Son chemin2008/03/12 19:17:12

 膝に赤子を乗せた女が身を乗り出してジャンに訊ねた。
「その本の題名はなんていうんですか」
 通りの角に建った小ぶりなマンションに一昨年引っ越してきた若い夫婦のかたわれである。夫婦揃って愛想がよく、町内会にもすぐに馴染んで皆の評判もよかった。昨年子どもが生まれたが、この町内会も少子化の例に漏れず、したがってその赤子は近隣のアイドルであった。
「ソンシュマン、といいます」
 ジャンはなんとなくかしこまって、真面目に答えた。そんしゅまん、そんしゅまんだってうふふ、と女は隣に座った亭主に愉快そうな様子で告げる。その膝で赤子もソンシュマン、らしき言葉を口にし、ブラヴォー、とジャンの顔がほころんだ。
 今夜は町内会の飲み会である。表通りの小さな居酒屋を二時間半借り切って、寝たきり老人(これが少なくないのだが)とその介護者以外はほとんどが参加する大宴会。年に二度ほどこうした機会をもうけるのが慣わしだ。二、三年あるいは四、五年で町を出ていくような学生たちも必ず来てくれる。わけは、宴会の費用は町内会費から出るからで、ふだん町費を徴収されている者にとっては不参加の理由がないからであった。
「で、それ、どういう意味なんですか」
 女が再びジャンに訊いた。「みち、ですね」とジャンがいい終わらないうちに、離れた席から「誰の道? ソンって誰をさしてるの?」と声がした。宴席の隅のほうにいた、町内会長の次女だった。
 ジャンは意外な質問を受けたのがとても嬉しそうである。
「彼女の道、という意味です。彼女、は主人公ですね。それはたぶん、トミサンのこと」
 ほおお、とジャンの周囲がどよめく。誰かが、会長のお嬢さんは仏文科だったなあ、といい、再びどよめき。
 路地奥の長屋に老いてから住み着き、そして亡くなった富ばあさんこと山中富さんがかつて小説を出版していたことは、富さんと親しくしていたフランス人青年ジャンがその小説の翻訳本を自国で出版して持ち帰るまで、町の誰ひとり知らなかったことだった。
「物語の最初、小さな女の子が、います。ひとりで、裸足で道を歩くところ、あります。遠くに見える山は、桜がたくさん咲いています。とても、きれいな場面です」
 山桜が織りなす濃淡さまざまの紅(くれない)色を、皆がそれぞれ思い浮かべ、遠い目をしたり目を閉じたりしながらうんうんと頷いた。ひとり、会長の次女だけがジャンの表情をじっと見つめていた。幾分顔を赤らめて。その様子をまた会長が心配顔で見ていたが、ジャンは自分が訳した物語の世界に浸りきっているのか、心ここにあらずといった様子で、「早く春になるといいですねえ、桜のお花見、しましょね」といい、周囲の賛同を集めていた。

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