野良猫あきらめた2008/04/21 19:41:52

箱の隅っこでちぢこまりつつ近寄る人間を威嚇する赤ちゃん猫


中庭でじゃれながら遊ぶ子猫たち。可愛いなあ、を連発していると、一匹も二匹も同じよ、連れて帰りなさい、といい終わらないうちに上司がひょいひょいと、母猫が留守にしている隙に、いちばん可愛い三毛を捕まえてくれた。まだ掌に載るくらいの大きさの子猫は、持って生まれた野良の習性でしゃーっしゃーっと牙をむき、足指をいっぱいに広げて爪を立てようとする。けれど喉元をするすると撫でてやると気持ちいいのかおとなしくなり、胸元で抱えて背中をさするとふにゃふにゃと居眠りモードに入る。私には猫の匂いがついているのか、警戒心が薄いようだ。
と、そんなことをいっている場合ではなく、子猫を胸元に置いたままでは仕事にならないので、故紙回収に出す予定だった段ボール箱を再び組み、子猫を入れた。
入れ替わり立ち代わり覗き込む社員たちに向かって大きな口を開けて威嚇してみせる子猫。こんなに小さいのに、敵の存在がわかっているんだなあ。兄弟たちと引き離されて、誘拐された拉致されたと不安でしょうがないに違いない。罪なことをしているよな、あたし。
さて、家に電話をする。こないだから話してた野良猫の赤ちゃん、捕まえてもらったんだけど、持って帰っていい? すると私の母は冗談じゃないと何が何でも反対の構えを崩さない。この反応には、いささか驚いた。動物嫌いの母だが、中でも猫が大嫌いだった母だが、二年前我が家に猫が来てからは、もうその猫なしでは人生ないのも同じよというくらい溺愛していたのだから。帰宅していた娘が代わって、(もう一匹欲しい欲しいを連発していたのは自分だが)本気で言ってたわけじゃないよ、おばあちゃんが嫌がってるんだし、そんなの連れて帰らないで、という。
そう、だったら母猫のもとへ返してやるね、と電話を切った私。
ふだん朝9時から夜9時まで家を空ける娘(私)と、朝7時半に出てから夜6時頃いったん帰ってもすぐお稽古に行って夜9時過ぎないと帰らない孫娘(さなぎ)の二人がいくら「世話は私たちがするから」といっても、母にとっては(つーか、誰にとっても)まったく説得力がないであろう。
今我が家にいる愛猫を飼い始めたとき、私は昼休みに一度帰宅し、山積みの仕事を持ち帰ってでも夕刻早く帰宅した。娘は遊ぶ約束を全部断って飛んで帰ってきた。しかし数日のうちに母は子猫の扱いに慣れて、餌もトイレも進んで世話をしてくれるようになった。猫自身も家に慣れ、どの人間よりも真っ先におばあちゃんの存在を認めた。金魚やクワガタと違って声を出し走り跳ね回る猫は、夫を亡くした彼女にとって格好の話し相手であり、心の空隙を埋める存在となりえたのである。
だから、今いる猫だけで十分なのである。
これ以上数が増えても、鬱陶しいだけなのだ。
彼女は猫嫌いや動物嫌いを返上したわけではない。
あのときの、心があの状態の、母のもとにやってきたということが重要だったのである。やってきたのがもし牛や鯨やナマケモノでも、きっと彼女は溺愛したであろう。

我が家の愛猫が来たのはあらゆる意味においてグッドタイミングだったのだ。
今はタイミングが悪いのである。

帰宅して娘と二人になったとき、娘は口をとんがらせて、三毛、欲しかったなあといった。
祖母を思って電話で強がりを言ってみせたことぐらい、わかってるさ。
子猫たちの無事な成長を祈ろうな。

電話を切ったあと、段ボール箱の中の子猫をつかんで、私は中庭に出た。寄り添って遊んでいたほかの子猫たちが警戒して庭の隅へ逃げる。三毛は私の手から胸元、肩へ移ってなかなか離れようとしない。慣れたとかなついたからではなく、どう脱出していいかわからないのである。
私は子猫を引き剥がし、兄弟たちの近くへ下ろしてやった。跳びはねて駆け寄り合う子猫たち。
えーん、こわかったよー、とかいってるのかな?
日が暮れて、暗くなってきた。もうすぐ母猫が戻ってくる。私はその場を離れた。
後ろ髪を引かれる思いだったが心のどこかでほっとしながら、中庭へ出るドアを閉め、錠を下ろした。

野良猫生まれた2008/04/17 19:26:13

これは去年の写真なんだけどね。


勤務先の建物の中庭で、野良猫が子どもを産んだ。全部で六匹いる。母猫もこの庭で生まれた猫で、その母親もそうだ。毎年何匹も産んで、生まれて、必ず翌年、たった一匹が「里帰り」してまた子を産む。脈々と伝わるDNAのせいか、顔だちがとてもよく似ていて、成長してこの庭を巣立ったあとも、近隣の塀づたいに散歩していたり、貸ガレージを闊歩していたりするのに出くわすと、あ、ここの猫だ、とすぐにわかる。
器量よしの猫ではないが、チビスケだったくせにでっぷり肉付きがよくなって、赤子に授乳させつつまどろんでいる様子を見ると、人も猫も同じだなあと思う。赤ちゃん猫たちはもちろん可愛くて全部持って帰りたい衝動に駆られるが、生き残って暮らしを営む母猫が大変にいとおしいのである。
住宅密集地であるので、野良猫を毛嫌いする住民もいる。私たちはけっして無責任なことはできないので、庭で猫が出ようが鼠が出ようが蜘蛛が巣を張ろうが、餌づけは絶対にせず、ただ粛々と掃除をするのみである。
だから猫たちは誰にも保護されずに、自力でこの住宅密集地で生きていこうとする。人間の中にはとっ捕まえて保健所送りにしようとする者もいる。また、近くに御苑という名の公園があって烏の格好の棲み処になっているのだが、迎賓館に賓客のあるときは烏よけの発砲が行われる。烏たちは一時的に公園を出て街路樹やビルの屋上などに避難するが、そのときたまたま美味しそうな子猫に出くわしたりする。
おととしの夏だったか、烏の群れが勤務先の上空を覆ってカアカアとうるさく、庭では赤子を守る母猫がふぎーふぎーと空に向かって威嚇していた。あのときはまったく仕事にならなかったのである。面白くて。
いまもそうだ。今、子猫たちは折り重なってくうくうと眠っている。可愛らしすぎて、目が離せなくて、仕事にならない。締め切り間近の原稿が山積みだというのに、私は子猫たちのうちのとくに可愛い「三毛模様のあの子」をどうやって持って帰ろうか、持って帰ったらばあちゃんは怒るだろうな、それに飼い猫が二匹になったらあたしの財布はいよいよドエライことになってしまう、うーんどうしよううーんうーんうーん、と思いめぐらすばかりの頭は全然仕事に向かないのである。

流行っているもの2007/12/17 18:32:14

千鳥格子の「ふとん」とウチの猫。


娘は「ウインドーショッピング」が好きである。
いわゆる「冷やかし」である(笑)。

こないだ思いもかけず繁華街で使える割引券をゲットしたので、久しぶりに外食に出かけた。
道ゆく人が服装に上手に千鳥格子を取り入れているのに出会う。
「千鳥格子、やっぱり流行ってるんだねえ」
「チドリゴーシ? 何それ」
「千鳥は鳥のこと。格子はチェックのこと」
そう言ってから、説明しようと思って大柄な千鳥格子を着た人を探したが、探すといないものである。
レストランに行く前に百貨店の婦人服売場へ寄って、「ほら、これこれ」と千鳥格子の説明をする。千鳥が飛ぶ姿に似てるからだといっても想像できないようだ。文様の知識がないからそれはしかたがないなあ。
とはいえ、婦人服売場はけっして千鳥格子だらけではなかったので、「ほんとに流行ってんの?」と娘は疑いの目を向ける。「うーん、そうらしいよ」「じゃ、数えよう」
というわけで、帰りのバス待ちの間に、バス停の前を行きすぎる人を観察した。20分弱の間に千鳥格子を身につけた人、25人。うち18人がマフラー。白と黒の千鳥はほぼ全員。ベージュ×白(コート下から覗いたスカート)、赤×黒(ワンピース)がそれぞれ一人いた。
「流行ってるでしょーが」
「ほんと。ウチにある?」
「うん、あるよ。おばあちゃんのジャケットと、ひいばあちゃんが着てたコート」
「今流行ってんのに、なんでおばあちゃんたちばかりなの?」
「昔からある柄なのよ。千鳥って着物の柄からきた名前だし」
「お母さんは嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど、どうも似合わないような気が……」

前にも、ウインドーショッピングに街へ出かけたとき、ショート丈パンツが流行っているよという話をして数えたらものすごい数になった。
こういうふうに数の当てっこをするのが、私たち母娘の街でのささやかな楽しみである。
近い数値を予測するのは私のほうだが、人を観察することの面白さをより堪能しているのは娘のほうである。「似合ってない」だの「膝が曲がってる」だの「色のバランスがイマイチ」だのかなり偏見に満ちたファッション評を展開する。「あの人美人」「彼氏ダサー」(おいおい)。
でもけなすばかりでなく必ず「ああいう格好ならしてみたい」と羨望の眼差しを向けるケースがひとつふたつ、ある。向けられた女性がどこから見てもお洒落だとは限らないところが我が娘ならでは、なんだけど。

ウチへ帰ると、よく目につくところに千鳥格子を発見した。猫のふとんにして食器棚の上に敷いてあるのは、私の母の古いニットスカートである。これを着用した母の姿を私は思い出せない。高校時代の冬の夜、試験勉強するときにひざ掛けとして譲り受けたものだ。とうの昔にスカートとしての使命を終えた千鳥格子。
「いいなあ、おまえ、流行の最先端だよ」と、私たちは猫を見て笑った。

ニャンてこった再び、の巻2007/10/16 20:31:12

『3びきねこさんとさくらんぼさん』
柳生まち子 作
月刊予約絵本「こどものとも」543号(2001年6月)
福音館書店


我が家のネコさまだが、膀胱炎を再発あそばされたのでござる。
9月に入って急に朝夕冷え込んだのが原因とな。
もうこれは体質としかいいようがありません、とはかかりつけ医の言。
まめに尿検査をして療養フードでコントロールしましょうとの仰せでござる。

尿結石と膀胱炎は同じではないけど、どちらかになれば他方も併発するという。
冬から春にかけて発症した膀胱炎をひきずって、なかなか尿中のストルバイトがなくならなくて、pHもアルカリに傾きがちで、すっきりしないねえ、といいつつ夏を迎え、あまりの暑さにネコさまの食欲も減退していたようなのであったが、少し涼しくなりまたよく食べるようになった頃、9月に入って定期健診だとかなんとかいって尿検査を奨められ診てもらったら、やはりアルカリが高かった。
いけませんねえ、1週間後もう一度検査しましょう、といわれたけどその1週間を待たずに、2日後、ネコさまの様子がおかしくなった。どうもこれは冬のときと同じような頻尿行動である。で、検査してもらったら案の定。その翌日には猫砂が赤くなり、ああこれは血尿だと思われたので再々検査。
療養フードに速攻で切り替え、お薬をいただいた。
1週間後。頻尿行動も血の色もなくなったと思ったけど、顕微鏡で見るとまだ血尿だって。
さらに1週間分のお薬をもらった。そして1週間経過した。再び再びクリニックへ行かなきゃならないが、採尿を忘れちゃうのである。

なぜなら我が家のネコさま、いまやすっかり足取りも軽く、気候がよい日は窓辺で昼寝、すこおし寒い日は誰かの寝室の毛布の上で昼寝、家族みんながいるときは食器棚の上で昼寝とステップあざやかなのでござる。
かかりつけ医によれば、膀胱炎にしろ何にしろ、具合の悪いときの猫はやたらと啼き、やたらと動き回って落ち着きがないそうである。
寝てばかりいるのは健康らしい。とりあえず若い猫の場合。
しかし我が家のネコさま。
私の顔を見ればカエルのミドリと遊びたいとニャーニャーねだり、ばあちゃんの顔を見ればご飯ちょうだいとニャゴニャゴねだり、娘の顔を見ればミュウミュウと追い回しくっついて離れない(座り心地がよいらしい)。
と、あまりにお元気であらせられるので、もしやまだ完治はされていないのかも知れぬ。

明日こそ、検尿、もって行かなきゃのう、と心を決する毎日である。

ところで、『3びきねこさんとさくらんぼさん』。
娘が通っていた保育園では、この月刊絵本を強制的に購入させられていたのだが、私にとってはとても楽しみなことであった。時にはイマイチの絵本もあるけど、さすがは福音館書店というべきか、あまりハズレな絵本はなかったように思う。
この月刊絵本から、(おそらく読者の反響などを考慮して)単行本化される絵本があるが、『3びきねこさんとさくらんぼさん』は残念ながらなっていないようである。
単行本化されないままの絵本はけっして少なくない。
であるからして、購読していた時期の、それらいくつかの絵本が単行本化したらしたで嬉しいが、しなかったらしなかったで希少価値があるのでそれもまた嬉しいのである。
柳生さんは『3びきねこさん』のシリーズを4冊、月刊「こどものとも」から出していて、うちシリーズ3作目が単行本化されたそうである。それはそれで、めでたいことである。

春風に乗ってやってきたかのような、とってもキュートなお姉さんねこの「さくらんぼさん」がお洒落で可愛い。さくらんぼさんは編み上げの靴を履いて、3びきねこさんのうちの1匹、「きい」君に赤い靴を貸し、スキップを教えてやる。ほかの2匹は美人のさくらんぼさんに見とれてボーッ。実はさくらんぼさんは「靴屋さん」だった。春の野原に100足の靴を並べて動物たちに勧めるのを、3びきねこさんたちはお手伝いにいそしむ。

これが配本された当時、私たちの頭には本物の猫がいなかったので、猫も、その友達として描かれるブタやイタチやキツネと同様、想像の動物でしかなかった。
今、こういった猫を描いた絵本や物語に接するとき、どうしてもウチのネコさまに思いが行き、比較してしまう。べつに悪いことでもないだろうが、あまりいいことでもないように思う。『3びきねこさん』の猫たちはあまりに擬人化されているので、多少なりともその生態を知っていたら違和感を覚えるんじゃないか、などと、絵本世代である小さな小さな子どもたちの側からすればきっと「よけいなお世話だよ」的な理屈を、ついこねたくなるのである。

私はこの『3びきねこさん』の絵は大好きである。全然よけいな力の入ってない、素直な筆捌き。色の使い方とか、見習いたいのである、次回の手づくり絵本のために。

猫に支配される幸せ2007/10/02 19:44:04

ちょっとだけよ♪ なんて、出し惜しみするほどのもんではないのであるが。


『猫語の教科書』
ポール・ギャリコ 著 スザンヌ・サース 写真  灰島かり 訳
大島弓子 描き下ろしマンガ
ちくま文庫(1998年第一刷、2005年第八刷)


 上記写真でチラ見せしているのは私が作ったばかりの絵本であって、ギャリコの『猫語の教科書』ではない。『猫語の教科書』の「本当の執筆者」はツィツアという名の雌猫である。その証拠に、本書の表紙にはタイプライターを打つツィツアの写真が掲載されている。ツィツアは、交通事故で母を亡くし、生後6週間で世の中に放り出されたが、1週間後には「私はどこかの人間の家を乗っ取って、飼い猫になろうと」(23ページ)決意して即座に実行に移す。わずか6週間の間にも、ツィツアの母は彼女に「この世で生き抜くための術」を教えていたらしい。ツィツアは、住宅の大きさや手入れが行き届いているかどうか、家族は何人か、また所有されている車が高級車かどうかなどをよく観察し、乗っ取ろうと決めた家に狙いを定めると、庭の金網によじ登り、ニャアニャアと悲しそうな声で啼いてみせる。
「向こうから私がどんなふうに見えるか、自分でもよーくわかっていましたとも。」(27ページ)
さっそくその家の夫人が子猫のツィツアを保護しようと夫に提案する。なかなか夫はうんといわない。少しのミルクをもらったのち外に出されてしまうが、自身の魅力を知り尽くしているツィツアは、周到に計画し、猫なで声を駆使して、まずは毛布を敷いた木箱を手に入れ、納屋に設置させることに成功する。しかも、その手配は夫のほうがしてくれた。
「私の勝ちだわ。私は笑いながら眠りにつきました。/もうここまでくれば、あとはもう時間の問題。さっそく明日の晩にでも、彼をモノにするとしましょう。」(38ページ)

このように、本書は、美人猫ツィツアが次世代の猫たちに贈る処世術指南書なのである。懸命にタイプした原稿を、とある出版社に勤める編集者の自宅の前へ置き、しかるべき形で伝えられていくよう託したのである。しかし、編集者にはまったく解読できなかったので、暗号好きのポール・ギャリコに解読の仕事がまわってきたというわけなのだ。
ギャリコが記した序文によると、これは暗号というよりも、単にミスタイプだらけの文章であった。最初の数行を読み、この文章の書き手が猫であると判明すると、ミスタイプの法則性が一気に解明したそうである。肉球でぷにょぷにょした猫の手では、QとWのキーを同時に叩くことや、文字キーと改行キーを間違って叩くこともあったであろう。猫をこよなく愛するギャリコは、麗しい雌猫の懸命なタイピングをあますことなく「翻訳」した。内容の充実に感嘆すると同時に、複雑な気持ちにも襲われた。なぜなら、世の猫の飼い主たちはまさか自分たちが「乗っ取られている」なんて思いもしないであろうから。これを読んだ愛猫家たちは不快な思いをするのではないか?

たとえばツィツアは「第3章 猫の持ち物、猫の居場所」で、こんなことも述べている。
「ベッドを乗っ取るべきかどうかは、猫の気分しだいです。ここでも人間はひどく矛盾していて驚かされるけれど、でも猫にとっては好都合。人間は猫にベッドの上で寝てほしい、と同時に寝てほしくないの。ね、おかしいでしょ? 人間って、根っから矛盾したおかしな生き物なのよ。」(61ページ)
「ところがベッドが猫の毛だらけになるとか、(中略)爪でふとんがいたむとか、(中略)そのくせ人間は自分がベッドにもぐりこむと、猫に足もとにいてほしくなったり、もっとそばにきて丸くなってほしかったり(後略)」(62ページ)
人間の弱みを的確に突いて、ベッドを乗っ取るテクニックについて述べている。そして、ベビーベッドにはけっして上るなという警告も忘れない。実にしたたかで賢く抜け目ない。
「人間は、自分で作り出した伝説に支配されちゃうのね。」(64ページ)

猫を愛し、愛猫サンボと暮らすギャリコは、ツィツアの渾身の原稿を読み終えたとき、少しだけサンボを疑いの目で見るが、「まさかね! うちの猫にかぎって!(中略)サンボは明らかに、いつも通り、まったく疑いなく、私に夢中だった。」(200ページ)
というわけで、人間というものは猫に乗っ取られていながら自分が猫を世話していると思い込んで幸せに癒されているわけである。

前に、ギャリコの『ジェニイ』に触れたけれども、『ジェニイ』が猫の冒険譚であるのに対し、本書はいかに平和で穏やかな日常を手に入れるかに重点が置かれているだけあって、突拍子もない大事件は描かれない。だがツィツアも恋をし母になる。よそのうちでも可愛がられたりする。飼い猫の日常に時々訪れる大波小波。猫を飼う者には、その行間までたまらなくいとおしく感じられる。ツィツアが語る人間たちはときに滑稽だが、ツィツアはけっして人間を馬鹿にしてはいない。人間を知り尽くし、利用もするが、愛すべき存在であるとも考えているのだ。……と、愚かな人間たちに考えさせてしまうほど、ツィツアの語り口は巧妙だ。

我が家の猫をじっと見る。
猫を飼う生活が始まってまだ2年にもならないのに、私たちはこの家の歴史が始まって以来ずっと私たちのリーちゃんと一緒に居るような気さえしている。私のケータイは猫の写真だらけで、娘は暇さえあれば猫の絵を描き、私は猫の絵本まで作ってしまい、私の母はほぼ10秒おきに「リーちゃん、リーちゃん」と話しかけている。

忘れてならないのは、容姿に自信を持って毅然とした態度で臨めば、必ず成功するってことなのよ。

ツィツアがいいそうなこんな台詞を、我が家の猫も反芻しているに違いないのだ。

絵本ができたよ!2007/10/01 12:14:20

ちゃんと本になっているのよ。この厚み。わかっていただける?


手作り絵本講座、2クール(3か月×2)を終了してやっと一冊の手作り本を仕上げることができた。
ムチャ嬉しい。
とにかく嬉しい。
何かひとつやり遂げるということの達成感。幾つになっても嬉しいものである。
この際、でき映えは不問である。(ちょっと失敗した。へへへ)

街のカルチャーセンターで不規則に開かれている手作り絵本講座に、だいたい月に2回のペースで通った。たった2回である。月に。各回2時間。それなのに、この時間を確保するのにどれほど苦労を要したことか。貴重な1回の講座日に、容赦なく仕事が入る。行事も入る。もちろんそういう事態は予期して先生からいろいろと先取りして指導を受けておくのだが、家で自習する時間を捻出できない。ついこの間まで、小さな絵本ひとつ作るのに、何年かかることやらと暗澹たる気持ちであった。

この講座は絵本の「お話づくり」と「絵づくり」に主眼を置いたものだ。そういうことの下調べもせず、「本が作れるぞ!」という勢いで登録したのだが、当初はそのことを少々後悔した。
本づくりをしたかったので、とっとと手製本のテクニックを教えてほしかったからである。
しかし、かつて「絵本作家を志望して美大を受けた高校生」であった過去をもつ私には、思いのほかウキウキと楽しい時間であった。
ほんとにそんなもの志していたことあったのか?と我が学歴を疑うほどアイデアが絵にならないし、ほんとにお前コピーライターかよ?と我が職歴を疑うほど、言葉が思いつかない。本の形になる前の、お話と絵の制作の過程に、非常に時間と手間をとられることとなってしまったけれども。

できあがった絵本は、ストーリーなどと呼ばれていいものはないに等しい単純なつくりである。絵の完成度も見直せば大変に低いもので、恥ずかしいのである。
しかし、古い絵の具をしぼりだし、ひと筆ひと筆鉛筆画の上に色を置いていく作業は本当に楽しいものであった。
いつもより少しだけ早起きして絵を描く時間を作ったが、途中でやめられず、娘が起きてきても朝食の用意がまだなのよ、なんて状況もたびたび。水を得た魚のように、作業に没頭してしまうのである。(くだらない原稿を書いているときにはありえない現象である。苦笑)

「お母さんのそんな真剣な顔、見たことない」

絵コンテを吟味する私を見て娘がいった言葉だ。
娘に説教するときも、宿題を教えているときも、いろいろ真面目に取り組まないといけないことを一緒に考えているときも、私の表情は、自分で絵を描いているときほどには真剣でなかったのである。
子育てへの姿勢を問われたようで非常にズキッときたのである。

けれども、できあがった絵本を手にとって、娘は大喜びしてくれた。
題材が我が家の猫であるし、原画に採用したのは娘のいたずら描きだった、ということもあるが、誇らしげにページをめくってくれた。非常に嬉しい。

というわけで、「絵を描く自分」を再発見した。仕事の現場では書きたくないものばかりを書かされているが、ここ数か月の、この絵を描く作業がなかったら、瞼の痙攣どころか、とっくに私は潰れていたかもしれない。
絵を描くのは、それほど楽しい。
わかっている。絵を描くことを職業にすることの難しさ、厳しさを私は知らない。
↓ だからこんなお気楽なことをいってしまうが……。

文章書くのなんかやめちゃって画家に転身しちゃおかなー♪

本音である。

私たちは出入りを許された存在2007/04/10 18:45:02

『ねこのホレイショ』
エリナー・クライマー 文
ロバート・クァッケンブッシュ 絵
阿部公子 訳
こぐま社(1999年)


ついでだからもう一冊、お気に入りの猫の絵本を。

ホレイショはおじさん猫。その顔はいつもしかめっ面に見える。
好きでしかめっ面をしているわけではなくて、そういう顔なんだが、実際ホレイショは、抱っこされたり撫で撫でされたりしてもちっとも嬉しくなくて、可愛がられるよりも「そんけいをこめて、あつかってほしいと思っていたのです。」

ホレイショはケイシーさんの家に住んでいる。お決まりの場所でくつろぎ、お決まりの場所で食事をし、お決まりの場所で眠る。しかし、親切なケイシーさんは子犬を拾う。お隣のウサギを預かる。けがをした鳩を助けて手当てをし、治るまで世話をする。おまけに近所の子どもたちはしょっちゅう出入りをする。
自分だけに保障されているはずのお決まりの場所が侵食されていく。居場所がないばかりか、無遠慮な子どもの手が身体を逆撫でしてくれる。ホレイショはとうとう、「もううんざりだと思いました。」

ホレイショは家を出る。やがて腹が減るが、思うように食べ物が手に入らない。困っているところへ2匹の子猫に出会う。捨て猫らしい子猫たちはホレイショを頼ってついてくる。さらに困ったホレイショ。どうにかしなくてはと街をうろつくうちに――。


終始しかめっ面のホレイショが、ちょっぴり寛大になって、最後、ニンマリと笑みを浮かべる。その笑みは「ま、妥協も必要ってことだな」とでもいわんばかりの、波乱含みの半生を送ってきた壮年期の企業人といった感じで、妙に面白い。

可愛がられるのはまっぴら、他の生き物(人間を含む)に対して無視もしくは蔑視を決め込んでいたけれど、ちょっとした旅をして、「しょうがねえ、可愛がられてやるか」「おまえらの出入りを許してやろう」という気分になった。可愛げのない猫のもつ、飼い猫ゆえの譲歩の末の愛嬌。とっぴな物語でもなんでもないのに、その視点のユニークさで読者を惹きつける。リノリウム版画という技法で創られた絵は、しっとりと温かい。


猫の縄張りは広くなく、縄張りを越えて遠くには行かない。飼い猫の場合、住む家(=縄張り)から遠く離れて出かけるという習性はない。また完全室内飼いにしていれば、その家が行動範囲のすべてになり、戸外への興味は示さなくなる代わりに、家が縄張りだという意識は強くなる。――ということが、最近買った『ねこのお医者さん』だったか『ネコと暮らせば――下町獣医の育猫手帳』だったかに書いてあった。
さらに、これらどちらの本だったか忘れたが、飼い猫にとってその家の住人は、どうやら受け入れるしかなさそうだとしかたなく縄張りに出入りすることを許された生き物に過ぎない、とも書いてあった。
これらのくだりを読んだとき、私はこのホレイショを思い出し、次いで我が愛猫をじっと見た。
「私たちって、おみゃーの縄張りへの出入りを許された希少な存在なのだニャ」

※ねこネタが増えたので、「ねこ」カテゴリも作りました。

スコホッテンなジャックの絵2007/04/06 20:30:23

『ふとっちょねこ』
(デンマーク民話)
ジャック・ケント 作  まえざわあきえ 訳
朔北社(2001年)

猫の本が続くんだけど、こちらは絵本。
発刊直後に入手して以来、大のお気に入り。すっとぼけた話にすっとぼけた絵がマッチして、絶妙のバランス。短いながら、一字一句訳者と編集者が議論を重ねて仕上げたという訳文が、内容と絵を見事に表現して素晴しいのである。
眺めて感動したり、ストーリーの面白さに唸るような類の絵本ではない。
桃から桃太郎が生まれるはずはないのといっしょで、猫がそんなに何でもかんでも食うわけないのだが、猫は見るもの何でも「たべてしまいました」なのである。
延々と続く「たべてしまいました」が妙に可笑しい。
小さな身体だったはずの猫が、どんどんふくらんでいく。
最後にきこりにたしなめられる。「そりゃあ だめだよ、ねこちゃんや」

途中、猫は「スコホッテンなんとか」をはじめとするけったいな名前の紳士たちを食べるのだが、これら人物名がこれまた話と絵にベストマッチでどうしようもなく可笑しい。
結構これらの名前をリピートするので、それもまた可笑しい。

リズムよく読んでやると、素直な子どもなら間違いなく「へーんなの~」といって笑うはず。いや、笑わなかったからといってその子が素直じゃないなんていうつもりはありませんけど。
でも本当に、読んでて笑える。聞いてて笑える。ほのぼのと、笑える。

ジャック・ケントさんはアメリカの絵本作家で、生涯に実に多くの絵本を手がけたそうだ。もともと漫画家だったというその絵は、柔らかい線に水彩とおぼしききれいな色遣いが優しくて、とぼけたユーモラスなお話にぴったりのタッチ。といって、個性的な画家の絵本があふれる昨今、決して目立つ存在ではない。むしろ地味なほうだろう。アート志向のお母様方はお選びにならないかもしれません。
でも、この絵は、本当に、とてもいい。
ジャック・ケントさんのほかの絵本も邦訳があるのでぜひ見て欲しい。スコホッテンな絵なのである。

猫でなくても、あまり大食いでないイメージの小動物なら成り立つ話だが、桃太郎が桃でなく苺やメロンでは成り立たないように、デンマークではこの話は猫に限るのだろう。青いガウンを着て寝そべる猫は、最初からあまり可愛げがない。デンマークの猫はどのように生活の歴史を重ね、人々と共存してきたのだろう。
気がつくと、我が家で猫を飼う前から猫の本は数多く読んできているわけだが、猫の描かれ方にも、当たり前だが人間と同じように、いろいろあるものだ。
猫から切り取る世界各国の生活文化を研究してみるのも面白そうだ。誰かやってないかな? 誰かやる気ないかな?

猫に変身する2007/04/04 19:22:03

『ジェニィ』
ポール・ギャリコ著 古沢安二郎訳
新潮社(1972年)/新潮文庫(1979年)


「猫はいいなあ。○○しなくていいし」

○○には、子どもなら「宿題」「早起き」「お手伝い」、大人なら「仕事」「会議」「ごますり」「確定申告」……などが入るであろう。
確かに猫は、宿題も早起きも会議もないゆうゆうウルトラマイペースライフを送っている。犬のように「お手」といわれたら前足を出す、なんて習慣を身につけさせられることもない。
だから人間はつい猫がうらやましくなる。猫になりたいと思う。猫みたいに気ままに、昼寝とメシと排泄だけで、時間を費やしてみたくなる。
猫になりたい。猫に変身したい。

そう思ったあなた、『ジェニィ』を読みましょう。冒頭から数ページ読み進めば、あなたはきっと、手の甲をぺろぺろと舐めその甲で目元から額、後頭部まで撫でつけるしぐさを繰り返している自分を発見してうろたえるだろう。

本書は二匹の猫の、恋と友情と冒険の物語。物語は白い雄猫ピーターの一人称で進む。自分の居場所を失って戸惑うピーターを優しく包み込む、誇り高い雌猫ジェニィ・ボウルドリン。ジェニィはピーターに野良猫の心構え、掟、処世術を根気よく丁寧に教えていく。おどおどしていたピーターは、ジェニィに助けられながら、さまざまな出来事を乗り越えてたくましく成長する。二匹は船に乗って旅もするし、高い塔を登りつめもする。可愛がってくれた老人の死に遭い、昔の飼い主に再会もする。ときに大怪我をしたり、命を危険にさらすこともある。そして、ピーターは追い詰められたジェニィを守ろうとして……。

こんなふうに書いてると、猫を擬人化した物語のように見える。が、その形容は正しくない。強いていうなら人間を擬猫化している、となるだろうか。しかしそれも本当は正しくない。二匹はまぎれもなく、あますところなく猫である。次々に訪れる出来事は、猫でなければ経験できない事どもだ。私たちは二匹の体験を「猫になりきって」追体験するうちに、ほんとうに猫になる。
たとえば、二匹は猛スピードで港へ向かって走る。人間の脚の間をすり抜け、柵を跳び越え、桟橋から船に飛び移る。船乗りに見つかって海へ放り出されないために、二匹は船内のネズミをことごとく退治してみせる。
スリルやスピード感にあふれたそんな場面で、読み手は、あたかも走りながらベルトを装着し「変身!」と叫ぶライダーのように猫に変身する。目標に向かって疾走しながら。ジャンプしながら。

ジェニィはピーターに、毛づくろいすることの重要さを説く。落ち着かないとき、考えがまとまらないとき、毛づくろいをする。空腹で死にそうになっていても、毛づくろいはする。すると自然と心が休まり、希望に満たされる。他の猫に遭遇し、不利な状況になったら毛づくろいをする。猫は毛づくろい中の他の猫にちょっかいは出さない。これは猫の世界のマナーだからだ。人間の目が怖いときもひとまず毛づくろいをする。人間は毛づくろいをする猫を「可愛いな」と思うのでまずはそっとしておいてくれるからだ。

毛づくろいする我が家の愛猫を思う。おみゃーはニャんか考えてたのか? 考えがまとまらニャいのか? 我が愛猫は雨のロンドンで空腹に倒れたりしないし、揺れる船内でバランスを取りながらネズミに狙いを定めることもない。それどころか完全室内飼いだから、公園で先住猫に敬意を表する、なんてこともない。でも彼女だって、実に頻繁に、入念に毛づくろいする。私たちに対してやましいことでもあるのか。今日の午後の来客が気に入らなかったのか。最近遊んでくれないと拗ねているのか。たぶん些細なことだろうけど、我が愛猫もきっと心を落ち着かせようと毛づくろいしている。
身近に猫のいる人には、猫との「以心伝心」度がぐっと高まるのが感じられるだろう。本書は少なくとも、人を猫に近づける。

猫を愛してやまない人には、もう「たっまらな~い」物語。
猫を飼っている人には、その猫との仲がより「いい感じ」になる一冊だ。
猫は嫌い、ウチの近所野良猫多くて臭くていやよという人にも、「ああ……猫たちにも凄まじい生活があるのね、うるうる」ぐらいの感想はもってもらえるはずだ。

読む者の心を完膚なきまでに猫化してその世界に引き込みながら、最後にあっけなく人間の世界に押し返す。ああ、いやよ、戻りたくないっあたしをまだ猫のままでいさせてっ。

おそらくギャリコも猫に変身してこの物語を書き、書き上げて人間に戻ったに違いない。
彼には猫関係の著作が他にもある。小説を書くたびに、そして猫から人間に戻るたびに、ある種の切なさを感じていただろうか。彼の読者のように。

ところで、物語の結末に重なるのであまり述べたくないが、最後の最後で私はコケた。
ピーターが新しい猫と出会い、その猫を命名するシーン。
その名前が……他にいい訳語なかったのかよ、ピーターやジェニィみたいに原語をカタカナ化でいいじゃんか、ルビ振るとか意味を括弧で付けとくとか工夫すればどうにでもなっただろーに、その名前はないだろーオチにもなってないよって、最後の最後で叫んでしまったよ。
本書を原書で読まれた方、あるいは本書を読んで、最後の猫の名の原語にピンときた方がいたら、本エントリーにコメントをください。

回復のきざし(ニャンてこった!その4)2007/02/26 18:38:54

2週間前の2度目の尿検査によれば、我が愛猫は、回復どころかストルバイトという結石のタマゴ(ごく小さい結晶体)なんかが発生していて、ちっともよくなってはいなかった。

抗生物質の種類を再度変え、本格的に療法食に切り替え。
愛猫はお薬もちゃんと飲むし、療法食も嫌がらずに食べる。むしろよくがっつく。ダイエット食には違いないので、腹持ちが悪いかもしれないな。

2週間経った先日の土曜日、尿検査の結果を聞きにいった。
よくなってますよ!
獣医はとても嬉しそうな表情で告げてくれた。
ああ、よかった(感涙)。

完治したわけではなく、まだ療法食は続行。でももう抗生物質はおしまい。よかったなー、猫。やっぱお薬飲むのなんて、猫だって嫌なはずだ。
早く完全回復にこぎつけるためにも、もっと猫について勉強しよう。いずれおみゃーと以心伝心してみせるからニャ!