ルーツをたどること その2 ― 2007/01/15 10:28:56
そして、ちょっと乱暴な口の利き方をする中学生の少年と一緒になって、日系人のカラキ老人に、日本のこと何にもわかってないよ、なんてまくしたてたりする。
そして、その中学生の少年とも、迷い鳥のことで口論する。
カラキ老人のことを好ましく思っていない主人公の父は、老人の話の腰を折り、考えを否定することに余念がないように見える。そんな父を母が責めている。母はカラキさんをきちんともてなしたいのだ。
しかし、アクシデントが起きたとき、母は老人に目もくれなかった。父は、老人を責めていたけど、面と向かい、相手の言い分も聞いていた。
岩瀬さんは、子どもがその澄んだ目で、いかに周囲をよく見ているかを描いて素晴しい。子どもたちは特別でもなんでもない、ごく普通。であるけれど、その小さな胸が、日々、葛藤や驚きとか、自尊心と慈愛のせめぎあいとか、小さなねたみや憎しみ、喜びや感動の連続に、時に耐えられなくなりそう……で持ちこたえるところを描く。
すべての登場人物を、わが子に、あるいは自分自身にあてはめてみる。
この子は私の知らないところでどんな話を誰としているのだろう。
今私がしている会話をどのような思いで聞いているのだろう。
子どもの本を読むと、いつも反省する。
ちゃんと聞いてやらなくちゃ、とか。言葉遣いに気をつけなきゃとか。
すぐに忘れてしまうけど。
先週末、近所の肉屋のご主人が亡くなった。
朝夕、登下校する子どもたちに声をかけてくれていた、優しいおっちゃんだった。
たとえばそんなことを、子どもたちはどのような言葉で、どんなふうに話すのだろうか。
えー信じられないっ、といったり、あの人きらいだったー、とか、うちの母さんはこういってた、とか、誰でもいつかは死ぬだろー、とかいってみたりと、会話はいろんな発言が飛び出ることだろう。いや、そうあってほしい。
話題にならなかったり、関心がまったくない子ばかりなんてことだと悲しい。
また、人の死についてあれこれしゃべれないような空気があったら困る。
(「アホォーお前なんか死んでまえ~」といった子どもに「死ぬという言葉を使ってはいけません」と教師が注意する。「切腹を申し渡す」「ははー」と時代劇ごっこしている男児に「切腹なんていうのはやめなさい」と教師が叱る。そんな学校だし、イマドキ)
子どもが本音で発言できる社会でなくてはと思う。
また、そんな子どもの本音発言に、敏感なオトナでありたい、とつねづね思っているのだが。