生をたどると、そのある時期を芦屋とか神戸で送っていることが多い。それが京都であるケースと同じくらいに多い(なんかコイツ嫌だ、という人にも京都出身がすっごく多いけど。笑)。人を惹く力とか気とかいうものがその土地にあり、磁場を形成しているのだ。

本書の神谷美恵子の写真を見ていると、この人は「○○が欲しい」というような物欲を露にしたことなんかないのだろうなあ、と思う。浅ましいけれど、欲しいものは尽きないのが現代人だ。しかも、べつに要らないのに欲しいのである。ウチの娘は12月の初めに「欲しいものリスト」をつくって壁に貼っていた。そしてなんと、ほとんど入手するに至った! 書いて念じれば叶うといわんばかりに、お母さんも書いて貼っとけば? などという。よおし。
エクスワード ロベール大仏和所収
シャトルシェフ パンプキン
タジン鍋 本体が鋳鉄で蓋は陶器のもの
マイ足にぴったりフィットのウォーキングシューズ
折り畳み自転車
……
……

冒頭で、震災を「私は忘れずにいようと思う。」と書いたけど、忘れたくても忘れるわけはないのである。だって誕生日の前の日だもん(爆)。ああもう、また歳を一つとるんだなあ。ほげー。

「2ならび」記念日2009/12/04 15:42:00

今日、アクセスカウンターが「22222」になった瞬間を見た!
いつもぜんぜん見ないのに~なんかいーことありそな気分♪

というわけで今日を「2ならび」の記念日にしよう(笑)

みなさんご贔屓にありがとーござんす♪

また来てね~


(再々掲。えへへ)
http://www.maar.com/books/01/ISBN978-4-8373-0172-1/index.html

誕生日とお正月準備の話2009/11/13 20:24:28

今日は何の日?

今日は13日の金曜日である。
マイ母の誕生日である。73回目だ。
父が亡くなったのと同じ年齢になったけど、幸い彼女はとりあえず元気である。私の母の場合、カラダは大変頑強である。母のきょうだいはみな、問題を抱える者もいるが、カラダは元気である。今年の夏、長姉のさよ伯母が亡くなったけど、およそ病とは無縁の人であった。長兄は認知症が始まっているけれど、カラダのほうはまるで大丈夫である。
8人きょうだい(うち2人は夭逝しているから実質6人)の末っ子の母は、やはり末っ子だけあって、というと世の中の末っ子からブーイング来るかもしれないけれど、自分で道を切り開けないというか、主体性がないというか、人に頼ることしか知らないというか、そのくせ叱られるのが怖いから(まずいことは)黙っているとかそんなとこにだけ智恵がまわるというか。
母は姑(私の祖母)の嫁いびりにも耐えたし、父の女遊びにも耐えたし、染め工場の専従者として仕事と家事を両立させてきたし、なかなか図太くて根性入ってて、立派な女性なのである。だからもっと自信をもてばよいのである。なのに発想も発言もネガ志向である。まじめに喋っていると気が滅入ることしばしばである。面倒だから書かないけど。
そのわりにはもうちょっと真剣に考えてくれよ、というようなことをすーっとスルーしちゃうというか問題視しないというか忘れるというか。

私は出来合いのおせち料理の広告が大嫌いである。
ちっとも美味しそうに見えないということがひとつ。
もうひとつは実際に美味しくないのに決まり文句で過剰に飾り立てて御節を作るという日本文化を破壊しようとしているからである。

一度、社用でどうしても某超有名ホテルの割烹による御節三段重を注文しなくてはならなかったので注文し、間違いなく大晦日に届いたのでお正月にありがたくいただいたのであるが、私たちの郷里の御節とはまるで異なるものが入っていて(そのホテルはよそさんでしたの)、どうすればこんなけったいな味付けになるのか、というような代物ばかりであった。その地方では定番の名料理なのかもしれないが、なじんでいない、口に合わないということをあれほど思い知らされたことはなかった。やはりその土地のものはその場所へ行って、その土地の地を踏み空気を吸って、その土地の人と話をしながらいただかないと美味しくない。その経験もあって、我が家では、主に母が、であるが、御節はやはり自分の家と、地元の気心知れた商店街とで準備したほうがいいという意を強くしたのである。
去年、ひいきの魚屋さんのおじちゃんが亡くなって、棒鱈の下ごしらえを頼める人がいなくなって、母は何年ぶりかで自分で戻すところから始めたのだったが、手順がどこかで欠落したのか、棒鱈はかなり硬いままであった。味付けはバッチリだったので、やはり戻してから煮るプロセスで「ちょっと面倒くさくなった」のがいけなかったのだと母は反省し、今年は完璧な棒鱈をつくると張り切って、隣近所のオババどもにリサーチしている。
お正月準備は、その気心の知れた商店街のいくつかのお店にリストを渡し、配達してもらうのが慣わしだ。私は掃除と飾りつけ係であるので、注連縄などの買い出しには自分で行く。とはいえ去年あたりからどこにでも背が届くようになった娘が、飾りつけもほとんどやる。重詰めもする。そのうちばあちゃんと一緒に煮炊きもするかもしれない。けっきょく私には料理当番はまわってこないかもな、と思っている。ま、そのほうが、母は元気で長生きしそうである。まだまだ家事の大部分を引き受けてもらわないといけないのであるから。
「おばあちゃん、いんようになったらホンマ困るよな。生き延びれへんかも」
こら、真剣にいうな、娘。

というわけで、ハッピーバースデー母ちゃん。

めでたい嬉しいむっちゃごぶさた更新の巻2009/10/21 11:50:59

友人の木の目さんが地方紙主催の文学賞で佳作を受賞されたそうである。
ご自身のブログでこそっと(笑)発表しておられる。
我がことのように嬉しい。
木の目さん、おめでとうね。
この次は佳作より上、いきましょう(笑)

純粋に人の心に響く文章を書きたいと思っている人の書いた渾身の文章が、ブログやウエブページなどというヴァーチャルかつ出入り自在のオンライン空間に「テキストデータ」として「アップ」されるのではなく、「印刷活字媒体」に然るべき手続きを踏んで掲載される。この事実がどれほどその書き手を励ますか、私はちょっぴりだけどわかっているつもりである。うん、ほんとうに嬉しいよね。

縁あって、私には「本格的に書ける」友人が少なからずいる。
彼ら彼女らの、見返りを求めない純粋な姿勢に時折はっとさせられる。
本来言葉や文章というものは、魂の露出である。
子どもが親に発する言葉を聞けばわかる。
そこに計算や打算はないのである。原初は。

「こうねだれば買ってくれる」「こういえば嫌いなもの食べなくていい」
というようなことを子どもは恐るべき速さで学習していき、やがてしたたかな計算のもとに発話や会話を行うようになる。
こういう技術を大人になったとき、営業セールスに使うか詐欺に使うか恋愛に使うかはその人次第だ。

自分が言葉を発し始めた頃の、魂の露出に他ならなかった頃の、混じり気のない伝えたい気持ち。その、大人になった今となってはもはや実態のない「気持ち」を、身体のどこかに記憶させておくことのできた人、忘れていたけど「引き出し」から無意識に取り出すことのできた人。
そういう人だけが「小説」を「執筆」できる。
書きたいことを書く。ごくシンプルな引き金をすっと引くだけ。きっかけとしてはワンアクションだが、このワンアクションを行う人はそれなりの資格をもっているのだ。

もちろん物語を紡ぐには想像力が豊かで文章技術に優れていなければならないだけでなく、膨大な取材と調査にも時間と労力を惜しまないことが重要だから、誰にでもかなうことではないだろう。だって誰だって、日々の糧が必要だから。何をおいても扶養しなくちゃいけない人がいたりする。すべてに優先して頭を下げなきゃならない客がいる。そんなことにかまけているうちに、書きたいことを隅っこにやってしまう。その繰り返し。

それでも書き続けているすべての友人に、心からエールを送る。
あなたの小説を待っている人は、この世界のどこかにいるから。(たとえば私。笑)

木の目さんの受賞が嬉しくて、そして最近、頑張っている友人たちの「書きまくりの日々」近況を耳にしてこれまた嬉しくて、ブログ更新してる場合じゃないんだけど、更新しました(笑)。

はあ~。

私は売文屋ゆえ、彼我の違いに落ち込んでもおります。
売文屋は「書きたいこと」は書けません。
「自分の気持ち」「自分の書きたいこと」「自分の伝えたいこと」はすべて棚に上げるどころか殺虫剤とかベンジンとか消火剤とかぶっかけて「消滅」させます。それでやっとスタートラインに立てる。
そして仕事開始。売文屋が売文を書く際に考えることは「ターゲットの【消費マインド】をわしづかみにする数行」「しっかり【稼げる】数行」です。

私が書く数行というのは、人に金を使わせることができなければ、無用である。
この数行によって、この数行を媒体として販売される商品がどれほど売り上げることができるのか。あるいはこの数行がクライアントの満足を120%満たせるのか。
「稼いでくれよ」と送り出したキャッチコピーが当たってめでたく売り上げたとしてもクライアントは製品が良かったからだというだけでコピーライターにプラスアルファの報酬が発生するわけではなく、たいへんありがたいことに次回製品のときもよろしくというリピートはいただけるのだが「前より安くしてね」という注釈つきなのでこれまた報われないのである。

なのになぜ売文屋は売文屋であり続けるのか。
答えはひとつしかない。それしかできないからである。

売文屋には資格は要らない。
売文屋は文章に関し、滅私奉公でなくてはならない。滅私奉公は辛そうに響く四字熟語だが、実は人間にとっていちばん簡単な労働である。己を滅して公に奉仕する。自分という個体さえあれば可能なことだ。特別な技術は要らない。
逆に言えば「自分」をもっていなければ「自分を滅する」こともできないので話はややこしくなるが、そんな人はいないのである。
だから売文は誰にでも書ける。滅私奉公できれば。
発注元のニーズに応える。滅私奉公を現代語に訳せばそうなる。

私には同業者の友人はない。私の友人には人より秀でた才能とか、弛みない努力とか、長年の経験に基づく技術というものに裏打ちされた職業に就いている人が圧倒的である。みんな、すごいんである。
私に才能があるとすれば、これまでいろいろ勉強・経験してきたことなどを生かす、という野心をあっさり捨てて滅私奉公精神だけで誰にでもできちゃう省エネお手軽職業を選んでなお誇らしく生きているずうずうしさ、というところだ。

世の中には売文屋モドキがうようよいる。気持ちさえもっていれば誰でもできる売文屋のはずなんだが、うようよいるといってもろくな売文屋がいない。モドキというのももったいないくらい、ろくでもない。つまり奴らは文を売っている気がないのである。つまり滅私奉公精神に欠けている。これに尽きる。発注元のニーズに応えていないのである。これ、社会人失格。ニーズに応えないということは、つまり気持ちを汲まない、心を思いやらないということだ。これ、人間失格。

普通の人間でさえあれば、売文屋は務まるんだぞ。
それもままならない失格だらけの若者を世に輩出し続けるこの国。ああ。
めでたい嬉しい更新のはずが、憂いてしまったよ(笑)

ま、みんな頑張ってくれ。あたしも頑張るし。ほな。

「誰ひとり、けっして誰ひとりとして、母さんのことを泣く権利はない。」本当は誰もがこう思うのではないか……の巻2009/07/31 18:01:58

『異邦人』
アルベール・カミュ著 窪田啓作訳
新潮文庫(初版1954年)


今、手許にないので私の家にある新潮文庫『異邦人』の版は何年のものかわからないけど70年代のものだと思う。初めて読んだときどれほど衝撃を受けたかとか、面白く感じたかとか、何も記憶に残っていない。シェイクスピアやドストエフスキー、ブロンテ姉妹やディケンズ、カフカやパール・バック、ユーゴやスタンダールらとともに、よくわからないけど越えねばならない山の一つとして、カミュの『異邦人』は私の前にあっただけである。読んでみると、どうってことはなかったのである。これが、どうってことはないことはない、と気づくのはもう少し(というよりかなり)後である。さらに仏語学習教材としてテキストをいじくりまわした頃には、どうってことはないことはないどころか、私はアルベール・カミュと一体化していた(誰とでも一体化するヤツである)。

不条理という語句が本書を語るときによく使われる。それはそれとして、私は、肉親を亡くしたときに自身に起こるレスポンスを正直に表現して見せた男の話だと今はわかるのである。彼がたまたま海岸で、太陽光で一瞬視界を遮られたため、やばいっと思って放った弾が当たってしまったが、この件についても男は正直に話したわけである。正直であることは時に罪である。嘘をつき、芝居をすることが周囲との潤滑油になる。共同体の中ではじかれずに生きていこうと思えばつまらぬことに知恵を使う必要もあるのだ。それ自体を不条理と呼んでもいいし、それを拒否してロンリーウルフでいることを不条理と呼んでもいいのだろう。主人公は母を重んじ、愛していた。処刑を前に母への深い愛情に覚醒するシーンが最後にある。
「誰ひとり、けっして誰ひとりとして、母さんのことを泣く権利はない。」

(もしよかったら拙稿部分試訳をお目通しください)
http://midi.asablo.jp/blog/2008/12/25/4026928


おととい、友人からすごく久し振りにメールが来た。彼の母親の訃報だった。
なぜ亡くなったのか、詳細はわからない。
詳細は書かず、亡くなった日と葬儀の日取りが母親の写真とともに記されていて、彼女のために祈ってください、と1行、末尾に書かれていた。

友人は30代のフランス人画家で、二年ほど前までの三年間、日本に住んでいた。それ以前にも何度か短期滞在を繰り返していた日本大好き青年であった。滞在中はしょっちゅう私の町へ遊びに来た。フランスから友達が来ると必ずこの町へ来てこの町を案内した(私も巻き込まれた)。いちど、彼の弟夫婦と母親が日本旅行を企て、もちろん彼自身も同行して、こぞって私の家に来た。弟の奥さんがインド洋の島の生まれで、エキゾチックな夕食を手づくりしてくれた。私の母と娘と、友人とその母と弟夫婦と、途中から割り込んだ友達約1名が加わって、許容量を超えた空間は凄まじいありさまを見せていたが、それほどに賑やかで楽しい夜を、しばらく味わったことがなかったので、とてもよい思い出として私たちは大事にしていた。友人の母は猫が好きで、家には猫を勝手に住み着かせていた。代々の猫のその営みを幸せそうに語ってくれた。我が家の猫を腕に抱き、器量よしさんだこと、といっていとおしそうに撫でてくれた。

私の母よりも歳は若かったが、さすがに海外旅行は疲れるとみえて(このときの旅行は十日間で三都市回る強行軍だった)、ウチに泊まった翌朝もなかなか腰が上がらなかった。見どころがいっぱいあるまちだから、この次はもっとゆっくり来てくださいね、というと、本当ね、○○も見てないわ、△△も訪ねてないわ、必ずまた来るわよ、と嬉しそうにいっていた。

友人は、泣いたに違いない。大きな体を震わせて母親にすがりついて。彼の弟も。奥さんも。けれど、泣かなかったかもしれない。あまりの出来事に呆然として。友人は喪主だ。取り仕切らなければならないことが山ほどあったろう。私たちへ訃報を送るのもそのひとつだ。冷静に、母が天に召されるのを見送らねばならない。

その葬儀の日が今日である。時刻も、ちょうど今頃だ。
彼女のために祈る。
さよなら、ドゥニーズ。安らかに。

時はめぐりー♪また夏が来てー♪あの日と同じ流れの岸ー♪瀬音ゆかしき 杜の都~♪あの人は もういない……2009/07/17 17:37:46

今日、祇園祭の山鉾巡行でした。わがまち最大のお祭りのクライマックス・デーです。わがまち最大のお祭りであると同時に、わが国最大のお祭りでもあるのではなかろうか、なんてふと思うのですが、それは規模の大きい祭りを抱えるまちの住民の奢りというものであって、お祭りというものは、祈りや祓いのための儀式であり宴であるのだから、ふるさとの、子どもの頃の記憶にあるお祭りが、その人にとって最大で最適のお祭りであるのだろうと思います。

年中行事というものは、いいものです。めぐる季節は気候の変化で嫌でも体が知りますが、寒暖の訪れと前後して、あちこちで何とか祭りやホニャララまいりとか、なにがし祭、ぺけぺけの儀などと、なにかしら節目があります。この時期になれば決まって聞こえてくる音やざわめきがあり、誰に言われるまでもなくいそいそと準備する。申し合わせたように雨が降り、梅雨が明け、葉が色づき、雪が降る。

去年は宵山の夜を、お稽古帰りの娘と歩きました。中学生になってレッスンが長いので、9時半以降にしか帰宅できない娘は、友達と出かけるのもままなりませんが、人一倍祭り好きですから、とりあえず贔屓にしている山鉾めぐりと屋台の冷やかしをしないことには夏が始まらないといった感じです。

昨年暮れ、草間時彦のこの句に胸が震えました。

息子が押す正月二日の車椅子

私の母の、十五も歳の離れた姉である伯母は、孫たちの世話をさんざんして、長女ののぶちゃん(私の従姉)と気ままな二人暮しをしていました。けれどここ二、三年、めっきり体力も衰えて、軽い脳梗塞を起こしたこともあり、部分的に体の自由が利かなくなって、車椅子を利用するようになっていました。ピアノ教師ののぶちゃんはレッスンの合間を縫って伯母の車椅子を押し、きょうだいや親戚や友達の家を訪ね歩きました。
伯母はいつも朗らかで、たとえば入学や卒業や合格など、自分の孫ばかりでなく甥や姪の子どもたちの節目にも必ず祝いを届けてくれました。私の父が亡くなったときは、末妹である母を頻繁に訪ねて(まだ自分の足で歩けていましたので)、自身も早くに夫を亡くしていたこともあり、残された者の寂しさを慰めてくれたものです。

しかし昨年暮れに、急に容態が悪くなりました。そのひと月ほど前にまた小さな脳梗塞が起きて、言葉がうまく話せなくなっていました。しかし体全体は心配するほどのことはないと聞いていたので皆楽観していたのでしたが、危ないとの報が入り、母は息子(私の弟)を伴って駆けつけました。
命は取りとめ、峠も越えたとやらで、一同安堵したものの、やはりまったく会話はできなくなり、自分の力でものを噛んだりできなくなりました。点滴や管で流し込む食事になるとけっきょく寝たきり、ということになります。長男のカズちゃんは穏やかに最期を迎えられる施設を、といったそうですが、長女ののぶちゃんは在宅介護にこだわりました。車椅子になってからもずっと一緒に暮らしていましたから、多少のことなら私が面倒見てみせる。そんな気持ちだったようです。カズちゃんの奥さんのゆみこさんも、のぶちゃんに賛成して手伝ったそうです。遠くへ嫁いだ次女のふみちゃんも時間の許す限り旦那さんと一緒に会いに帰りました。一番下で次男のユウちゃん夫婦もなんとか時間を作ってのぶちゃんに協力しました。
こうして、伯母の介護はのぶちゃんを中心にうまく回転し、半年を経過していたのです。

でも、7月12日の日曜日の朝。美術展を観にいこうとだらだら着替えやら化粧やらしている私と娘に、母が「ちゃっちゃと行って昼までに帰っといで、冷麺しといたげるし」などと言ってますと、突然電話が鳴りました。
受話器を取った母の顔色が変わります。「えっ……わかった、すぐ行くわ」
電話の主は、母の一番上の兄嫁でした。母にはきょうだいがたくさんいるのでややこしいのですが、実家の跡を継いだのは二番目の兄で、一番上の兄はよその町で教職を全うした人です。姉は、今話題にしている一番上の姉を筆頭に三人います。二番目の姉は認知症のためグループホームの世話になっており、私の従姉たちが交替で様子を見てくれています。母といちばん歳の近い姉はとても元気で、夫を亡くしたあと、息子も遅まきながら結婚したので一人暮らしを謳歌しています。そのすぐ上の姉に、母は電話しました。
「さよ姉ちゃん、いよいよあかんらしいて、今あや子姉さんから電話あったんや」
すぐ上の姉・じゅん子伯母のところにもすでに連絡はあったらしく、二人で待ち合わせて運び込まれたという病院に行くことに決めました。
私と娘はとりあえず予定どおり美術展へ出かけ、予定どおり昼頃帰宅しました。すると待っていたように家の電話が鳴りました。母でした。伯母は亡くなりました。

六曜の関係で火曜日に通夜を営みました。
火曜日は祇園祭の宵宵宵山。私の娘はお稽古を終えたあと「教室の友達と歩いて見物してくる」予定でしたが、お稽古も休み、約束もキャンセルすると自分で決めました。

娘には、さよ伯母について大きな思い出も会話の記憶もありません。ただ、やたらたくさんいる大伯父大伯母大叔父大叔母のなかで、さよ伯母は、自分の祖母にいちばん顔立ちが似た人だったので、姿はよく覚えていたのです。
そうなのでした。きょうだいの中で一番上のさよ伯母と、末っ子の私の母は、瓜二つといっていいほど似ていたのでした。
さよ伯母は親戚の間でもたいへん慕われていたので皆悲しみましたが、誰もが口にしたのが次のようなフレーズでした。「まあ、しゃあないわ、歳も歳やったし。それにみっちゃんおるがな。同じ顔やがな」
みっちゃんは私の母です(笑)。
たくさんのきょうだいと、その息子、娘、またその子どもたちが大勢集まった通夜となり、賑やかさに伯母も喜んでいたに違いありません。

伯母を見送った日の夜、私と娘は、ほんの小一時間ほどですが祭りの夜を歩きました。
天寿を全うした伯母は、もうとうに極楽の、雲のじゅうたんの上か蓮の葉の上にでも寝そべって、下界の祇園囃子の音に耳を傾けていることでしょう。

伯母ちゃん、バイバイ。

一周忌です2009/04/17 12:00:58

敬愛する詩人、エメ・セゼールが一年前の今日、亡くなりました。享年94。

高齢でらしたので、いつ亡くなられてもおかしくないといえば失礼ですが、でも私はなんだかセゼールはずーっと生きながらえていくような、そんな錯覚をもっていました。

訃報を知ったときにはあまりのショックに体中が空洞になったような気がしたものです。おおげさでなく、しばらくはまともに思考することができずに、ものすごく投げやりに日々を過ごしていたような気がします。誰ともこの悲しみを共有することができません。しようと思えばセゼールなる人物は誰なのか、私はなぜ彼を敬い尊び愛情すら覚えるのかということを説明しなければなりません。面倒というよりも、そのために悲しみが倍加しそうなので、心の奥底に驚きも悲しみも悔いも全部しまいこんで何事もなかったように過ごしていたのでしたが。

フランス語の勉強を始めて、それを続けることができているのはひとえにエメ・セゼールの存在があったからでした。

フランス語を媒体にしたさまざまな世界を、垣間見ることができているのは、まず、エメ・セゼールの『帰郷ノート』を読んだからでした。この詩が私の思考の原点、始まりなのです。

そうはいっても、私はエメ・セゼールはもちろん、彼を市長に選び続けたマルティニークの人たちや、クレオールの名のもとに繋がるグアドループの人たちの、精神の在りかたや魂の置き場所について、砂粒のかけらほども理解しているわけではありません。
彼らの場所、彼らの記憶、彼らの存在しない根っこ、そして彼らがうたう詩は、追い求めても探し続けても触れられない、憧憬でしかありません。ただ、現代に生きる彼らの思考に少しでも近づきたいために、あれこれと読むことで自分を慰めていました。

エメ・セゼールは、私がいま、上で「彼ら」と呼んだ人たちの頂上かつ中心かつ周囲にいた、「彼らの父」でした。私は彼らの中にけっして入れてはもらえない。けれども、エメ・セゼールは、私の憧憬の象徴であると同時に、私が歩いてきた道の分岐や曲がり角にいつもいた人でした。エメ・セゼールという人の存在は、私という人間が歩き始めるきっかけだったのです。

エメ・セゼールはAime Cesaireと綴ります。
検索すれば彼へのオマージュがいくつもヒットします。
映像もあるので、興味のある方はぜひ。仏語ですけど。