「さまざまな過剰に対する違和感」 ― 2008/10/02 20:13:58
玄田有史 著
NTT出版(2005年)
どっかのアホが放火殺人事件を起こしたが、私は思った。「また同世代だ……」
幼女連続殺人事件の宮崎、池田小学校殺傷事件の宅間、それにアイツもコイツも、同い年か前後二年ほどしか変わらない同世代である。
たくもう、極悪犯罪人の中に同級生の名前を見つけずに済んでいるのは奇跡じゃないか、とこのごろは思うようになってきた。
一方で、素晴しき同世代人がいるのも事実である。私自身は歳ばかりが立派な中高年で、実績も社会貢献度も収入も若輩だが、周りを見渡せば、面白い仕事やユニークな研究に取り組み素敵な成果を上げている方がたくさんいる。
玄田さんもそのおひとりである。玄田さんが取り組む「希望学」という分野が学問として今後成立していくかどうかはともかく、人間だけがもちうる感情「希望」に着眼しその有無や在りかたによってその後の人生が変わりうるかも、という仮説には思わず納得させられる。彼の講演を聞いたとき、「希望を修正する」という彼の言い方に多少違和感を感じたのは事実だが、その後いくつかの彼の著作やインタビュー記事を読んだりしていくと、「希望」という、いくとおりもの意味(ゆめ、のぞみ、ねがい)や、いくつもの混同されやすい類義語(志望、願望、切望)をもつ言葉の定義について彼自身が難儀しているさまが見て取れる。
つまるところ、希望って、どんなシチュエーションでも使われる便利ワードだ。
「晩御飯、なにがいい?」
「あたしの希望は、麻婆豆腐」
「将来、何になりたい?」
「希望は、オリンピックに出られる選手……でも無理ってわかってるから、ま、なんでもいい」
希望っていったいなんだ。という話は、だから今はやめておく。きりがない。
本書の読後感は、以前取り上げた岩村さんの食卓の本に似ている。
ある切り口から人々の生活の実態を見つめ、そこに潜む問題をあぶりだすため、きめ細かな調査によって裏づけを取り、考察を重ね、現代社会のさまをある側面から語ってゆく。読み手は、ほうそうなのか、はあなんつうことだと暗澹たる気持ちになったり、自分や家族、職場環境のことをずけずけ指摘されたような気にもなり、ときに落ち込みときに苦笑する。
そして、これも共通する読後感だ。
「著者さん、アナタはけっきょく、わたしにどうしろっていうの?」
そう、この類の本は問題意識をやたらと高ぶらせてくれるのだが、解決へ向かうための明快なみちすじが、あるようで、ない。
岩村さんの本も、もっと家庭の食卓を司る者が、自分を含む家族の一日の生活リズムを踏まえ、栄養摂取の知識を駆使して献立を考え、外食・中食の頻度を抑制するなど、食生活そのものに真剣に取り組め、といっている。それはわかるにしても、では具体的に、ウチの家庭では何を改善すればいいのか、という問いに答えてはくれない。
玄田さんによる本書は、働く人、働かない人、働けない人についてさまざまな考察を見せてくれる。実に面白い。でも現実は、問題山積の現実はだからといって解決には向かわないのである。
《いったいだれが、グローバル化社会のなかでの人材戦略とは、即戦力人材の活用であると言い出したのだろうか?(……)あまりにもナイーブな結論にすぎる。(……)業績の悪化した企業にかぎって、最初に削減するのが教育であり、人材としては即戦力を謳うようになる。(……)即戦力人材は、一般にどの会社でも通用するスキルを持つものだ。しかし、それは言い換えれば、どの会社でも汎用性のあるスキルでしかないということである。》(8~9ページ/第一章 即戦力という幻想)
ウチの会社でも経営陣は「即戦力しか必要としていない」「じっくり育てている暇はない」という。ウチの会社は実際凄腕ばかりである。でも給与水準はここに書くのも恥ずかしいほど、低い。私の手取りは、20年前、最初に勤めた会社を5年で辞めたときの基本給程度である。
経営陣は、いわゆる団塊世代である。彼らのために言うが話のわかる人たちであり、団塊と呼ばれる自分たち世代にいわれる問題点もそこそこ自覚しており、また後続世代に理解もある。しかし自分たちがかなり特殊で特異で突出して特徴のある世代だとは思っていない。
《(……)数値からは、長期雇用に関する重要な事実が浮かび上がってくる。ひとつの会社に勤め続ける傾向が最も強い世代とは、1940年代半ばから50年代前半に生まれた世代なのである。そして、そのほぼ真ん中に位置するのが、1947年から1979年に生まれて、人口規模が700万人弱にものぼる、いわゆる「団塊の世代」である。(……)抜きん出てひとつの会社に勤め続ける傾向が強かったのだ。(……)日本の労働者史上、長期雇用とそのもとでの年功賃金の恩恵を一番に受けた世代であり、そして最後の世代になるだろう。(……)長期雇用そのものが、戦後の日本の高度成長とその後の低成長によって一時的に生み出された現象と考えるほうが妥当なのだ。》(54~56ページ/第二章 データでみる働く若者の実情)
私は、「石の上にも三年」という言い回しが好きである。なにごとも、そのくらい取り組んでみなければ成果どころか自分なりに納得することもできやしない。しかし、三年同じ環境に居続けることは、現代の社会では至難の業である。ずっと居ればだんだん給料が上がっていく、それはもう御伽噺である。ずっと居れば給料は上がらなくとも人間関係に慣れて少しはストレスも減少する、得意先から認められて褒め言葉ももらえる、というのも幻想である。同僚も辞めていく、取引先の担当者もころころ変わる。自分の仕事を継続して見てその進歩のさまを確かめてくれる人などいないのだ。私の勤務先も、経営陣自身が担当業務を抱えフル回転しているので、雇っているスタッフがどんなに頑張っているかサボっているか、じっさいわかってない。ただ、成果物だけが評価の対象である。
だから私たちは「いいもの」を創るために懸命になる。必死になる。あくなき追求をする。その結果、長時間労働に従事することになるが、もちろん、残業手当という語はもはや死語である。
《「深夜0時に退社して翌朝9時半に出社すると、メールがもう40通くらい来てることもあった(……)」》(68ページ/第三章 長時間労働と本当の弊害)
《不要な業務を整理できていない上司は「とりあえず両方やっておいて」と指示にならない指示を出し、負担だけが部下に降りかかる。部下は「どうせ読まれない」資料を深夜まで作り続けることになる。》(70ページ/同上)
上の、「上司」を「クライアント」に、「部下」を「下請」に換えればそのままそっくり私の居る世界の話になる。想像もできず、判断もできず、必要と不要の区別のつかないクライアントの担当者は平気で言う。「とりあえず2案提出してください」。2案出すと「A案のアレンジ版としてA’、B案のカラー違い案としてB’、つくってください」としゃあしゃあと言い、(けっきょくこれで4案である)翌日には「もっと違うのも見てみたいので、全然テイストの異なるものを2案(以下同文、繰り返し)」とのたまう。無料配布のぺらぺら冊子の表紙デザイン制作の話である。
私たちは修正指示に従うし、顧客の希望にできるだけ沿いたいと考えている。だから顧客の側も、私たちからベスト成果物を引き出すためにはどうしたらよいのかを考えてほしいし、考える能力のある人を担当者に据えてほしいのである。能力がないなら育ててから前面に出してほしいのである。
《過度な長時間労働は、誰も幸福にしていない。》(94ページ/同上)
いま、少なくとも、私の担当業務の周囲では、アホなクライアントも含めて誰も幸せではない。それでもクライアントは5時きっかりにどんな案件を抱えていようと退社するので私よりは少しだけ幸せなはずである。
自分たちのことばかりぐだぐだ書いているようで、申し訳ない。
本書の第四章、「仕事に希望は必要か」の内容は、玄田さんの中学生向けの著作『14歳からの仕事道』を読むほうがわかりやすい。表現を変えてほぼ同じことが書いてある。(『14歳からの仕事道』はたいへん面白い。しかし、中学生にとっても面白いかどうかは微妙なところだと思った。中高生の親が読むのにちょうどいい。)
本書は「ニート」について多くを割いている。ニート論であるといってよく、ニートについて先入観をもっている人の目から鱗が落ちること間違いなしである。私なら本書のタイトルを『ニートの正体』とするところだ。それほど、「ニートとはいったい何者か」という問いにしっかり答えてくれている(私にどうしろって言うのよ、という問いには答えてないけど)。
ただ、玄田さんにはすでに『ニート』という著作がすでにあり、本書はニート以外にも言及しているので、ニートという言葉をタイトルには持ってこなかったのだろう。
《メディアがニートを就業意欲に欠けた、働かない若者たちと表現した瞬間、読者や視聴者の多くは、それを怠惰な若者、甘えた若者、親のスネかじりを厭わない若者と、ほとんど自動的に認識することとなる。(……)ニートは(……)できれば働きたいと思っている。むしろ働くことの意味を考えすぎるあまり、立ち止まっている(……)ニートが増えたのには、個性発揮や専門性重視を過度に求めすぎた時代背景がある。(……)ナンバーワンになるのも難しいが、オンリーワンになるのだって簡単ではないのだ。(……)現実の中で、やりたいことがないので働けないと考え、自己実現の幻想の前に立ち止まってしまった(……)「今やりたいことなんてなくても大丈夫」とはっきり伝えたい。「やりたいことは、働くなかでほとんど偶然のように、みつかるものだ。(……)この仕事でもやってよかったなあと思うときはちゃんとあるんだ。たとえば……」と、大人がそれぞれの経験の中で実感してきた働く真実を伝えていくべきなのだ。》(124~132ページ/第五章 ニート、フリーターは何が問題か)
というふうに、著者は、まず親が子に、そして教師や周囲の大人が生徒や若者に、自分の携わる仕事について誇りをもって語ることが大切だとしめくくろうとする。が、そのことが口でいうほど簡単でないことについても言う。社会階層、経済格差、教育格差を論じた章を経て、第十章の「親と子どものあいだには」では、親子関係の適度な距離について語る。つまり過保護、過干渉はもってのほかだが、過度に期待するのもNG、過度の放任もNG。子どもと大人が適度な距離感を保つことは奇跡かもしれないという。親と子は相性がよいはずだというプレッシャーから解放されたほうがいい親子、もっと寄り添って心を量りあうほうがよい親子、いろいろある……。
本書のタイトルは、著者の感じた「さまざまな過剰に対する違和感」を表現したものだそうだ。
何にせよ、過ぎたるは及ばざるが如し。それはたしかだ。
慎むべきは自身の過剰な労働、子への過剰な期待。排除すべきはアホなクライアントの過剰な要求、過剰な自信(しかも根拠ゼロの)。
こういうふうに、過剰に長い文章をブログにアップするのも控えなくちゃね。
悲しいことばかり ― 2008/10/07 19:03:27
(※私は頻繁に「立ち直れないほどの衝撃」を受けるのだが、泣いて寝ても翌日は起きて会社へ出勤しているのでどのような出来事も私を打ちのめすことなんてできないんだなあ、と思ってよく悲しくなる)
つい先日、とある場所でとある映像を観て、そのナレーションが緒方家のある人の声で、声は「ええ声」だがナレーションのしかたがあまりといえばあまりな出来映えだったので、会う人ごとに「サイテーだったよ!」と吹聴しまくっていたのだが、しばらくは口を慎まねば、となんだか沈んだ気持ちになった。あんまり意味ないけど。
緒方拳は『鬼畜』が最高だった。ついでにいうと、岩下志麻も、あの映画が最高だった。
私の父が患っていたのと同じ病気で亡くなったようである。同列に論じては申しわけないが、それにしてもここ数年、70代前半で亡くなる方はほとんどみなさん、若い頃の既往症に肝炎を持ち、肝がんで亡くなっている。医療体制がずさんだった、彼らが20代前半から30代にかけての頃、注射針や輸血で感染したと思われる。いちど黄疸が出て、回復するが、肝炎ウイルスは40年かけて癌へ成長するのである。
もういちど、白髪の老人役で、緒方拳を観たかったよ(号泣)
合掌。
話を変えるが、今日はアンナの命日なんだ。
で、アンナの本の話をしようと思っていたけど。チェチェンニュースにこんなくだりがあったので抜き出して紹介する。
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10月3日の東京新聞夕刊に掲載された「放射線」というコラムに、作家の星野智幸さんの意見が掲載されていた。
「10月7日は、私が世界で最も尊敬するロシア人ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤの命日である。2006年のこの日、プーチン政権の闇を暴き続けてきたポリトコフスカヤは、自宅前で何者かに銃で殺された。(……)今、日露の関係はよくも悪くもない。だが、両国とも「愛国教育」を過熱させており、何らかの摩擦が起これば、相手を敵視することもありうる。そんな愚かな歴史を繰り返さないためにも、私はポリトコフスカヤを読み返す」
紙面では、チェチェンで戦った若き日のトルストイや、明治の知識人、そして現在の戦争と、星野さんならではの視点で追悼が語られている。
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星野智幸さんという作家の本を私は当然ながら読んだことはないんだけど、アンナのことを「世界で最も尊敬する」と形容しておられるという点(だけ)で彼と私は同志であるからして、機会があったら星野作品を読んでみようと強く思ったのであった。
アンナを知ってから、そして彼女が殺されてから、世界は何も変わらないどころか、悪くなっていく一方である。そして次々と、人が逝く。
チェチェンニュース Vol.08 No.11 2008.10.07
http://d.hatena.ne.jp/ootomi/20081006/1223300258
むちゃくちゃしんどい、ので ― 2008/10/08 19:43:35
玄田有史 編著
中央公論新社(中公新書ラクレ/2006年)
しんどいときは、希望について語ろう。
てことで、鹿王院知子さんもはまっている(笑)我らが希望学の玄田さん再登場。
このあと、支離滅裂な私の駄文を読まずにここへ行ってくだされば、希望学の何たるか、は把握していただける。↓
http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope/index.html
本書『希望学』を読むのは面倒、という人は:
関連記事を時系列に並べたここ ↓
http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope/article/index.html
本書『希望学』を読んだ人の感想文を集めたここ ↓
http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope/result/kibogaku_kanso.html
へ、行かれたし。
先日、またしても貴重な貴重な(×10の10乗)休日をある取材でふいにされたのだが、その現場で、玄田さんのフィールドワーク先である某社の方が講演をされた。
その日は何人もの講演を聴講したが、専門用語を連ねるだけとかお経読んでるようにしか聴こえないとかパワポで掲示してる内容を読み上げるだけとかとにかくしゃきっとしない大学人たちに比べ、企業人たちのお話は声も大きく、ヴィジュアルの使い方にも長け、本論に「我が社ならではのマル秘エピソード」をさしはさむなどのテクニックなどにも勝れて非常にわかりやすかった。ええ、ほんとに。
よほどの例外を除いて、大学教員さんたちの話はわかりにくい。大学という世界しか知らない人にありがちな、「皆さんもうすでにご存じですけども」のマクラコトバが念頭にあるので「すでにご存じ」の「皆さん」さえわかればいいという喋り方になる。アホウめ。みんな知らないからここに来てんだよ。聴いてほしいのかよ、ほしくないのかよっ。ちったあ社会勉強してからその偉そうな肩書つけろっての。
玄田さんもそうだが、企業とうまくコラボしながら研究している方々は、企業人からよい影響を受けるのかそもそもそういう素地をお持ちなのか、総じて話し上手である。講演は楽しく聴けてためになり印象に残る。対談などではそのまま活字化して差し支えないような明快な語彙と発言で記録者を喜ばせる。
その日は、例の某社をはじめとする錚々たる大企業の方々が、早い話が「出身大学名や学部名に信頼が置けなくなっている」(いったい何を勉強してきたのか、どうして卒業証書や修士号を得られたのかわからないようなレベルの低さ)、「どうせ一から鍛えるのならば高卒を採用したほうがいいと思えるほど」(漢字やレポートの書き方、分数の計算方法を、どうせ教えなければならないのなら高卒のほうが教え甲斐がある=飲み込みが早い)というような事態であるから、大学さん、もっと学生を鍛えてくださいよ……という内容の講演というよりは悲痛な訴え(笑)をなさったのであった。
高校では、故意にしろ偶然にしろ履修科目が著しく減っているので、まともな高等教育を受けたとはいえないまま高校生は卒業する。そして「推薦」「一芸」「AO」などという名の「入試」を経て、少子化でとにかく学費払ってくれれば誰でもいい、と門戸を広げた大学の大学生になる(これ、有名一流私大の現状である)。イマドキの大学生はサボって合コンやバイトに耽ったりしない。真面目に授業に出て単位を稼ぐ。取ったほうが就職に有利といわれる資格はすべて取る。遊ばないけど、「学問する喜びに耽る」「疑問難問を追求し続けて夜を明かす」なんてこともしないのである。次のステップ(就職)への最短距離を進もうとする。
最短距離を行こうとするけど、そのむこうに、小さな頃から抱いてきた夢とか、はっきりした目標だとか、何年後かの自分の姿のイメージなどというものがあって進んでいるのではない。淡々と、非常に省エネな「最小限の努力」をはらいつつ、あわよくば「やりがい」にぶつかればいいな、そんな感じで日々、歩んでいる。
で、就職試験には落ちまくってしまう。「面接シミュレーションにも抜かりはなかったのに、どうして……」
合格して晴れて入社できる子もいる。でも、入ってからついていけなくなって辞めてしまう。「この会社ではやりたいことが見つかりそうにない(と思うことにしよう)」
かくして、どこにも就職できない学卒、院卒が巷にあふれ、ニートになり引きこもりになりそして……というのが今の世の中であるらしい。
私は取材で子どもたち、若い人たちにも会う。
児童、生徒、現役の学生たちも、公務員、会社員、職人もいる。若くして起業した人、雇われ店長、大店のボンボンも。「いい子」や「素晴しい若者」には会うけれど、「どうしようもない悪童」「始末におえない不良」には会えない。そりゃ、取材対象に選ぶんだからそんなひどいのに当たるわけないんだが、いいたいのは、規格からはみ出るような「奔放さ」を感じる人物に会えないということだ。
お行儀がなっていなかったり、敬語の使い方が変てこだったりするけど、外面を取り繕う要領は心得ているといった感じの子ら。そういうのが多い。
服を裏表に着ちゃったりしているが話せば考え方がしっかりしていて、芯の強さがひしひし伝わってくる子ら。口調も目の輝きも希望に満ちているかのようにいきいきしている。なんてのは、いない。
もう4、5年前になるが、有名進学校の中3生に将来の夢を訊ねた時に、「べつにない。人に迷惑かけないで普通に生活できれば」「○○(←職業名)かな。そこそこ安定してるし」「△△(←超有名企業名)とか、リストラとか倒産のなさそうなところの会社員」というような答えが過半数を占めたのだが、私にとってはたいへん衝撃的な事実であった。
希望ってないの? そんなふうに思わず聞き返したら、「だから、それが希望ですけど」とか(苦笑。あ、そーか)「あえていえば□□(←カタカナ職業名や多国籍企業名)かなあ」とか。同行したカメラマンは「もう中3でしょ。そりゃあ野球選手とか歌手とかはいわんでしょ」。そりゃそうだけど、もう少し、なんというか、夢物語みたいなことを話してくれてもいいじゃないかと思ったのだ。実現可能性の有無や大小は抜きにして。
希望って、漠然とした、目に見えるけどつかめない霧のような、すくえるけどこぼれる水のような、実体のないものだ。三木清は『人生論ノート』の「希望について」の章でこういっている。
人生は運命であるように、人生は希望である。
本書に論文を寄せているある著者は「希望を持とう」という。希望を持つことから始めよう、将来の青写真を描こう。もちろん、そういう具体的な「目標」「目的」も希望の範疇に入るのだろう。
けれど、希望って、なんとなく「ある」ものだ。「○○してみたいなあ」の「○○」にあてはまるもの、それは何であれ、希望である。生活には、人生には、いくつもいくつもの「○○」がつねに在る。ラーメン食べたい、テストでいい点取りたい、彼と話したい、シャネルが着たい、医者になりたい。ああもしてみたい、こうもしてみたい。
欲望や願望は希望のひとつの在りかたである。
何でもいいからいつも何か望みをもつ。望みを叶えたいと強く思う。今日は、どうしても、カレーが食べたいんだよ! だが望みは叶うとは限らない。断念しなくてはならない時もある。わかった、今夜は諦めるよ……。そういった感情の起伏、気持ちの抑揚をつねづねもつことが、事はカレーじゃなくもっと大きな岐路に立った時にはっきり行くべき道を選べるような判断力も養うと、思う。人生が、希望に満ちたものになると、思う。
玄田さんが確信をもって各地で発言していることに「子どもの頃に希望をもっていた人のほうが大人になってやり甲斐のある仕事に就いている率が高い」というのがあるが、それは、けっきょくそういうことなんだろうと思う。彼が言っているのは具体的な職業希望のことだけど、ささやかなことであれ、何も望まない生活よりも、望んで望んで、手に入らないもどかしさや挫折や失望も経験しつつ、望み抜いてゲットした感激も時に味わいながら暮らしていくほうが、きっと人は成長する。そういうことなんだ。
私は人の親だから、子どもについても希望はある。そうした希望を、口に出して、よく言う。「子どもは親の希望どおりには、ならないんだよ」なんて、近頃はヤツも偉そうに反発する。それでも「あんたが好きなように」「悪いことさえしなければ」とか思っていてもいわないようにしている。★★(←我が家のある町内会の名前や近所の商店街の名前)の星になれ!とかいって笑われる(笑)が、過剰な期待ではなくてささやかな希望を子どもにもっているってことを、つねづね伝えたほうがいいと思う。
あー、ちょっとばかし気持ちが前向きになったよ(笑)。
「ル・クレジオは外さないで」とあの女(ひと)はいった ― 2008/10/10 17:57:35
十年くらい前のこと。
仕事で関わったフランス人がある日電話をかけてきて「女優のインタビュー、取れるよ」といった。「誰、その女優?」「○○○○○○○」「え、ほんと? わーお」
私は熱烈に好き、でもないが、長年たいへん好意的に観ていた女優の名が挙がったので小躍りした。ボスに伝えると、速攻でオッケーをくれ、その話に飛びついた。ボスは超有名人しか日本人については知らないが、「共同」なんかじゃなくて個別インタビューであることと、私が「いい女優だよ」といったのを信用したのであった。
かくしてインタビューは実現し、英語でなされたそのやりとりを、例のフランス人が仏語にまとめて送稿してきた。それを和訳していく。若い頃はぞんざいなもの言いがウケていた人だけど、もういい歳だし上品にまとめたほうがいいだろうな……。
「彼女、原稿は一字一句きっちりチェックするから、必ず送ってみてもらってね」
と例のフランス人。ヤツにもらったFAX番号を押す。
丁寧なレターもつけたことだし、確認は明日にしようか、と思っていたら電話が鳴った。
「○○○○○○○です」
ぎょえーーーーー本人! 間違いなく本人の声!
「原稿、ありがとうございます。読ませていただきました。きれいにまとまってて、いい感じですね」
褒められたーー褒められたーーーーわーいわーい♪
「ちょっとだけ、訂正してもらえます?」
ははっ。襟を正して事務椅子に座り直したりなんかして、ペンを持つ。
「この、3行目のところの《……なんて、していませんわ》のところですけど、これって、私の喋り方じゃないんですよねー。テレビか何かで私が喋ってるの、あなたもご覧になったことあるでしょ?」
「は……はい」
「女優らしくって考えてくださったんでしょうけど、いいですよ、まんまで。下品でない程度にお願いします」
というような、言葉遣いがご本人らしくないところをいくつか指摘されたあと、
「それと……愛読書の話をしているところ、ル・クレジオを入れてくださいね。ずいぶん強調して言ったつもりだったんだけど」
「わ、私が翻訳する際に見落としたのかもしれません、すみません」
「あなたはお読みになる?」
「いいえ、なんだか難しそうで」
「難しくはないんだけど、漂泊の人っていうのかな、ル・クレジオの世界って、作家本人に惚れこんだら面白いと思うのよ」
読んだことがないばかりか関心を惹いたことすらなかった。本屋や図書館でル・クレジオの名前を見て、これは苗字だけか? 「ル」がファーストネームか? といぶかしんだ記憶はあったが。
しかし、そのひとは、それ以上ル・クレジオ論を展開するわけでなく、私に読め読めと勧めるでもなく、ただ、好きな作家の項からル・クレジオだけは外さないでと念を押して、その時の電話を終えた。
彼女の話し方は事務的で、丁寧で、相手を尊重する姿勢が窺えた。訂正を施した原稿を再度送ったが、全体を読み直したらまたちょっと気になるところがあって、と追加で訂正を少しだけ求めてきた。しかしそれを直したら、終わりだった。掲載する写真は決まっていたし、レイアウトは口出しする資格はない、記事を確認できればそれでよかった、といって、「丁寧なお仕事をしてくださって、感謝しています。ありがとう」といって、電話は切れた。
もう二度と、あのひとと話をすることはない。好きな女優さんから幸運にももらえた最後のひと言が「ありがとう」だなんて、私はなんて幸せ者か。
ル・クレジオはフランス生まれだが、その祖先はブルターニュからモーリシャスへ渡った移民だという(ウイキより)。モーリシャスは列強の植民地支配に翻弄された歴史をもつ。友人の奥さんがこの国の人で、彼らがウチへ泊まりにきたとき、私は「モーリシャスって独立国?」って失礼な質問をしてしまった。「いいのよ、みんなそういうわ」と笑い飛ばしてくれたこのモーリシャス人の奥さんは、サリーを捲き額にビンディをつけ手の甲をヘナで染めた、とてもインドチックな女性なのだった。
ル・クレジオの小説は、移動し漂流し放浪する人々を題材にしているといわれるが、そのことが、あの女優(ひと)に共感を呼んだのか。彼女もまた、定住とか落ち着くとかいう言葉と縁遠いイメージだ。今回の受賞は、どこで聞いたのだろう。彼女にとって嬉しいニュースだったのだろうか。
その女優の名は、ぎんなんさん、アナタならわかるはず。
……と書くと、他にもわかる人、いるかしら?
でも、お願いです。コメント欄に答えを書いたりしないでください(笑)
では、死んだものは……? ― 2008/10/20 15:38:05
マグダレン・ナブ著 立石めぐみ訳 酒井信義絵
福音館書店 世界傑作童話シリーズ(1995年)
短めの童話を立て続けに読んでいる。
つくづく、わたしにはこのくらいの読み物がいちばん肌にしっくり来るなあと思うのである。小難しい本や理屈っぽい本は基本、脳を鍛えるため(だけ)に読んでいる。その類の本で皮膚感覚に逆らわない「しっくりくる感じ」を味わえるのは愛するウチダの本だけである。またまたもう、という人がいるかもしれないが、わたしの場合、ホントなの。
ふつうは小学校高学年くらいを意識した小説や童話などが、自分の脈拍の速度にも合い、狭小な視野にもぴったりはまり、粗い思考回路にも潤沢に流れてくれるのである。たぶん、わたし自身がその年頃にあまり童話や小説などの本を読んでいなかったので、身体の中のどこかにある、「そういうもの」で「満たされるべき部分」が長いあいだ枯渇していて、ほしがっていたところに、今、大人になってからとはいえ、こうしてやたら注ぎ込んでやるから喜んでいるのであろう。
たいへん心地よいのである。
イリーナはクリスマスが好きではない。
イリーナの家は忙しい農家。学校からも遠いので、一緒に帰る友達も遊ぶ約束をする友達もいない。いたとしてもそれはイリーナには許されないこと。帰れば両親の手伝いが山のように待っている。
町には家庭で必要なものだけを買いに来る。飾りつけた店の前であれがほしい、これがほしいとねだるよその子を見ても、けっして同じ振る舞いは見せないイリーナ。
親にほしいものをいえない、というよりは、自分にとってほしいものがなんなのか、それすら見つからない、イリーナ。
ところが、薄暗い古道具屋に、ほこりだらけの木馬が見える。他の古道具に押し潰されそうになっている木馬……生まれて初めてイリーナは「ほしい」と感じ、両親に「買って」とねだる。
まるで本物の馬の世話をするように納屋に藁を敷き、木馬の居場所を作り、毛並みを整えてやるように、ほこりを払ってみがいていく。するとある夜……。
古道具屋の主人である「おじいちゃん」はイリーナにこういう。
「この世に生きているものはすべて、おまえのものなんかじゃない。そんなことを信じていたら、いつかつらい涙を流すことになるよ」
生きているものには、それ自身の生きる「生」があり、それは「誰か」や「どこか」に属するものではけっしてない、という意味だ。木馬がイリーナの「もの」ではないように、イリーナも両親のものではない。だからイリーナは、ただ言いつけだけを守って親に従って心を開かずにいるのをやめて、自己主張を始める。木馬がそうして見せたように。
先日出奔したイモリのヒデヨシに思いを馳せた(あ、話はそこへ行きますか、といわずに聴いてくれ。笑)。
わたしが世話をしているものはわたしのもの、と人は何でも思いがちだが、そうではないことをヒデヨシは身をもって教えてくれたのである。
娘はもちろん、猫だって、カエルだって。
あるいはこれから世話をすることになるやもしれぬ老親だって、支配権や所有権は、わたしにあるわけはない。
だが死んだらどうなのだろう?
死んでしまったものたちについては、「わたしのもの」と思ってもよくないか?
せめて記憶の中でだけでも、わたしだけのものであってほしい。
そう思うのは罪作りだろうか、罰当たりだろうか。
死んでしまったものたちの魂はそれこそなにものにも束縛されず自由であるだろうから、それらの記憶を「わたしのもの」として留める事を許してほしい。
(だから緒方拳も峰岸徹もフィリップ・ノワレもわたしのものと思いたい。あ、そこへ行きますか、と軽蔑しないでください)
本書では、濃度の低い水彩絵の具をたっぷり筆に含ませてぽとぽと落としただけのような絵が、読者の想像を邪魔することなく、冬の朝日のように控えめな光を、物語に射している。
一生わからないと思う ― 2008/10/31 19:13:14
『しずかに流れるみどりの川』
ユベール・マンガレリ著 田久保麻理訳
白水社(2005年)
マンガレリの『おわりの雪』について書いたのはもう一年も前のことなんだ。自分でちょっとびっくりしている。
http://midi.asablo.jp/blog/2007/11/08/1897843
『おわりの雪』がまさに雪の色をしていたのに比べて、こちらは草の色でむんむんしている。タイトルの「みどりの川」は主人公の記憶の中にあリ、今人物の眼前にある情景として描かれているのではない。にもかかわらず、やはりタイトルにあるせいだろう、わずかな記述しか割かれていない「みどりの川」の存在感は物語の中にいる二人にとってとてつもなく大きい。
ここでいう物語の中の二人とは、主人公の少年と、読者である。
少年は、自分よりも背の高い草の生い茂る原っぱを、潜るように歩くのが好きである。草を踏みしめて道を作り、それでもなお左右から覆いかぶさる草で「トンネル」ができる。そこへ毎日歩きに行く。歩きながら、さまざまなことを思う。思い出し、空想し、考える。
いま住む町へ引っ越す前に住んでいた町には、川があった。藻が繁殖しているせいで川は深い緑色に見えた。少年は、その川で父が釣りをしていたと記憶している、と思っている。だがその記憶は不確かで、父は、釣りをしていたことは思い出せないという。
父は、静かに流れる緑の川が前の町にあったことは憶えているけれど、その記憶自体に関心はないのだ。
だが少年の心は川の緑色にとらわれる。
その色は、彼がトンネルと呼ぶ草原の緑とは微妙に異なって読者には感じられる。物語の季節は夏で、眩しい陽光が容赦なく照りつける草原の緑は浅く黄色っぽく浮かぶからだ。だが父と少年が住む家の裏に茂る「つるばら」からは深い葉の色が想起される。つるばらを殖やしてひと儲けしようと考える父の脳裏には、緑の川の緑の代わりにつるばらの緑が繁茂している。
読者の思いはしかし、少年の「トンネル」内部の深淵に「しずかに流れるみどりの川」を見、彼の父への純真な愛情をその色とオーバーラップさせ、やはり父ではなく少年と「みどりの川」を共有するのだ。
父と息子とは、なんだろう。
父と息子とは、どのようにつながっているものなのか。
私には永遠にわかるはずのない問いである。
私の周囲には、幸か不幸か「傍目にも羨ましく思えるほど」「強い絆で結ばれた」あるいは「とてもよい関係を構築している」父と息子ただ二人の家族というのが存在しない。
仲良しの父と息子は掃いて捨てるほど(あらごめんなさい)いる。
でも必ずそこには「妻」とか「娘」とかが絡んでいて、男二人だけの世界を謳歌している例はないのだ。
だから本書のような物語の、行間や、後ろにある、目に見えない父と息子特有の紐帯のありようが想像できない。
それはおそらく母と娘にはありえないものなのだろう。