なぐさめには、ならない2007/06/22 12:33:45

ウチの「くノ一」。


『風になった忍者』
広瀬寿子・作 曽我 舞・絵
あかね書房(1991年初版第1刷、2007年第21刷)


正之はいとこの美沙と宏おじさんと「忍者屋敷」に来ている。正之と4歳違いの兄・俊郎は、8年ほど前にこの忍者屋敷に遊びに来たときに、近くの沼に落ちて行方不明になった。
その時一緒に忍者屋敷へ来たのは、今と同じ、宏おじさん、美沙、正之だった。
当時4歳だった正之には、兄の印象がおぼろげにしか残っていない。歳の近い美沙は俊郎のことを、足が速くて忍者みたいにすばしっこくて、弟思いの優しい男の子だったという。
落ちたといわれた沼は、埋め立てられて公園になっている。
その沼から俊郎が見つかったわけではなかった。懸命の捜索がなされたが、俊郎は二度と正之たちの前に姿を現さなかった。
正之は、仕掛けがいっぱいの忍者屋敷を見学しながら、兄のことを考えた。忍者が大好きだった兄には、この屋敷はさぞ面白かっただろう。屋根裏までのぼって何気なく壁に力を入れると、壁がくるりと回ってなわばしごが下がっているのが見えた。隠し部屋だな。なわばしごを伝って、どきどきしながら降りていく正之。

壁の向こうは別世界。異次元であったり過去の時代だったりよその国だったり。とにかく自分がいるはずの世界とはまったく違うところに滑り込んでしまって不思議な体験をさんざんしたあとまた元の世界に戻る。
ファンタジーの古典的な定型といっていいだろうか。『不思議の国のアリス』、『オズの魔法使い』。『ピーターパン』もそうかな。
日本の作品なら『銀河鉄道の夜』も、そうだ。
うん、物語の結末に感じる切なさでいえば、『銀河鉄道の夜』に似ているかもしれない。

正之は、びっくり仰天命がけのめまぐるしいほどの体験をしてまた元の場所へ戻る。忍者屋敷の喫茶フロアで待っていた美沙に「面白いもの、見てきた?」と聞かれて「見てきた」と答える。それで物語は終わる。
像を結べないぼやけた記憶の断片や失われたと思っていた時間を取り戻せた達成感。それでもやはり実体とは永遠に会えないという虚脱感。
最後の正之の台詞の短さに、両方が凝縮されている。
あっけないようだけど、この終わり方はとてもいいと思った。

うーん、ネタバレしないように頑張ってんだけど、してるかな。だって、たぶんここを読んでくださる皆さんは半端じゃない読書量だから、ありきたりなストーリーの中身なんて、もうすけすけでしょう。

昨日の『のどか森』でも書いたけど、善悪や、勝負の行方がはっきりしていて、みんなが幸せになる結末が、子どもに読み聞かせるにはわかりやすくてよい。子どもは親の声だけでイメージを膨らませ、次の展開を予想する。容易に予想できるほうがいいし、期待は裏切られないほうがいい。ウチの娘は忍者といえば『忍たま乱太郎』以外には知らないし興味もないので、もし凝った展開だったら途中で聴くのがいやになっただろう。だがストーリーは、忍者の世界うんぬんよりも、登場人物の心の動きに読み手(聞き手)が惹き込まれるように、ちゃんとできている。「子ども用の文学」としての目的は達成されるのだ。というわけで、本書もウチの子への読み聞かせに限っていえば、マル。

だが、最初のほうで切ないと書いたように、この物語は切ない。
この国には行方不明になったまま消息の知れない子どもたちがたくさんいる。その子たちの親の気持ちを思うと、本書のような物語は、その悲しみを増幅させるだけで、なぐさめにはならないと思うのだ。それは、いかんともし難いことだけど、悲しい。

切ったほうがいい場合もあるのだ2007/06/21 07:36:34

まつぼっくり。
横にあるのは(ミニチュアじゃない普通の)マッチ箱。
んー。ほんとにこれ、まつぼっくりと呼んでいいのか?


『のどか森の動物会議』
ボイ・ロルンゼン作 カールハインツ・グロース絵
山口四郎訳
童話館出版(1997年)


これも森のお話。
「のどか森」の隣には「かわず村」があって、森と村は仲良く持ちつ持たれつしてきたが、あるとき村民はいきなり「大金持ちになりたい」などと思い始め、そのために森の木を切って売ることを、村会議のときに満場一致で決める。
人間の言葉がわかる賢いカラスのヤコブスは、これを聴いて仰天。大慌てで森へ帰る。
森には動物たちのまとめ役として、木の根っこの妖精、ペーターがいた。ヤコブスの報告を聞き、ペーターは知恵を絞る。動物たちに全員集合をかけ、会議を開き、かわず村の連中になんとしても木を切らせてなるものかと、一致団結して行動に出る。
人間と動物の駆け引きが始まる。
動物があの手この手を使っても、人間は容赦なく木を切る。
しかし、動物の仕返しも、容赦ない。
平和だったかわず村の、人々の心が少しずつすさんで……。

のどか森とかわず村は、最終的には和解する。
根っこの妖精ペーターは、数を決めて年に数本の木を切り、あらたに植樹をしてほしいと提案する。そうすれば森にとってもよいし、村のみんなも潤うはずだと。

なんというか、とっても優等生的な終わり方が、途中のハチャメチャな動物たちの行動に比べると落差があって物足りない。けれども、小学生に読み聞かせるには、これくらい真面目で正しい終わり方のほうがわかりやすくていいのだろう。今後について何も示唆していないし、村と森のいい関係が未来永劫続くと感じさせて安心できる。環境問題や地域社会の人間関係についても投げかけて、とってもためになる。単純なウチの子にも理解でき、満足できた貴重な一冊。

ただし、登場人物の名前がすべて律儀にドイツ語発音を仮名表記してあって、舌をかみそうになるのが辛かったよ。シュトッフェルとか、チムトチッケルとか、ジギスムントとか。せっかく「のどか森」「かわず村」という名訳をしているのだから、人物名もちょっぴり工夫して欲しかった。……というようなことを愛読者カードに書いたりしている私。

日本の山地にも根っこのペーターみたいなのがいてくれたらな。ちょっとお役人さん、あのスギやヒノキ、切ってくださいよ、そして温かな木の家をもっと建ててくださいよ、無味乾燥な鉄骨とタイルのビルばかりじゃなくて。スギやヒノキは、花粉を撒くだけの人生はもういやって言ってるんですがね。

わたしたちのはじまりは2007/06/20 08:54:47

コンビニで買った「小玉スイカの種」が芽を出して次々葉を出してます。
我が家のスイカのはじまり。


『はじまりの樹の神話』
岡田 淳 作/絵
理論社(2001年)


岡田さんの本については、目下のところどれも例外なく面白い、という感想を持っている。この作者のことをあまり知らずに何気なく借りた『不思議な放課後』だったか『放課後の時間割』だったかを読んで、へーえ、と感心した、失礼な言い方だけど。
こんなに、ほとんど日常生活モード、どこにでもある学校モードの設定で不思議な世界を描くなんて。
『びりっかすの神様』なんて素晴しすぎる。
とにかく、児童書についてとっても暗い私は、子育てを通じて多くの児童文学作家の秀作を読ませてもらえることがただただ幸せに思えてしかたがない。子どもに感謝する。

岡田さんに惚れた私は、「こそあどの森の物語シリーズ」を全部買い揃えることを目標に、手始めにこの『はじまりの樹の神話』を買った。
たぶんシリーズの最初から読めば「こそあどの森」や登場人物についての理解も早かろうが、へそ曲がりな私は当時の最新刊だった6巻目の本書を買った。表紙画にいちばん不思議臭を感じたからだった。

主人公のスキッパーは博物学者のバーバさんと一緒に住んでいる。バーバさんはまた旅に出た。一人になったスキッパーのところへ、光る尻尾をもつキツネがいきなり現れ、今すぐ一緒に来いという。
「森のなかに、死にそうな子がいるんだ」(11ページ)
「スキッパーがいけば助かるんだ」(同)
わけがわかんないけど、死にそうな子を見殺しにはできないので、スキッパーは変なキツネのいうとおり森へ入っていく。
なんでキツネが言葉を喋るの? なんで僕を指名するの? 疑問はつきないが、森の奥にたどりつくと考えるまもなく救出作業に入らざるを得なくなった。
女の子が、手足を縄で縛られ、巨木にくくりつけられている。
「急いだほうがいい」キツネがささやくようにいいました。「その縄をほどいてくれ。おれにはどうしてもできなかったんだ」(18ページ)
スキッパーは縄をほどくのに成功し、女の子を担いで帰路につく。
その女の子は、とんでもないところからやってきたのだ。
女の子がくくりつけられていたあの巨大な樹は……。

まだ神がひとの近くにいた時代。
草の茎と根と、木の実が暮らしの糧だった時代。
本書は、読者を時空を超える旅にいざない、そうした時代の幸福な空気を少しだけ味見させてくれる。
登場人物のうちレギュラーメンバーは欧風だが、キツネと女の子には「弥生」を感じる。ん? 「縄文」か? わからん。

ものすごく壮大な物語というわけではないけれど、深い森や巨木といった風景の水平な広がりも、時間の流れもイメージできなかった当時のウチのお嬢さんには難しすぎた。
そんなわけで「こそあどの森シリーズ」は本書のほかに『ミュージックスパイス』を加えたところでいったん停止中。
自分で読んでくれたらいいんだけどなあ。

ジェーンとエミリー、どちらがお好き?2007/06/19 06:16:10

手作りトリュフ。
たしかバレンタインの頃、いっせいに店頭に並んだチョコづくりキットでつくった。で、自分たちであっという間に食べた。
「トリュフ」の名が、実は豚にしか見つけられないけったいなキノコの一種を指すってこと、どのくらいの認知度なのかしら。


『カモ少年と謎のペンフレンド』
ダニエル・ペナック作 中井珠子訳
白水社(2002年)


「カモ」は鴨ではなく、少年の名前。物語の設定では「カモ」の母親は10か国語(以上?)に通じているので、たぶん息子の名前に異国風の名前をつけたんだろうな、と思わせる。カモの名前はどうでもよいのだが、このお母さんは重要人物である。

前にペナックさんのことには触れたけど、こういう作品を読むと、「外国語の習得は母語を豊かにする」という考えがペナック氏を貫いていることがよくわかる。
フランス語からみた外国語とはまず、英語、ドイツ語、スペイン語などなどヨーロッパ諸語だが、いうまでもなくこれらの言語はきょうだいかいとこみたいなものだ。極端な言い方をしちゃうと日本のいわゆる共通語と津軽ことばや琉球語などとの違いほど、違わない(と思う)。彼らにとって習得はさほど困難なことではないので、小学校から学習する。
日本においても方言を排除するのでなく保存に努め、その言葉でしか表現できない固有の地域文化を大切にしようとする活動があって私は大賛成だが、隣接の言語文化に通じることは間違いなく母語を厚くする。
フランス人はフランス人であると同時にヨーロッパ人でもあるから、隣国の言語ひとつやふたつの習得は必須なのだ。

カモは英語の成績が破滅的。多言語に通じるカモの母親は息子が情けなくてしかたない。転職癖のある母親は、「私が次の仕事を3か月続けることができたら、今度はあんたが3か月で英語をマスターするのよ!」とカモに宣戦布告まがいの賭けを申し出る。で、母親は3か月をクリアしてしまった。
途方に暮れるカモに、母親は英国人との文通を勧める。まったくやる気のないカモ。とりあえず受け取った手紙は当然ながらチンプンカンプンで、友達に翻訳してもらう始末だ。
しかしやがて、カモはその内容に惹かれ始める。手紙の主キャシーが切々と書き綴るかの国での暮らし。カモはやがてむさぼるようにキャシーの手紙を読むようになり、必死で自ら「英語で」返事を書くようになる。
英語の成績急上昇。しかしカモの顔色は冴えない。恋の病とでもいうのか……。

文通相手との仲介をするのはバベル社。カモの上級生にもバベル社の仲介でロシアのペンフレンドと文通している少年がいる。
で、彼も半病人のようなのだ。
バベル社経由で文通している人はみな、何かにとり憑かれている……?


いまどきペンフレンドはレトロだけど(本書の原書はもう十年以上前に書かれているので無理もない)、手紙を書くのが大好きで何人かのペンフレンドを持った経験のある身としては、文通の醍醐味はよくわかる。

「バベル」社という名前は、今まさにタイムリーというべきか(笑)。

物語を通じて、外国語を学ぶにはその国の文学に触れるのがよい、というメッセージが送られる。カモのペンフレンド、キャシーの向こうには『嵐が丘』が見える。上級生のロシア人ペンフレンドの向こうにはドストエフスキーが見えるのだ。

私は『ジェーン・エア』も『嵐が丘』も読んで、描かれる世界の意味がイマイチわからなかった若い頃には『ジェーン・エア』のほうが好きだったけど、何年かのちに再読したら『嵐が丘』のほうが好きだった……ああ、たぶんケイト・ブッシュが好きだった頃と重なるのだ。
さて今はどうだろうか、読む気全然起こらないけど(笑)。

本書はダニエル・ペナックへの興味から自分で買い求めた本だが、娘に読み聞かせたところ、ブロンテもドストもてんでわからないにしろ、物語の結末には大満足♪だった。

好きなことができる時代なんだし2007/06/18 08:39:24

ウチの小梅の実。鳥が食べにくるのももうすぐ……。

『せんべいざむらい』
今江祥智/作 宇野亜喜良/絵
佼成出版社(2004年)


山のように絵本のある我が家だが、お話の本はめっぽう少ない。
我が娘がまるで読もうとしないからである。
私も自分自身が児童文学を読んで育ったなどとはとてもいえないし、手始めにどれが良いやらも見当がつかないので、何を勧めてよいやらわからずじまい。で、けっきょく私自身の好みや挿絵の美しさで本を選んで、娘が読むかどうかの観点では失敗をさんざん繰り返した。
だから、まずは買わずに図書館利用一辺倒でお話の本は読み聞かせてきた。わかりやすくてさっさと結末にたどりつける、短いもの。民話系が多い。○○県伝承民話集、なんて類いは思いっきり彼女のツボにハマる。
そういうわけで娘はハリポタやエルマー、ロードオブザリング、ネシャンサーガなんつう今どきのヒット文学はなんにも知らない。
学校や自治体は「子ども読書100冊マラソン」なんてイベントを立ち上げ、読んだ数を競わせて子どもを本好きにしようと躍起だが、そういう手には見事なまでに乗らないのが我が娘だ。

てなわけで、数少ない我が家のお話の本の中から私が偏愛している本その1、『せんべいざむらい』。

今江さんの本はあまり読んだことがない。児童文学の大御所だし、幼い頃にそれとは知らずに読んだものがあるかもしれないけど、記憶にない。
いっぽう、画家・宇野亜喜良は大好きである。イロエロカワイイ少女なんかを描いて昔から人気だが、書店で「宇野亜喜良」と書かれた本を見ると低血圧ながら一気に血圧が上昇するのを感じる。手にとってページを繰ってウホウホと興奮せずにいられない。

本書は、その宇野さんの描く少年侍がしゃぶりつきたくなるくらい可愛いのである。侍の子として生まれ、武士道を歩まねばならないのだが、少年が心惹かれるのは小さな店で老夫婦が売るせんべい。そのうまさに惹かれ、せんべいを焼く主人の手さばきに惹かれ。
やがて少年は寺子屋の帰りなどに店に出入りし、せんべいを焼かせてもらうようになるが、その行為を厳格な父に知られて――。

宇野さんの描く人物は、顔の表情は豊かだけれども、ボディが描かれている場合、なんとなくからだが薄っぺらくて紙の人形みたいに思え、それがまた非現実的雰囲気を漂わす効果はあるのだが、イロエロチックな絵はオッケーでも、時代劇だとちと重みにかけるかも知れん、と感じなくもなかった。

今江さんと宇野さんのコンビの本はたくさんあって、私も本書のほかにもう1冊『オリーヴの小道で』(BL出版)を持っている。
この2冊のほか、今江さんの本は数えるほどしか読んでいないのにこんなことをいってはなんだが、ちょっと「行間でモノをいいすぎ」のように思う。時間の経過や、台詞の向こう側の人物の気持ちの揺れ動きなど、ウチの子のような単純な脳ミソでは感じ取れきれない。大人でも難しいぞ、きっと。

『せんべいざむらい』の設定は面白い。武士の子は武士だった時代の、少年の可愛らしい抵抗。そして何よりせんべい屋主人と心のかようさまは、ほのぼのと胸をあたたかくさせてくれる。

うーんしかし、その、「しみじみ」「ほのぼの」は、がさつざかりの小学校低学年の心にどれほどしみていくのだろう。
本書は佼成出版社が出している「おはなしわくわくシリーズ」のひとつで、小学校1、2年生からが対象となっている。文字の大きさも、思いっきり低学年向け(でかい)。
感受性が豊かで、この世界を堪能できる子も、そりゃいるんだろう。いるんだ、きっと。
しかし、こんなに字が大きくて宇野さんの絵が美しいのに自分では読もうとしない、ワカラズヤの娘に読み聞かせたところ、最後に彼女は言った。
「それで? ……え、それでおしまい?」

というわけで、ウチでは失敗の巻。

耳を、澄ます その32007/01/16 09:09:32

『超・ハーモニー』
魚住直子著
講談社(1997年)


『非・バランス』がとてもよかったので第2作も読んだ。
タイトルは第1作を意識し過ぎじゃないかと思える。
不協和音が美しい和音になったその先を暗示したタイトルで、よくできているといえなくもないが、私は古い人間なのか「超」という表現があまり好きではない。

主人公の兄がいう。
「音をひろってるんだよ」
散歩していると、赤ん坊をあやす声や、包丁で野菜を切る音や、夫婦喧嘩らしき諍いや、ドアが開いたり閉まったりする音が、よく耳を澄ますと聞こえてくるよ、という。
ふうん、と弟は興味なさそうに聞いている。
「この家にもいろんな音がある」と兄はいう。
ドアのきしみ、すきま風。
主人公である弟は、両親と自分との間に亀裂が入り始めているのを感じている。それを、久しぶりに実家へ帰った兄に指摘されたように思えて、どきりとする。

物語は、よくできるイイ子を持つ家庭が陥りがちな親子間のコミュニケーション不足を描いている。家庭には訳ありの兄、学校には斜視で太った冴えないクラスメートを配し、彼らとの接触で主人公が成長していく。

私は兄のこの言葉がとても気に入った。

音をひろう。

彼は音をひろってそこからイマジネーションを広げて作曲する。そんな真似はできないが、音をひろって想像することはできそうだ。耳を澄まし、耳に届くものに思いを馳せることはできそうだ。
そんなことを教えたくて、去年この本を娘に読み聞かせた。お話はとても気に入ったようだ。主人公の兄をとても素敵な人物だと感じてくれたようだ。
そしてそれ以来、彼女はなんとかやっくんという名前のタレントが気になってしょうがないらしい。

ルーツをたどること その22007/01/15 10:28:56

岩瀬さんの『迷い鳥飛ぶ』の主人公は、嘘かほんとかわからないような話をべらべらとしゃべりまくって相手の反応を見て楽しむという性癖のある幼なじみを疎ましく思いながら、自分もそんなふうにあることないこと次々としゃべってみたいと思っていたんだ、ということに気づく。

そして、ちょっと乱暴な口の利き方をする中学生の少年と一緒になって、日系人のカラキ老人に、日本のこと何にもわかってないよ、なんてまくしたてたりする。

そして、その中学生の少年とも、迷い鳥のことで口論する。

カラキ老人のことを好ましく思っていない主人公の父は、老人の話の腰を折り、考えを否定することに余念がないように見える。そんな父を母が責めている。母はカラキさんをきちんともてなしたいのだ。
しかし、アクシデントが起きたとき、母は老人に目もくれなかった。父は、老人を責めていたけど、面と向かい、相手の言い分も聞いていた。

岩瀬さんは、子どもがその澄んだ目で、いかに周囲をよく見ているかを描いて素晴しい。子どもたちは特別でもなんでもない、ごく普通。であるけれど、その小さな胸が、日々、葛藤や驚きとか、自尊心と慈愛のせめぎあいとか、小さなねたみや憎しみ、喜びや感動の連続に、時に耐えられなくなりそう……で持ちこたえるところを描く。

すべての登場人物を、わが子に、あるいは自分自身にあてはめてみる。
この子は私の知らないところでどんな話を誰としているのだろう。
今私がしている会話をどのような思いで聞いているのだろう。

子どもの本を読むと、いつも反省する。
ちゃんと聞いてやらなくちゃ、とか。言葉遣いに気をつけなきゃとか。
すぐに忘れてしまうけど。

先週末、近所の肉屋のご主人が亡くなった。
朝夕、登下校する子どもたちに声をかけてくれていた、優しいおっちゃんだった。
たとえばそんなことを、子どもたちはどのような言葉で、どんなふうに話すのだろうか。

えー信じられないっ、といったり、あの人きらいだったー、とか、うちの母さんはこういってた、とか、誰でもいつかは死ぬだろー、とかいってみたりと、会話はいろんな発言が飛び出ることだろう。いや、そうあってほしい。
話題にならなかったり、関心がまったくない子ばかりなんてことだと悲しい。
また、人の死についてあれこれしゃべれないような空気があったら困る。
(「アホォーお前なんか死んでまえ~」といった子どもに「死ぬという言葉を使ってはいけません」と教師が注意する。「切腹を申し渡す」「ははー」と時代劇ごっこしている男児に「切腹なんていうのはやめなさい」と教師が叱る。そんな学校だし、イマドキ)

子どもが本音で発言できる社会でなくてはと思う。
また、そんな子どもの本音発言に、敏感なオトナでありたい、とつねづね思っているのだが。

ルーツをたどること2007/01/08 15:07:49

『迷い鳥とぶ』
岩瀬成子 著  柳生まち子 挿画
理論社(1994年)


この本には、祖父の生まれた場所を訪ねて来日する日系アメリカ人の初老男性が登場する。結局、祖父が働いていた場所にはたどりつくのだが、生まれ故郷まではわからないまま、彼は帰国の途につく。

私の祖母は、「ウチは十代前まで遡れる」とかなんとかいっていた。
先祖代々、この場所で、連綿と続いてきた家業。たしかに我が家には、百年以上続いた老舗(そんなもん、このあたりじゃ珍しくも何ともないが)に贈られる盾だか賞状だかがある。十代は大げさだと思うが、四、五代くらい前の先祖の名については書き付けが残っている。墓も江戸時代の元号が彫ってあるし。

しかし、根っこをたどれるからどうだというんだ。
そんなもの、現代に生きる者に何の関係もない。
私の時代は今であり、過去じゃない。ご先祖様なんか、ふん。

そんなことをほざいて、若い頃は「先祖代々云々」が疎ましかった。
早くこの軛から逃れたかったし、意味のない鎖を断ち切りたかった。
生まれた土地に家族と住んでいるうえ、どこまでもたどれる深い根っこを持つ私は、ディアスポラ(離散を余儀なくされた人々)と思いを共有できない。
私は彼らがうらやましく、そうした状況で精神を鍛えたかったと切に思っていた。
自分の痕跡をたどれない。持っていたはずの根を切られ、生死の境を浮遊する植物のような状況。そうした中で生きていてこそ、ほとばしる感情や生命を表現できるはずだ。負荷の大きい道のりであるほど、何に対しても真剣に向き合わざるを得ないはずだ。
がっしり根をはった太い幹から伸びる枝の先に安穏とのっかっていては、何事にも本気にはなれないのだ、と。

しかし私は、愚かにも、中年になってようやく気がついた。
ディアスポラの悲劇など、とうてい理解できるものではない。
日系人として他国で生きる人々の命がけの生活など、想像もおよばない。
帰国残留孤児や在日コリアンの立場に、一度でも、立ったことなどない。

老舗の伝統を維持することの厳しさに挑戦すらしなかった。

そのような私に根っこの有無を議論する資格はないのだ。

この本の日系人・カラキさんの存在は、主人公の少年少女の心にどのようにはたらきかけたのか、読み手の心に何を訴えかけたのか。著者はルーツをたどろうとしてうろうろする日系人を描くことで、子どもたちに何をいいたかったのか。
「わかるような気がするだけ」の私には、こうした問いへの答えを導くことはできず、ただ、自分の子どもに考える機会を与えただけで精一杯だった。

耳を、澄ます2007/01/05 12:18:15

『音さがしの本 ~リトル・サウンド・エデュケーション』
R・マリー・シェーファー、今田匡彦 共著
春秋社(1996年)


谷川俊太郎さんの「みみをすます」という詩がものすごく、好きである。
娘は「生きる」が好きで、この二つの詩が我が家のボロふすまにぺたぺたと貼られている。
頭がボーっとしている朝や、時刻を問わず退屈で手持ち無沙汰だなと思ったら、ふすまに貼った詩を読む。時には大声を張り上げて。
「みみをすます」はひらがなばかりだが、描かれる風景が少し時代を遡るので、娘は理解しにくいようだ。そのかわり(というと変だが)、「生きる」の一節の「それはヨハン・シュトラウス」のくだりに好き勝手な人名を入れては、けらけら笑っている。
アホ、それが詩を鑑賞する態度か! などと叱るどころか一緒になって名詞着せ替えごっこをしている私。

「みみをすます」は、そういうふうには遊べない。
この詩には、私たちが耳を塞いだまま、聞かずにほうっておいたまま、永遠に失くしてしまった音があまりに多く描かれていて、切なくなるのだ。
この詩を読み、記憶の中にある音を探す。記憶の中にある音を、今再び聞けないか、周囲に耳を澄まし、音を探す。

「ほんの少しのあいだ、すごく静かにすわってみよう。そして耳をすましてみよう」

『音さがしの本』の中の、一節である。小学生向けのこの本は、いかに私たちが多様な音に取り囲まれているか、そしていかに多くの音に気づかないでいるか、を気づかせてくれる。

「たぶん、ほんとうの静けさなんて、ありえないのだろう」
「なにが聞こえていて、なにを聞きたいのか? ほんとうに、だれもが考えてみなければいけないことだ」

この本の著者の名を教えてくれたのは、ピアノ教師をしながら音楽療法の勉強をしていたある友人である。音信が途絶えてしまったが、彼女への感謝の念は尽きない。

下記は、ある場所に提出した「耳を、澄ます」という拙稿の草稿(なぐりがき)である。とりあえず書きたいことをだだだっと書いた、体裁を整える前の、最初の文章。冗長で散漫だが、全文をここに貼りつけておく。
前述の友人、ならびにこの『音さがしの本』への感謝をこめて。


「耳を、澄ます」

 風邪を長引かせていた娘の耳に異変を発見。耳だれが出ている。
 「お耳、痛くない?」
 私の問いかけに、娘はきょとんとした顔でかぶりを振った。耳孔の周りにべっとりとついた膿のような液体は半ば乾いている。痛み、あるいは違和感があったとしても、もう数時間前だったのだろう。まだ二歳にもならない娘は、耳が痛くても気持ち悪くても、それを言い表す術をもたない。ましてや、睡眠中なら気づきもしないはずだ。膿が鼓膜を破り、耳の外へ流れ出て押し寄せる……などという具体的な夢を見てうなされる、などということが二歳の子どもに起こるとも思えない。
 「幼児にはよくある症状ですよ。細菌性でなければ心配はないし、風邪が治れば耳も治ります」
 かかりつけの小児科医の言葉に安堵して、私は娘の耳にせっせと点耳薬を落とした。幸い、耳だれはその日以降、もう出現しなかった。

 しかし、子どもはしょっちゅう風邪をひく。保育園に預けていると、病原菌は次々と現れては空中を伝播し、容赦なく、これでもかといわんばかりに幼児の体に入り込む。娘の耳に耳だれを再発見するのに、さほど時間はかからなかった。
 再び小児科医の診察を受け、前回と同様の処方をしてもらい、そして症状は治まった。

 ところがある日、私は娘の別の異変に気がついた。
 初めて耳だれを出した日から数か月は経過していた。二歳半の娘はよく話し、歌っていた。だがこの日、いつもかける童謡のCDに反応しない。
 「お歌、歌わないの?」
 私が声をかけると、意味がわからないといった様子でじっと私の目を見る。ラジカセの音量を一気に上げると、目が覚めたように音に合わせて歌い始めた。
 私は試しに後ろからそっと、名前を呼んでみた。応答しない。声を張り上げて呼びかける。「はーい」娘は、大きな音声しか聞こえないのだ。
 二度目の耳だれが出たと告げたとき、保育士のひとりに「耳鼻科専門医へ行ったほうがよい」と言われたことを思い出し、私は迷わず耳鼻科医院をたずね、娘を診てもらった。

 滲出性中耳炎。風邪や発熱で併発する急性中耳炎が完治しないと、鼓膜の内側に常に膿などの液が溜まった状態になる。鼓膜を突き破る勢いはないが、だがこのせいで鼓膜が振動しないので音が伝わらないのだ。
 「慢性化しやすい病気です。じっくり根気よく経過を見る必要があります」
 症状に改善が見られないと、鼓膜に通気孔を空ける、副鼻腔の膿を取るといった手術が避けられないという。しかし何より私の頭に響いたのは、医師の次のセリフだった。

 「聞こえが悪いと、発育期に必要な情報が脳まで伝わらない。正しく言葉を発音することや、周りの音を聞き分けるといった能力が育たないのです」

 自治体の発育健診。三歳になっていた娘は「きわめて発育良好」との結果だったが、耳の不安を話すと、保健婦は優しく娘のほうに向き直り、自分の口元を隠して話しかけた。声の大きさがある程度にならないと、近くからの声かけにも娘は返事ができなかった。

 「お母さんの表情、唇の形、お子さんはそれを見て、何を言われているか推察しているんです。聞こえの能力の判断が、お母さんには難しいゆえんです。ですから時々は口を隠して言葉の当てっこをしてみてください。耳元でのひそひそ話ゲームでもいいですよ」

 私はわが意を得たりといった気になって、それから毎日このゲームに興じた。二週に一度、耳鼻科へ定期検診に行き、一か月に一度の割合で聴力検査をした。
 音楽教師をしている友人に、耳が心配だから何か楽器を習わせたいと相談したら、興味深い答えが返ってきた。

 「耳の心配をしているなら、楽器を習わせるよりも、耳を澄ます習慣をつけてあげるといいよ。静かな部屋で、紙を丸めるクシャという音、蛇口から落ちる水滴の音に耳を澄ますの。早朝の小鳥の声や、夜の虫の音に耳を傾けて聴く楽しさを教えてあげて」

 目から鱗が落ちる思いだった。ピアノやバイオリンで耳が肥えても、日常のささやかな音を聞き逃しては不本意だ。そんなことだと、やがては人の心に立つさざ波の音にも気づかない人間になってしまうだろう。

 私と娘は、窓を揺する風の音、隣家の夕餉の支度の音、雨樋に響く小雨の音に耳を澄ました。紙や空き缶を使って音をたて、目隠しをして音の主を当てるなど他愛ない遊びを考えては試した。

 足掛け三年、就学前には娘の聴力は正常に戻った。鼓膜の内側にへばりついていた液はいつの間にか姿を消した。薬の投与も不要になった。
 今でも、風邪が長引いて鼻づまりがひどいと耳が心配になる。そのたび私は小さな音をたてて「今の、聞こえた?」などと尋ねる。
 「今のって……お箸でコップたたいた音のこと?」と、本から顔を上げずにぶっきらぼうに答える娘の声に、心底ほっとするのだった。

2007年になりました2007/01/05 10:29:56

『あなたが世界を変える日』
セヴァン・カリス=スズキ著、ナマケモノ倶楽部編・訳
学陽書房(2003年)


2007年も、もう5日目になった。
正月らしさのない新年。
気候のことである。ぬるいぬるい、生ぬるい冬。
と思えばいきなり冷え込んでドカ雪が降る。
しかし翌日にはまた熱い太陽が照りつける。

ここ20年ほどのうちに、冬の陽射しの強さが尋常でなくなっている。
冷気ではなく熱の照射で、皮膚が痛い。

春の穏やかさは長続きせず、5月頃から真夏の陽気だ。
夏は夏で、この地域では年に一度あるかないかの雷雨・豪雨が頻繁だ。
いつまでも中途半端な暑さが続き、日中と夜半の寒暖の差も中途半端で、葉の色はいつまでも中途半端なまま、冬になる。「錦秋」なんてどこの国の言葉か。

若かった頃、酷暑と極寒のあいだに桜と紅葉のある四季に一喜一憂した。体のリズムは四季とともにあり、他でもない自然によって保たれていることも知らずに、もうこんな気候耐えられない、とよく愚痴った。常夏の南国に憧れた。

一年を通じてぬああんのっぺり、と生暖かい大気につつまれるせいで、今、体がおかしい。リズムの崩れを、感じる。単に年をとったせいかもしれない。しかし体内から「それだけではない」と声がする。

カナダの少女セヴァンがこの本にあるメッセージを発したとき、おろかにも私は今日の体の変調を予期できなかった。
環境汚染・公害問題とはつねに隣り合わせで生きてきた世代だ。しかし、いやだからこそというべきか、これは「社会問題」であり、「自分自身の体の問題」ではなかった。

この本を入手したとき、当時8歳の娘に読み聞かせたら、彼女は自分でもう一度目を凝らして読み、「教室でみんなと一緒に読んで話し合う」といって学校に持っていった。
思えば彼女が生まれたときから、この地球は汚れていた。メディアの「カンキョー」「オンダンカ」の大合唱をいやでも耳にして、育ってきたのだった。
私が8歳の頃にも地球は汚れ始めていただろうが、私たちはそんなことに無頓着でいられた。手近なところに水と緑は生きていて、虫や鳥や小動物を観察して、無邪気に遊んでいられた。環境問題は大人の問題だった。

セヴァン少女も大人になった。事態はますます悪化している。