Rappelles-toi, Barbara...!2011/09/18 10:25:56

Paroles
Jacques Prévert
Folio (1991)


私がたった一冊持っているジャック・プレヴェールの詩集だ。彼の名を知るきっかけになった作品「Déjeuner du matin」と、彼の詩をさらに愛するきっかけとなった作品「Barbara」が所収されている。「Déjeuner du matin」はたいへん簡単なフレーズで成り立っていて、仏語学習初級者にも解る。そう、何を隠そう、この詩を読んだのは通っていた大阪の仏語学校で使用していた教材の中でだった。フランス人講師は、この詩は複合過去形だけでできてるから簡単さ、同様にカミュの『異邦人』は現在形と複合過去形でできてるからこれも簡単、初めて読む仏語小説にはぴったりだよ。と言っていた。私は、美大生の頃にロートレックの小さな画集を買った、フランスものを多く扱う古書店へ行き、カミュとプレヴェールを探したが、そこではプレヴェールが見つからず、しかしカミュの『Etranger』は見つけて買うことができた。フォリオの文庫だったけど、とてもダサイイラストの表紙だった。フォリオの文庫の表紙はその後何回もデザイン替えされている。いまの表紙はけっこうイケてるはず。話をプレヴェールに戻すが、その後私は、フランス語学校で中級に進んだので、使用する教材が変わり、ぱらぱらとめくると、今度は「Barbara」なる詩が掲載されていた。その教材は、家庭学習用のカセットテープが販売されていたので迷わず買い、とぅるるるるるるーと早送りして「Barbara」のページを再生した。プレヴェールの詩「Barbara」を、たいへんええ声の男性が朗読していた。Rappelles-toi, Barbara... この詩に惚れたというよりも「ええ声」に惚れたのではないかという指摘は、たぶん外れていない。私は、そのカセットテープはとっくに失くしてしまったが、Rappelles-toi, Barbara...と聴く者に呼びかけるあの声をまざまざと思い出すことができるのだ。やがて渡仏し、さっそくまちの本屋で本を探すことを覚えた私は、ジャンフィリップ・トゥサンの『浴室』ほか一連の原書と、プレヴェールの詩集Parolesを買った。プレヴェールの詩集はいくつかあったが、鍵を握る(何のだ、笑)2作品が両方とも収録されている詩集ということでこれにした。たくさんの作品があるんだけど、当然読んで理解することができるほどには、まだ仏語が上達していなかった。とりあえず、日本にいた時にさんざん読んだ2作品を繰り返し読むことに留まっていた。
私はフランス歌謡なんぞには興味がなかったので、仏語教室の私より年長の学友たちが「これ、いいわよ」といって餞別にくださったカセットテープの内のひとつの背に、コラ・ヴォケールの名前があったけど、だからって何の感動も覚えなかった。ジョルジュ・ムスタキやイヴ・モンタンなどもいただいたが、ふうん、と思っただけだった。そのうちに、彼らが歌うシャンソンの詩がプレヴェールによるものであることが多々あるということを知る。「Barbara」はピアフが歌っていたし、もらったイヴ・モンタンのカセットには「枯葉」が収録されていた。「枯葉」ってマイルスのトランペットのレパートリーだと思っていたから歌詞があるなんて知らなかったさ。
昨日、9月17日、コラ・ヴォケールが亡くなったというニュースを読んだ。93歳だったって。失礼ながらまだご存命とは思っていなかったので二重の意味でびっくりした。彼女はモンタンより先に「枯葉」を歌った人である。ニュースサイトから動画を探したが、「枯葉」はなかった。



Démons et merveilles 投稿者 mouche45


Les Feuilles Mortes 投稿者 ingi-agzennay


最後に初級レベルの例の詩を試訳する。
簡単だけど、悲しいのよ。


Déjeuner du matin

Il a mis le café
Dans la tasse
Il a mis le lait
Dans la tasse de café
Il a mis le sucre
Dans le café au lait
Avec la petite cuiller
Il a tourné
Il a bu le café au lait
Et il a reposé la tasse
Sans me parler
Il a allumé
Une cigarette
Il a fait des ronds
Avec la fumée
Il a mis les cendres
Dans le cendrier
Sans me parler
Sans me regarder
Il s'est levé
Il a mis
Son chapeau sur sa tête
Il a mis son manteau de pluie
Parce qu'il pleuvait
Et il est parti
Sous la pluie
Sans une parole
Sans me regarder
Et moi j'ai pris
Ma tête dans ma main
Et j'ai pleuré



朝の食事

彼はコーヒーを注いだ
カップに
彼はミルクを注いだ
コーヒーカップに
彼は砂糖を加えた
カフェオレの中に
小さなスプーンで
彼はかきまぜた
彼はカフェオレを飲むと
カップを置いた
私には何も言わずに
彼は火を点けた
煙草に
彼は輪っかをつくった
煙で
彼は灰を落とした
灰皿に
私には何も言わずに
私を見もせずに
彼は立ち上がり
載せた
自分の帽子を自分の頭に
彼は着た
レインコートを
雨が降っていたから
そして彼は出て行った
雨の降る中を
ひと言も口にせずに
私を見もせずに
そして私、私は抱えた
両の手で自分の頭を
そして私は泣いた。

LIBERTÉ2011/08/01 20:06:08

大学ノートに
教室の机に 樹々の幹に
砂に 雪に
ぼくは君の名を書く

読み終えたすべてのページに
何も書かれぬすべての白いページに
石に 皿に 紙に そして灰にも
ぼくは君の名を書く

金彩の絵画に
戦士が抱える武器に
王らの冠に
ぼくは君の名を書く

ジャングルに 砂漠に
巣に エニシダに
わが幼き日のこだまに
ぼくは君の名を書く

夜ごとの不思議に
昼の白いパンに
結びつながれた季節に
ぼくは君の名を書く

青空の記憶の断片に
金色に輝く黴臭い池の水面(みなも)に
月が生きて映る湖面に
ぼくは君の名を書く

夜明けの風のひと吹きごとに
海の上に 船の上に
とてつもない山の頂にも
ぼくは君の名を書く

苔むす雲に
汗かく嵐に
降り止まぬ鬱陶しい長雨に
ぼくは君の名を書く

きらめくものかげに
多彩色の鐘に
肉体的な真実に
ぼくは君の名を書く

目覚めたあぜ道に
拡げられた街道に
はみ出す広場の数々に
ぼくは君の名を書く

灯もるランプに
消えるランプに
集まったぼくの家々に
ぼくは君の名を書く

鏡に映したように二分された
果物と 貝殻の形した
ぼくの部屋のぼくの寝床に
ぼくは君の名を書く

食いしん坊で優しいぼくの犬に
ぴんと立ったこいつの耳に
よたついたこいつの肢(あし)に
ぼくは君の名を書く

玄関のバネ戸に
慣れ親しんだものたちに
祝福の流し灯籠に
ぼくは君の名を書く

さし出された肉体に
友のいる戦線に
差し伸べられたそれぞれの手に
ぼくは君の名を書く

マネキンだらけのショーウインドー
注意深そうな唇
だんまりのその向こうに
ぼくは君の名を書く

壊されたぼくの避難所に
崩れたぼくの灯台に
憂鬱の壁のあちこちにも
ぼくは君の名を書く

欲望のない不在に
剥きだしの孤独に
死の階段に
ぼくは君の名を書く

取り戻した健康に
消え去った危険に
記憶のない希望に
ぼくは君の名を書く

たったひとつの言葉のちからで
ぼくは人生をやり直す
君を知るために ぼくは生まれた
君を名づけるために

「自由」。



(自由/ポール・エリュアール Liberté / Paul Éluard)
※書かれたのは1942-1943とされる。


ポール・エリュアールはフランスの詩人。
Paul Éluard, poète français (1895 – 1952)


原文はコレ。
いろんな人が訳しているようだけど、原詩を読むべし。
今日、初めて、私の言葉にしてみたくなった。
拙訳を読んでくれてありがとう。
だけど、原詩を読むべし。



Liberté


Sur mes cahiers d’écolier
Sur mon pupitre et les arbres
Sur le sable sur la neige
J’écris ton nom

Sur toutes les pages lues
Sur toutes les pages blanches
Pierre sang papier ou cendre
J’écris ton nom

Sur les images dorées
Sur les armes des guerriers
Sur la couronne des rois
J’écris ton nom

Sur la jungle et le désert
Sur les nids sur les genêts
Sur l’écho de mon enfance
J’écris ton nom

Sur les merveilles des nuits
Sur le pain blanc des journées
Sur les saisons fiancées
J’écris ton nom

Sur tous mes chiffons d’azur
Sur l’étang soleil moisi
Sur le lac lune vivante
J’écris ton nom

Sur les champs sur l’horizon
Sur les ailes des oiseaux
Et sur le moulin des ombres
J’écris ton nom

Sur chaque bouffée d’aurore
Sur la mer sur les bateaux
Sur la montagne démente
J’écris ton nom

Sur la mousse des nuages
Sur les sueurs de l’orage
Sur la pluie épaisse et fade
J’écris ton nom

Sur les formes scintillantes
Sur les cloches des couleurs
Sur la vérité physique
J’écris ton nom

Sur les sentiers éveillés
Sur les routes déployées
Sur les places qui débordent
J’écris ton nom

Sur la lampe qui s’allume
Sur la lampe qui s’éteint
Sur mes maisons réunies
J’écris ton nom

Sur le fruit coupé en deux
Du miroir et de ma chambre
Sur mon lit coquille vide
J’écris ton nom

Sur mon chien gourmand et tendre
Sur ses oreilles dressées
Sur sa patte maladroite
J’écris ton nom

Sur le tremplin de ma porte
Sur les objets familiers
Sur le flot du feu béni
J’écris ton nom

Sur toute chair accordée
Sur le front de mes amis
Sur chaque main qui se tend
J’écris ton nom

Sur la vitre des surprises
Sur les lèvres attentives
Bien au-dessus du silence
J’écris ton nom

Sur mes refuges détruits
Sur mes phares écroulés
Sur les murs de mon ennui
J’écris ton nom

Sur l’absence sans désirs
Sur la solitude nue
Sur les marches de la mort
J’écris ton nom

Sur la santé revenue
Sur le risque disparu
Sur l’espoir sans souvenir
J’écris ton nom

Et par le pouvoir d’un mot
Je recommence ma vie
Je suis né pour te connaître
Pour te nommer

Liberté.

Pour Areva, la décision de l'Allemagne de sortir du nucléaire est «très hypocrite» .... Publié le 30 mai 2011.2011/06/11 00:47:29

原典はここです。
http://www.20minutes.fr/article/733104/areva-decision-allemagne-sortir-nucleaire-tres-hypocrite

(20minutes.fr / 2011年5月30日付)
アレヴァに言わせればドイツによる脱原発の決断は「単なる偽善」

【エネルギー】
我が国を代表する原子力企業のスポークスマン、ジャック=エマニュエル・ソルニエによれば、「ドイツが2022年に向け脱原発を宣言したことは驚くに値しない。むしろ、どのような代替エネルギー案が出てくるのか非常に楽しみだ」

Q 2022年向けてドイツが脱原発宣言をしたことをどうお考えですか? そしてこのことはアレヴァにどのような影響を与えるでしょうか。

A この決定じたいはシュレーダーさんがすでに2000年に発表されてます。当時、2021年までの脱原発を宣言したんです。ですから同じようなことを聞かされてもスクープでもなければ革新でもなんでもない。そしてシュレーダーさんと同様、メルケルさんも、ドイツの電力消費の22%を占める原子力発電に取って代われる方法について何も説明しないままです。

Q ドイツは再生可能なエネルギーの開発に野心を燃やしています。彼らの回答はそのあたりから自ずとくるのでは?

A アレヴァは海上風力発電に関してはヨーロッパ第二の推進役です。ですから、再生可能エネルギーについては知り尽くしています。非常に高いポテンシャルを持ってはいますが、その発電は断続的なんですよ。しかし、送受電ネットワークは、連続的に発せられる電気を継続して運ぶことを前提に成り立っているものです。断続的な発電は想定しておらず対応できません。したがってネットワークは「ダウン」します。なるほどドイツは再生可能エネルギーの比率を高めることはできるでしょう。しかし、化石燃料による発電も増やさなくてはなりません。どういうことかというと、CO2の排出も増やすということです。さらに、近隣諸国から不足する電気を輸入することになるでしょう。とくに、発電量の多くを原子力発電でまかなっているフランスからね。そんなもの、偽善以外のなにものでもない。

Q ということは、EU加盟諸国には、自国に必要な電気を再生可能エネルギーで100%まかなえる国はひとつもないということですか?

A われわれが電気を蓄えておく方法を持たない以上、それは不可能です。現代社会における経済的・社会的発展の成果を諦めない限り。われわれの社会はTGVや都市部のトラムウエイ(路面電車)を強く推進し、電気自動車の普及を目指しているのですが……

Q フランスとドイツ、両国ともに、TGVもトラムウエイも発達させてきました。しかしこの両国の発電法には大きな隔たりがあります。電気全体に占める原子力発電の割合は、フランスは74%、ドイツは22%……。

A それは政治的な選択の結果です。完璧なエネルギーの組み合わせなどありません。奇跡的な配合比率も存在しません。どのエネルギーにも長所と短所があります。歴史的にフランスは、産油国とのしがらみを断ち切る目的で、積極的に原子力発電を選んできました。ドイツはこの点に留意しなかったようです。逆説的ながら筋が通っている点は、EU加盟国は共通のエネルギー政策を採用してきました。こんにち、27か国は27の異なる政策を持っています。ドイツが脱原発の意向を発表したのと同じ週、英国は原子炉の新設を確認しているんですよ!

ニコラを嫌いな理由2009/12/21 17:57:57

フランス語を学び始めたときの共和国大統領は社会党のフランソワ・ミッテランだった。当時見知ったフランス人といえばフランス語学校の教師ばかりだったが、彼らはたいていミッテランを支持していた(教師というのはたいてい左派である)。大統領の演説というものはゆっくりと平易な言葉で噛みしめるようになされるので、よく聴き取りのレッスンの教材になった。フランスの大統領に限らずどの国でも国家元首というのは威厳あるスピーチを行うものだが(そうでもない国もあるようだけど)、威厳に品格が加わるかどうかは、その人の生まれや育ちや経歴に左右される。私はフランスの階級社会についてよくは知らないが、かの国の場合、政治家、しかも大臣クラスまで昇るほどの政治家はほぼ例外なくエリートの家系に生まれた「生まれながらのエリート」である。つまり「ノブレス・オブリージュ」の人々である。大変なこと、ややこしいこと、責任の重いこと、はエリートにおまかせするのがかの国の伝統である。

いまのサルコジ大統領がまだ議員さんだったとき、ニュースで記者に答えているその顔を見て以来、私は彼が大嫌いである。その主義主張、政治家として信念、その他もろもろ、どうでもよい。ただ、嫌いなのである。虫唾が走るとはこういうことをいうのであろう。なんでこんなヤツが政治家に? そんなケースはウチらの国には山ほどあるが、かの国では、――もののわかっていない私なんぞに発言資格はないんだけど、でもかまわずいっちゃうと――ニコラ・サルコジだけである。もちろんフランスの政治家を全員知っているわけではないし、フランスの政治事情だって知らないけど。たとえばシラクだってドヴィルパンだって顔は嫌いだけど、虫唾は走らないのだ。
……単に好みの問題なんだろーけどっ

私の知る限り、みんなサルコジが嫌いである。
みんなというのは知っているフランス人やフランス在住の人たちのことである(教師ばかりじゃないよ)。
なのになぜ彼は大統領になれたんだろう。
あんなのでも、対抗馬は女性だったので、女よりましってことだったのだろうか。フランスも日本とそう変わらんね。
私はといえば、先日久々にニコラ・サルコジの演説がラジオから流れてきたのを聴いて、やっぱこの声も話しかたも「めっさ」嫌いやわあ、と思った。なんか、下品と言ったら失礼だけど、とにかくなんか違うねん、共和国大統領っていうのとは。

『脱走兵』
ボリス・ヴィアン

大統領閣下
あなたに手紙を書きました
時間がおありのときに
読んでいただけるように
たったいま僕は
召集令状を受け取り
水曜の夜までに
戦場へ赴けと命じられました
大統領閣下
僕にはできません
僕がこの地にあるのは
気の毒な人を殺すためじゃない
閣下を怒らせるつもりはなく、ただ
僕は言いたいのです
僕は脱走する
いま、そう決断したことを

この世に生を受けて以来
僕は父の死に遭い
兄弟の出奔に遭い
わが子の涙を見て暮らしました
生きて葬られんばかりに
僕の母は苦しみました
爆弾も 蛆虫も
母にはどうだっていいのです
僕が拘束されている間に
妻は寝取られ
大切な宝をすべて失くし
僕の魂も ぬけ殻です
死んだ過去に
門前払いを食わせ
僕は目の前の道を行きます

ブルターニュからプロヴァンス
全フランスの国道で
物乞いをして食いつなぎ
人々に向け叫びます
「言いなりになるな
 従っちゃいけない
 戦場へは行くな
 出発しちゃいけない」
血を流せとおっしゃるなら
閣下の血をどうぞ
偽善者づらの
大統領閣下
僕を追跡しますか
なら警官にお知らせください
僕は武器を持っていないから
撃つのは簡単だと

*****

世界がまた戦争へ傾いています。
破滅のきっかけは、たった一人のテロリストかも知れないし、たった一発のミサイルかもしれません。
かつての戦争の傷も癒えないのに
まだ戦時下にある地域もあるというのに
毎日どこかで誰かが不条理な死を強いられているというのに


少し早いのですが、当ブログは年末年始休暇をいただきます。

今年はアタクシ、まさしく「死闘」の一年でしたが、とりあえず成果物を年内に出すことができました。個人的には一歩前進、というところです。
いっぽうで、勤務先は存続が危ぶまれており、いつ潰れてもおかしくない……というより、経営陣は「しんどいし、もうたたむわ」とさほどしんどくなくても言いそうな人たちなので(笑)、状況はかなりイッちゃってるのではないかと推測しています。

万が一の場合の身の振りかたとか、家族の将来も考えなくてはいけません。とはいえ、年内まったく休みなしなので、そんなの考える暇ないですけどね。稼ぎにならないのに仕事はあるという、ひどい話。

今年も半端じゃない量の本を読みました。
新年のいつから始められるかわからないけど、2009年の読書報告を少しずつしていくつもりです。
たびたび訪問くださったみなさん、いつも見守ってくださってありがとう。
ほんとにありがとうございます。
来る歳も幸多からんことをお祈りいたします。
Joyeux Noel et Bonne Annee!!!

こんなに太陽を好きなのはアルベールのせいかもしれないわ2008/12/25 21:22:12

前にどこかに書いたかもしれないけれど、私は太陽がとても好きである。
夏は嫌いだが、それはどんより空のもとであっても蒸し風呂のように暑い自分の町の夏が嫌いなだけで、ここでなかったら夏は好きなのである。太陽がさんさんとふりそそぐ、地球人に生まれた喜びを堪能できる夏。
バリ島やラングドック=ルシヨン、コートダジュールの夏の素晴らしいこと。

しかし、いつからそんなふうに考えるようになったのか、実はよくわからない。
中学、高校1年生くらいまでは、やたらとインドア派だった。
青空のもとでの活動というのを毛嫌いしていた。
高2で、所属していたバスケ部を退部して、私は、デッサンと洋楽鑑賞と読書に耽る放課後を過ごすようになった。動から静へと移行したように見えるが、陽光を厭わなくなったのはこの頃からだと思われるのだ。
私は、体育館を使えない日は炎天下を走らされるバスケ部員でなくなってから、デッサン教室に通ったりスケッチしに遠出をしたりと、徒歩や自転車で出歩くことが多くなった。色彩の勉強を本格的に始めて、自然の色を注視するようになり、季節の移ろいにより敏感になった。
それまで私にとって季節とは大暑・極寒の二種類だった。なぜか昔は今より冷え性だったので、冬も辛かった。二つしかない季節のどちらも辛いので、即ち一年中、面白くないのであった。

自然の存在に覚醒し、太陽の恵みをじかに感じるようになったとき、たぶん私はカミュの『異邦人』に出会った。
主人公はひなたぼっこが好きだ。汗が垂れ落ちるのを不快とも思っていない。流れる汗をぬぐう手間を惜しみ、陽光に目を逸らさなかったから、銃の引き金を引くはめになった。
しょうがないじゃん。なのに斬首刑なんてヒドイ話。
初めて読んだときの、高校生の私の感想はそんなものだったと思う。
私だって、同じ状況なら同じ行動をとり、裁判で同じ発言をするだろう。
「太陽のせいだ」と。

『異邦人』とは勝れて購入欲をそそる邦題ではある。
でも、誰が誰にとっての異邦人なのか、初めて読んだときの私にはわからなかった。
アルジェという街、アルジェリアという国について何も知らなかった。それがフランスの代表的な植民地で、そこではフランス人がまるで当たり前のように、大昔からの父祖の地に住むかのように暮らしていたとか、今はもう植民地じゃないとか、戦争があったとか、そんなことをよく知らずにいて、なんとなく、ムルソーはここではガイジンだから『異邦人』なのかなあ、くらいにしか思っていなかった。

etranger という語に「よそもの」「のけもの」という意味があるのを知るのはもちろん、ずっと後のことで、フランス語の勉強を始めてからだった。etrange という形容詞は「変わってる」様子を意味するほかには「疎外された」状態を表すのにも用いる。

***********************
『よそもの』
アルベール・カミュ

 今日、母さんが死んだ。あるいは昨日かもしれない。老人ホームから電報を受け取ったけれど、「ハハウエノ シヲイタム マイソウアス」これでは何もわからない。たぶん昨日なのだろう。
 老人ホームはアルジェから八十キロ離れたマランゴというところにある。二時の長距離バスに乗れば夕方までには着くだろう。そうしたら、通夜もできるし、次の日の晩には帰ってこれる。ぼくは社長に二日間の休暇を申し出た。こんな場合は許可しないなんてことはできないものだ。けれど社長は不満そうだった。だから、「ぼくのせいではありませんし」といってみたが、社長は答えなかった。それでぼくは、こんな余計なことをいうべきではなかったな、と思った。どっちにしても、休暇の言い訳なんか必要なかったのだ。むしろ、社長の方が弔意を示してくれてもいいくらいだ。とはいえ、たぶん彼は、あさって、出社したぼくが喪に服しているのを見てから、それをいうつもりなんだろう。今のところは、まるで母さんはまだ死んでいないみたいだ。埋葬が終わったら、今とは逆に、ひとつの出来事と評価され、もっとおおやけの性格を帯びるようになるのだろう。

(どーんと中略)

ずいぶんと久し振りに、ぼくは母さんのことを思った。母さんが、どうして人生の終わりに「いいなずけ」を持ったのか、どうしてまた生き直す振りをしたのか、わかったような気持ちがしたのだった。あの、あの場所、幾つもの人生の灯が消えていく老人ホームの周りでも、夕暮れは憂いに満ちた休息に似ていた。死が近づいて、母さんはそのとき自由を感じ、もう一度生き直そうと思ったに違いなかった。誰ひとり、けっして誰ひとりとして、母さんのことを泣く権利はない。そしてこのぼくも、ぼくも今、まったく生き直そうとしているのを感じるのだ。幾つもの星座と星ぼしに満ちた夜の帳を前にして、さっき噴き出た大きな怒りがぼくの中から、罪を洗い流し、希望を捨て去り空っぽにするかのように、ぼくは初めて世間の無頓着に心をひらいた。世間を自分とそっくりに、いわば兄弟のように感じ、ぼくは幸福だと思ったし、それまでも幸福だったのだと気づいたのだ。一切が成し遂げられるため、そしてぼくが孤独でないと知るためぼくに残された望みは、処刑の日、たくさんの見物客が押し寄せ憎悪の叫びを上げて、ぼくを迎えてくれることだけだ。


Albert Camus
L'etranger
folio No.2 Gallimard 2002

お茶の色って、あんな、そんな、こんな、色なのに茶色って何よ2008/11/17 17:57:36

絵の具に「ちゃいろ」と書いてあるのだから、そのチューブから出てくる色が「ちゃいろ」なんだろう。子どもはそんなふうにして色とその名前を一致させて知識として積み上げていく。これってとっても危険なことだと思うんだけど、どう思う?
昔、民族学をかじっていたとき、アフリカのサバンナを駆ける民族がどのように色を認知しているかをフィールドワークした研究成果を聴いたことがある。彼ら彼女らは、美術の授業もなければ絵の具も色鉛筆も持たないが、どんな色についても何の色であるかをいうことができたという内容だった。
研究者は何百という色彩カードを彼らに見せ、これはなにいろ? と訊ねた。すると必ず、○○の色という答えが返ってきた。彼らは、すべての色に彼らなりの名前をつける、あるいはその色がどのような色かを説明することができた。たとえばこんなふうである。

○○という草の葉の裏の色
昨日しとめた獣のはらわたの色
△△という動物の皮の色
歯茎の色
足指の爪の色
指の腹の色
……

というぐあいである。
人は自分で見聞したことをもとにして、考えて、組み立てて、ある事柄を説明することができる。それは人間のもつ特権能力とでもいおうか。与えられた情報がなければ、持ち駒だけで何とかすることができる。
太陽の生み出す色。それは見る人によって、その色が映る瞳によって、感じられ方が異なるに違いない。けれど悲しいかな、それをどのようにうけとめ表現するか、という感性が研ぎ澄まされる前に、たった12色程度に集約された名前のついた色という貧しい情報を幼い脳は刷り込まれてしまう。そして、人間は知的生物であるがゆえに、文字情報を得たら最後それに支配されることをよしとするのだ。文字を読めるようになると他のいろいろなことが見えなくなるのだ、じつは。

ウチは上等なお茶は飲まないが、茶葉によって淹れたお茶の色に違いのあることを子どもにわかってもらおうと思って、昔から、番茶、麦茶、緑茶、紅茶、いろいろつくって見せてきた。それは、私自身の「ちゃいろ」という言葉への違和感からきている。お茶の色、というと渋めの緑色を思い浮かべるのに、絵の具には茶色と書いてある。でも、ウチの番茶はどっちかいうと「こげちゃいろ」のほうだぞ……。

brun という語を辞書で引くと「褐色」とある。この語は髪や眼の色、あるいは日焼けした肌の色の表現によく使われる。日本語としては「茶色」のほうがなじむし、想像し易いので、本書の邦訳タイトルが『茶色の朝』であることに異論はない。

ただ、私はもっと黒々した、鍋の底にこびりついてとれないお焦げのようなディープなブラウンを思いながら、「Matin brun」を読んだ。物の名前や言葉尻にやたらと「brun」をつけなくてはならなくなったというくだりでは、「バカいうなよ、くそっ」の代わりに「バカいうなよ、焦げっ」って感じかなあ、なんて笑いつつ。


**************************
『焦げた朝』
フランク・パヴロフ

陽だまりにどてっと両脚を伸ばして、ぼくとシャルリーは、たがいのいうことに耳を傾けるでもなく、ただ思いついたことを口にしながら、会話にならない会話をしていた。コーヒーをちびちびすすりながら、過ぎゆく時間を見送るだけの、気持ちのいいひとときだ。シャルリーが愛犬を安楽死させたといったので、ぼくはいささか驚いたが、それもそうだろうと思った。犬ころが歳とってよぼよぼになるのは悲しいもんだし、それでも十五年も生きたんだから、いずれ死ぬってことは受け容れざるをえないもんだ。
「つまりさ、おれはやつを焦げ茶になんかしたくなかったんだよ」
「まあな、ラブラドールの色じゃないよな。それにしてもやつの病気は何だったんだい?」
「だからそうじゃねえって。焦げ茶の犬じゃないからってだけだよ」
「マジかよ、猫とおんなじってわけか?」
「ああ、おんなじだよ」
猫についてはよく知っている。先月、ぼくは自分の猫を処分した。白と黒のブチに生まれた雑種だった。

(どーんと中略)

誰かがドアを叩く。嘘だろ、こんな朝っぱらから、ありえねえよ。怖え。夜明け前だぞ、外はまだ……「焦げて」いる。ったく、そんなに強く叩かねえでくれよ、今開けるよ。


Matin brun
Franck Pavloff
Editions Cheyne (decembre, 1998)

**********************

ヴァッキーノさんブログでも記憶に新しいこの本は、タイトルページから奥付までがわずか12ページ、1998年に1ユーロで販売され、ミリオンセラーとなった。朗読CDになったり、ドラマ化されたりなどして話題を呼んだ。パヴロフはその後も次々と作品を発表している。

忙しい時に限って頼まれもしないことをついやりたくなる2008/11/14 19:26:06

読むとやっぱり訳したくなる、というのはその言語がやはり自分のものになっていないことの表れじゃないかと思うのである。だって、その言語のままですいすいと読み進むことに、体が待ったをかけるのだから。しかもまるで哀願するかのように。お願い、待って、ついていけないわ、てな感じ。
前に取り上げた『マグヌス』のペーパーバックを最近手に入れた。
http://midi.asablo.jp/blog/2008/08/27/3713448
辻由美さん訳の日本版を何回も借りて貪るように何度も読んだのに、原書を見るやいなや自分の言葉に置き換えようと躍起になっている、知らぬ間に。そんなふうにしている間に、嫌というほど読んだはずの和訳本の文章はどこかに消えて、いっこうに形にならない自分の言葉と原語が混じり合って右往左往して列を乱してまとまらない……。そんな読みかたをしている。

そんな読みかたをしてしまうので、そんな読みかたの結果を書きとめておこうと思った。
原書の、最初と、最後の、ほんの数行だけ。気の向いたときに、カテゴリ「こころみ」で。

第一弾は『マグヌス』。これ、マニュスって発音しないのかな?とひとりごとを言いながら。

**************************

『マニュス』
シルヴィ・ジェルマン

幕開け

 宇宙はどのように始まったのだろう。小さな隕石の破片から、いくつか手がかりをつかめることがある。骨の断片ひとかけらから、太古の動物の骨格や外観を、植物の化石から、今は砂漠化した地域にかつて花が咲き誇っていたことを、人は推測することができる。気が遠くなるほど昔のことというのは、ごくごく微小ではあるけれど堅固で、くっきり痕跡を残す金属片の集まりだ。

(どーんと中略)

断片?

 今、ここに、ひとりの男の物語が始まる……。
 だがこれは、語られた逸話という逸話すべてに背を向け逃げてきた、物語。彼の手で引き裂かれたあらゆる言葉たちが、現実のうつわの底にぎゅっと凝縮された、人生の沈殿物。語るに十分な言葉たちが見つかったとしても、物語は、忘れた頃にやってきて、奇妙な作り話としてただ、通り過ぎていくだろう。


Sylvie German
Magnus
folio no. 4544 Gallimard 2007
Edition Albin Michel, 2005